黎明期のゲーム業界には、まるで神話のようなエピソードがいくつも転がっている。その一つが、『大戦略』誕生にまつわる秘話である。
一人の無名の青年がある日、とあるソフトハウスにシミュレーション・ウォーゲームを持ち込んできた。その斬新な内容に驚いたソフトハウスがすぐに契約を結ぶと、瞬く間にそのゲームは大ヒットシリーズになり、そのソフトハウスには巨万の富がもたらされた。また、そのゲームは後に数々のフォロワーを生み落とした。『ファイアーエムブレム』などの我々のよく知る名作ゲームは、このゲームの子供たちにほかならない。
その青年が手にしていたゲームは『大戦略』。
20世紀の後半、パソコンや家庭用ゲーム機で作り出された数多くのタイトルによって、コンピューター・ウォーゲームは一大ジャンルが築かれるに至った。しかし、日本でのコンピューター・ウォーゲームの進化系統樹を描くとすれば、始祖鳥に当たるポジションに据えられるのが、この『大戦略』であると言えよう。
ところが、そもそもこの『大戦略』とは、よくよく考えれば、いろいろと“妙なゲーム”でもある。コンピューターゲームが流行る以前のウォー・ボードゲームからの文脈を考えると、本作には、驚くほど割り切った“抽象化”が随所に見られるからだ。
なぜ、歩兵も戦車も飛行機も、すべて「10機ずつ」で表現されるのか。なぜ、(今となっては当たり前だが)三すくみのような兵器間の相性ルールが盛り込まれたのか。もっと言えば、なぜ「大戦略」と銘打ちながらも、ゲームシステム的には戦術級寄りの内容なのか?
例えば、リアル志向のゲームであれば、「画面には戦車を1台表示して、耐久度が10ある」みたいな表現でもよいはずだし、戦術級のゲームシステムの上に「生産」のような概念が乗っかっているのは、ウォーゲームのデザインとして考えれば、かなり歪な形でもある。
しかし、その絶妙なごちゃ混ぜ具合と、各要素のバランスこそが、『大戦略』の魅力ではないか?——本稿では、そんな本作がどのような人物によって、どう作り出されたものなのか。その秘密を探ってみたいと考えた次第である。
そこで今回、『大戦略』の生みの親である天才肌のゲームクリエイター・藤本淳一氏、当時の販売会社システムソフトで、ディベロップ、プロデュースなどを手がけられた豪腕ぶりが印象に残る福田史裕氏、そしてウォーゲームのマニアにして理論家の風体のある石川淳一氏らが、この座談会のために集結した。各氏が一同に会するのは、十数年ぶりということで『大戦略』同窓会といった和気藹々とした雰囲気の中、『大戦略』誕生からその後のシリーズ開発についてなど、当時の思い出や挿話などを語り合っていただいた。
なお、今回の対談の実現には、当時のシステムソフトでプロデューサーを務められた宮迫靖氏に多大なご協力をいただいている。この場を借りて、御礼申し上げたい。
妻子を連れた青年が持ち込んだ一本のゲーム
――ファンの間では有名な話ですが、ある日、藤本さんが福岡のシステムソフトに『大戦略』の前身に当たる『エリア98』を持ち込まれたんですよね。ただ、最初にコーエーに持ち込んだとか、ハドソンに持ち込もうとしていたとか聞くのですが……。
※『エリア98』
新谷かおるの漫画『エリア88』とPC-98を合体させて名付けたとのこと。ゲームのタイトル画面には『ARER98』と書かれている
藤本氏:
そんなことはないですよ(笑)。一番最初に行ったのが、システムソフトです。
――それは、やはりファンだったから……?
藤本氏:
……いや、福岡の大学に通っていて、システムソフトが福岡の会社だったからという。
福田氏:
へー、それぐらいの理由だったんですね(笑)。じゃあ、東京の大学だったら、システムソフトには来てなかったのかな。
藤本氏:
だって、東京は道に迷うんで……やっぱり福岡は地理がわかるじゃないですか。でも、最初に持ち込んだのは本当にシステムソフトだったんですよ。
――でも、当時のインタビューかなにかで、システムソフトは海戦ゲームの『珊瑚海海戦』があったから、という話を読んだ記憶があります。あのゲームは、当時のボードシミュレーションをやっていた人間からすれば、憧れのタイトルでしたから印象的なんです。
※『珊瑚海海戦』
1982年、システムソフトが発売したコンピューターシミュレーションゲーム。太平洋戦争で起こった世界戦史上初の空母戦である「珊瑚海海戦」を扱ったもの。
藤本氏:
……まあ、それもあるにはあったかなと思います。
福田氏:
その当時、シミュレーションゲームなんて、そんなにあちこちの会社が出してなかったからなあ。
でも、(インタビュアーに)あなたは買えなくて幸せだったんですよ。なにせ、あのゲームは買ったらがっかりしますから(笑)。
――そ、そうなんですか……(笑)。ちなみに、以前に藤本さんが、奥さんと一緒に持ち込みに来たという話も聞いているのですが……。
福田氏:
え、そうなの?
