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難しいほど怖くないって、ホント? ホラーゲームが抱える致命的な欠点とは⁉︎ 【ゲームの話を言語化したい:第一回】


 ホラーゲーム特集に寄稿していただいた岩崎氏の連載「ゲームの話を言語化したい」がスタートします。ゲームの話を言語化することに使命感を燃やす、岩崎氏の開発者ならではの視点とは? 第1回目は、“表現力”以外にホラーゲームが抱える問題点について切り込みます。

表現力よりももっと大きな問題は、まだ未解決!?

 前回、「ゲーム」と「ホラー」はそもそも当時のゲーム機やPCが持つ表現力がチャチかったため、とても相性が悪かったという話を書かせてもらった。 

PS1の『バイオハザード』が登場するまでは、誰もが恐怖を感じるに足るビジュアルやサウンドを表現したホラーゲームはほとんど存在していなかった。
※画像はゲームアーカイブス版『バイオハザード ディレクターズ・カット』のものです。(プレイステーション オフィシャルサイトより)
PS1の『バイオハザード』が登場するまでは、誰もが恐怖を感じるに足るビジュアルやサウンドを表現したホラーゲームはほとんど存在していなかった。 ※画像はゲームアーカイブス版『バイオハザード ディレクターズ・カット』のものです。(プレイステーション オフィシャルサイトより)

関連記事:
実は相性が悪かった「ゲーム」と「ホラー」~ホラーゲームが抱える問題点とは!?(寄稿:岩崎啓眞)

 そして、この相性の悪さは1994年に発売されたPS1前後から「人が怖いと思う程度」には向上した表現力によって、以降、グラフィックやサウンドといった表現力の問題はなくなっていったわけだ。

 ハードの表現力が向上することで、ホラーゲームはTPSやFPSの形式を採用することが多くなった。すると今度は、ホラーゲームはカメラアングルの問題に直面することになる。結果、この問題を解決するために、やたら見通しの悪いグネグネと曲がった(そしてたいていは暗い)マップが使われることが多くなった……と、前回の原稿をまとめると、こんな話になる。

とにかく暗くてグネグネしているのが、ホラーゲームでよく見るタイプの画面構成。
(画像は『CONDEMNED: Criminal Origins』、Monolith Productionsホームぺージより)
とにかく暗くてグネグネしているのが、ホラーゲームでよく見るタイプの画面構成。  (画像は『CONDEMNED: Criminal Origins』、Monolith Productionsホームぺージより)

 では表現力が向上したから、「ホラー」と「ゲーム」の相性の悪さは解消されたのか? ……と考えると、表現力の比ではない問題がまだ存在する、って話を今回は書いてみたい。

 ところで、まるで関係ない話をするようだが、ほとんどのホラー映画は一度見ると怖くなくなることが多い。

 当たり前だが、“何が起こるか分からない”から怖いのだ。何が起こるか知っていれば(もちろん慣れにも依存するけれど)、生理的な嫌悪感のある場面でもない限りは怖いと感じることはまずないと思う。いくらなんでも同じシーンを何度も見れば、そのシーンに慣れて怖くなくなることは想像がつくだろう。

最初は椅子から飛び上がるぐらいビックリするシーンも、何度も観れば……?
(画像はワーナー・ブラザース 映画ストア『ジェイソンX 13日の金曜日 (予告編)』より)
最初は椅子から飛び上がるぐらいビックリするシーンも、何度も観れば……?  (画像はワーナー・ブラザース 映画ストア『ジェイソンX 13日の金曜日 (予告編)』より)

 このことをホラーゲームに当てはめると、その問題点が見えてくる。

 「失敗→ゲームオーバー→違うやり方→成功→次に進む」をプレイヤーが繰り返す、通常のゲームスタイルでホラーゲームを設計すると、「失敗→ゲームオーバー→違うやり方→成功」のプロセスで、プレイヤーが何度も同じ恐怖を体験することになり、あっという間に怖くなくなってしまうのだ。

 しかも、さらにまずいことがある。ゲームオーバーになるというのはどういうことか? ホラーゲームなら、たいていプレイヤーが死んだということだ。

 つまり「怖がらせるためにプレイヤーを死の危機に追い込む=ゲームオーバーの危機=リピートされる可能性が高い」ことになってしまう。

 そして、プレイヤーが死の危機にあるということは、そもそもそのシーンの難易度が高いことになり、当然の事ながらプレイヤーは同じ場面を何度もプレイすることになる。そして最初に感じていた恐怖感などどこへやら。ひたすらクリアを目指して、まるでパズルに挑むような態度でプレイしていくことになる。

