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愛情の世界【黒木ほの香のどうか内密に。】

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その日は、十五時ごろから情緒が不安定になってきて、十六時を過ぎた時にはもうずっと泣きそうだった。

昼から軽めの仕事を終えて、一旦家に帰ったのはいいものの、そわそわとして落ち着かない。とりあえず掃除機をかけてみようとするけれど、床に散らばった洋服や鞄をどかす気力は湧かず、見えている床だけ適当に二、三往復させただけで終わった。チラリと壁へ視線を流すと、さっき時計を見てから五分も経っていない。

どうしようか…。そうだ、なにかお腹に入れておこう。陽の当たらないキッチンの最奥に鎮座する小さな冷蔵庫から冷凍うどんを取り出して、いつもの手順で釜玉にんにくうどんを作り始めた。

ロケで香川へ行った時に自分へのお土産で買ったにんにくだし醤油と、LLサイズの生卵を混ぜて、桃屋のきざみにんにくをたっぷりと乗せる。これだけの簡単なレシピだ。

冷蔵庫からキンキンに冷えた特茶を取り出しながら、今から大切な予定があるのにこんなに大量のにんにくを食べていいのだろうかと、ふと我にかえった。まぁでも、マスクするしいいよね、なんて、どこかの誰かに向かって言い訳をしながらうどんを一啜り。うん、いつも通り、美味しい。

普段よりもゆっくりと食べたつもりだったけど、時計の針はあまり進んでいなかった。

まだ少しだけ時間がある。手持ち無沙汰で居心地が悪い感覚を打ち消すように、いつもならしないメイク直しをすることにした。

彼女なら、そうするかなって。

どうせ泣いてぐしゃぐしゃになるんだけど、それでも、莉佳子ならきっと綺麗にメイク直しするよな。心に温かいものが灯るのを感じながら、いつも以上に丁寧に、ファンデーションを叩き込んだ。

今日、六月十九日は、佐々木莉佳子さんの卒業コンサートの日。

わたしが『アンジュルム』を明確に応援し始める前から、彼女はグループに在籍している。つまりわたしは、佐々木莉佳子が居ない『アンジュルム』を知らない。

『アンジュルム』として、今のこの十一人でパフォーマンスをする彼女を見られるのは、今日で最後。この事実が脳裏にちらつくだけで涙が込み上げてくる。

滲んだ涙がまつ毛につたって、先ほど重ねたフィルムマスカラが落ちてしまった。いけない、ライブ前からパンダ目なんて格好悪い。ササっと綿棒で取り除いたら、歯磨きをして、窓を閉めて、まだ明るい日差しが差す外へとゆっくりと足を踏み出した。

今回の卒コンの会場は横浜アリーナ。現地に行きたい気持ちは山々だったけれど、直前まで自分の仕事がどうなるかわからなかったので都内でライブビューイングを観ることにした。

ビューイングには、ドアップでメンバーの表情を堪能できるという良さがある。桃奈や結ちゃんの卒業も、劇場で見届けた。桃奈の時は最前列しか席が空いておらず、首を痛めながら見たのもいい思い出だ。

映画館に向かう電車の中では帽子を深くかぶり、絶えず目の縁に溜まる涙がバレないように細心の注意を払う。耳元に差し込んだワイヤレスイヤホンから繰り返し流れる『THANK YOU, HELLO GOOD BYE』の歌詞を噛み締めながら、早く彼女たちに会いたいような、ライブが始まらないでいて欲しいような、自分でも対処できない感情が渦巻いていた。

電車に乗る前、最寄り駅近くのコンビニで発券したチケットの座席は、自分だとあまり選ばない前の方の列だった。また首が痛くなったらどうしよう。明日の夜には自分が出演するライブステージがあるんだけど…まぁ、その時はその時か。

スクリーンの入り口でチケットを確認してもらい、半券を受け取ると、とても綺麗にもぎられていて少し嬉しくなる。昨年に決行した“大断捨離祭”で、今までに参加したライブの半券を処分したことを後悔したので、また集められるといいな。最近は電子チケットが多いから、あんまり集まらないかもしれないけど。

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暗い廊下を少し進むと、会場の音が漏れ聞こえてきた。それがJuice=Juiceの『ナイモノラブ』のCMだったので、先週のあーりー卒コンを思い出してまた感情はぐしゃぐしゃに。

今日はもうそういう日だ、仕方ない。

普段泣かないようにしている分、今日だけは、泣きたかったら泣いてしまおう。きっと、莉佳子も泣くし!

