美大生時代の徳間書店でのアルバイトが初めてのゲーム業界での仕事。MSX・FANで記事を書き、卒業後にセガへ
奥成氏:
中学生の頃に『Beep』に洗脳されてセガ・マークIIIを買ったら、それが大当たり! それからはセガ・マークIIIのゲームをどんどん買っていったんです。
それが、ある頃になると、『Beep』に『セガ・マークV予想!』なんていう記事が出てくるんですよ。いわゆる次世代機、後のメガドライブですね。
──マスターシステムをセガ・マークIVという扱いにしてのセガ・マークVというハードの予想ですかね?
奥成氏:
おそらくそうだったと思います。実際後から知りましたが開発コードネームもM5でした。
──1988年頃ですよね。その頃になると奥成さんは、ファミコンはもうあまりプレイされなくなっていたんですか?
奥成氏:
いや、並行して遊んではいましたし、ちょこちょことソフトも買っていたのですが、主軸はセガ・マークIIIになっていましたね。
──セガ・マークIIIをマスターシステムに買い換えたりもしなかった?
奥成氏:
しなかったですね。FMサウンドユニットを買っていましたし、マスターシステムは必要ないなと。
僕の周りは何人かマスターシステムを買ってましたけどね。僕は「もうすぐ新しいハードが出るんだ……これは繋ぎだ!」って見切っていました(笑)。
──(笑)。
奥成氏:
高校の頃には、メガドライブを買ってさらにハマっていく。メガドライブを買うあたりのお話は、電ファミさんで2016年に放送作家の岐部さんと対談させて頂いたときにも話していますので、そちらをご覧頂くのがいいかなと思います。
実際問題、いまさらメガドラ新作ソフトを作れるのか?セガにぶっちゃけ聞いてみた!【いまさらメガドラソフト開発計画】
──メガドライブを買うあたりの心境はどうだったんでしょう?もう迷いもなく発売日に買うぞっていうテンションだったんですか?
奥成氏:
「セガの新しいハードなんだから買う」っていう感じでしたね。セガ・マークIIIのゲームに大満足していて、そのセガの、さらにすごいハードが出るという話だったわけですから。
確かにその頃、PCエンジンが登場(1987年)していたりして、友達の何人かはPCエンジンを買っていたから『ビックリマンワールド』などを遊ばせてもらったんですよね。
「これはすごいハードが出てきたなー」って思ったんですけど、きっとセガは新ハードを出すだろうから、そうなれば、それはもう絶対にPCエンジンと同等かそれ以上のハードに違いないって思うじゃないですか?
なのでもう、問答無用で買うわけですよ(笑)。
──だいぶ今の奥成さんになってきていますよね(笑)。ちなみにその頃はセガ・マークIII〜メガドライブの流れですが、アーケードには『アウトラン』とか『スペースハリアー』が登場していますよね。そちらをプレイしに行くというようなことはあまりなかったのですか?
奥成氏:
それはさすがに憧れてプレイはしたんですけど、1時間かけて横浜まで行かないと置いているゲームセンターがなかったんですよね。たまに行ってプレイするぐらいでした。
ゾルゲ市蔵さんの著書の『8bit年代記』を読むと、「『スペースハリアー』に感動して帰りの電車賃まで使ってしまった……」みたいなエピソードが載っていたりしますが、僕はそういうタイプではなかったですね。
そんな感じで、アーケード版もプレイはしているんですけど、やりこむのは主にセガ・マークIII版でしたね。
──メガドライブを1988年の10月に購入されてからはもうメガドラ一色の生活に?
奥成氏:
10月にメガドラ本体と『スーパーサンダーブレード』を買って、その時に売り切れて買えなかった『スペースハリアーII』を11月に購入して。でも、12月に買っているのは『おそ松くん』……ではなく、ファミコンの『グラディウスII』だったりするんですよ。ファミコンでも面白いものが出れば買いますっていう感じでしたよね。
──なるほどー。でも、もうこの頃には『Beep』の影響もあってかアーケード移植に目がいくようになっていて、基本的には“セガすごいぜ”っていう人になっていたわけですね。
奥成氏:
そうですね。メガドライブを17歳の高校2年生の時に買って、大学時代もずっとメガドライブのゲームにハマっていって。スーパーファミコンが発売されても買わずに、ずっとメガドラでしたね。
──スーパーファミコンもずっと買わなかったのですか?
奥成氏:
発売の頃は興味がなかったですね。『スーパーマリオ』シリーズももう『2』で止まっていて『3』はやってなくて。『スーパーマリオワールド』も全然やったことがないです。
ただ、気になるゲームはもちろん出るんですよね。『スーパーアレスタ』が出たり、『重装機兵ヴァルケン』が出たりして。
その中でも特に『弟切草』【※】が発売されたときに「これは面白そう!」と思って、まず友達に本体ごと借りて、一晩遊んだらあまりに面白かったから、結局は本体ごと買ったんですよ。
──『弟切草』で本体買い! たしかにあれは衝撃でした。それまでになかったゲームですしね。
奥成氏:
本体を買ってからはスーパーファミコンのゲームもちょこちょこはやってましたけど、セガハードをずっとやっていたからか、RPGにはあまり興味が湧かなかったんですよね。
──当時はRPG作品が大ヒットを連発していた頃ですが、そこに興味を持たなかったのは当時のセガっ子感がありますね。ちなみに大学生になってもPC系のゲームにはいかなかったんですか?
