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『ストII』『モンスト』の岡本吉起氏は「お前はクビだ!」と宣告されたアウトローすぎる新人だった…!? “天才”にも見える同氏が持つ「誰よりも勉強する」というストイックな信念

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 日本のエンタメ業界は「天才」を切望している。

 現在、ゲームをはじめ映画や音楽など、日本のエンターテインメントは1980年代、90年代と比較して苦戦を強いられるようになった。ゲーム業界では『原神』などで知られる中国のmiHoYoの躍進が目立ち、他の業界でも韓国の音楽ユニット「BTS」やドラマ『イカゲーム』が世界的なヒットを記録したことも記憶に新しい。近隣アジア諸国が目覚ましい発展を遂げるなか、停滞期の続く日本に歯がゆさを感じる方も少なくないだろう。

 そんな現状だからこそ、求められているのは現状を輝かしく打ち破る“天才”の存在だ。「世界に誇る作品を生み出す天才が現れて欲しい」という漠然とした願い、業界を救うヒーローの登場を期待する想いが日本中に充満している。

 だが、そもそも「天才」とはいきなりポンと現れるものなのか?

 かつて日本から生まれた大ヒット作品の裏に、たぐい稀なる成果を収めた仕事人たちがいることは間違いない。しかし彼らは生まれつきの異能者であったわけではなく、普通のサラリーマンから突き抜けた仕事ができるまでに成長していった……。そう主張するのが、今回ご紹介する書籍『エンタの巨匠 世界に先駆けた伝説のプロデューサーたち』(以下、エンタの巨匠)である。

『エンタの巨匠 世界に先駆けた伝説のプロデューサーたち』

 本書では伝説的なヒット作を生み出したプロデューサーたち、以下の6名へのインタビューを通じ、エンタメ史に残る一時代を築き上げた方法論を突き止める。ただ彼らを「天才」と祀り上げて思考停止をするのではなく、そのロジックやヒストリーから現代の日本のエンタメ業界に必要なものを見極めていくのだ。

土屋敏男(『電波少年』の元・日テレプロデューサー)
鳥嶋和彦(『ドラゴンボール』『ドラクエ』の元・少年ジャンプ編集長)
岡本吉起(『ストII』『バイオハザード』『モンスト』のゲームクリエイター)
木谷高明(『BanG Dream!』『新日本プロレス』のブシロード創業者)
舞原賢三(『仮面ライダー電王』『セーラームーン』の映画監督)
齋藤英介(サザン、金城武、BTSの音楽プロデューサー)

 そして、このたび電ファミニコゲーマーでは著者の中山淳雄氏のご厚意により、特別に書籍本文から岡本吉起氏にまつわる部分を抜粋し、そのまま掲載させていただけることとなった。

 岡本吉起氏はカプコンにて『ストリートファイターII』『バイオハザード』といった同社を代表する作品に携わり、その後ミクシィからの依頼で開発したスマートフォンゲーム『モンスターストライク』は歴史的なヒット作となった。現在はご自身でYouTubeチャンネルを運営されており、記事執筆時点ではメインチャンネルの登録者数は6万人を突破している。

 「上司から指示されたゲームの企画を勝手に変更した」「年収5000万円という破格のオファーを蹴って当時は社員7人の小さな会社であったカプコンに入社した」など豪快なエピソードをいくつも語る岡本氏。正直なところ、凡人から見ればなんとも「天才」らしい人物のように思えてしまう。

 しかし、岡本氏は自身のことを「カンが悪い」と評する。その言葉に込められた意味、そして岡本氏が仕事や作品に向き合う姿勢に注目し、以下に抜粋するインタビューに目を通していただければ幸いだ。

岡本吉起氏

※以下、『エンタの巨匠 世界に先駆けた伝説のプロデューサーたち』より「ゲームの三冠王 岡本吉起」の内容を抜粋し、Web向けに体裁を整えたものとなります。

お前はクビだ!