 むろん普通のゲームの考え方からするなら、難易度が高めというだけで、別段なんら驚くこともないし問題もない。

 だが、ホラーゲームでは事情が違う。

 恐怖を味わうよりも、クリアすることが目標になるならば、そもそもホラーで一番大事だったはずの“恐怖を味わう観点”はどこかに行ってしまい、そこにホラーらしさはなくなってしまうからだ。

 実際「ああもう畜生! またこのゾンビにやられた。先に手榴弾を投げ込んでダメージ与えてから、飛び込んですぐ構えて右を撃つ、次に左にいる奴を撃つ。左はヘッドショット必須……やってやるぜ!」なんてプレイのどこに「恐怖があるのか?」と質問されれば、間違いなく「ほぼない」と答えざるを得ないだろう。

 その意味では、ゲームオーバーのない、それなりの着地点にたどり着くことが保証されていて、かつ最初は“一回性”が強いノベル型のホラーゲームの方が、恐怖を味わう点では優れている。だが、その反面、ノベル型はゲームの最大の武器である、プレイヤーが自身で体験する没入感が薄くなる。

 すなわち、恐怖をあたかも自分の体験のように楽しめるゲームオーバーのあるホラーゲームでは、ゲームを進める際に学習が必要な要素が、恐怖を薄める役割を果たしてしまう。一方、そうではないノベル型のゲームでは、今度は恐怖のレベルが映画や小説での体験レベルになるわけだ。無論、映画や小説の体験レベルが悪いわけではないが、ゲームの体験レベルに比べれば、没入感が弱いのは確かだろう。

攻略難度が増せば増すほど、恐怖感も減っていく?

 ここにホラーゲームの本当の問題点が見て取れる。

 すなわち、ホラーゲームにおける“恐怖”はもちろん“ 死ぬこと”が一番大きい。だが、同じシーンで死ぬことを繰り返すと、プレイヤーは何が起こるのか覚えてしまい、その恐怖感は薄くなる。かといって、死なないようにするために簡単なシーンばかりでは、やっぱりシーンの難易度や作りに慣れて恐怖感は薄まってしまう。

 加えて、上記のように恐怖感が徐々に薄まっていくぐらいならまだしも、ゲームが上手くなればなるほど、ホラー感も益々薄まっていく。

 出てきたゾンビをヘッドショットでなぎ倒すのは、爽快感にあふれているだろうが、それはホラー要素というよりはシューティング要素で「ホラーらしさってどこよ?」と質問したくなってしまう。窓を割って犬が飛び込んできた瞬間にナイフで抹殺してしまうのはゲームプレイとしては極めて華麗だが、反面「ホラーらしさってなんだ?」になっているのは確かだろう。

『バイオハザード』は、プレイヤー同士がクリア時間を競った作品の一つでもある。もちろん、タイムアタックは面白いが、そこにホラーらしさはほとんどない。
(画像はバイオハザードシリーズラインナップページより)
『バイオハザード』は、プレイヤー同士がクリア時間を競った作品の一つでもある。もちろん、タイムアタックは面白いが、そこにホラーらしさはほとんどない。  (画像はバイオハザードシリーズラインナップページより)

ホラーゲームはやり直せるから怖くない?

 さらに、いわゆる安全地帯問題(セーブ問題)も根が深い。

 例えば初期の『クロックタワー』シリーズのように、隠れることで確実にシザーマンを回避できる場所があるゲーム設計をすると、プレイヤーは毎回そこを使って回避することになる。その結果、ゲームプレイがパターン化されてしまって、シザーマンが出てくる度になんだか笑えてしまうことになる(ただし、『クロックタワー』の場合、これを確信犯的にやっていた気もするが……)。

『クロックタワー』※画像はWiiU バーチャルコンソール版です。
任天堂ホームページより)
『クロックタワー』※画像はWiiU バーチャルコンソール版です。  (任天堂ホームページより)

 さらに、近代的なコンソールゲームでは、安全地帯とセーブポイントは近い方が良いと基本的に考えられている。それはつまり、プレイヤーは安全地帯のセーブポイントでセーブして、何度でもチャレンジできるということだ。

 ところが“セーブ回数に制限をかける”だの、“セーブできる場所でも敵に襲われてしまう”というゲーム設計をしてしまうと、うっかりするとプレイヤーがゲームをクリアできない“ハマり状態”を生み出してしまうので、非常に危険だ。