映画館特有の妙に薄い階段を登りながら自分の座席へ向かうと、とてもいい位置の席でホッと胸を撫で下ろす。一般販売より一段階前の先着申し込みを頑張った甲斐があったのかな…。いや、別に関係ないのかもしれないけれど、とりあえず頑張ってよかった。これなら「一応持って行く、か…?」と持参していた双眼鏡は必要なさそうだ。

席に腰を下ろして周囲の席を確認すると、まだちらほらと空席があった。平日の十八時開演だし、みんなギリギリに着くんだろうな…なんて考えながら、ペンライトとハンカチを鞄から取り出す。

あっ、ハンディファンの電源がオンになっちゃってる!去年の夏にはずっと入荷待ちで買えなかった、可愛いやつ。

「今年こそは!」と意気込んで、発売から数日の内に目当ての色を購入できた。

ただ薄型で持ち運びがしやすいのはいいが、いかんせん電源ボタンの長押しが短い。一秒ほど押せば動き出してしまうので、肩掛け鞄に入れてグングン歩いていると、気付かぬ内にブォォォンとよく唸っていて困る。

ハンディファンのボタンを短く長押しするついでに、スマホの電源も早めにオフ。

よし、あとは会場をドン引きで写すスクリーンを眺めながら開演を待つのみだな、と目を移して一息ついた。

大画面に写し出されたたくさんの人の手に握られた黄色の光は、不規則にゆらゆら揺れてひまわり畑みたいだった。

太陽を待ちわびて、ここに集まった無数のひまわり。

そんなことを考えていたら、フッと暗くなる横浜アリーナから大きな歓声が聞こえてきた。

あぁ、始まってしまう。

今回のツアーに参戦するのは二度目。なんとなくの全体像は把握しつつも、そこはツアーファイナル&佐々木莉佳子ファイナル。初めて見る演出が入った。

莉佳子がゆっくりと、凛々しいオーラを纏ってステージの中央へ歩みを進める。光を背負いながら一歩一歩すすむシルエットのなんと美しいことか!

振り付けが綺麗に揃っているアンジュルムの中でも『ダンスメン』と称される彼女のパワフルなソロダンスは、全観客の視線を独り占めしていた。

そんな推しメンの姿を見てひと涙流したのは、もはや言うまでもない。

オープニングのソロコーナーが終わり、メンバーたちも次々とステージに入って来た。

一曲目はライブの定番であり、幾度となく披露してきた楽曲。だからこそ、スクリーン越しでもメンバーの気合いの入り具合が段違いなことに気が付いた。パフォーマンスはもちろん、メイクや髪型にもそれが投影されていた。先月見たみんなは、顔にラインストーンとか付いていなかった気がする。

…これオタクの記憶違いだったら恥ずかしいな。

ふとカメラに抜かれた橋迫鈴ちゃんのヘアメイクを見て「やりたいことをやる子、もっと自由にやっちゃえ」と莉佳子がラジオで話していたのを思い出した。

鈴ちゃんは、莉佳子のこの発言を受けて、普段はあまりしない髪型に挑戦したのかな?マジ?何それすごく良い!

…これオタクの勘違いだったら恥ずかしいな。

目と目を合わせて、想いが届くようにしっかりと言葉にする。そして受け止める。

たったそれだけが、大人になればなるほどうまく出来なくなるなと感じているからこそ、わたしは『アンジュルム』の空気感に憧れて止まないのだ。

そんなことを考えている内にもライブは進む。

スクリーンの中では、新曲『美々たる一撃』の一サビの川名凜ちゃんのソロパート「からがら」がバッチリと決まって、わたしの口元はにんまりと緩む。

五月に観た公演での彼女はパフォーマンスを制限していたし、このフレーズが少し上擦ってしまっていたので(それもある意味ライブの醍醐味)彼女たちにとっても大きな意味を持つこのライブでバシッと決めてくれて、また涙。

