11月20日に『ゼルダ無双 厄災の黙示録』が発売される。
『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下『BotW』)でも断片的に描かれていた、「100年前の大厄災が起きる直前の時代」を舞台とする本作は、発表と同時に大きな話題を呼んだ。
『BotW』でも非常に重要な出来事として描かれながらもあくまでも映像やナレーションによる描写に留まり、プレイヤーが直接ゲームを通して触れることが出来なかった世界に触れることができるという喜びもさることながら、本作には、大前提として重要な事実がある。
それは、「100年前の大厄災」において主人公サイドは敗北しているということだ。
つまり、『ゼルダ無双 厄災の黙示録』(以下『厄災の黙示録』)というゲームで語られる物語はいわゆる「バッドエンド」がほぼ確定となっているのである。そうでなければ『BotW』の物語は始まらない。
既にネット上では、そのような物語的な側面においても話題を呼んでいることが、本作の注目度の高さの一因となっている。
今回考えてみたいのは、『ゼルダ無双 厄災の黙示録』で採用している、既に公開されている物語が始まる以前の物語を描く「前日譚」という形式の面白さについてである。物語で最も気になる部分である結末や主人公の行く末が予めわかってしまっているという、ある意味で究極のネタバレを前提としている物語形式が、なぜ人を引きつける魅力を持っているのかについて考えてみよう。
文/hamatsu
知っているからこそ沸き上がる強烈な「なぜ?」
そもそも『厄災の黙示録』に限らず「前日譚」という形式で語られる作品は数多く存在する。有名なところを挙げれば、『STAR WARS』の初期三部作であるエピソード4,5,6に続く形で公開されたエピソード1,2,3のいわゆる「プリクエル三部作」は若く将来を嘱望されたジェダイの騎士であったアナキン・スカイウォーカーが銀河にその名を轟かせる暗黒卿ダース・ベイダーになるまでを描く、世界的にも最も有名な「前日譚」だろう。
他にも中だるみを一切せずに非常に高い評価を受け続けて物語を終えた伝説的TVドラマ『ブレイキング・バッド』に登場する人気キャラクター、悪徳弁護士ソウル・グッドマンの過去を描いた『ベター・コール・ソウル』。同作は『ブレイキング・バッド』に勝るとも劣らない高評価を更新し、ついに最終シーズン(Season6)を迎えようとしている。
大ヒットした『Red Dead Redemption』の続編であり、1作目の主人公がかつて所属していたギャング団が崩壊していく過程を、西部開拓時代の終焉と共に描く『Red Dead Redemption 2』。バブル真っ盛りの好景気に沸く日本を舞台に桐生一馬と真島吾朗を主人公とし、若き日の彼らの活躍を描いたシリーズにおいても最もシナリオの評価が高い『龍が如く0 誓いの場所 』。
このように、映画やドラマ、ゲームといったジャンルを問わず、「前日譚」を描いた作品は枚挙にいとまがないほどに存在する。
そして、ここまで挙げた作品に共通するのは、「物語の結末が既にわかっている」という「前日譚」の抱える最大の問題点とも呼べそうな要素を、むしろ逆手にとって最大限利用しているということだ。
どういうことかと言えば、これらの作品は結末を知っているからこそ、強烈に「なぜ?」と言う疑問が沸く仕掛けになっているのである。
なぜ、あれほど可愛らしく才能に溢れたアナキン少年はダース・ベイダーになってしまうのか?
なぜ、心を病んでしまった兄に献身的に尽くす心優しい貧乏弁護士ジミー・マッギルは悪徳弁護士ソウル・グッドマンになってしまうのか?
なぜ、聡明さとカリスマを備えた理想のリーダー、ダッチに率いられた家族のような厚い絆で結ばれたギャング団は崩壊したのか?
なぜ、桐生一馬と真島吾朗は若くして「堂島の龍」「嶋野の狂犬」という異名とそれにまつわる伝説を獲得するに至ったのか?