 加えて、人間のパターン認識能力やインターネットでの知恵の集積(攻略Wikiなど)は強烈だ。一見制限があるように見えるが、実は安全なんてことをすると、あっという間にバレてしまう。例えばセーブ回数の残りが1~3まで減ると、必ずセーブ回数が増える仕掛けが入っているとか。本当にセーブを始めたら、仮に近くにモンスターがいても10秒以上近寄ってこないとか……。

 すなわち、①プレイヤーが繰り返しプレイすることによるトライ&エラーで学習し、技能向上してステージをクリアする、②そのプロセスを通常は保存(セーブ)できる、という二つの構造は、「ホラー」と「ゲーム」の関係性として見ると、極めて相性が悪いのだ。「ゲーム」を成り立たせると「ホラー」が成り立ちにくく、「ホラー」を成り立たせると「ゲーム」にとって理不尽極りない状況になりやすいという、二律背反もいいところになっている。

『バイオハザード』のインクリボン(セーブを可能にする)の使用に頭を悩ませたプレイヤーは多かったはずだ。
※画像は『バイオハザード HDリマスター』のものです。(カプコン公式サイト ニュースリリースより)
『バイオハザード』のインクリボン(セーブを可能にする)の使用に頭を悩ませたプレイヤーは多かったはずだ。  ※画像は『バイオハザード HDリマスター』のものです。(カプコン公式サイト ニュースリリースより)

この構造的な問題に解決策はない……だけど!?

 では、どうすればいいのか?
 実は2016年に至るまでも、これだという解決策は存在していないと思う。

 攻略法があるホラーゲームを作れば、攻略する過程で怖さがなくなってしまうのは仕方ない。これを回避するための決定的な方法は、ほぼノベル系しかないのが、今のところの実情なのではないかと思う。

 これは表現力の向上でも解決できないどうしようもない構造的な問題だ。ホラーゲームは、最初はホラー要素が強いけど、徐々にゲーム要素が強くなっていく。結局、ゲームとしてみた時に、いかに面白くなるかを優先せざるをえないというのが、ホラーゲームの事実なのだ。

 つまり、身も蓋もないのだけど、やはり「ホラー」と「ゲーム」の相性は悪いという結論になってしまう。

 だけど驚くべきことに……、ゲーム的な解決策として言っていいのか? という疑問はあるし「ホラー」として機能しているのか? という疑問もあるけれど、「ゲーム」と「ホラー」の間に幸せな関係が築かれている、つまり「ゲーム」と「ホラー」の相性が良くなっている場所がある。

 それは「ゲーム実況」だ。

 ゲーム実況は当たり前のことながら、視聴者側にとってはコンテンツの一つだ。

画像は【ニコニコ動画】【実況】純粋なるサバイバルホラーの帰還 サイコブレイク:01より
画像は【ニコニコ動画】【実況】純粋なるサバイバルホラーの帰還 サイコブレイク:01より

 ゲームを最終的に自分がプレイするものだと定義したとき、実況にはネタバレ要素が含まれるのが玉に瑕だが、基本的にはホラー映画を見るのに近い体験なので、「ホラー」として間違いなく機能する。

 ただ、映画を見る時と同じで、自分でゲームをプレイする時に比べて没入感が落ちるのは事実。だが、映画と違うのが、“ゲームの実況”がなされているところだ。

 実況中ということは、そもそも実況者がクリアできるかどうかすらわからないわけで、「ゲーム」自体が持つホラー要素に加えて、実況者がそれを乗り越えられるのか、という不確実性が加わることになる。

 つまり、そもそもの“ゲームのホラー要素に脅かされる”と同時に、“実況者がクリアできるのか?”というお楽しみがあるわけだ。

 しかも実況者のリアクションも楽しめるのだから、見ている側からすると、映像作品としてのホラー+実況者のプレイ+実況者のリアクションというライブコンテンツになる。三重に面白いコンテンツになっているわけだ。

ホラーゲームとゲーム実況の親和性については、先日公開された「ホラゲにゲームデザインの常識は通用しない!? Jホラーゲームの第一人者『零』×『SIREN』開発者が語り合うホラーの摩訶不思議(柴田誠×外山圭一郎)【ゲームの企画書第八回】」でも触れられている。
ホラーゲームとゲーム実況の親和性については、先日公開された「ホラゲにゲームデザインの常識は通用しない!? Jホラーゲームの第一人者『零』×『SIREN』開発者が語り合うホラーの摩訶不思議(柴田誠×外山圭一郎)【ゲームの企画書第八回】」でも触れられている。

