【SLG編・第1回】コーエー『信長の野望』は歴史の特異点なのか? まず人類がゲームで戦争をシミュレーションしてきた歴史を省みよう【ゲーム語りの基礎教養】

 シミュレーションとは、実際に行うことが困難な事象について仮想のモデルを作り、操作できるようにした模擬実験のことだ。そして、シミュレーション“ゲーム”(以下SLG)とは、それに娯楽性を持たせ、人が楽しめるようにしたコンピュータゲームの一ジャンルである――。

 さて、今回から本連載は、このSLGというジャンルの歴史を解説していく。
 しかし、上記のような「定義」を見ても分かるように、SLGはアクションやアドベンチャー、RPGのように「大きなひとつの塊」として扱われがちだ。「最も好きなゲームのジャンル」といったアンケートでも、「SLG」の一言でまとめられる光景を、しばしば見る。

 だが、冷静に考えれば、これは正気を疑う事態と言うしかない。

「シムシティ」シリーズ……『バンゲリング・ベイ』を作ったウィル・ライトが、1989年にリリースした都市開発シミュレーションゲームおよび、続くゲームシリーズの総称。プレイヤーは市長となり、道路や線路、発電所などを設置し、町を発展させていく。ウィル・ライトはこのゲームのためにマクシス社を創業。マクシス社はのちにエレクトロニック・アーツ社に買収されており、現在、シリーズはエレクトロニック・アーツ社から発売されている。画像は初代『シムシティ』のゲーム画面。
image by Will Wright, Maxis Software/Electronic Arts (original software); Don Hopkins, DUX Software (Unix port); Tomhannen (take screenshot); bayo (remove last reference to SimCity) [GPLv3], via Wikimedia Commons

 たとえば「三國志」シリーズ【※1】は歴史SLG、「シムシティ」シリーズは都市経営SLG、そしてパチンコ台の実機を再現する「パチ夫くん」シリーズ【※3】はパチンコSLGとも呼ばれる。このバラバラな集まりを、「パチ夫くん」と「三國志」を……一緒のものとして扱うだって?

※1 「三國志」シリーズ
1985年に光栄(当時)がPC用として発売した歴史シミュレーションゲーム『三國志』および、以後発売しているシリーズの総称。プレイヤーは、古代中国の後漢末~三国時代の君主の中から1人を選び、天下統一を目指す。のちに武将としてプレイできるシリーズ作も登場。

※2「パチ夫くん」シリーズ
ココナッツジャパンエンターテイメントが発売していたパチンコゲームのシリーズ。基本的にはパチンコをシミュレートしているが、アクションやパズルなど、さまざまな要素が強く、ゲーム然としていたことが特徴。1作目は1987年発売のファミコン用『目指せパチプロ パチ夫くん』。

 そう、シミュレート=「模倣する」対象となる「現実」がこの世の全てを含んでしまうため、SLGの捉え方も広範で散漫になるのは避けにくいのである。
 そこで、本連載SLG編の第一回では、議論を歴史的に整理していくことから始めたい。出発点に位置づけるのは、「元祖SLG」というべき「ウォー(戦争)ゲーム」【※】だ。

※紙などで作ったマップと駒を用いて、実際に歴史上で起きた戦争あるいは架空の戦争をテーマに、プレイヤー同士が対戦して遊ぶゲーム。

 なぜウォーゲームがSLGの原点かといえば、理由はシンプルだ。原理的に、コンピュータが普及する前に存在できた唯一のSLGだからだ。

 そもそもドライブゲームや飛行機シミュレータは、実機の挙動をリアルタイムで再現する計算能力が必要とされ、サイコロなどアナログ的手法を用いてその計算を行うのは不可能だ。
 では経営SLGはどうかと言えば、実はこっちもコンピュータありきの存在だ。部下に命令し、資産を最適に配分し……と外部と関わりなく組織内で完結する「一人遊び」の比重が大きい経営SLGは、やはりPCやゲーム機なしにはありえない。

アクワイア……1962年に、アメリカのシド・サクソン氏によって創案されたボードゲーム。ホテルチェーンのM&A(合併と買収)合戦によるマネーゲームをシミュレートした作品。画像はHasbro版。
Image by Chunky Rice.  Licensed under the terms of cc-by-3.0.)

 むろん、たとえばホテルチェーンの投資と合併をテーマにした古典的ボードゲーム『アクワイア』は経営SLGっぽくはある。だが、「複数のプレイヤーが争う」という体を取り、限られたパイを奪い合い、株券を買って他人のチェーンに乗っかるという遊び方は、やはり従来のボードゲームの延長線上にあるものだ。

 それに対して、ウォーゲームもまた人間同士の闘争を原型にしたものだが、プレイヤーが「国家」や「軍隊」を演じるとすれば、ウォーゲームは「戦争の模倣」となる。ここで人間プレイヤーの一人をコンピュータに置き換えれば、最も原始的な戦争SLGが生まれるわけだ。

信長の野望……1983年に光栄(当時)から発売された、パソコン用シミュレーションゲーム。多くの機種に移植された。最初のバージョンは、地図の範囲が本州中央部に限られていた。後に『信長の野望・全国版』が登場して、日本全域で遊べるようになった。画像はオンラインコード版。
(画像はAmazonより)