上司から指示されたゲームの企画を勝手に変更

中山:
 自己紹介をお願いします。

岡本:
 岡本吉起です。コナミに入社して、すぐカプコンに転職して、20年近くゲーム開発の責任者をやってきました。その後、ゲームリパブリックという会社を創業して17億円という大借金を背負い、『モンスターストライク』で一発当てて借金を返済し、現在はマレーシアのジョホールバルに住んでゲーム会社を運営しています。

中山:
 私もゲーム業界にいたので、業界のレジェンドである岡本さんとお話できる機会はとてもうれしく、また緊張しております。私の中では、岡本さんはアーケードゲームの『ストリートファイターⅡ』(1991)、コンシューマーゲームの『バイオハザード』(1996)、モバイルゲームの『モンスターストライク』(2013)の開発をされ、3つの領域で世界トップクラスの作品を作った三冠王のような人です。

岡本:
 そうですね。幸いというかなんというか(笑)。

中山:
 この1年は「日本を元気にするユーチューバー岡本吉起」としてゲーム業界のお話を展開されています。すでに登録者は6万人。ゲーム業界の歴史で、なかなか表に出てこない話をバンバンされていて、大変勉強になります。反響はすごいんじゃないですか?

岡本:
 うーん、どうですかね。あまり反響は感じてないんですよね。昔のゲームを懐かしがる、特に40代以上のおっさんたちがちょっと騒いでくれている、くらいなんですよ。

中山:
 私の界隈だと「あのユーチューブはヤバい」ともっぱらの評判です(笑)。古巣の各社から刺されたりしないのでしょうか?

岡本:
 もちろん指摘があれば削除なども対応しますが、今のところないですね。というか刺されるような内容にならないギリギリを攻めているので。実際にあったエグい部分はだいぶ希釈化してますし、本当に言っちゃいけないカードは隠しながら話してるから。たぶんそこは理解されてるんやないかと思います(笑)。

中山:
 最初は1981年にコナミ工業に入社ですよね。当時はどのくらいの規模の会社だったんですか?

岡本:
 社員80人くらいでしょうか。一緒にカプコンに行く藤原得郎さん【※】と働いてました。

※藤原得郎(1961~):1982年にコナミに入社し、岡本吉起の誘いによってカプコンに転職。『戦場の狼』『魔界村』などのアーケードゲーム作品や『ロックマンシリーズ』などコンシューマーゲーム作品のプロデューサーで知られる。1996年にカプコン退社後は株式会社ウーピーキャンプを立ち上げて代表取締役社長。

中山:
 最初のプロジェクトが『タイムパイロット』【※】ですよね。

※タイムパイロット:1983年に登場した多方向スクロールのシューティングゲーム。アタリ2600やプレイステーション、セガサターンなどにも移植され続けた名作。ゲーメストムックの『ザ・ベストゲーム2』(1998)で「ザ・ベストゲーム」にも選定された。

タイムパイロット
(画像はニンテンドーeショップ『アーケードアーカイブス タイムパイロット』より)

岡本:
 上司に言われたのは、「教習所のゲームを作れ」ということだったんですよ。でもそれ、絶対売れないでしょ? ハンドル操作しながら、右レバーと左レバーで操作してキャタピラー操作のように車庫入れするゲームがゲーセンにあって、誰がやるの⁇ という感じ。

 その頃、コナミの本社は大阪の梅田でしたが、開発拠点は庄内にあって、僕の自宅から歩いて3分のところで、上司のいる本社に行かなくても仕事ができる環境だったんですよ。それで、庄内で飛行機のシューティングゲーム作ってたんですよ。

中山:
 え、車庫入れゲームのはずだったんですか? そんな改変、やっちゃっていいんですか?

岡本:
 場所が違うし、「うまくやってますよ」と報告してたんで、意外とバレなかったんですよね。プログラマーも僕がかっちり仕様書を仕上げて依頼するので、そのままカタカタと作ってくれて。もうロケテ【※1】をする直前まで作っていて、そのあたりでバレた(笑)。

※1 ロケテ(ロケーションテスト)
アーケードゲームが完成すると、試験的にゲームセンターなどに設置し、ユーザーが楽しめるのかテストを行っていた。いわゆるベータ版テストのようなもの。

 自動車のゲームが出来上がっているはずが、飛行機が飛んでて銃弾が飛びまくっているのを見て、その上司のMさんがカンッカンに怒って、「お前はクビだー!」って叫ばれまして。ま~しょうがないな~、これは転職先を探さなあかんな~、とは思いながら、一応ロケテまでやったら、めちゃくちゃ好評だったんですよ。たまたま。