これらの作品は、観客にとっては、不動であり自明のものである予め定められた結末に対して、とてもそうなるとは思えないような時点から物語をスタートさせる。それによって、観ている観客に強烈な「なぜ?」という感情を抱かせ、揺さぶりをかけてくる。そしてこの「なぜ?」と言う疑問が、物語の最大の牽引力となって観客を引き込んでくるのだ。
そして、とっくの昔に知っていたはずの、往々にして悲劇的な結末を迎え、我々が抱いた「なぜ?」の感情が解消されるとき、諦念にも似た深い感動と共に、その物語は我々の心に刻まれる名作となるのである。
未来が確定しているからこそ起きる特権性
もう一つ、「前日譚」が持っている特性として、特定のキャラクターがほぼ確定で「不死」になるという点がある。
『STAR WARS』で言えば、初期三部作に登場しているパルパティーンやヨーダがプリクエル三部作で「死ぬ」ことは絶対にあり得ない訳である。話の根本が変わってしまうのだから当然のことだが、それはつまり、どれほど彼らがピンチに追い込まれようとも、「死」という形での完全決着がつかないことを意味している。
逆に、圧倒的な強さを誇りながら初期三部作には影も形も存在しないジェダイマスター、メイス・ウィンドゥは、どれほど強くても登場の時点において「死」がほぼ確定してしまっているという悲劇的な側面を強く持ってしまう。
このような未来が確定してしまっているからこそ起きる特権性や悲劇性を最大限活用した作品として、『STAR WARS』エピソード4に至る直前までを描いたスピンオフタイトル、『ローグ・ワン』を挙げたい。
エピソード4に至る直前だからこそ、この作品におけるダース・ベイダーの存在は、敵味方を問わず、まともに太刀打ちできる人物すらいないほどの圧倒的なものとなっている。その少ない出演時間にも関わらず強烈な印象を残し、終盤の立ち回りシーンたるや、「待ってました!」と言ってしまいたくなるような千両役者の如き存在感を見せつける。
そしてもう一つ、『ローグ・ワン』作中時点においては弱点すらも全くわからないデススターの存在は、これまた敵味方を問わず容赦のない絶望を与えるものとなっている。
物語の開始時点において、既に予感される主人公とその仲間たちの悲劇的な行く末。初期三部作ですらなかなか味わうことのできないダース・ベイダーの無双性、そして「ローグ・ワン」という名前がその後の物語に及ぼす意味。
そして何より劇中最後の最後にある人物がいう台詞などを踏まえると、「前日譚」の持つ特性を最大限活用した名作と言えるのではないだろうか。
『厄災の黙示録』に抱く期待と不安
ここまで「前日譚」という物語形式が、「結末が動かしようのない状態で決まっている」という縛りを、むしろ逆手に取る形で魅力に転じているかということを私なりに述べてきた。
それを踏まえて改めて『厄災の黙示録』について考えてみると、このタイトルが非常に「前日譚」の持つ魅力に満ちたゲームになっているのではないかという期待が膨らんでくる。
既に公開されたPVを観てみると、ここまで圧倒的な強さを持った主人公リンクとその強力な仲間達はどうしてあっさりと敗北してしまったのかという「なぜ?」の感情が沸いてくるし、その元凶となった存在はきっと絶望的な存在感を持ってゲーム中に登場してくるに違いない。
『BotW』でも理由は語られ知っているはずなのにそれでもそのような感情を抱かざるを得なくなってしまっていたのだとしたら、すでに我々は「前日譚」の持つ魅力に引き込まれてしまっているのだろう。
一方で若干の不安もある。
『厄災の黙示録』の結末が 『BotW』の物語に必ずしも繋がらないという可能性だ。
実は『ゼルダの伝説』というゲームにはシリーズ毎の繋がりがほぼ無いように見えて実は連続性があり、さらに「勇者リンクが負けた場合」と「勝った場合で」未来が変わっており、並行世界としてそれぞれが存在するということが公式に明らかにされている。
つまりここまで散々「前日譚」の魅力は結末が確定しているからこそ面白いみたいなことを言っておいてアレなのだが、『厄災の黙示録』は必ずしも『BotW』に繋がる形の結末にはならないという、さらなるバッドエンドルートやハッピーエンドルートなど、いくつか未来が分岐する可能性があるのである。
だが、私自身としてはそれでも構わないとも思っている。『厄災の黙示録』がいかに異なる結末を迎えようとも『BotW』の存在は揺るがしようがなく、さらにその続編すらも予定されているからだ。『BotW』を無かったこと扱いになど決して出来るわけがないのだから。
ただ、安易な理由でリンクと英傑たちの行く末が勝ったり負けたりとコロコロ変化して欲しくはない。『BotW』に至る100年前の敗北は、そう簡単には覆しようのない重い出来事だろう。その点だけは不安として残っている【※】。
※10月28日に配信された体験版をプレイする限り、どうやら『BotW』の過去をそのまま深掘りしていくという形にはならない可能性が濃厚のようだ。
私は、既に定められた未来へ進む過去を追体験することを通して、あらゆる形で全力を尽くしてなお避けられない、絶望的な結末とギリギリ残される一縷の希望を観たいし体験したい。そして、もしそれが別のルートに進むのだとしたら相応の説得力のある形でそれを提示して欲しいのである。
「前日譚」とは行く末を知っているのに関与出来ない無力な神の視点に立って楽しむ娯楽なのではないかと私は考えている。
『厄災の黙示録』はどのような形で「前日譚」の面白さを表現し、ゲームとして体験させてくれるのか。発売が楽しみでならない。
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