奥成氏:
家にPCが無かったんで、結果的に縁がなかったですね。
PCといえばこの前、NHKラジオ第一で『ラジオで平成ネット史(仮)』が放送されましたけど、そこで『Ingress』や『ポケモンGO』を作られたナイアンティックの川島優志さんが、「自分のプログラムの原体験はSEGA SG-1000IIとセガキーボードのSK-1100の組み合わせだった」とお話しされていて。
「ファミコンが欲しかったのに親が間違えて買って来ちゃったからしかたなく触って、キーボードを買ってもらって、そこからプログラミングを覚えた」ということでした。
だから、セガがなかったら『ポケモンGO』や『Ingress』はなかったと言えます!おそろしいことですよ(笑)。
──(笑)。
川島さんありがとうございます!
— セガ公式アカウント🦔 (@SEGA_OFFICIAL) March 29, 2019
SG-1000Ⅱは発展性あるビデオゲーム機。セガキーボードSK-1100を接続すればパソコンになりました。
セガハードがもたらした少年時代のわくわくから『Ingress』『ポケモンGO』の生まれるまでがつながっていると思うと、こちらこそ胸熱です。https://t.co/1GAfxaGieG
奥成氏:
実は僕はファミコンの『ファミリーベーシック』を買ったんですよ。ファミマガの創刊号に載っていたプログラムを動かしてみたり、ハドソンが出していた「少年メディア」のプログラムをロードしてみたりしたんですけど。
あれは、キャラクターをマリオとかにして動かせるので、画面の見た目は「面白そう」って思えるものにできるんですけど、実際に遊んでみると全然面白くないんですよ(笑)。
『マリオ』とか『ドンキーコング』みたいなゲームがたくさん遊べるんだろうとか思っちゃうんですけど、全然そんなことはなくて、これは僕にはダメだーって断念しちゃいました。
ソフトに飢えていたSG-1000IIとかなら「もう、自分で作るしかない」みたいな気概が出てきたのかもしれないですけど、ファミコンは面白いゲームがいっぱいありましたから、わざわざ自分で作らなくてもいいやってなると思うんですよ。
そういう意味では、『ファミリーベーシック』で育ってIngressくらいのものが作れるようになったプログラマーはいないんじゃないかなって思いますよ。
──たしか……、『スマブラ』の桜井政博さんが『ファミリーベーシック』をきっかけにゲーム開発を志した人ですね(笑)。
奥成氏:
桜井さんかー! しまったー!
まぁ、桜井さんは『ファンタシースター』の続編アイデアを募集するシナリオコンテストで入賞されていたりもしますからね! さすがです!
──(笑)。
奥成氏:
話をPCゲームの話に戻しますと、X68000とかFM TOWNSとかが出てくると、持っている友達の家で遊ぶとかはしてましたけど、自分では高くて買えなかったですね。家庭用ゲーマーでした。
そんなわけで、大学生の頃も、家に友達を呼んで酒を飲みながら徹夜でメガドライブを遊ぶという暮らしでしたね。
──友達とよくプレイしたなーっていうタイトルは何になりますか?もう対戦ものとかも増えてますよね、だいぶ。
奥成氏:
やっぱり『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』ですよね。あれはもう無限に遊んでしまう。一人の時は『コラムス』とかもよくやってましたね。
うちには友達が入り浸ってましたから、多人数で遊べるものがやっぱりよくて。PCエンジンの『モトローダー』とか『ボンバーマン』とかも無限に遊んでましたね。
そこにセガハードでは『パーティークイズ MEGA Q』とか、『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』で。
──『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』だと1994年ですから、もう大学を卒業されていますか……?
奥成氏:
卒業して、その年はもうセガに入社してましたね。でも、社会人になっても学生時代の友人達とスキー旅行に行ったりしたのですが、夜はナイトスキーもナンパもせずに部屋でゲームでしたよ!
──ゲーム合宿じゃないですか(笑)。
奥成氏:
日中はスキーをして、ご飯食べて、部屋でおもむろに僕が持ってきたメガジェットを取り出して。そこからセガタップが伸びていて、コントローラーがたくさん繋がっていて。
それで『幽☆遊☆白書 〜魔強統一戦〜』、疲れたら『パーティークイズ MEGA Q』にして、その2本を延々とプレイしてました(笑)。
──『メガドライブミニ』でも、まさにそれができると(笑)。その時はもうセガに入っていたんですよね。
奥成氏:
そうですね。なので、純粋にユーザーとして遊んでいたのは、その頃のメガドライブの最後あたりまでなんですよ。
セガサターンが1994年に発売されて今年は25周年なわけですが、僕も同じ年にセガに入社していて、入社25年目なんです。
──大学生からセガに入社するまでの間はどんな感じだったのでしょう?ゲーム業界を志したきっかけは?
奥成氏:
僕は美大の2部で夜学だったんですよね。それでアルバイト情報誌を見ていたら『徳間書店インターメディア』の求人があったんですよ。「あ、『メガドライブFAN』を出している出版社だ!」と思って申し込んで、卒業まで徳間書店でアルバイトしてたんです。
──徳間書店! それが初めてのゲーム業界関連の仕事になったんですね。
奥成氏:
ですね。「メガドライブ好きでーす、メガFAN読んでまーす!」って面接で話して。ただ、『メガドライブFAN』みたいな月刊誌とか『ファミマガ』みたいな隔週の雑誌だとフルで働かないといけないから、学生だと難しいだろうということで。
当時は隔月発行だった『MSX・FAN』で働くことになったんですよ。そこで約2年、編集アシスタントとして働きました。自分でページレイアウトを切ったり、文章書いたり。
──ページのラフを切ってデザイナーさんに回して、自分で文字数を埋めていく。いわゆる雑誌ライターですね。
奥成氏:
そうですそうです。その頃は、『MSX・FAN』の編集部の隣がパソコンゲーム雑誌の『テクノポリス』で、その反対側は『スーパーファミコンマガジン』っていうゲームミュージックの音楽CD付き雑誌でしたね。
──『スーパーファミコンマガジン』!買ってましたー、CDを繰り返し聴いてましたね。
奥成氏:
隣の建物では『PCエンジンFAN』に『メガドライブFAN』、『ファミマガ』の編集部があって。そのへんもウロウロしていましたね。
たった2年ではありましたけど、ある意味初めてのゲーム業界だったので結構濃い経験をさせてもらった時期だったなと思います。その頃に知り合った人たちとは今でも交流があるんですよ。
──なるほどー。ちなみに担当された記事で何か覚えているものとかありますか?
