※本稿には、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』のネタばれが含まれます。気になる人は、回れ右をして、まず映画を見に行きましょう!
最近、ネットを大いに賑わせている話題作『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』を観て、軽い衝撃を受けた。
とくに映画前半部分が、初代ガンダムの壮大な二次創作、とでも言いたくなるような構成で、ガンダムのキャラクターやモビルスーツ、歴史的なテーマを庵野秀明さん節で再構築しているのだが、冒頭から「ここまでやって大丈夫なの?」とドキドキする展開や設定の連続で、最後までスクリーンから目を離せなかった。
最初のナレーション、タイトル音からして衝撃的だし、既存のガンダムファンにとっては、懐かしさと違和感を同時に与えるような化学反応を起こしている。「庵野さんならではのーーいや、庵野さんだからこそ許される内容」だったと言える。いやぁ、面白かった。
しかし、本当に驚いた&衝撃を受けたのは、むしろ映画が終わった「後」だったかもしれない。
なぜなら、ガンダムファンであればあれを楽しめるのは当然として、さらに「初代ガンダムをそこまで観ていない人たちまでもが、SNSで盛り上がっている」からだ。
「ガンダムをよく知らないと理解できないんじゃないか?」と思うようなディテールが満載なのに、映画館を出てTwitter(X)やYouTubeを覗けば、“ガンダム初見組”や“庵野監督のエヴァしか観てない組”すら大興奮で語り合っている。
これはいったい、どういうことなんだろうか?
いろいろと考えていくうちに、ここにこそ、インターネット時代のエンタメ消費が抱える特徴が詰まっているのではないか。言い換えれば、「文脈消費」の拡大と深化が、一つの映画作品を超えたカルチャームーブメントを生んでいるのではないか?と思うに至った。
というわけで。
本稿では、この“文脈消費”という概念を掘り下げながら、現代におけるエンターテインメント、コンテンツ消費のあり方について考えてみたい。
論考をより深く掘り下げるために、大塚英志の『物語消費論「ビックリマン」の神話学』や、東浩紀が提唱した「データベース消費」、宮台真司の『サブカルチャー神話解体』、そして宮崎駿の『出発点―1979~1996』などの書籍も参考にしつつ、どうして現代のコンテンツ消費は“作品単体”を超えて周辺情報や作家そのものまで含めて楽しむ方向に進んでいるのか?を考えてみたいと思う。
※追記:『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』の監督が鶴巻和哉さんだということは重々理解しておりますが、鶴巻さんについても語り出すと、あまりに長くなってしまいそうなので、それはまた別の機会にさせてくださいm(_ _)m
「文脈消費」とは何か:作品を“超えた”楽しみの構造
まず、「文脈消費」という言葉を簡潔に定義するならば、作品そのもの(ストーリーやキャラクター、ゲームシステムなど)を楽しむだけでなく、そこに至るまでの背景情報、作家・開発者の生き様や思想、さらにはファンコミュニティの解釈や二次創作までも含めた“文脈”ごと消費するというスタイルのことだ。
たとえば、
- SNSでの考察やバイラル拡散
- クリエイターの過去インタビュー、経歴
- 関連作品とのリンクや、裏設定の再考
- ファン同士の交流・イベント・ファンアート・コスプレ
- YouTubeやブログ、まとめサイトでの解説・レビュー・批評
こうした要素が複合的に絡み合うことで、「ただ作品を観た/プレイした」だけでは終わらない楽しみ方が生まれている。これは一昔前、アイドルやプロレスなどで見られたファン行動と地続きではあるが、SNSが一般化したことで、その規模と密度がかつてないレベルにまで拡大したと言えるだろう。
大塚英志の『物語消費論』:神話としてのビックリマン。シールが生む断片的世界観と“自作の物語”
「物語消費」や「コンテンツ消費」の議論をする際に、必ずと言っていいほど引用されるのが、大塚英志の『物語消費論「ビックリマン」の神話学』だ。
ビックリマンシールという一見“お菓子のおまけ”に過ぎないものが、子どもたちに熱狂的に受け入れられ、シールに描かれたキャラクターたちの背後にある神話的・宗教的モチーフまでもが独自の世界観を形成していた。
大塚英志はこの現象を、「消費者自身が断片化された情報を組み合わせ、自分なりの物語を作り上げることに快感を覚える様式がある」と分析した。
ビックリマンシールは“天使・悪魔・お守り”という分かりやすい分類のもとに膨大なキャラが存在し、その裏書には断片的な設定がちりばめられていた。子どもたちはそれを集め、交換しながら、「自分だけのストーリー」を補完していたのである。
大塚英志の論を軸に考えてみると、「大きな物語」を部分的に切り出し、受け手が自主的に再構成することが80年代後半から90年代にかけての消費スタイルとして顕在化したといえる。
かつては物語全体を“作者が提示して、読者・視聴者が受け取る”のが王道だったが、ビックリマンのように“断片をコレクションして繋ぎ合わせる”形式が、物語の“パーツ消費”を可能にした。
この「パーツ消費」が、後述する東浩紀の「データベース消費」や、現在SNSで盛んに行われる二次創作・考察コミュニケーションの原点になっていると言っても過言ではない。
東浩紀の「データベース消費」:属性・設定・萌え要素の再利用
続いて、批評家の東浩紀が提唱した「データベース消費」に目を向けたい。東浩紀は1990年代後半から2000年代にかけてのオタク文化を分析し、「オタクたちは物語の全体像や意味を重視するよりも、キャラクターの属性(例:猫耳、メイド、ツンデレ)や設定などをデータベース的に取り出し、それらを組み合わせて楽しんでいる」と指摘した(東浩紀『動物化するポストモダン』など)。
たとえば、ライトノベルや美少女ゲームのキャラクターにはお約束のような属性が存在する。「ドジっ子メイド」「クールなツンデレ」「妹キャラ」「幼馴染」──こうした属性が一種のテンプレートになり、それらを見つけては「あ、今回はツンデレ系ヒロインか」と盛り上がるのだ。ここでは、「物語のメインテーマ」や「作品全体の意義」といったものよりも、“キャラ属性”の組み合わせが消費の核となる。
東浩紀は「物語を読み解く」のではなく、「データベース化された設定やビジュアル要素を消費する」のがオタク文化の(一つの)本質だとした。一方、大塚英志が言う「物語消費」とは、どちらかというと“断片を繋いで物語にする”という発想だ。両者は一見矛盾するようにも思えるが、「データベース化された断片的要素を組み合わせて、受け手が勝手に物語を構築する」という意味では、地続きになっているとも言える。
今のSNSやファンコミュニティでは、その「組み合わせ」のプロセスがさらに開かれており、たとえばTwitterやYouTubeで「このキャラは実は○○属性を持っており、△△という作品の影響も感じられる」といった考察を投稿すれば、それに呼応するファンが続々と意見を追加。“受け手が作者以上に設定を掘り下げる”なんて現象も珍しくない。この行為こそ、「データベース消費」×「物語消費」が融合していった形態と言えるのではないか。