 そんなウォーゲームを起点とした初期SLGの日本における黎明期にして偉大なゴールは、初代『信長の野望』だろう。もちろんそれ以前にもPC用ウォーゲームは存在していたし、『信長の野望』は日本初のSLGではない。だが、商業的に大成功を記録し、国内に「アクション性がないSLG」が根付く礎を作ったパイオニアではある。

 しかし、「信長」の凄さは、それだけではないーーという詳細は、追い追い語るとしよう。それでは、まずはコンピュータゲーム以前のウォーゲームの歩みに付き合っていただきたい。

米国でのウォーゲームの進化と日本上陸

 まず先に、ウォーゲームが普及したスタート地点を確認しよう。

 それは1954年――チャールズ ・ S ・ ロバーツ【※1】商業ベース初と言われるウォーゲーム『タクティクス』【※2】を自費出版した年になるだろう。第二次世界大戦後、戦争に対する関心の高まりでウォーゲームは広く知られるようになってはいたが、一般に普及したスタート地点はここだと言ってよい。

 その商業的成功により1958年に創業したアバロンヒル社【※3】は、本作を改訂した上で同年『タクティクスⅡ』を発売する。これは「大戦略」【※4】開発秘話で開発者の一人・福田氏が言及していたものだ。

無職の青年が持ち込んだゲームが歴史を変えた。約20年ぶりに再会を果たした初期メンバーが語る「大戦略」開発秘話

※1 チャールズ ・ S ・ ロバーツ
1930年生まれのアメリカのゲームデザイナー。世界初の商用ウォーゲーム『タクティクス』の開発や、数多くのボードゲームを世に送り出した玩具会社アバロンヒルの設立などで知られる。2010年没。

※2 タクティクス
1952年にチャールズ ・ S ・ ロバーツがデザインし、1954年に The Avalon Game Company の名義で自費出版したボード・ウォーゲーム。ふたつの仮想国の軍隊間の戦闘をテーマにしている。

※3 アバロンヒル社
1958年にチャールズ・S・ロバーツが創立したアメリカの玩具会社。ウォーシミュレーションのボードゲームなどをおもに取り扱っている。現在はハズブロの子会社の一部署として名を残す。

※4 大戦略
1985年にシステムソフトよりPC用として発売された『現代大戦略』に始まるウォーシミュレーションゲームシリーズ。続編や移植作などが数多く作られ、1988年にはファミコン用(ボーテックスより)、1991年には『アドバンスド大戦略』(セガより)などを皮切りに、PS4に至るまでコンシューマ用も登場している。

 『タクティクス』が新しかった点は、「戦略」面に集中したことだ。ウォーゲームの歴史は、ミニチュアとともに歩んだところがあるが、やはり持ち運びや繰り返しプレイするには不便きわまりなかったのも事実だ。

 そこで彼らは、厚紙で作られたコマを使い、キャラクター性を捨て去ることで、ウォーゲームの持つ「戦略性」を洗練させた。
 具体的には、六角形のマス「ヘックス」の採用、支配地域(ZOC)の概念【※】、敵味方の戦力比による戦闘結果表、地形効果……といったコンセプトを導入し、現代の戦略SLGの基礎を固めたのだ。

※ヘックスと支配地域(ZOC)
ウォーシミュレーションゲームで採用される、六角形をしたマップの単位(マス)。ZOC(ゾーン・オブ・コントロール)という概念とともに使われることが多く、敵ユニットがあるヘックス内に配置されている場合、周辺の6マスは敵のZOCであり、たとえ自軍の移動力が平時はそこを突破する長さであっても、ZOCに入ったところで一度停止する、というような処理がなされる。

 さらにアバロンヒル社でゲームをデザインしていたデシジョン・ゲームズ【※1】、ウェストエンドゲームズ【※2】などの集団が、1970年代前半から半ばにかけて次々とウォーゲームメーカーが誕生するビッグウェーブが到来した。
 ゲイリー・ガイギャックス【※3】が、自分自身でデザインしたウォーゲームを元にしたRPGの原点である『ダンジョンズ&ドラゴンズ』(以下、『D&D』)【※4】を開発・発売したのもこの時期のこと。「ウォーゲーム(のブーム)がRPGを育てた」とも言えるわけだ。

※3 ダンジョンズ&ドラゴンズ……ゲイリー・ガイギャックスとデイヴ・アーンソンにより考案され、後世のRPGの始祖となる世界初のテーブルトークRPG。商用としては1974年にTactical Studies Rules社が制作・販売した。画像はプレイ中の様子。
Image by Moroboshi.  Licensed under the terms of cc-by-3.0.)