奥成氏:
最初に任されたのが『スーパーバトルスキンパニック』のMSX移植の紹介記事でしたね。その時に記事の書き方を教えてもらって。
3DOが発売されるときには3DOマガジンが創刊されて、創刊準備号では僕も記事を書いてたりしたんですよ。
──3DOマガジンの創刊準備号……! その後は大学卒業、新卒でセガへというわけですね。
奥成氏:
そうですね。美大だったので普通の会社の募集ってあまりなかったんですよね。でも、この年、うちの大学の卒業生を一番多く取っていたのがセガだったんですよ。これはもうセガを受けるしかないだろうと思って。94年に企画(プランナー)で入社しました。22歳でした。
セガサターンタイトルの広報をすることでセガ内の開発者と繋がりが生まれる。分社化・再統合の流れのなかでだんだんとプロデューサーに転身
──奥成さんが1994年にセガに入社されて、ここからお仕事編に入ります。最初はどんなお仕事をされたのでしょう?
奥成氏:
プランナーとして入社したのですが、その頃のセガの開発は、AM(アミューズメント、アーケードゲーム)とCS(コンシューマー、家庭用ハード)があって、僕はCSに配属されたんですね。
CSの開発チームは1研から5研にわかれていて、1研と2研がセガサターン、3研と4研がメガドライブ、5研はゲームギアでした。スーパー32Xも3研4研に入っていましたね。
それで僕は、1研に配属されたんです。ちょうどセガサターンが1994年の11月に発売される半年ぐらい前でしたから、同年の12月に発売された『クロックワークナイト ペパルーチョの大冒険』をはじめ、翌年1月に発売された『ビクトリーゴール』や3月の『パンツァードラグーン』を一生懸命作っているところでした。
新人ですから研修受けながら基礎的なお手伝いをしていましたね。『クロックワークナイト ペパルーチョの大冒険』のムービーのエンコードをやったり……と言っても、ただPCを軽く操作して後はただエンコードが完了するのを待つだけだったんですけど。
奥成氏:
そんな頃に、最初に僕が参加するプロジェクトが出てくるんです。それが、『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を手がけた大島直人さんが企画していた、新しい格闘アクションゲームだったんですよ。
ただ、大島さんと一緒に作っていた先輩プランナーさんが別のプロジェクトに異動させられちゃうんです。そこに「じゃあ、代わりに新人を3人ぐらい入れるから」というやり取りがあったみたいで。なんだかひどい話だなって思いますけど(笑)。
その新人3人というのが、新人プランナーの僕と、同期の新人プログラマー2人だったんです。その3人のまとめ役として、AMから移ってきた鶴見六百さん【※】がお目付け役として入って。
※鶴見六百
1989年にセガに入社。『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』やスター・ウォーズ アーケード』などのアーケードゲーム開発に参加。その後、ソニー・コンピュータエンタテインメントに移り、『クラッシュ・バンディクー』や『ラチェット&クランク』などの日本語版を監修する。
奥成氏:
それで、「2カ月後には本部長プレゼンがあるからゲームを形にしろ!」って言うんですよ(笑)。新人の僕が仕様をまとめて、新人のプログラマーがセガサターンの開発機で、ポリゴンのプログラムを組んで(笑)。
──……いろいろ厳しい!
奥成氏:
でまぁ、見事にそのプレゼンは落ちました(笑)。
この話は裏があって、実は『ソニック&ナックルズ』(1994年10月)をアメリカで作っている頃だったんですが、その開発を終えた中(裕司)さんがセガサターン用タイトルの開発のため日本に帰国するという話になっていたそうで。
上層部的には「中さんと大島さんを再び組ませたい」と考えていたみたいなんです。
そのプロジェクトが後の『NiGHTS into dreams…』になるのですが、そのためには大島さんが抱えている仕事を終わらせなければいけないと会社が考えて、大島さんがその時に取り組んでいた格闘アクションゲームを終わらせるために、新人の僕らがあてがわれたんです。
──うーん、なるほど。プランナーとしての初仕事は、なかなか複雑な事情に巻き込まれたものだったんですね。
奥成氏:
ともかく、それが終わると僕は体が空いちゃってたんですよね。そうしたら部長に呼ばれて、「奥成はゲーム雑誌の仕事してたんだって?」と聞かれて、「ちょっと来てくれ」と入った部屋には竹崎(忠)さんがいたんです。
──当時、セガ広報部門の顔と言われた竹崎忠さんですね。
奥成氏:
竹崎さんからは「セガサターンが1カ月後に発売されます。アスキーさんやソフトバンクさんなど、いろんな会社がセガサターンの雑誌をやると言ってくれているのに、AM2研が用意してくれた『バーチャファイター』以外の載せる情報がCSから全く出てこない。このままでは雑誌が作れません。誰か開発の窓口になって素材を集めてきてください!」というお話をされて、そこに僕があてがわれたんです(笑)。
──入社前はゲーム雑誌の編集部にいた適任者だったと。
奥成氏:
そうなんですよね。僕が連れてこられて竹崎さんは大喜びでした。僕の方は「ゲームの開発をするためにセガに入ったんですから、一段落したら開発に戻らせてくださいね!」なんて部長に約束させました。
でも結局は……、セガサターンが終わるまでその仕事を続けるハメになったんです(笑)。
──(笑)。
奥成氏:
なのでプランナーとしてセガに入社したのに、やっていたのは半年だけ。それからは毎日のように、各タイトルのチームリーダーのところに通って、新人の僕が「早く雑誌用の素材ください!」って言うわけです(笑)。
すると「そもそも、どういう素材を出せばいいのか分からない」という話をされて。「じゃあ、それを一緒に考えましょう」ということで、僕がプロデューサーやディレクターと話して決めていくようになりました。
そんなこんなをやっているうちに、セガサターンの開発チーム全部と繋がりができていったんですよ。
そのうちに僕の他にも同じ仕事を担当する4人ぐらいの同僚や上司ができていったのですが、私以外のメンバーは『サクラ大戦』や『プロサッカークラブをつくろう!』などの大作タイトルを担当して、僕は残りの2/3ぐらいの細々したものを担当してましたね。
──パブリシティ、いわゆる広報活動の全般をやっていたんですね。
奥成氏:
そうです。
──僕もまさに『セガサターンマガジン』などの当時の雑誌を食い入るように読んでいましたが、そのあたりの記事は奥成さんが仕掛けていたんですねー!