 加えて、ホラーゲームには、他のジャンルのゲームと比較したとき、実況上の大きなメリットが一つハッキリあると思う。

 特にシューティングゲームなどでよくある話なのだけど、一番安全確実なプレイは、敵が出てくるところを完全に覚えておいて、出てきた瞬間抹殺することだ。すなわち画面の上に出る敵が極端に少ないことになる。つまり、上手い人ほど実況としての面白みにかける現象が起こる。実際、はるか遠い昔に『グラディウス』だのなんだのの自分用の攻略ビデオを作っていたのだけど、画面に出てくるものが極端に少ないビデオになっていて、とてもつまらなかった(笑)。

 ところがホラーゲームでは恐怖を成り立たせるために、プレイヤーに無尽蔵かつ強力な攻撃手段が与えられていることはほぼない。それどころか全く攻撃不可能な場合も多々ある。

 すなわち、プレイヤー(実況者)は敵に見つからないように移動する、もしくは見つかったときでも敵を攻撃するかどうかを、持っている武器の強さを判断して考えなければならない。

 つまり、ホラーゲームは、敵が残りやすく、攻撃したり逃げたりとプレイにメリハリがある。さらに、演出で怖がらせるので、もちろん見ていてホラー映画のように怖い。なおかつクリアできるかどうかは実況者の腕次第なので、何度も見る面白さもあるわけだ。加えて華麗なプレイでも下手なプレイでも面白く見やすい……と、実に実況向けのコンテンツなわけだ。

 そんなわけで、通常のプレイでは、学習を要求する「ゲーム」は「ホラー」と相性が悪い。これは原理的に考えて、解決がとても難しい。

 だが「ゲーム実況」と「ホラーゲーム」は間違いなくとても相性がいいし、どんなプレイスタイルでも相性がいい。とにかく、コンテンツを楽しめる場があるのは幸せなことだと思ったりするわけだ。

プロフィール
ゲームデザインディレクター。古くからゲーム業界に関わり、開発者の視点からゲームのことを言語化していくことに使命感を燃やす。電撃プレイステーションでもコラムを連載中。
個人ブログ:Colorful Pieces of Game
Twitter: @snapwith
 

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この記事へのコメント8

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  • 岩崎さんがホラーゲームとゲーム実況の親和性について触れていたのがちょっと意外。でも、ゲームを“プレイしない消費のされ方”をどう扱うかは、今後の焦点の一つでもある。ゲーム実況もそうだし、e-Sportsもその流れで考えると、「ゲームを遊ばないゲームファン」をどう取り込むかは世界的な潮流だとも言える。
  • トライアンドエラーしてるうちに恐怖が薄まってってのはすごくわかりますね。プレイする度に恐怖のタイミングやギミックが変わるようにするしかないのかなあ それでも限界がありそうなのでやはりあまり難しくしすぎないようにするのがいいかもしれませんね。後はデイライトなどのように視聴者がアクションコメントなどで介入できるホラーゲームは生配信向きですよね。そして全く視聴者が介入しないでプレイすることになるであろう人たちとも感想が異なるようにしたら面白そう。
  • 志村〜、うしろうしろー!
  •  ゲームとホラーの相性が悪いと仮定しても、例えば映画『ペットセメタリー』であるとかのョーに戦闘などのゲーム的要素以外の部分にホラーを盛り込む手段もあるのではないか?…とか思った。
  • HRGをその他のゲームと同じ尺度に当てはめて解釈する事が間違えでは
    その他のゲームは書かれた通り
    「失敗→ゲームオーバー→違うやり方→成功→次に進む」
    これは失敗を乗り越えて進んでいるという構図になる
    HRGの場合は乗り越えられない事が前提になければいけないので、失敗の先に次はない
    「失敗→ゲームオーバー→どんなにやり方を変えても同じ結果にしかならない」
    「条件を変えて別の進み方をする→非常に簡単に通れる」

    例えば、その他のゲームでは「強い怪物がいる=その強い怪物を倒す事のできる条件はすでに持っている、失敗するのはやり方が悪いだけだ」

    HRGでは、例えば「ゾンビがいる=そこは通れない、現条件で何をどうしようとそこは通れない揺るがない壁だ」「でも、拳銃を発見して条件が変化すれば今度は力を出さずゾンビを倒す事ができる」
    「拳銃をもってしても通れない、別の道を探すしかないんだ」
    「何らかのフラグを立ててから戻ってきたら、そこを通っても殺されず素通りできる」
    「でももしも間違ったフラグを立てていたら、そこをそのまま通ったらバッドエンドのフラグが立つんだ」
    「ゾンビがいて通れないといったら絶対に通れない、通れない場所を無理に通るからゲームオーバーになる」
    巧みにプレイヤーの心理を操る