『全然起き上がれないSUNDAY』は間奏のダンスがめちゃくちゃ好きなのでしっかり踊ってくれて嬉しかったし『愛されルート A or B?』をセンターステージでやったのは挑戦的だなと思った。

この曲は、二番サビが終わってからの「無礼講しちゃうくらいが〜」から楽器たちの音が激しく入ってくるし、なによりその後に何度も入る莉佳子の追っかけパート。歌うの絶対に難しいよコレ…。

わたしだったら「頼むからメインステージでやらせてくれ」って懇願するかもしれない。

大きな会場のセンステで歌うと、イヤモニを突き抜けて外音(会場で流れている音)が入ってくるのだが、反響しているためイヤモニで聞いている音とズレが生じる。これが本当に歌いにくい。わたしも横浜アリーナに立った時にはもれなく悩まされた。

彼女たちが立っているステージに、わたしも乗ったことがあると思うと、一瞬だけ自分が凄い人間のように思えた。ありがとう『アンジュルム』。

今は帰りの電車の中で、日常に戻っていく道中にこの文章を書き出したところだ。

帰りたくないな。ちょっぴり、センチだな。なんて。

横並びの座席に運よく座れたわたしを、疲れた顔で見下ろす名も知らぬ女の子は、わたしがさっき大きな愛をもらったことなんて知らない。それが不思議でたまらなかった。

斜め向かいに座るあの人も、愛情の世界があったことに気付いていないのかもしれない。勿体無いね、と口の中で囁きながら、得した気分に浸る。

かく言うわたしも、あんなに愛が飛び交う空間があるなんて数時間前まで知らなかった。

アンジュルムのみんながいる場所は、いつだって愛で溢れているけれど、今回ばかりは濃度がグッと高かった。だけども、甘ったるくは感じない。重くも思わなかった。そもそもわたしも、莉佳子が言っていたように“愛は重くてなんぼでしょ”派だ。

後輩から告げられる涙ながらの「大好きです!」には「俺も好き〜」とおどけて返すし、ストレートな「愛してます」には「わたしも愛してるよ」と真摯に応える。

人を愛する莉佳子だから、人に愛されるんだろうな。

莉佳子がメンバーたちと一緒に作り上げて、守ってきたあの世界の中で育った後輩たちはいつだって楽しそうで、のびのびとパフォーマンスしているように見える。

スクリーンの中で起きている出来事は横浜で実際に行われていることなのに、しあわせすぎてフィクションに感じてしまった。

みんなの目が涙でキラキラしてて、可愛くて、かっこよくて…。最強の戦士たちに乾杯!

愛情の世界【黒木ほの香のどうか内密に。】_002

家に帰ったら、自分のユニットのレッスン動画を見なきゃな。

余韻なく日常に戻されるこの感覚がたまに嫌になったりもするけど、わたしが『アンジュルム』から大きなパワーをもらったように、わたしも何かを与えられるはずだから。その準備は惜しみませんよ、もちろん。

あ、マネージャーから写真チェックのデータが来てる。別件の問い合わせに返信して…六月分のエッセイもお渡ししなきゃ。アレ?やることが思ってたよりいっぱいかも!準備は惜しまないって言ったけど、それは対バンのことであって!アセアセ!

次々続々と浮かぶやることリストを整理しながら「さぁ、明日も頑張ろう」なんて、静かに唱えてみた。

私ごとながら…(エッセイはいつだって私ごとだけど!)本日、誕生日を迎えました。

二十代最後となるこの一年は『挑戦』する年にしたいなと思ったので、その一歩目となる今日は「今までとは少し違ったアプローチで執筆してみよう!」と、祖母が書いていた随筆の文体や雰囲気を参考にしながら仕上げました。

少し恥ずかしくもありますが、わたしを応援してくれているあなたなら、きっと最後まで読んでくれた…と信じています。今年もわたしなりの努力を重ねていくので、引き続きこのエッセイを楽しんでいただけると嬉しいです。

黒木ほの香

編集:川野優希
企画協力:スターダストプロモーション

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