奥成氏:
大作以外ですけど(笑)。ゲームの紹介文とか、チラシに書くキャッチコピーなんかも書いてたりしてました。
──そんなことまで。
奥成氏:
まぁ、昔はそんなもんですよ(笑)。そんな調子でパブリシティをやっていたら、そのうちセガサターンの専門誌が最大で7誌ぐらいになって、しかも隔週化だ、次は週刊化だと盛り上がっていて。
僕の仕事もものすごく大変になっていくんですよ。とてももうプランナーに戻れるような状況ではない(笑)。
──広報さんってただでさえ忙しいのに、それだともう寝る時間もないですよね……。
奥成氏:
その一方で開発との窓口みたいになって次第に社内のコネクションができていって、そのうちUFOキャッチャーのプライズ担当の人と仲良くなって、『パンツァードラグーンツヴァイ』のTシャツを作ったり、『NiGHTS into dreams…』のぬいぐるみを作ってもらったりもしましたね。
──なるほどー。その頃のやり取りがあって、奥成さんは、セガ社内のいろんな人と繋がりを持っている人になっていったんですね。
奥成氏:
それが結果的に、いろんなタイトルを復刻するときに当時の開発者を探したり、資料を探したりする際のツテを頼れるという今に繋がっていますね。
──それがセガサターンの頃のパブリシティ時代ですね。次に仕事のスタンスが変わってくるのはいつ頃だったのですか?
奥成氏:
ドリームキャストの頃ですね。
ドリームキャストが1998年に発売されてから、2000年頃には各開発部が分社化されるという動きがありましたが、その分社化の動きの前に、セガの社内ではドリームキャストの立ち上げのために組織改変が行われたんですよ。
そこで僕はパブリシティではなく、いろいろあって『エターナルアルカディア』を開発していたCS7研(第7ソフトウェア研究開発部)で 小玉(小玉理恵子氏)プロデューサーのアシスタントをやることになったんです。
──『エターナルアルカディア』が奥成さんのプロデューサーとしての初仕事だったんですね!しかも小玉さんと一緒に。
奥成氏:
そうなんです。とは言ってもアシスタントですから、小玉の指示で雑用をやるみたいな仕事でした。そんな『エターナルアルカディア』の完成と並行して、開発の分社化【※】という動きが起きるんですよね。
※開発の分社化
2000年にセガの開発部が独立して分社化された。ヒットメーカー、セガワウ、SEGA-AM2、アミューズメントヴィジョン、スマイルビット、ソニックチーム、デジタルレックスなどがあったが、2004年に再びセガに統合されている。
奥成氏:
僕はオーバーワークスから始まって、その後セガワウになって、そこで2004年にプレイステーション2用で発売された『サクラ大戦V EPISODE 0 〜荒野のサムライ娘〜』というアクションゲームのプロデューサーをやったんです。
──『サクラ大戦』シリーズのひとつが初プロデューサー作品だったというのは意外です。
奥成氏:
当時のセガワウは恵比寿にあったのですが、僕はセガ本社に行く用事があると自分の知ってるいろいろな部署に顔を出して回って、「三河屋でーす、何かご用はありますか?」みたいに社内の情報をヒアリングしていたんですよ。
そんなときに、“セガとD3パブリッシャーさんとの合併会社『3D AGES』で、SEGA AGES 2500というシリーズをスタートする”という話を、準備中の下村(下村一誠氏)から聞きつけまして、これは何か新しい仕事になるんじゃないかなーっと思ったんです。
──ついに奥成さんとセガのクラシックタイトル復刻もののプロジェクトが出会いましたね。
奥成氏:
そこで、「セガワウで『ドラゴンフォース』とか『ベア・ナックル』を作らせてー!」って企画書を下村に出したんですよ。
──おおー!