※1 デシジョン・ゲームズ
1988年にクリストファー・クミンスによって設立されたアメリカのゲーム会社。おもにカードゲームやボードタイプのウォーシミュレーションゲームを出版する。第二次世界大戦~現代戦を得意とするが、『アグリコラ』のようなローマ時代のウォーゲームなども手がけている。

※2 ウェストエンドゲームズ
1974年にダニエル・スコット・パルターによって設立された、TRPGやボードゲーム、ウォーゲームを出版していたアメリカの会社。1998年に破産申告、2001年にヒューマノイド社の傘下に入った。

※4 ゲイリー・ガイギャックス
1938〜2008年。アメリカの作家、ゲームデザイナー。『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の生みの親として知られ、「RPGの父」のひとりと称されることも。

プロの軍人が作戦立案に使った「兵棋演習」がルーツ

 さて、そんなウォーゲームの歴史であるが、一般に普及する以前の姿はどんなものだったのだろうか。

 例えば、ウォーゲームを「戦争を模擬的に再現する遊戯」と定義すれば、そのルーツは紀元前の古代インドにまで遡れる。当時、8×8=64マスの盤面で、王・象・馬・車(あるいは船)・兵の5種の駒を動かす、「チャトランガ」という4人制ゲームがあったという。

 有力な説として、これが2人ルールに改められた上で輸出されたものが西洋に渡ってチェスに、東洋では中国を経由して将棋になったという話がある。とはいえ、将棋やチェスはあまりに抽象度が高いために、「戦場を再現する」意味はかなり薄まっている。逆に言えば、国や地域によって違う軍隊や装備のイメージを薄めて「想像におまかせ」にしたおかげで、国境を超えて広まったのだとも言えるが。

(Photo by Getty Images)

 いずれにせよ、こうした人類の営みの中で最もコストのかかる戦争を「仮想」で済ませる合理的な思考は、軍人の間で脈々と受け継がれた――それが軍事研究で使われる「兵棋演習」だ。

 もともとはチェスのルールを流用していた兵棋演習に、現代のSLGにも繋がる要素を盛り込んだのが、19世紀のプロイセン(過去のドイツ)陸軍のライスヴィッツ父子が作った「クリークシュピール」【※】だった。

※クリークシュピール
1823年ごろに、戦場で兵を指揮することの研究・教育手段としてプロセイン(いまのドイツ)で開発された、ウォー・シミュレーションゲームの原型とされるもの。精巧に戦場を再現したマップ上で、サイコロを用い、兵士の動きをシミュレートする。兵棋演習として各国軍隊や後世のウォーゲームに大きな影響を与えた。

 対戦する2人が軍隊の指揮官となり、様々な地形を模した地図の上で、騎馬は騎馬なりに、歩兵は歩兵なりの移動速度で動く……といった要素は、それ以前の兵器演習と変わりはない。
 だが、それ以前の兵器演習と決定的に異なった要素もある――「サイコロの導入」だ。

 敵味方の部隊が衝突したら、ダイスを振って勝敗を決する。戦力が大きい側は、その分だけダイスの目に修正を加える。「大局観に優れ、選択を誤らない側が常に勝つ」チェスに、徳岡正肇氏【※】のいう「乱数を乗りこなす快感」が注入されたのだ。

「戦争は、時間と空間のジレンマである」現代ウォーゲームが発見した“真実”——ゲームはいかに戦争の「本質」を捉えてきたか【徳岡正肇氏インタビュー】

※徳岡正肇
ゲームライター・ゲームジャーナリスト。多くのレビュー記事や、国内外のゲームイベント・カンファレンスの取材記事を手がけてきた。言及されている「乱数を乗りこなす快感」というのは、「大自然のランダム性(確率・乱数)を、自分のあらゆるスキルを駆使して乗りこなすことの爽快感」を意味する。電ファミのこちらのインタビューに詳しい。 

 面白いのは、クリークシュピールを軍隊に導入して広めるきっかけを作ったのが、当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世だったということである。
 彼は、少なくとも戦争においてはいいところが一つもなかった王様だ。1806年にナポレオン1世の率いるフランスに宣戦布告したものの、大敗を喫して歴史に名を残した人物である。

 だが、そんなクリークシュピールを参謀総長ミュフリンクが見出したとき、ヴィルヘルム3世は全ての連隊にセットを揃えるように指示したという。当時の陸軍大学には、その後の普墺戦争や普仏戦争を勝利に導いた後の参謀総長モルトケがいた……ということで、一応はSLGのご先祖様は有用性を示したといえるだろう。 

「戦争ごっこ」と兵棋演習が合体したミニチュア・ウォーゲーム

 ここまでの話で、プロ軍人が作戦立案するものとしてのウォーゲーム(の元型)の歴史が見えてきたと思う。
 では、一般への普及には至らなかったにせよ、「一般人が遊ぼうと思えば」遊べる商業ウォーゲームの「最古の例」は、なんだろうか。

 それは、1892年にイギリスで販売された『ジェーン海戦ゲーム』【※1】だろう。
 作者は、フレッド・ジェーン。世界各国の海軍に属する戦闘艦などの資料として有名な「ジェーン海軍年鑑」【※】を創刊した人だ。ジェーンは艦船情報のプロである以前に、実は海戦ウォーゲーマーであり、ゲームデザイナーだった。実際、「ジェーン海軍年鑑」も、元々は自作の海戦ゲームをプレイするための資料集として出版されたものだという。

※2 ジェーン海軍年鑑……フレッド・ジェーンがジェーン海戦ゲームのために用意したデータをまとめたものとされる年鑑。1898年からイギリスの出版社ジェーン・インフォメーション・グループによって出版され、世界各国の海軍に所属する戦闘艦、支援艦に関する規格、武装、シルエット、写真などが記載されている。
(画像はWikipediaより)