 それで、今でも覚えてますが、コナミ社長の上月さん【※2】が下りてこられて、僕がカタカタ作業している後ろで上司と喋ってるんですよ。「Mくん、今回のゲーム、すごくいいらしいじゃないか?」って。それで上司も「はい、今年のルーキーの優秀な岡本くんが、僕のネタをベースに作ってくれまして……」。ネタをベースもなにも、自動車と飛行機で全然違うやないか、と笑いが止まらなかった。それからはお咎めなしですよ。自由にゲームを作らせてもらってました。

※2 上月景正(1940~)
1973年にコナミ工業を設立し、アミューズメント機器の製造を始めた創業者。現在は代表取締役会長だが、1981年当時は社長だった。 

中山:
 1年目にしてタダモノではないですね。教習所の車庫入れゲームだと思ってたら、いきなり飛行機になってて、上司はビックリしたでしょうね。よく本当に何も言わずに勝手にやってましたね。

岡本:
 まあ、怒られるやろうな~とは思ってましたよ。ただ、言ってもどうせ通らないなら、勝手に作ってしまおうと。僕としては「売れるものを作れ」と言われているんだと思っていた。教習所のゲームだと絶対に売れない。だからシューティングゲームにしただけなんですよね。

処遇が気に食わなくて退職

中山:
 『タイムパイロット』の後は、どんな仕事をしてたんですか?

岡本:
 『タイムパイロット』はプランナーからやってましたが、本来はデザイナー採用なんですよ。絵を描いたり、キャラクターを作ったり。当時、駄菓子屋などにあったダーツのルーレットもコナミが作ってたので、そのカタログなんかも作ったり。とにかく仕事が多くて、忙しかった。

中山:
 それで3年で退職されるんですよね。ユーチューブでお話されてましたが、先輩、同期、後輩との「待遇の差」が嫌でやめたと。

岡本:
 初任給13万円で、当時としては悪くなかったんです。ボーナスも出ましたし、ほかの業界にいった同期よりは2~3倍もらっているくらいでした。

 でもそういう比較よりも、コナミの中で自分はこんなに成果を出しているのに、という思いがあって、同期とは平等に(2年目で5510円の昇給があったが同期全員が同額だった)、先輩とは不平等に(先輩の時代までは1万円の技術手当があったが、岡本の時代からなくなった)、また後輩とも不平等に(翌年からの新卒は給与テーブルが上がって、全員自分の初任給よりも多くもらっていた)、といった処遇の差が気に食わなくて辞めました。

中山:
 当時は引き抜き競争があった時代だから、退職するというだけで出禁になったり、懲戒免職になりかけたという恐ろしい話を伺いました。

岡本:
 それも僕は被害者です。夏休みで休んでる間に、当時同僚の有馬俊夫【※】が「岡本も連れて辞めます(競合に行きます)」みたいなことを言ったから、「岡本、なんかお前、懲戒免職になってるで」って、電話が入って。転職を「企てた」から懲戒免職になるって、どういうこと⁇って。そういうのも嫌になって、辞めました。

 まあ実際は総務とちゃんと話して、懲戒免職はさすがにおかしいと主張して自主退職になりましたが、数百冊の本など私物は返してもらえませんでした。

※有馬俊夫:コナミで岡本吉起の先輩で『魔界村』のプログラマーなどを担う。1996年に退職後はIT企業へ転職。

年収5000万円オファーもあったバブル時代に、社員7人のカプコンに入社

中山:
 22歳で転職した先がカプコンですね。コナミに比べると小さな会社でしたよね?

岡本:
 カプコンの辻本憲三さん【※】は「開発を任せたい」といっていたので有馬さんと行ったら、社員は7人しかいなかった。彼が8番目、僕が9番目の社員です。任せるも何も、開発者が1人もいなかった。これからゲームを作り始めようという会社だったんです。

※辻本憲三(1940~):カプコン創業者。1963年に奈良県で伯父の経営していた菓子卸業を譲り受けるが経営に失敗。1968年に大阪市で菓子小売店の辻本商店を創業し、綿菓子製造機の売り込みをしているなかでゲーム事業の可能性に気づき、1974年にIPM(のちのアイレム、アピエス)、1979年にIRM(のちのサンビ)を創業し、インベーダーゲームの製造・卸をしていたが、ブーム退潮で負債を抱えてアイレムを追われる。1983年にサンビの販売会社として設立したのが現在のカプコンであった。

中山:
 コナミもそうでしたが、カプコンも設立されたときは『スペースインベーダー』などのアーケードゲームの筐体を作って卸す、アミューズメント機器製造業でした。セガもナムコも同じですね。多くの会社がインベーダーブームに乗って業界に入り、その後1年でブームが過ぎ去ると在庫を大量に抱え、経営危機に陥る。その中でなんとか生き残った会社が、自社でもゲームの開発部門を立ち上げる構図が一般的でした。当時の転職事情はどんなだったんですか?