奥成氏:
結局『ドラゴンフォース』だけ外注開発という形で採用されて、仕掛中のサクラと並行して開発をスタートさせたんです。
ですが、この『ドラゴンフォース』の開発が大変で、サクラの方が終わった後もなかなか終わらなくて。その間に分社が、セガに統合されることになるんですよ。
そこで上司から、「統合後に組織が再編されるから、プロデューサー職の人は今の仕事続けられる保証はないので、自分で仕事を探しておいてください!」と言われたんです(笑)。
そこで再び下村のところへ行って、「分社が無くなるのでこっちに移って最後までプロジェクトの面倒見させて下さい」とお願いに行きました。
そうしていたら今度は、SEGA AGES 2500の発売元である『3D AGES』が、発展的解消をするということになって。SEGA AGES 2500自体も今後どうなるのか……という状況になってしまったんです。
一方で、営業から「SEGA AGES 2500シリーズは結構売り上げがいいから続けて欲しい」っていう話が出ておて、「じゃあこれからはセガ単独で続けよう、プロデューサーはここに経験者がいるから」っていうことになり、僕が新たなSEGA AGES 2500のプロデューサーになったんです(笑)。
──なるほどー 分社化の激動でかなり紆余曲折ありましたね。でもこれで、SEGA AGES 2500から、セガエイジスオンライン、セガ3D復刻プロジェクトにメガドライブミニなど、今に至る奥成さんの仕事の入り口にたどり着きましたね。
奥成氏:
そうですね。そのときは「企画制作部」というものができて僕はそこの所属になったのですが、その時に各分社にいた中でも特に団体行動が苦手な人たちが、この企画制作部に集まりまして(笑)。
──アウトローチームみたいな(笑)。
奥成氏:
『セガガガ』を手がけた岡野哲(ゾルゲール哲)、『バーチャロン』シリーズの亙重郎とか、ひとクセあるメンバーが集まるんですが、この時の部長が今回の『メガドライブミニ』の仕掛け人である宮崎(宮崎浩幸氏)だったんですよ。
──なんと!
奥成氏:
ここまでが、セガサターンの広報時代からドリームキャスト時代に分社化して、今に繋がっていったあたりの流れですね。
PS2『SEGA AGES 2500』を引き継ぐ形でプロデューサーに。開発会社エムツーとの出会いも
──奥成さんがPS2のSEGA AGES 2500のプロデューサーになったのは2005年ですよね。SEGA AGES 2500シリーズの仕切り直しという展開だったわけですが、その頃は今ほどクラシックタイトルへの注目というものは高くなかったと思います。
逆に言えば、その頃からの奥成さんをはじめとした様々な人たちの移植・復刻のがんばりによって、クラシックタイトルへの注目度が高まっていったなとも思うんです。その当時は、どのようなアプローチで行くべきだと考えていたんですか?
奥成氏:
SEGA AGES 2500のコンセプトは“セガの過去の作品を現代の技術で再生し、広く知らしめる”でしたけど、それまでに発売されていたタイトルは、いわゆる“リメイク路線”でポリゴン化をしていて、ユーザーさんの反応も賛否両論でした。
それで、僕が引き継いだときには、“お客様の満足度を上げる”ことになりました。僕が引き継ぐ直前に『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.16 バーチャファイター2』が発売されていたのですが、これだけはリメイク路線ではなく忠実移植をしていて、ユーザーさんの反応もよかったし売り上げも良かった。
それで、これ以降のラインナップも“忠実移植”の方向で行きましょうとなったんです。
──復刻するなら、現代風にリメイクするべきか、オリジナル完全移植か、という選択は今でもありますが、やはり忠実移植が一番求められるということに。
奥成氏:
当時は試行錯誤していたというか、できる限りを全部チャレンジしていたんですよね。いろいろやるのは良いと思いますが、やはり、まずはオリジナルの忠実移植があってこそだと言われていましたね。
──そこは今のクラシックタイトル系の展開でも重要視されていますよね。そしてここでSEGA AGES 2500シリーズには、ついに開発会社のエムツーさんが登場してきますよね。【※】
※『SEGA AGES 2500シリーズ』では、エムツーが『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.20 スペースハリアーⅡ スペースハリアーコンプリートコレクション』以降のタイトルを多数手がけている。
奥成氏:
SEGA AGES 2500の展開を一度リセットしていたので、ほぼ一から開発会社を探していたのですが、エムツーさんはその候補の中にいたんですよ。
先日『M2: Complete Works』というドキュメンタリー映像がYoutubeに公開されていて、そこでも語っていましたが、その頃のエムツーさんは、ちょうどPS2向けの『セガラリー2006』のおまけソフトとして、アーケード版『セガラリー』を別ディスクで同梱するということになり、その移植版の方の仕事をやっていて、それが完成するかしないかという頃だったんです。
奥成氏:
そこでエムツーさんに話をきいたら、「うちはこういうのもできます!」と、SYSTEM16基板の『獣王記』と『忍 -SHINOBI-』をPS2で動かしたものを見せて頂いて。
「これを『SEGA AGES 2500』で売れないだろうか?」という話になったのですが、その2本では売れないだろうと思って、別のゲームにしようということになりました。
それで、SEGA AGES 2500リスタートの記念に、過去に出して不評だった『スぺハリ』のやり直しをするのが良いだろうということで、シリーズ作をたっぷり収録した『スペースハリアーII 〜スペースハリアーコンプリートコレクション〜』と、アーケード作品を2つ収録した『SDI&カルテット 〜SEGA SYSTEM 16 COLLECTION〜』をリリースしたんです。
──2,500円でパッケージ販売していたものですし、今ではできないぐらいに豪華な収録内容にしていますよね。
奥成氏:
お客さんにもう一度振り向いてもらうにはそれぐらいにしないとって思ったんですよね。他にもエムツーさんには開発を『ガンスターヒーローズ』、『ギャラクシーフォースⅡ』、『テトリスコレクション』、『ラストブロンクス』と4タイトルを任せて、1年ぐらい続けて上手くいったらさらに続きをやりましょうと話していたんです。
ですが……、エムツーさんの仕事が終わらなくて!
「毎月2本出せますよ!」って言ってて、「じゃあ、余裕を持って3カ月ペースで」ってお願いしていたものが、1年経っても完成しなかったり。そういうのが始まるわけですよ!