※1 ジェーン海戦ゲーム
フレッド・ジェーンにより制作され1892年にイギリスで発売されたボードゲーム。船の装甲や貫通力など細かな部分までルール化されており、弾が命中するたびに当たった場所をランダムで決定。被害が蓄積すると船が沈没するという形式を作った。

 そのルールは、こういうものだ――船の装甲と大砲の威力をランク付けし、同ランクの大砲であれば装甲を撃ち抜けるが、貫通力は距離に比例して低下していく。船の命中箇所はランダムに決められ、当たるたびにダメージは蓄積し、やがて船は沈む……。

 もっとも、20世紀に入るとルールも存在も忘れ去られ、「ジェーン海軍年鑑」だけが残ったため、後世のゲームに影響を与えたとは言いがたくはある。

 その意味では、現代の作品群に直接つながる「最古のウォーゲーム」と言われるのは、やはりH・G・ウェルズ【※1】が手がけた『リトルウォーズ』【※2】ではないだろうか。『タイムマシン』【※3】や『宇宙戦争』【※4】といった古典によりSFの父と呼ばれた作家は、ウォーゲームのデザイナーの大先輩でもあったのだ。

※1 H・G・ウェルズ……1866年生まれのイギリスの著作家。『タイム・マシン』や『宇宙戦争』などの作品で知られ、後世のSF作家や作品に多大な影響を及ぼした。1946年没。
(画像はWikipediaより)

※2 リトルウォーズ
1913年にFrank Palmerから刊行された、H.G.ウェルズによるウォーゲームのはしり。ゲームを行うためのルールが絵や写真、そしてリプレイなどとともに書かれている。

※3 タイムマシン
1894年から1895年にかけて『ニュー・レビュー』誌に掲載されたSF小説。タイムマシンにより未来の地球に行った科学者が未来人と交流し、現代に戻って友人たちにいままでの出来事を語るという内容。

※4 宇宙戦争
1898年にHARPER & BROTHERSより刊行された、H.G.ウェルズの小説。20世紀の初めに火星人が地球を侵略する様子がイギリス人男性による回顧録の形で描かれている。

 この『リトルウォーズ』はゲームの手引き書という体で、ルール・小説・補足の三部からなる。さしづめテーブルトークRPGのルールブックとリプレイがセットになった感じだ。

 ルールはとてもシンプルだ。ターン制になっており、敵と味方に分かれた二人が対峙して、まず片方が全ての部隊を動かし、次に相手が軍を動かす。歩兵は1回1フィート、騎兵と砲兵は2フィート移動。砲兵はバネでチョークを飛ばせるおもちゃで6発の弾数制限があり、プレイヤーは実際に狙って撃つ。騎兵と歩兵が接触したときはコイントスで勝敗を決める。

 ただし、これでは単純すぎる上に、ゲームバランスも悪かった。というのも、運が良ければ一人の歩兵が無双できてしまうのだ。ウェルズは、その改良プロセスをテキストで記しており、支援や補給、孤立や捕虜といった追加ルールが導入されて、完成形に至ったという。

(画像はWikipediaより)

 さて、ここで注目すべきは、『リトルウォーズ』が軍事に原点のあるウォーゲームの流れを汲むとともに、先ほども書いた「ミニチュアゲーム」の進化形でもあったということだ。

 ミニチュアゲームとは、要するに子供が人形の兵隊さんを使って指揮官になりきる「ごっこ遊び」だ。19世紀からスズの兵隊を用いて戦場を再現する遊びがあったが、厳密なルールや特定の勝利条件はなく、「動かすこと」、「戦うこと」が純粋に楽しまれていたという。ウェルズはそのルールを整備し、知的な興奮にも耐えうる「ゲーム」にしたわけだ。
 記号を書いただけの味気ないコマや艦船が、人格を持つ「人形」になる。すると、コマがキャラクター性を帯びて、感情移入がしやすくなる。逆に、子供の遊びだったミニチュアゲームへのルール導入は、大人が「人形遊び」にのめり込めるだけの奥深さを与えた。

 こうしたミニチュア×ウォーゲームの合流は、直接には「ウォーハンマー」シリーズ【※】などの、現代のミニチュアゲームに受け継がれている。そしてコマがキャラクター性を獲得したことは、後にウォーゲームから派生した『D&D』などテーブルトークRPGの出現を促した。

※「ウォーハンマー」シリーズ……イギリスのゲーム製作会社Games Workshopが発売しているミニチュアゲームシリーズの名称。ファンタジー世界を舞台とした「ウォーハンマー:ファンタジーバトル」と、SF世界を舞台とした「ウォーハンマー40,000」の二つのシリーズが展開されている。初作が発売されたのは1983年。画像はプレイ中の様子。
Image by Arnaud Ligny.  Licensed under the terms of cc-by-2.0.)