藤本氏:
まあ、実は家族3人できたんですよ。当時、仕事をやめた直後で、お金がなかったんです。
――えっ。
福田氏:
そんな理由だったんですか(笑)。そういえば、なぜ藤本さんが持ち込んだのかなんて、今になって初めて聞いた気がするね。
でもさ、確かに応対した宮迫さんには、「持ち込んだ人に1日だけホテルで待ってもらっているから、明日までにこのゲームを評価してくれ」と言われたんだよね。そこはやっぱり「家族を連れて来てるわけだから、悠長に返事を返すわけにはいかん」というのがあったんだろうなあ。
まあ、当時の僕はそんな事情とはつゆ知らず、家に持ち帰って98で遊んでいるうちにハマってしまって、つい徹夜ですよ(笑)。そして翌日には、もうリリースを前提に「こんな感じで直しましょう」と修正案を宮迫さんに話していた感じです。
――一方、藤本さんの方は……。
藤本氏:
……ホテルの中で「ここで売れなかったら、次は宮崎にでも行って売ろうかな」と。行商ですかね。
――めちゃくちゃ切実じゃないですか(笑)。
福田氏:
もしや子供を連れてきたのも計算づくとか(笑)。それに藤本さん、他のところに持っていくかも……なんて話もしてましたよね。
藤本氏:
ふふふ。
――なるほど(笑)。ただ、宮迫さんにあの日、『大戦略』を初めて見たときの話を聞いたことがあるんです。宮迫さんは「一瞬で良いと思った」とおっしゃってましたよ。他の、箸にも棒にもかからない持ち込み作品とは全くレベルが違っていた、と。
藤本氏:
宮迫さんに見てもらえたのも幸いだったんですよ。彼が一番心が広いというか、いい加減ですから(笑)。
福田氏:
そうだけど、やっぱり遊んですぐによく出来てるなと思いましたよ。(笑)。結局、宮迫さんも俺の意見を聞いて、まあ即決というわけではないけど「前向きに考えたいから、まずは独占交渉権をくれ」みたいな返事をすぐにしましたよね。
「自分の欲しいゲームがなかったんです」(藤本氏)
――それにしても、先ほど福田さんが「なぜ持ち込んだのかなんて、今になって初めて聞いた」と仰ってましたが、実はどうして藤本さんが『大戦略』を作って持ち込んだのかは、あまり表には出ていないですね。
藤本氏:
その前は、パソコンショップの店員だったんですよ。まあ、小さなNECの店で、店員は僕一人だったんですけど。
『エリア98』を作ったPC-98(※)も、そこで発売時にローンで買ってます。店員割もなくて、定価だったかな。その店では『バトルフィールド』(※※)も解体して随分と遊んだし、『信長の野望』(※※※)も後に本家で全国版が出る前に、自分で解体して自分流の“全国版”を作って遊んでましたね。
ただ、こう……なんかこう気にくわなかったんです。というのも、自分は大学時代にボードゲームのシミュレーション・ウォーゲームを遊んでいたので、やっぱり物足りない部分が多々あるんですよ。
※NEC PC-9801
1982年にNECから発売された16ビットパソコン。発売当初はビジネスユースがメインで、対応のゲームソフトは少なかった。
※※『森田のバトルフィールド』
1988年発売のPC-8801用シミュレーション・ウォーゲーム。国産PCゲームの黎明期に活躍したゲームプログラマー、森田和郎の作品。藤本氏が『大戦略』の原型『エリア98』を開発した際、最も影響を受けたタイトルの一つである。
※※※『信長の野望』
1983年に光栄(現・コーエーテクモゲームス)から発売された、パソコン用シミュレーションゲーム。多くの機種に移植された。最初のバージョンは、地図の範囲が本州中央部に限られていた。後に『信長の野望・全国版』が登場して、日本全域で遊べるようになった。
――それがゲーム制作を始めた動機ですか?