──(笑)。
奥成氏:
まぁ、エムツーさんの話はまた別の機会に(笑)。そうして動き始めた僕がプロデューサーになってからのSEGA AGES 2500だったのですが、“お客様の反応はすこぶる好評だけど売れない”という結果が出てくるんです。
──うーん、辛いお話。
奥成氏:
例えば、『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.23 セガメモリアルセレクション』という、『ヘッドオン』とか『トランキライザーガン』などの80年代前半までのゲームを、オリジナルとリメイクを両方収録というものをやってみたんですけど、これは全然売れなくて。
『スペースハリアーII』はそこそこ売れましたが、『SDI&カルテット』は全然売れない。一方で『ダイナマイト刑事』は結構売れてくれた。
そういう感じにいろいろと結果が出てくるんですよね。
──そのあたりのお話って2005年とか2006年ぐらいですけど、その頃でも既に80年代タイトルより、セガサターンぐらいの90年代タイトルの方が売れる傾向があったんですね。
奥成氏:
ですね。セガサターンのリメイクぐらいが一番反応も売り上げも良くて、80年代前半のタイトルとかになっちゃうと厳しい。
なんとかリスタート後の2期も続けられましたが、結果は同じでした。エムツーさんはその頃、いつまで経っても完成しない『ギャラクシーフォースII』を作り続けていました。【※】
※『ギャラクシーフォースII』はエムツーが3ヵ月ぐらいで開発する予定だったが、開発が延びに延び、最終的に約2年後に発売されることになった。
──伝説のエピソードですね(笑)。
奥成氏:
でもエムツーさんは最初から長期的なスパンで開発を見据えていまして、「SYSTEM16と、MODEL2と、メガドライブと、セガ・マークIIIと、ゲームギアは、エミュレーションエンジンを作ったので移植できます」と最初から話していたんですね。
「じゃあ、ちょっとがんばればEボード(マークIIIと互換性の高いアーケードシステム基板)もできますよね?」といったお話を増やしていきまして、そこから、「次はこのシステム基板のエミュレーションを……」というように、“エムツーさんが移植できるセガのシステム基板を増やしていこうプロジェクト”が始まるんですよね。
それは今も続いています。10年以上かかって、ようやくMODEL 1まで来ました。
──先ほどエムツーさんは候補のひとつだったということで、開発会社は他にもいろいろあったと思いますが、奧成さんとエムツーさんのやり取りは今も続いています。エムツーさんとはウマが合うというか、やりやすかったのでしょうか?
奥成氏:
堀井さんとは最初に会ったときからやりたい方向性が同じで、意気投合しましたね。
あと内部的な事情としては、SEGA AGES 2500ってなにしろ定価そのものが2,500円と安かったですから、開発費も安いんですよ。
なので、収録タイトルのうちの1本だけを開発してもらうとかだと開発費が足りないんです。
そこで、何本かまとめて引き受けてもらって、共通のエンジンで作っていくというやり方をすることでカバーしました。それで、自然とエムツーさん開発のタイトルが増えていったんですよね。
──開発が重いタイトルや軽いタイトルもいろいろ混じってくるけど、それらひとまとめで引き受けてもらって、そのぶんまとまった開発費を出すというような。
奥成氏:
そうですね。あと堀井さんには「開発費は十分に出せないんだけど、その代わりにエムツーの宣伝をしますから、知名度が上がって仕事が増えてきたら、他から大きな仕事をもらってください!」という話もしたんですよね(笑)。
──そこは、実現されましたし、今に繋がっている感じがありますねー。
奥成氏:
そこは元々のポテンシャルがあってこそなので「エムツーはワシが育てた!」などというつもりもありませんが、その後パブリッシャーデビューもされて、エムツーさんは大物になりましたね。
──そういえば、SEGA AGES 2500の頃って堀井さんは雑誌やゲームメディアなどの表に出てこなかったですよね?
奥成氏:
もともとインタビューも宣伝費が無いので始めたのですが、当時は僕だけが出ていましたね。堀井さんは顔を出したくないって嫌がっていたんですよ。
だけど、SEGA AGES 2500の最後のタイトルになった『SEGA AGES 2500シリーズ Vol.33 ファンタジーゾーン コンプリートコレクション』を発売するときに、池袋GIGOでイベントをやることになりまして。
『サンダーフォースVI』と『雷電IV』と『ファンタジーゾーン』とで『3大シューティング祭り』というイベントが開催されたんですけど、そこのステージにサウンドを担当していた並木学さんに出演してもらうことになったら、並木さんが「俺が出るのになんで堀井さん出ないの? 出ろっ!」って言って(笑)。
──それが最初だったんですか(笑)。
奥成氏:
並木さんの言葉もあって無理矢理ステージに出てもらって、それからは「一度出ちゃったんだし、これからはインタビューとかにも出ましょうねー」と話して。それからは機会があれば堀井さんにも表に出てもらうようになったんですよね。
Wii&3DS『バーチャルコンソール』、3DS『セガ3D復刻プロジェクト』、オンラインゲームの立ち上げ、アジア事業部を経て、巡り巡って『メガドライブミニ』へ
奥成氏:
SEGA AGES 2500は長く続きましたが、私のやっていた2期が採算分岐ギリギリというところで、PS3への移行期になっていたこともあり、3期はもうできないなという雰囲気になっていたんです。
そのタイミングにWiiが発表されたんですよ。そして、Wiiでは『バーチャルコンソール』というクラシックタイトルの配信を大々的にやるということで、任天堂さんからお誘いを受けたんです。
それまでセガではクラシックタイトルを扱うプロジェクトとして、SEGA AGES 2500以外にも、『ソニックメガコレクション』シリーズなどをいくつか別々の部署でやっていたんですが、「バーチャルコンソールをやるなら、今SEGA AGES 2500で絶賛稼働中のエムツーさんしかない!」って社内で売り込んで。見事採用となりました。
ここまでのノウハウを駆使して、Wiiのローンチからメガドライブのゲームを毎月バンバン出していこうとなったわけです。
おかげでWiiは大ヒットして、セガのバーチャルコンソールタイトルも好評を頂いて、ここでようやく会社で「『メガドライブ』は今でも商売できるんだ!」と理解してもらえることになりました。
翌年にマスターシステム、さらにアーケードも追加して、5年間で100タイトル以上を配信しましたね。