岡本:
 コモドール【※】などの外資とか、ゲームをこれから作りたいという会社から誘われましたね。「年収5000万円でどうや」とか、「一戸建ての家買ってやるからけえへんか?」とか。ホテルの一室で目の前で札束を見せられたこともありました。「これでどうや?」って。

※コモドール:米国コンピューター会社で電卓事業などからゲーム開発に参入していた。1994年に倒産している。

中山:
 テレビドラマみたいに、バブっていたんですね。2010年前後のソーシャルゲームのブームでもそういう話がありましたが……。当時はファミコンブームが大きかったのですか?

岡本:
 ファミコンはちょうど出たタイミングでしたけど、『スーパーマリオブラザーズ』が出る(1985年)まではそれほどでもないですし、アーケードゲームのほうが圧倒的に上だった時代ですね。カプコンは月収35万円でしたが(笑)。

『ストリートファイターⅡ』の開発

コンシューマーゲームを希望したのにアーケードゲームの担当に

中山:
 岡本さんのストーリーで印象的なのは、カプコンの中で3人の開発トップがいたと。第一開発室の藤原得郎、第二開発室の西山隆志【※】、第三開発室の岡本吉起。その3人に辻本さんが「どのプラットフォームでやりたいか」と聞いて、岡本さんはコンシューマー(家庭用)ゲームを選んだそうですね。

※西山隆志:アイレムで『スパルタンX』(1984)を開発し、のちに任天堂の宮本茂による『スーパーマリオブラザーズ』(1985)にも影響を与えたと言われる。その後、カプコンに移籍して『ストリートファイター』(1987)のコンセプトを岡本が隣席する雑談の中で考え出した。のちにSNKに移籍して『ザ・キング・オブ・ファイターズ』を作り、カプコンのライバルとして第2の格闘アクションジャンルを築いた。2000年にディンプスを設立し、代表取締役社長。

岡本:
 1990年代まではアーケードのほうが上で、アーケードのほうがやれることがいっぱいありました。でも僕にはどうしてもアーケードには許せないところがあったんです。それが「音」と「光」と「100円」です。

中山:
 というのは?

岡本:
 まず音は、ゲーセンではまわりのゲームの音がバシュバシューンとかジャバジャバッとか聞こえるじゃないですか。ゲームの世界にはまり込むのに、すごく余計に感じてたんです。

 光は、昔のアーケードゲームって『インベーダー』のように画面が上を向いてたんで、天井のライトが映り込むんですよ。それで体をこう動かしながら「見えない見えない」ってプレイしている。これもないな~と思ってた。

中山:
 あ~、だからゲーセンって暗いんですよね?

岡本:
 そう、光が映り込まないように電球を暗くする。そうするとガラが悪くなってゲーセンに不良がたまりだす。

 あと100円も嫌だった。どんだけ面白いものを作っても1プレイ100円。ゲーセンはいつかジリ貧になる。テレビが映画館を食っていったように、コンシューマーゲームがゲーセンを衰退させると思ってた。その3点があって、「自分としてはこれからコンシューマーが来る! だから俺にやらせてくれ」って言いました。

中山:
 それを一通り聞いた辻本さんが、真逆の結論を出すんですよね。

岡本:
 そうなんですよ。僕はコンシューマー、藤原はアーケードをやりたいですって言ったあとに、「うん、じゃあ岡本はアーケード、藤原はコンシューマーで」って(笑)。好意的に解釈すると、好きなことをやらせるとどうしてもマニア的になる。そんなに好きじゃないほうが、むしろ客観的に良いものができるから、という説もあります。でも、今でも半分くらい、辻本さん、ただ言い間違えたんじゃないかな~とも思ってます(笑)。