 それが、ひいてはシミュレーションRPG、つまりウォーゲームの「指揮官」視点とキャラクターの成長や生死を重んじるゲームにも繋がった……とは、本連載のもう少し後で触れるお話だ。

 そう――そもそもウォーゲームは、戦場の軍人になりきる「ごっこ遊び」。このシステムに密かに託されていた子供心が、最初からRPG誕生の芽を孕んでいたのかもしれない。

日本におけるウォーゲーム史

 フィギュアが先か、ウォーゲームが先か――その後、SLGの歴史は両者が互いに支え合って進化していくことになる。最初にも書いたように、チャールズ ・ S ・ ロバーツが製作した、商業ベース初と言われる『タクティクス』は、まさにフィギュアの性質を捨て去ることで人口に膾炙した。

 だが、こと日本では、一般への普及にあたって「フィギュア」が先行したといえる。というのも、この国でウォーゲームが広く普及するきっかけを作ったのが、模型雑誌の老舗「月刊ホビージャパン」【※】だったからである。

※月刊ホビージャパン
ポストホビー社によって1969年に創刊された模型雑誌。ミリタリー人気に支えられ成長していたが、ガンダム前後よりアニメ系の模型記事などが増え、現在に至る。

 1969年、ミニカーの情報誌として創刊された同誌は、後にプラモデルやフィギュアも扱う模型雑誌となってゆく。それは、母体となった会社が海外の玩具やホビーグッズを輸入・販売するポストホビー社だったことが要因としては大きい。実は「海外文化を紹介する窓口(輸入品の販促も兼ねる)」の性格もあったのだ。

 この雑誌でミニチュアウォーゲームが紹介されたのは、1971年のこと。「モデルソルジャーの世界」【※】という連載だった。スケールモデル“だけ”を作ることが主流だった当時のミリタリー模型に、情景を織り込んだジオラマも楽しもうと提唱する内容であった。

※モデルソルジャーの世界
1970年代前半に月刊ホビージャパン誌で連載されていた読み物。ウォーゲームを読者に向けて紹介、ルール解説をしていた。

 この時点で、ウォーゲームはあくまでオマケだった。連載の序盤はジオラマの作り方やその写真、歴史考証に費やされ、ようやく4回目にゲームに言及される。それも兵士フィギュアの造られた文脈として「30ミリ ウォーゲームスケール」が十数行ほど紹介されただけだ。
 ところが、その後の連載の中で、ウォーゲームそのものの紹介、さらにオリジナルゲーム(ルール)の掲載……とだんだんゲームに軸足が移されていく。その様子は、いかに読者の反響が大きかったかを物語っている。

 この連載は全6回で一度は終わったものの、ウォーゲーム関連の記事は名前を変え、ライターを替えながら「月刊ホビージャパン」誌上でバトンが受け継がれていった。そして1975年4月号にて、アバロンヒル社のゲームを輸入販売するとの広告を掲載。国内でも本格的にウォーゲームの販売や大会が行われることになったのだ。

(画像はlegal alien wikiより)

 なお、マスメディアとしては先行した「月刊ホビージャパン」だったが、ウォーゲームの輸入については「木屋通商」【※】という業者が先んじた。やがては、それぞれ和訳をつけて、ゲームの販売を競い合うほどの「市場」が誕生している。
 ちなみに島本和彦先生の『アオイホノオ』11巻には『タクティクスII』が元ネタと思しき「BACTICS-II」が登場。主人公の炎尾燃は移動戦闘ルールがよく分からず頭を抱えていたが、それは今なら「超訳」と言われそうなルールの迷訳っぷりのせいかもしれない。

※木屋通商
輸入商社で、アバロンヒル社のゲームを輸入し、和訳のルールなどを付属させていた。後に、同社のコンピューターゲームの販売を手がけるように。

 そして――一気に時代は下って、1970年代後半〜80年代前半になる。

 NEC【※1】のPC-8001【※2】や富士通のFM-8【※3】など、ある程度は精緻なグラフィック能力を持つホビーパソコンが出た年のことだ。

※1 NEC
日本電気株式会社。略称としてNEC(エヌ・イー・シー)が用いられる。住友グループの電機メーカーであり、戦前からリレー式電話交換機の開発に努めるなど、コンピュータへの足がかりを持ち、戦後まもなくから大型コンピューター市場に参入。1973年に国内初のワンボードマイコンTK-80を発売。1979年にはPC-8001を発売。後継となる1980年代のPC-9001シリーズは国内で爆発的に普及。Windowsの登場しばらくまで市場を席巻した。

※2 PC-8001
1979年にNECが発売。キットが多かった当時のマイコンの中で完成品として登場。160×100ドット8色の表示能力を誇り、発展型のマシンPC-8801シリーズや9801シリーズなどと並んで国産パソコンの代表的機種となったと言える。

※3 FM-8
1981年に初めて富士通が発売した8ビット機。640×200ドット8色の表示機能など描画にすぐれ、後継となる1987年の世界初CD-ROMドライブ搭載機FM-TOWNSに至る道筋を作る。

 このとき、まだ数十万円したものの、「ウォーゲームを表現できるスペックを持つ普及ハード」がようやく登場したのである。
 兵士や戦車などのコマは記号化して小さいサイズにできるが、敵・味方が対峙する戦場は「広さ」と「精密さ」が必要とされる。PC-8001の解像度は160×100ドットで今見ると「あり得ない」が、なにしろNECの先代ハードだったTK-80【※1】は「8ケタの文字表示(LED)」から始まったのだから、天と地ほどの差がある。

 フィギュアと紙のウォーゲームと同様に、パソコン用ウォーゲームも「輸入」されていた。本家のアバロンヒルが発売していたApple II【※2】やAtari800【※3】用などのゲームが、国内PC向けに移植されていたのだ。それを手がけた中には、先ほど名前が出た「木屋通商」もある。

※3 Atari 800……いわゆるアタリショック後に分割されたうちのATARI Corp.が1979年に発売した8ビット機。Atari400と同時に開発され、800はその上位機種にあたる。
Image by Bilby.  Licensed under the terms of cc-by-3.0.)