──よくよく考えると、バーチャルコンソールにセガハードの枠があって、そこの配信タイトルを奥成さんとエムツーさんとで全部やってるんですもんね。ものすごい量。
奥成氏:
国内だけでなくアメリカやヨーロッパ向けにも配信していましたから、合わせると300タイトルぐらいになるんですよ。それをずーっと、SEGA AGES 2500の2期のタイトル開発とクロスする感じにスタートしていって。
それによって、エムツーさんのメガドライブタイトルの移植技術にさらに磨きがかけられていくわけです。なにしろひたすら移植してますから。
──なるほどー。そんなことをしている開発会社さんは他にいないですもんね。
奥成氏:
そうなんです。また同時に、“どのタイトルがお客様に求められているか”といった知見も貯まっていったんですよ。人気ゲームが何か、当時とどう変化したかというのが分かってきました。
──そのあたりは、今のメガドライブミニの収録タイトル選びにも活きている感じがしますね。
奥成氏:
その通りです。そんなわけでバーチャルコンソールは非常に好評頂いたわけです。
その次は、PS3/Xbox 360で展開した『セガエイジスオンライン』ですね。バーチャルコンソールは当時のものをそのまま配信するというレギュレーションでしたので、何十本も開発しているともうちょっと手のこんだものもやりたいよねというところもあったんです。
その頃、『セガビンテージコレクション』というクラシックタイトルの配信がアメリカ主導で先に行われていたのですが、それを日本と統一してエムツーに任せようという話を、今のセガゲームス会長である里見治紀が取り付けてきてくれまして。
それでやることになったのが、『セガエイジスオンライン』ですね。
──里見会長が推してくれたんですね。
奥成氏:
里見は当時アメリカにいたのですが、エムツーさんの実力を早くから気付いてくれて、千葉にある会社へも挨拶に行きました。
エムツーさん以外ですと、ドリームキャストタイトルのPS3/Xbox 360への復刻もこの時期にやりました。こちらの開発はSEGA AGES 2500の『ダイナマイト刑事』や、PS2『NiGHTS into dreams…』を手がけたセガ上海が担当しています。
──PS3/Xbox 360にはセガサターンやドリームキャスト、MODEL2タイトルを移植した『MODEL2 COLLECTION』もありましたし、今思えばかなり充実していましたよね。
奥成氏:
そして、この後でいよいよニンテンドー3DSが出てくるんです。そこでもやはりバーチャルコンソールでゲームギアのソフトを出すということだったのですが、ゲームギアだけをやっていてもきっとたかが知れているだろうから、それはそれでやりつつ、3DSはせっかく3D立体視があるのだし『スペースハリアー』の3D立体視版をやってみたいって里見に話したんです。
3DS用バーチャルコンソールのプロジェクトにくっつけてさりげなく、後に『セガ3D復刻プロジェクト』の第1期になるタイトルの企画を忍び込ませて、通したんです(笑)。
──さりげなく(笑)。
奥成氏:
それで堀井さんに、「うまく会社に取り付けてきたから、3D立体視の『スペースハリアー』を作ろうー!」と話したら、「3D立体視の研究に1年欲しい!」っていうので。
じゃあ1年はゲームギアのバーチャルコンソールでがんばって、その間に完成させようということになったんです。
案の定、ゲームギアのバーチャルコンソールだけではさすがに売り上げは乏しかったのですが、そこでようやくセガ3D復刻プロジェクトの第1弾である『3D スペースハリアー』が完成するんですよ。
──開発や研究のための1年の間にバーチャルコンソールをやれていたのは、その後のセガ3D復刻プロジェクトにとって、かなり重要だったわけですね。
奥成氏:
なのに、エムツーさんを追ったドキュメンタリー映像『M2: Complete Works』だと、そのゲームギアのバーチャルコンソールだけが省かれていたのでちょっと不満だったんですけど(笑)。
──あれがあったからできたんですよ的な(笑)。
奥成氏:
『セガ3D復刻プロジェクト』の第1期は、Wiiのバーチャルコンソールで好調だったタイトルと、さらに3D立体視にしたら見栄えが良さそうなものを出すという、それまでの知見で得たタイトルを選びました。
第1期は3D立体視化することだけでいっぱいいっぱいで、それまでに移植していない新規のタイトルの解析には手が回せなかったんです。なので、なんとか最初のタイトルを成功させて、新規タイトルは次回以降にやろうと堀井さんと誓って。
おかげで第1期はなんとか利益が出たので、新規に待望の『3D アウトラン』とか『3D アフターバーナーⅡ』を作ることもできました。
──そのあたりはもう2014年頃ですし、今のユーザーさんの記憶にも新しいところですね。
奥成氏:
実情としては『セガ3D復刻プロジェクト』は第2期が利益的に難しくなり、ちょうど私も他の部署に異動になることになって、シリーズを終えることになりました。
最後に、ファンサービスをしようと『セガ3D復刻アーカイブス』というパッケージを作ったところで私の仕事も終わりました。エムツーさんと打ち上げもやって(笑)。
ところが配信が少し遅れていた欧米の実績が出るとなかなか好調で、メガドライブタイトルを3本追加で作ってほしいというリクエストがあったんですね。
ではそこだけは続けようと、僕の後任に下村をプロデューサーとしてアサインしてもらい、3本をボーナスステージ的に開発することができました。
それを出し終える頃になると、今度は『セガ3D復刻アーカイブス』の実績が悪くないので、来年も出さないかというオファーが国内営業からありまして、僕が離れた後も『セガ3D復刻アーカイブス2』や『セガ3D復刻アーカイブス3』、今のNintendo Switchでの『SEGA AGES』へと続くことになるのです。
──その後、再度の異動を経て、冒頭にお聞きしたようにアジア事業部にいる頃に、『メガドライブミニ』のプロジェクトが始まって、今に至るわけですね。
奥成氏:
振り返ると、セガ好き・メガドライブ好きのお客さんたちがずっと支援してくれたおかげで、こうしてセガがメガドライブを蘇らせることができたと言えるかもしれませんね。
奥成氏は、紆余曲折を経てセガに詳しくなった、あの頃のセガが大好きな“セガのおまわりさん”
──奥成さんはTwitterアカウントのプロフィールに“ゲーム考古学を専攻しています”と書かれていますけど、ゲーム考古学っていう言葉はどこから考えたものだったのですか?