『ストⅡ』はギネス記録の大ヒットに

中山:
 でも、その奇跡の采配がなかったら『ストⅡ』は生まれなかった。言い間違いに感謝ですね。

 実際にはコンシューマーゲーム市場の成長とともにアーケードゲーム市場も1990年代半ばまで成長を続けます。1990年代前半は『ストⅡ』を皮切りに対戦格闘ゲームがゲーセンを活性化し、1990年代後半にはコナミの音ゲーブーム、2000年代には『UFOキャッチャー』などの「発明」があった。ゲーセンの凋落が始まるのは2000年代後半からです。

 逆にいうと北米に比べると、かなり長い間、ゲーセンが死なずに残っていた日本市場ですが、これに大きく貢献したのが岡本さんの『ストⅡ』だったと考えると、辻本さんの当時の決断(勘違い?)は業界そのものにも影響したと言えますね。

日本のゲーム市場(グラフ)

 ストⅡは、はじめてゲーム筐体を向かい合わせに対置させて、相手の顔が見える距離感の中で勝ち負けを競う「対面格闘」というゲームで、これによってゲーセンがソーシャルな場として機能し始めました。

 いまだにストⅡは「ゲーム筐体における最高のセールスを達成した格闘ゲーム」「コンボを使用した最初の格闘ゲーム」「最もクローンが産み出された格闘ゲーム」と3つのギネス記録をもっています。このゲームがカプコンの年商を倍の800億円超にまで引き上げ、多大な貢献をした。1992年時点で、日本のゲーム業界はタイトーの939億円をトップに、ナムコ742億円、コナミ319億円、エニックス246億円、コーエー120億円でしたから、カプコンは一気にトップ級のメーカーに躍り出ます(北米ではエレクトロニックアーツがまだ年商200億円に達しない時代です)。

カプコンの業績推移(グラフ)

米国市場のローカライズに憤慨

中山:
 海外展開ではローカライズで苦労されたそうですね。

岡本:
 米国でピンボールゲームが展開されたんですが、米国のマーケティング会社は「これじゃないと売れない」と主張して画像を全く変えてきた。こちらの開発陣全員が大反対で何度も喧嘩しても、最終決定権は現地にあるんです。あんまりだと心が折れた。ロックマンだって、ガニ股で威嚇する、よくわからないおっさんになっている。目が腐りそうなくらい、つらかった。本当に許せなかった。

中山:
 アニメ業界でも、「北米では、こうしないと売れない」など米国人の反応を気にしすぎて、ローカライズがその作品の本質を殺してしまうことが頻繁にありました。

岡本:
 北米のローカライズで嫌いだったのは、転職が当たり前の社会で、自分のポジションのためだけに作品を変えて、それで失敗したら次の会社に逃げていくことでしたね。「日本から来た奴らはわかってない。俺らのマーケットだ」と自分たちの存在意義を示すためだけに、ローカライズを指示してくることもある。

 だから僕は偉くなりたかったんです。早く出世して、そういう意見をつぶせるようにならないとマズイと思ってました。

中山:
 海賊版の問題もありましたし、大ヒットには続々と類似タイトルも生まれます。格闘アクションが一大ジャンルになるなかで、『モータルコンバット』(1992)が北米を席捲します。ゲームというより、映画から取り出したような、違和感のあるゲームでした。

岡本:
 あれも日本人からしたら、とんでもなく「粗い」アクションゲームなんですよ。ノーモーションで構えもなしに、突然攻撃が始まる。防御もうまくできない。ドット絵じゃなくて、リアルの写真を取り込んで動かしているから、すごく違和感がある。

 ボタンとかレバーもすごく固いんですよ。体が大きいアメリカ人にはこっちのほうがいいんかな~、でも日本でやってるようなパパンパンパンといったリズミックな動きができない。案の定、日本では売れなかったですが、北米では『ストⅡ』ブームのあとにアクションジャンルでは『モータルコンバット』が席捲する。

 やっぱりセンセーショナルだった『フェイタリティ』では、勝利後に敗者を殺すシーンが大きな差別化になっていた。顔と背骨を引き抜いて掲げる勝利ポーズとか。何歳以上のゲームにするかというレギュレーションもあのあたりでできてましたし、社会問題にもなりましたが、結果的に売れたのはあっちやから、そういうローカライズも必要だったってことですよね。

普通じゃない積極策で確立されたカプコンのブランド

中山:
 カプコンUSAが1985年に設立され、カプコンアジアも1993年。現在においても北米ではコンシューマーゲームで「カプコン」のステータスは高いですね。なぜ海外での浸透度が強かったのでしょうか? 開発としてはいつごろから海外を意識していたんでしょうか?