※1 TK-80
NECが1976年に発売したワンボードによるマイクロコンピューターシステム開発のトレーニングキット。16進入力キーパッドと8桁の7セグメントLEDを基板上に備え、データの入出力のために端末機器を使わずシステムを使うことができた。

※2 Apple II
アップル社が1977年に発表したパーソナルコンピュータ。個人向けに販売されたパーソナルコンピュータとしては最初のヒット作となった。

 正確にはCSKソフトウェアプロダクツ【※1】販売で、木屋通商は開発を担当しただけではある。前者はもちろん「あの」CSKの子会社だ。かつてセガを買収したこともあるCSKは、この頃からゲームに縁があったわけだ。

 さて、この辺りで、そろそろ本題に入る。
 最初にゴールに設定した『信長の野望』の誕生。それを生み出した、光栄マイコンシステム(当時)【※2】は、まさに80年代にSLGで登場した企業やはり、こうしたPCウォーゲームの影響を受けていたのではないだろうか?

※1 CSKソフトウェアプロダクツ
1968年に設立されたコンピューターシステムの開発会社CSKより、ソフト供給の分業化を目的として1982年に設立。『B1核爆撃機』や『ミッドウェイ海戦』などの販売を行った。

※2 光栄マイコンシステム
1978年に、のちのシブサワ・コウ氏によって創設された、PC用のゲームソフトを開発する会社。1981年に『川中島の合戦』で名を上げ、1983年の『信長の野望』で大ブレイク。歴史シミュレーションゲームという分野を確立した。1984年には社名を光栄に変更している。

マイコン用ウォーゲームの登場とシブサワ・コウ

 だが……ここで「なんてこったい!」という話になる。

 というのは、シブサワ・コウ氏【※1】の処女作にしてPCウォーゲームである『川中島の合戦』【※2】は1981年にリリースされているが、木屋通商が手がけた『B1核爆撃機』【※3】などのゲームがリリースされたのは、なんと1982年のことなのだ。

 つまり、コーエーのゲームは、海外PCウォーゲームの移植より先なのだ!

※1 川中島の合戦……光栄が1981年10月に発売した歴史シミュレーションゲーム。プレイヤーは武田信玄となり、索敵しながら上杉謙信を倒すのが目的。
(画像は「シブサワ・コウ」35周年記念サイトより)

※1 シブサワ・コウ
光栄マイコンシステムの創業者襟川陽一氏のペンネーム。氏は1950年生まれ。『信長の野望』や『三國志』などの作品の作者として長年知られ、正体不明の人物とされていたが、2000年にプレイステーション2用ソフト『決戦』の発表時に、襟川陽一氏のペンネームであるとアナウンスされた。氏は現コーエーテクモゲームス代表取締役会長であり、コーエーテクモホールディングスの取締役でもある。

※2 B1核爆撃機
1982年に発売されたシミュレーションゲーム。開発会社は木屋通商。爆撃機B-1を操縦し、核爆弾を投下し帰還するゲーム。

 そう――「世界初」とは言わないが、限りなく「日本初」のマイコン用ウォーゲーム。こうやって調べてみると、さすがシブサワ・コウ氏だと唸らされる。
 だが、ゲームのルーツをたどる本連載で、「突然、天才が発明しました!」というオチではなんとも締まらないではないか。

信長から乙女ゲームまで… シブサワ・コウとその妻が語るコーエー立志伝 「世界初ばかりだとユーザーに怒られた(笑)」

 さて、一度は切れた糸を手繰り寄せるヒントなら、二つある。

 一つ目は、シブサワ・コウ氏が初めて買ったパソコンがMZ-80C【※】だったという証言。そして二つ目は『川中島の合戦』のゲームシステムだ。ここは筆者の知見だけでは足りないので、歴史SLGの第一人者である徳岡正肇氏の(記事の)知恵を借りるとしよう。

※MZ-80C
1978年にシャープから発売されたセミキットの8ビットマシンMZ-80Kの後継として、同1979年に登場した完成機。48キビバイトのRAMやデータレコーダーを内蔵し、タイプライタと同じ配列のフルキーボードやグリーンモニターが採用されている。当時の標準価格が26万8000円。

 各ユニットに対し、東を0度とした反時計回りの360度で方向を指定、移動距離を数値入力という特徴あるインターフェースは、以下の一文からも由来がわかる。

 実のところ,当時の視点で見るとこの「角度入力」というのは,そこまで珍しいUIでもなかった。もう分かる人だけ分かってくれと思いながら書くが,光子魚雷の射撃方向を角度入力(に近いUI)を使って撃っていた人だって,決して少なくないはずだ。ですよね?