藤本氏:
ええ。まあ、大学の専攻はメディカルエンジニアだったので、パソコンとはまったく畑が違ったんですけどね。本来ならば、僕は検査技師になるはずだったんです。
ただ、大学の研究室にPET(※)という機械があって、それで『スタートレック』(※※)を遊んだんですよ。あれが、確かプログラムに入っていくきっかけです。雑誌にプログラムが載っているから、それを打ち込んで動かして、消す。で、遊びたくなったら、また打ち込む(笑)。
※コモドール PET2001
1977年にコモドールから発売された、世界初のパーソナルコンピューター。
※※『スタートレック』
70年代、コンピューター用に作られたシミュレーションゲーム。有名SFシリーズ「スタートレック」を題材とし、初期のグラフィック性能皆無のコンピューター用に、画面表示内容は数字と文字のみで構成されている。コンピューターゲーム黎明期の古典的名作。
そんなことをしていたら、なぜかパソコンショップの店員になっちゃったんです。仕方ないからショップでPCをいじって一人で遊んでいたら、高校生や大学生が遊びに来るんですね。まあ、彼らはみんなPC-88(※)で『うる星やつら』(※※)の絵を描いて遊んでいたんですけどね(笑)。
でも、そんな連中と一緒に遊びたくなって『大戦略』を作ってみて、それを遊ばせていたら、不思議なことにどんどん形になっていくんです。後の『大戦略』のプロトタイプは、そこでもう作られていましたね。
※NEC PC-8801
1981年にNECから発売された8ビットパソコン。当初はビジネスユーザーがターゲットであったが、当時としては優れたグラフィック性能から、次第にホビーユースおよびゲーム用機に性格が変遷した。
※※『うる星やつら』
高橋留美子の人気漫画。後にアニメ化されて人気が高まった。当時のパソコンではアニメキャラを描くことが流行っており、特に『うる星やつら』のラムちゃんが人気キャラであった。当時、全国のパソコンショップのモニターにラムちゃんが表示されているのは、おなじみの光景であった。
福田氏:
持ち込まれた時点で、既にマップエディタが完成していたんですよ。それを知っていたので、まず最初に僕がお願いしたのが、スタート地点の首都が四隅の固定の場所だったのを、プレイヤーが好きな場所に置けるようにすることでした。
それにしても、88なんて当時はかなり高くて、その学生さんたちも買えたのだろうかと思いますね。98はさらに高かったでしょ。
藤本氏:
本体だけで確か30万円くらいあって、それに付属品がつきますからね。僕は当時の給料が13万円くらいだったのに、付属品をつけて50万円越えの98を買ったものだから、もう奥さんが怒ったこと、怒ったこと(笑)。いやもう、ブチ切れてましたよ。
福田氏:
まあ、そんな高いローンを抱えてたなら、そりゃ持ち込みのときに切実になるな(笑)。ちなみに、その奥さんとは『ジ・アニメ』の投稿ページの文通欄で知り合ったんでしょ。
藤本氏:
関係ないじゃないですか!! そんなことバラすんですか、ここで(笑)。
まあ、卒業して1、2年くらいで結婚したから、一緒になったのは24歳だったかなあ。持ち込んだのは、ちょうど27歳頃だったと思います。
※『ジ・アニメ』
近代映画社発行のアニメ雑誌。1979年創刊、1986年休刊。
――じゃあ、『大戦略』の誕生はついPC-98を買ってしまい、怒りに燃える奥さんへの言い訳でお金を稼ぐべく……。
藤本氏:
いやいや、そういうことはないです(笑)。
やっぱり自分の欲しいものがなくて、ただただ遊びたかったから作ったんです。その時点では、ビジネスになるかなんて、考えてもいなかったですよ。
――わかりました(笑)。その後、製品化されたわけですが、実際のところ雰囲気や売れ行きは、どうだったんでしょう?