岡本:
 海外の優先度は最初から高かったですよ。辻本憲三さんは、海外に出ていかないといけないという思いが強くて、最初から未来を見ていた感じがあります。

 実は『ストⅡ』の前から海外でも売れてたんですよ。『1942』(1984)とか『戦場の狼』(1985)とか『魔界村』(1985)です。『戦場の狼』は主人公も米兵ですし、『1942』もミッドウェーで日本軍を撃破するゲームですからね。海外向けというときは(偏見も多かったけど)安易に外国人主人公を使うものが多かったですね。

 でも、日本でそこそこ売れることがローカライズの前提ではありました。やはり市場サイズが日本のほうが大きいので。最初から海外(北米)を狙うというのは制約がありました。

 あと、我々の場合は、2Dアクションでの成功事例が大きすぎた。1990年代に、米国では3Dのゲームがどんどん増えている最中でも、『ストⅡ』の成功体験が大きくて2Dゲームに固執してしまった。その後、長いこと苦しむ点でもあります。

ストリートファイターII
(画像はニンテンドーeショップ『Capcom Arcade Stadium:ストリートファイターII – The World Warrior -』より)

中山:
 IBMから転職してきた飛澤宏さんが、2004年から米国に赴任された話が書籍(山田権三著『アメリカ子会社社長入門』、文芸社、2018年)になっています。「当時のカプコンUSAの在庫の山がとんでもなかった」と。

岡本:
 辻本さんはチャンスロス(機会ロス)を嫌う人でしたからね。「買いたいユーザーがいるのにソフトが届かないとはどういうことだ」と、過剰在庫でも突っ込みに行く勝負師的なところがありました。

中山:
 米国には「委託販売」という商慣習がありますが、それも影響したのでしょうか?広大な米国では小売の力が強くて、価格1万円のものも小売店には6000円とかで卸す。彼らは値下げして8000円とか7000円で売る。売れなかったら、「委託販売」なのでメーカーに戻せる。そうするとメーカーは6000円で売上計上していたものを買い戻さないといけない。輸送費もかかるし、引き取っても売れないから、そのまま店舗で廃棄してもらうことも常ですが。

岡本:
 そういう意味では管理はめちゃくちゃでした。あと、買ったユーザーが返却できてしまう制度も厄介でしたね。商品に瑕疵があるとか理由をつけてユーザーがすぐに返却できてしまう。特にクリアというゴールがあるアクションゲームは、数日間でクリアして返品して代わりの商品をもっていくんです。1回分のお金で2回楽しめる。そういう日本じゃ考えられない商習慣の中で、北米でも商品を流通させようとやってきました。

 でも「ブランドを作る」ってのは、そのくらいものすごいカロリーがかかるものだと思います。それまでの10数年間、ガンガン攻めてカプコンのブランドが上がっていった。その「遺産」が重くて、飛澤さんは米国のあとは欧州、そのあと香港と、世界中を単身赴任で飛び回って改革され続けてました。20年間のカプコン人生で16年、しかも65歳で海外単身赴任という過酷な状態だったようですけれど。

中山:
 その動画も拝見しました(笑)。フツーだとありえないですけど、そういう動きをしてるからこそ、カプコンの海外でのブランドが維持・拡大されたのですね。

『バイオハザード』のハリウッド映画化

ミラ・ジョヴォヴィッチ起用で大ヒットシリーズに

中山:
 その後『ストⅡ』はハリウッドのユニバーサルによって映画化されます。十分に数字を上げたと思いますが、興行成績は『モータルコンバット』のほうに軍配が上がります。ただ2022年現在に至るまで『ストリートファイター』シリーズがeスポーツの一ジャンルとして確立していることを考えると(『ストリートファイターⅤ』はeスポーツ競技タイトルとしては『フォートナイト』『マジック・ザ・ギャザリング』などに次いで12番目にランクインしている【※】)、映画化などゲーム会社としてはあまりに野心的な取り組みが、現在までのブランドにつながっているのかなとも思います。