奥成氏:
はっきりとは覚えていないですが、Twitterアカウントを作ったときに、プロフィールに何を書いたらいいか悩んで、思いついただけです。
──奥成さんはいつ頃から、そのようにプロフィールに書くぐらいに80年代〜90年代のものを集めたり、注目するようになったのでしょう?
奥成氏:
うーん、そもそも集めてはいないんですよ。“当時に買ったものを捨てていない”っていうだけで、仕事で必要なものを買ったりとかはあるんですけど、収集したりというのは全然ないんですよ。
──確かに、奥成さんは自分の思い出の品は取ってあるものの、いわゆるコレクター的な趣向はあまりないですよね。
奥成氏:
僕以上にコレクターな人が僕の周りにたくさんいますから。何かあったときにはそういう方に貸してもらえばいいやみたいに思っていますね。
──そのあたりは学生の頃に友達としていたことと共通していますね。
奥成氏:
僕自身は、ただ親の影響で当時の物をよく取っておいただけなんですよ。
──いやー、30年前のレシートを保管しているのは普通ではないと思うんですけどね(笑)。そうしたところから、今ではクラシックタイトルのことなら奥成さんに任せようというところもあるわけで。
奥成氏:
そこは、最初にセガに入ったときからいろんなところに広くウロウロしてた結果、社内のコネクションができて結果的に“セガに詳しくなった”のも、大きいと思うんですよね。
社内では“交番のおまわりさん”みたいになっているんですよ。
──おまわりさん?
奥成氏:
「あのゲームを作った人は誰ですか?」って聞かれたら、その方は今はあの部署にいますって教えたりするんです。退社された開発者の連絡先とかも(笑)。
──おまわりさんですね(笑)。セガ愛というか、セガが好きだなという気持ちはどうなのでしょう?
奥成氏:
愛社精神という意味で言えばもちろんですけど、個人的なところで言うと、セガ・マークIIIとメガドライブでセガが好きになって、セガに入社しているので。やはり好きの原点はそこなんですよね。
──自分が一番夢中だった頃ですね。
奥成氏:
そうですね。セガサターンやドリームキャスト以降は、もう仕事として関わっていますから。ちょっと見え方は違いますよね、やはり。会社が変わったとかじゃなくて、僕の立場が変わった。
──なるほど。最後にもうひとつだけお聞きしたいのですが、『メガドライブミニ』の反響の中には“バカな頃のセガをひとりで背負って立つ男がいる”という声がありました。これについてはどう思われますか?
奥成氏:
それを僕のことだと思われるなら、明確に否定します。監督である宮崎のもと、百戦錬磨のメガドライブ好きが集まってこだわりを存分に発揮したのが『メガドライブミニ』ですので、そのツイートの“一人で背負って立っている”とするなら宮崎のことですね(笑)。
会社の中で、発言権のある人がバカをやるとこういうものが生まれます……というものが『メガドライブミニ』かなと思いますよ。
──なるほどー。そこに、いつもここぞというところで後押ししてくれている会長の里見治紀氏も。
奥成氏:
もちろん、そうですね。いずれにしろ一人じゃできません。
──そういう人達がいてくれて、奥成さんもやりたいことができる。セガは今もセガらしいことができる会社である、と。
奥成氏:
そういうことですね!(了)
奥成洋輔氏は、幼少期にゲームと出会い、友達とともにセガ・マークIIIやメガドライブに明け暮れ、ひたすらに楽しんだ末にセガへ入社。セガサターン時代を支え、激動の時代を経て、セガのクラシックタイトルを扱うプロジェクトへたどり着く。
そこには常に、少年時代から変わらず根底にある“ゲームへの想い”があり、今の奥成氏を、そしてセガのクラシックタイトル復刻のプロジェクトを支えている。
また、その姿勢が開発会社エムツーと共鳴してこだわりを生み出していることを感じられるインタビューとなった。
奥成氏が収録ラインナップを手がけている『メガドライブミニ』のコンセプトは、“メガドライブの時代そのものを再現する”というものだが、アーカイブ的な意味合いだけでなく、奥成氏を含め、当時にメガドライブを楽しんでいた人の“あの時の記憶”を蘇らせるということなのだろう。
ゲームに一番夢中だった頃の気持ちを蘇えらせるような“お祭り”だった。
受け継がれたもの、共に楽しみ、がんばってきた仲間たちによって、それは実現されている。
奥成氏をはじめとした、“バカな頃のセガをひとりで背負って立つ男たち”によって……もしかしたら“あの頃のセガ”が、また蘇ってくるのかもしれない。
それをいつでも、心待ちにしていたい。
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