福田氏:
いやもう、宮迫氏が意気込んで1万本作ったら、全然売れなくて箱積み(笑)。
まあ、私なんかはそこまで責任感ない人間なんであまり気にしなかったですが、宮迫氏なんかは販売実績に責任のあるセクションだったからね。そこに返品で半分くらい戻ってきたら、そりゃ大問題ですよ。しまいには社内に置く場所もないので、会議室に山積みする羽目になって、関係者で「おい、これどうするんだよ」と会議ですよ。
石川氏:
そこで、『パワーアップセット』の登場だったんですよね(笑)。
福田氏:
返品が戻ってくる前に「これはヤバい」とだけは分かっていて、先に『パワーアップセット』が必要だと話しあったんだよね。あれが結果的にはヒットの助けになったんだよね。
――ええー! 当時の僕らとしては「売れたから『パワーアップセット』が出たんだろうなあ」というイメージでしたが、むしろ苦肉の策だったのですね。
福田氏:
『大戦略』の売れ方をアニメに喩えるなら、ガンダムの初回放送ですよ(笑)。当時を知らない人は最初から人気があったように思うかもしれないけど、本当はだいぶ遅れて火がついたんです。
なにせ店頭にもほとんど並ばなくて、そっくりそのまま孫正義さんのところ(※)から返ってきたんだよね(笑)。ところが、口コミで「こんなゲームがあるらしいぞ」と話題になりだして、そこにタイミング良く『パワーアップセット』を投入できたから、一気に売れていったんです。
※ソフトバンク
現在は携帯電話大手のソフトバンクだが、当時は日本最大手のパソコンソフト卸業者だった。
――当時の口コミって……ネットもない時代ですよね。
福田氏:
まあパソコン通信の掲示板はあったと思うけどね。でも、本当に文字通りの「口コミ」でしたよね。
石川氏:
ショップの店員さんのオススメが大きな力を持ってた時代ですね。
福田氏:
あと、パワーアップのときに、「大戦略ファンクラブ」でマップを募集したんですよ。実は結果的に『パワーアップセット』は、こっちの方が目的になっていたくらいに気合の入ったものになりました。確かさ、当時はネットもなかったから、ハガキと雑誌で告知して郵送したんだよね。
――郵送ですか。そういう時代ですよね。
福田氏:
そりゃそうだよね。アンケートハガキの文化もあったしね。
あ、そういえば『ドラゴンクエスト』の音楽のすぎやまさんが『大戦略』のアンケートハガキを返してくれたことがあって、アンケートハガキに「作曲家をやっています、よろしかったら仕事を手伝わせてください」と言ってきたことがありましたね。
――えええ(笑)。……エニックスにすぎやまさんが送ってきたのは有名な話ですが、他にもあったんですね。
福田氏:
でも、そもそも『大戦略』に音楽という概念があんまりなかったから、社内生産で済んでいたのもあって、無視しちゃったんだよね(笑)。すぎやまさんもゲームの世界ではまだ無名だったしね。
――ううむ(苦笑)。
福田氏:
ともかく話を戻すと、やっぱりハガキで最初に食いついた人はヘヴィーな連中なんですよ。彼らに「次の製品にマップをいれるので応募してださい」と言ったら、まあ色々と、大変なものが4、50くらいは集まってきました。あのマップ追加での増量は大きかったと思いますね。
石川氏:
僕は、まさに『パワーアップセット』の開発時にバイトに入ったんです。さっき会議室の壁にソフトが積まれていたという話をしましたが、そもそも倉庫もなかったんです。それどころか、当時は複製すらパソコンのフロッピーで作っていた(笑)。
でも、あるときから壁際にだだだっと積まれた箱がみるみる減っていったんですね。
福田氏:
一回動き始めたら、もうシューっと動いたよね。
石川氏:
正確には覚えてないですが、1万5千本くらい売れたんです。
この数字は今となっては凄さがわからないかもしれないですが、当時のパソコンソフトで1万本なんてめったに出ない数字です。そこで、その年末に『2』(※)を出すことになって、それが3万本だったかな。この3万本という数字は、当時としてはとんでもない数字でした。
※『2』
1987年3月にシステム・ソフトウェアから発売された『大戦略II』のこと。登場する兵器が大幅に増加するなど前作のシステムに大きく機能追加、高い人気を得た。
福田氏:
ただ、冷静に考えてみると、我々はそんな時代にいきなり1万本も作ったんだよね。宮迫さん、なんで最初に初期ロットであんなに攻めたんだろう。
石川氏:
福田さんが「これはイケますよ!」と言ったからじゃないですか(笑)。それを突き詰めると、福田さんのせいになりますよ。まあ、みんな「イケる」とは言ってましたけど。