 そして『バイオハザード』は画期的でしたね。ゲーム発の大ヒット作としてハリウッドの映画史を塗り替えるような記録を打ち立てました。

※Newzoo「2018 Global Esports Market Report」におけるLive Esports Hours(ライブ配信されたタイトル別時間)のランキング。

『ストII』『モンスト』の岡本吉起氏は「お前はクビだ!」と宣告されるほどのアウトローなルーキーだった…!?_001
(画像はソニーピクチャーズ『バイオハザード』紹介ページより)

岡本:
 『ストⅡ』の映画はハリウッドで作っていたというのもあって(赤字ではないが失敗作という認識)、映画会社を探してたんです。コンスタンティンというドイツの制作会社(制作拠点はハリウッド)に版権料はざっくり1億円で販売して、『バイオハザード』の映画を作ってもらったんですよ(映画の原題:Resident Evil)。制作費は35億円で、そんなに大きな金額ではなかったので、キャスティングの費用もあまり出せなかった。

 キャスティングは誰がいいかと聞かれて、僕は「ミラ・ジョヴォヴィッチがいい」といったんです。あの美しい体のラインが、めちゃくちゃいい。ポール・W・S・アンダーソン監督も「実は僕もイイと思ってて」ということで本決まりになった。ただ最終的に当時リュック・ベッソン監督と結婚していた彼女が離婚して、ポールと結婚することになったときには「イイってそっちの意味だったんかい!」って思いましたけど。

 ゾンビ代も出せなかったんですよ。製作費が足りなくて。あのゾンビ役は全部友人を無料で使っているようで、そんな作り方をしている映画が、ここまで大きなものになるとは予想してなかったですね。

中山:
 『ストⅡ』のときのような、改ざん問題などはなかったのでしょうか? 満足がいく出来でしたか?

岡本:
 いや、脚本はダメダメでした。シナリオチェックさせてもらったらホントひどくて、最初はゲーム1のシナリオと同じものが出てきて、それはないだろうと。結局、実はカプコンがもっていたシナリオ専門会社のフラグシップで脚本を書きました。

中山:
 でもよくミラ・ジョヴォヴィッチが出演してくれましたね。結果として『バイオハザード』(Resident Evil)は6作品すべてが大きな利益を出し、『モータルコンバット』を大きく上回るゲーム発の映画の一大作品となりました。彼女は『フィフス・エレメント』くらいしか映画は有名なものに出てなかったとはいえ、モデルとしてはすでに有名でした。ゾンビもの映画に出るようなイメージは当時なかったです。

岡本:
 弟さんが『バイオハザード』の大ファンだったのが大きかったようです。

ゲームの映画化作品の興行収入(グラフ)

社内の「アメコミ伝道師」が勝手に教えてくれた

中山:
 『ストリートファイター』も『マーベルVS カプコン』(1998)で当時としてはとても斬新だった2つのIP(知的財産)のコラボタイトルが出来上がります。日米合作でいうとディズニーを突き動かした『キングダムハーツ』(2002)もすごかったですが、それ以前に(ディズニーによる買収前の)マーベルとのコラボを実現した同作も、日本のゲーム業界でのプレゼンスの高さを示す象徴的な作品でした。

岡本:
 シェーキー秋友(秋友克也)っていうアメコミの神のようなスタッフがいたんですよね。平社員なのに彼専用のアメコミ本が大量に積まれた部屋があって。デザイナーとして入社したのに、勝手に「アメコミ伝道師」にジョブチェンジしたんですよ。講習会とかいろいろやってたけど、「このままじゃ埒があかん。皆アメコミが何なのかわかってない」と、毎月1冊アメコミを翻訳して製本して、注釈も入れて、チーム全員に配るんですよ。

 だからカプコンの中でのアメコミキャラの理解度が急激に引き上がった。「こんなウルバリンをかいてくれる君たちに、アメコミをかいてほしい。キャラクターの『本当の意味』を理解している」といって、普通ならガッチガチの監修で何か月も待たされるようなコラボも、「お前たちに任せる」と言われるほどに、カプコン陣営はアメコミのキャラ1人1人を理解していった。たった1人の平社員の力ですよ。

中山:
 大きい作品も、始まりは1人か数人の超越的な「個」によって生み出されますよね。それは岡本さんご自身の軌跡をみても強く感じます。

 1998年から2008年までの10年間はカプコンの黄金時代でもあります。『ストⅡ』ブームが一服して売上が落ち込んだ1998年から順調に伸びて、2008年の1000億までノンストップで駆け上がります。海外売上比率は30%前後、営業利益は20%のところまで。まさに『バイオハザード』『VSシリーズ』、そして『モンスターハンター』(2004年)がカプコンの躍進をひっぱりました。