    「難しい」と「できない」では全然違う

    必ず進めると分かり切っている前提で無理やり進む事で恐怖を感じるのは難しいのでは
    「進めないのは自分のやり方が悪いだけだ」
    それだったら悪いのはプレイヤー、本来は通れて当り前で本来の関係は、プレイヤー>恐怖を与える存在
    「進めないものだ」だったら恐怖を与えるものが>プレイヤーだからできないのは仕方ないんだ



    HRとゲームはとても合性がいいと思います
    映画では手が届かなかったかゆいところに手を伸ばす事ができる
    映画で馬鹿な行動をとって、自分だったらそんな事やらないのにって思った事ないですか?
    ではその馬鹿な事をやらず自分のやり方をすれば恐ろしい結果は避けられた?本当に?
    ベッドの下も部屋の隅も映画の主人公が見なかった場所を自分の意思で見てみたい
    それらに応えるように作れる



    作っている人たちが無理に普通のゲームのスキンをおぞましいものに変えて当てはめたただけだから、HRGを作れていないだけではなかろうか
  • 「リプレイによって一回性の恐怖が失われてしまうため相性が悪い」っていうのは映画でも小説でも同じなわけで、「ゲームはホラーとの相性が極めて悪い」とは言えないし、それを言うなら「他媒体もゲームと同様にホラーとの相性が悪い」とするべきだと思います。
    初プレイで恐怖を感じるなら、それは他媒体比で平均的なホラー親和性を持つと言えるでしょう。二度目以降の恐怖感の減衰は、ホラー「全体」の構造的な問題です。

    ゲームの構造的に「初プレイでも恐怖感があるようにデザインすることが不可能」なのであれば、それは「ゲームとホラーの相性が(他の媒体に比べて)極めて悪い」と言えますけれども。

    私は「ゲームには他媒体にないホラーとの親和性がある」と思います。その根拠は記事から逆説的に引きますが、「トライ&エラー」と「没入感」です。
    「他媒体は没入感がゲーム比で低い」と仰っているように、ゲームではホラーの対象と自ら対峙し苦闘する度合が強いと感じます。

    バイオでタイラント?とかいうのに追いかけられるときの恐怖、うまく操作できず後じさりするだけで追いつめられてしまう。それは視聴のみの媒体では味わえない恐怖でした。逃げ場のない密室で、監視カメラにあの大きな図体が映ったあのときの恐怖たるや。

    リトライのはてに、恐怖感が薄まることはあります。しかしそうなるまで、私は何度コントローラーを置いたことか。あの巨人の横を通り過ぎるのに慣れるまで、どれくらいの恐怖を「再体験」したことか。恐怖をリプレイする、恐怖にリトライするという恐怖感。今でも、その先の展開が分かっているのに、いえ分かっているからこそ、恐ろしく思えます。

    そのホラー感覚、他人の運命を気にしているのではない、他人が何とかするのを見ているのではない、私が私の運命に戦慄している、私が何とかしなくてはならないという「没入感」「臨場性」「当事者性」は、ゲームならではの「ホラー」だと思います。

    ゆえに私は「ゲームとホラーとの相性は他の媒体にない親和性を示すゆえに好相性である」と結論します。
    だからこそ多くのプレイヤーが「ホラー性」を求めて「ホラーゲーム」というものを「プレイ」するのだと思います。
    それはゲームがプレイヤーに与える、ゲームならではのホラーであり、リトライ性に起因する恐怖感の減衰という「致命的な欠点」と表裏一体の「とてつもなく大きなメリット」ではないでしょうか。
  • めちゃくちゃ面白い記事だった。人をやってるゲームが面白いのはそういうことだったのか。俺もやってみようかなあホラーゲーム。
  • なるほど、繰り返しによる恐怖感の薄れについては、それほど違和感なく遊んできましたけど、納得。
    とはいえ、エイリアンアイソレーションとか絶対的な存在が恐怖なゲームっていうのも、ある意味ホラーかなと。
    打開策…例えばトライ&エラーの筆頭かと思いますけど、自動生成型フィールドでのホラーゲームは、常に恐怖感を味わえる仕掛けになり得るかも。
    今のゲーム機の容量なら…それでも表現的には限界もあるかな?
    むむ、難しい><
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