 

4Gamer.net 『「川中島の合戦」が復刻されるので,川中島古戦場を訪問してみた』より引用

 ここで語られているのは、『スタートレック』【※】――アメリカで生まれ、何度も映画化もされているSFドラマをリスペクトしたマイコンゲームだ(名前を出してスイマセン)

※スタートレック……70年代初頭にミニコンピュータ用に作られたシミュレーションゲーム。有名SFシリーズ「スター・トレック」を題材とし、画面表示内容は数字と文字のみで構成されている。1973年にはPDP-11に移植され、これがBASICユーザーのあいだで広く親しまれた。移動はまず方向を360度で入力し、ついでワープ速度(移動距離)を入力するという、『川中島の合戦』に近いものだった。
(画像は『スター・トレック BEYOND』公式サイトより)

 元はミニコンピュータ用のフリーゲームだったが、有志達が数々のマイコンに移植。その中の一つに、シブサワ・コウ氏の愛機・MZ-80Cもあった。

 関係が険悪だった惑星連邦とクリンゴン帝国は、いよいよ全面戦争に突入。宇宙船USSエンタープライズ号の船長となったプレイヤーは、たった一隻で銀河に散らばる敵を駆逐する……元ネタになったドラマはこれほどシンプルでも好戦的でもない。だが、ウォーゲームにおける地上の対決を宇宙に持ち込んだらこうなるのだろう。

 このゲームに一つのネタ元があった……のかもしれない。

 だが、仮にそうだとしても――シブサワ・コウ氏の発明は、むしろゲームシステムとは別のところにあったようにも思う。
 シブサワ氏は、輸入ウォーゲームにならって海外の戦争を扱うのではなく、日本の戦国時代をテーマに選んだ。日本人には想像しにくい中世やヨーロッパの戦いより、小説や大河ドラマで親しんだ戦国のほうが馴染みがあり、国内に定着しやすい。これは当たり前のようだが、実はすぐれた着眼点だったのではないか。

 実際、国内産のウォーボードゲーム(非電源系)は80年代前半から作られたが、戦国をテーマにしたものは数少なく、86年にツクダホビー【※1】が「戦国合戦シリーズ」【※2】を出版するまでメジャーにはならなかったのだ。その市場性にいち早く気づいたのは、間違いなくPCから登場したシブサワ・コウ氏だった。

※1ツクダホビー
1973年に株式会社ツクダがオセロを大ヒットさせた後、ボードゲーム・プラモ・フィギュアなどを販売する会社として設立(製造部門はツクダオリジナル)。件の戦国合戦シリーズのほか、アニメを題材にしたウォーシミュレーションを数多く発売していたが、2003年に倒産。ツクダはバンダイの完全子会社となり、その後、パルボックス、メガハウスと遷移している。

※2 戦国合戦シリーズ
1989年にツクダホビーから発売されたボードタイプのウォーシミュレーションゲーム。シリーズとして「幸村外伝」、「甲斐の虎」、「武田盛衰記」、「激闘関ヶ原」があり、それぞれ複数のシナリオが提供された。

 とはいえ、氏が戦国を選んだのを、「市場性が高かったから」という俗な理由で説明してもいいものだろうか……とも思う。
 いや、むしろ「ただ、戦国時代のゲームを自分で遊びたかった」からというだけ……それこそが「昼は本業、夜は自分でゲームを作って遊ぶ」が高じて、元々は染料と工業製薬の問屋だった光栄をゲームメーカーに転じさせた人物らしいとも思える。

 まさに「好きなことで、生きていく」の先駆けだったシブサワ・コウ氏。しかも、彼の好きな歴史ものは、同時に「日本に生きる人達が好きなこと」でもあった。
 その後『投資ゲーム』【※1】や『地底探検』【※2】、海外ウォーゲームの流れを汲む『コンバット』【※3】などを経て、1983年に初代『信長の野望』が誕生する。本作は光栄の戦国もの第二作というだけでなく、SLGのあらゆる可能性を開く扉だった……ということで、続きは次回をご期待ください。

※1 投資ゲーム
光栄マイコンシステム(当時)が1981年に発売したシミュレーションゲーム。シブサワ・コウ氏のデビュー作で、夫人の襟川恵子氏の趣味であった株を題材にしたという。

※2 地底探検
光栄マイコンシステム(当時)が1982年に発売したキャラクターRPGテイストの強いシミュレーションゲーム。プレイヤーは5人組みのパーティを編成し地底を探索。遭遇する怪獣と戦いながら、財宝を見つけることを目的とする。

※3 コンバット
光栄マイコンシステム(当時)が1982年に発売した人気のテレビドラマ『コンバット』をモチーフにしたシミュレーションゲーム。プレイヤーはサンダース軍曹となって、カービー、ケリー、リトルジョンたちを率いて丘の上に陣取るドイツ軍のトーチカを攻略する。

余談~『坂の上の雲』とウォーゲーム、ダイスの目を誤魔化した日本軍の末路

 本文中で、「兵器演習」に触れた。これについては、日本人にも親しみ深い、面白い余談があるので、ここで紹介しておきたい。
 この「兵棋演習」は明治維新後の日本にも、ドイツから招聘したクレメンス・メッケル少佐により陸軍設立時に持ち込まれている。座学よりも実践的な作戦立案を重んじる方針の一環で用いられたのだ。だが、陸軍に定着はしなかった。