 この期間でとても興味あるのは、岡本さんが得意の格闘アクションだけじゃなくて、様々な取り組みに関わっているところです。まずはボードゲームの金字塔『カタンの開拓者たち』【※】、そして北米でトップタイトルだった『レッド・デッド・リデンプション』『ディアブロⅡ』の輸入など、自社開発だけでなく、良質なゲームの輸入にも取り組みます。「洋モノが流行らない」といわれていた日本市場に、ずいぶんチャレンジされたなと。

※カタンの開拓者たち:1995年ドイツ生まれのボードゲームで、日本では2002年にカプコンから発売された。「最も多くのユーザーが同時プレイしたボードゲーム」として992人が遊んだ2013年にギネス登録。

岡本:
 まあ開発のトップなので全部自分でやっていたわけではないですけれど、たしかに『カタン』は自分で版権交渉もしました。著作者のクラウス・トイバーさんのご自宅まで伺いました。『レッド・デッド・リボルバー』はチームで作りました。

 ご存じないかもですが、『レッド・デッド』って、実はカプコンが作ったんですよ。

中山:
 え、あの『レッド・デッド』のシリーズ【※】です?? ロックスターの?

※『レッド・デッド』のシリーズ:『グランド・セフト・オート(GTA)』シリーズで知られる米ロックスターゲームスが発売している西部劇のオープンワールドゲーム。カプコンから売却されたリボルバーは北米で92万本、その後のリデンプションはすべて1000万本超えの世界的ヒットシリーズ。リデンプション2は、発売から3日間の売上が7.25億ドルに達し、『GTA5』に次いでエンターテイメント産業全体で世界で2番目に初週で売った記録をもつ。

『ストII』『モンスト』の岡本吉起氏は「お前はクビだ!」と宣告されるほどのアウトローなルーキーだった…!?_002
(画像はMicrosoft Store『レッド・デッド・リボルバー』より)

岡本:
 そうそう、売ったんですよ。うちじゃ扱えないっていうので、ほぼほぼ出来上がっていたものを。僕のあとに開発トップになった稲船が。

中山:
 なんと、もったいない。北米どころか世界トップ5に入るゲーム作品ですよ。むしろ『ストⅡ』と『バイオハザード』よりも大きいんじゃないですか?

岡本:
 あの絵だって、最初描いたのは、あきまん【※】ですよ。

※あきまん(安田朗)(1964~):1985年にカプコン東京支社のアルバイトから始め、カプコンのアートディレクターとして『ファイナルファイト』『ストⅡ』『ストⅢ』などに関わり、2001年からはカリフォルニア州サンディエゴに移住して『レッド・デッド・リボルバー』の開発に参加。同作は開発会社のエンジェルスタジオがロックスターゲームスに買収されたことを機に開発中断、売却されている。安田氏もそのタイミングで帰国しカプコンを退職。現在はフリーランスとして活躍している。

中山:
 ビックリです。そのくらい1990~2000年代のカプコンは飛び抜けていた。アクティヴィジョン社の『ディアブロⅡ』は輸入ですよね。

岡本:
 日本はPCゲーム市場がホント小さくて3000本でもヒットみたいな状態でした。世界で1000万枚売っている会社に対して、なんとかミニマムギャランティーをかけて権利を買って日本で販売しました。最終的には5万本を売って、当時の日本PCゲーム市場としてはミリオンセラーのようなインパクトを残しました。

中山:
 こうした展開を手広くやっていたお陰もあってか、カプコンはゲームソフト会社では唯一無二、他社と統合しなかった。セガはサミーと、ナムコはバンダイと、コーエーはテクモと、スクウェアはエニックスと(のちにタイトーも吸収)、コナミはハドソンを買収し、どこの会社も規模を求めてM&Aをしている中で、(プラットフォーマーの任天堂とソニーを除くと)カプコンだけは、どことも買収も統合も事業譲渡もしていない。

岡本:
 まあカプコンも実は相手を探してましたけどね。結果的に「結婚相手」がみつからず、独身を貫いています。

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ライター
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