 では実際に日本軍の現場に兵棋演習を根付かせたのは誰かと言えば、日露戦争時の海軍参謀・秋山真之――そう、司馬遼太郎【※1】の小説『坂の上の雲』【※2】の主人公の一人だった。秋山は米国駐在武官として現地に滞在し、米西戦争(アメリカとスペインの戦争)を観戦。その際、見聞した中で最も感心したのは兵棋演習だったという。

※2 坂の上の雲……産経新聞の夕刊紙上で1968年4月から1972年8月にかけて連載された、司馬遼太郎による歴史小説。愛媛・松山の若者3人を軸に、明治維新を成功させ、日露戦争で勝利するまでの明治日本の姿を描いた作品。
(画像はAmazonより)

※1 司馬遼太郎
1923年生まれの歴史小説家・エッセイスト。『竜馬がゆく』、『国盗り物語』、『燃えよ剣』などの作品で知られ、手がけた作品の多くが大河ドラマをはじめとするテレビドラマ、映画、コミックなどの形でも展開された。歴史小説家として日本指折りの知名度を誇る。1996年逝去。

 これはプロイセンの陸戦向けのものを元にした、海戦向けのアレンジ版だったという。イギリスで海軍の訓練に応用できるように考えられたものが、アメリカ海軍に採用されていたのだ。

 こどものおもちゃのような各種軍艦を大図盤のうえにうかべる。軍艦は木製で、小指ほどに小さい。しかし三笠なら三笠で、それらしい姿をしている。
 「ここに敵の戦艦ボロジノが針路をこうとって、何ノットで走っている。駆逐艦三隻をしたがえている」と想定すれば、そこにボロジノ型の模型をおく。

 

司馬遼太郎著『坂の上の雲』(1999・文藝春秋)より引用

 司馬によれば、日本が英海軍から学んだのは図上演習、つまり海図の上に赤や青の鉛筆で書き込んで作戦を進める方式だったという。一度は採用された兵棋演習が、イギリスでは「素人っぽい」ということで棄てられたのかもしれない。しかし兵棋演習は、戦略の全体像も手に取るように分かり、「どこを改善すべきか」という次のアクションにも繋げやすい。秋山はその利点を高く評価し、帰国後には軍に「採用すべきだ」と説得して回ったという。

 そうして秋山が帰国してから数年後の1904年(明治38年)、彼が参謀として参加した日本海海戦にて、日本海軍はロシアのバルチック艦隊を撃破した。むろん、そこに兵棋演習の影響がどれほどあったかは不明だが、「図上演習」と名を変えながらも日本海軍に用いられていたとはいう。評価されていたのは確かだろう。

 もっとも、後輩たちがこれを適切な形で受け継いだとは言いがたい。時代は下って1942年5月、まだ真珠湾攻撃が成功した勢いで日本海軍がアメリカやイギリスの艦隊に勝ちまくっていた頃のことだ。
 短期決戦をめざしていた日本は、アメリカ太平洋艦隊に残されていた空母3隻を叩くために、海軍のトップ100名を広島の呉軍港(『この世界の片隅に』【※1】の舞台)に集め、ミッドウェイ【※2】攻略作戦の図上演習を行った。
 場所は、あの戦艦大和の艦上。その場には山本五十六連合艦隊長官【※3】も加わり、統監(当時の図上演習は判定する人がいた)は宇垣参謀長という錚々たる顔ぶれだったというから、なんとも豪華な図上演習だ。

※1 この世界の片隅に
こうの史代によるマンガおよび、これを原作として2016年に公開された片渕須直監督による長編アニメーション映画。第二次世界大戦中の呉~広島を舞台とし、激化する戦時下で市井の人として暮らす少女すずが終戦を迎えるまでの暮らしや悲しみを描く。

※2 ミッドウェイ
北太平洋のハワイ諸島北西にある環礁で、ミッドウェイ諸島やミッドウェイ環礁などとも呼ばれる。

※3 山本五十六連合艦隊長官
1884年生まれの海軍軍人。太平洋戦争時に連合艦隊の司令長官を務め、真珠湾攻撃やマレー沖海戦などを成功に導き、1943年の海軍甲事件にて戦死している。「やってみせ/言って聞かせて/させてみて/ほめてやらねば/人は動かじ」という言葉も有名。

 ――ところがいざサイコロを振ってみたところ、思わぬ結果が出た。アメリカ軍に不意打ちされた日本軍は、空母2隻沈没、さらに1隻が大破してしまったのだ!

 しかしここで、審判役の宇垣は「アメリカ軍の命中弾は3分の1とする」として、被害を過小評価してしまう。さらには、攻撃で沈んだはずの空母加賀が浮かび上がり、次のフィジー、サモア海戦にも参加していたという、実にいい加減なシミュレーションだった。

 読者は、もうおわかりだろう。「ダイスの目を誤魔化すものは報いを受ける」――。このデタラメなシミュレーションの代償は、そんな言葉でまとめるには、あまりに大きいものだった。なぜなら、後の現実のミッドウェー海戦も、ほとんど同じ結果に終わったのだから。

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著者
多根 清史
ゲームやアニメを中心に活躍するフリーライター。著書に『教養としてのゲーム史』、共著に『超ファミコン』など。
Twitter:@bigburn(写真は筑摩書房ウェブサイトより)
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