現代の日本では「異世界転生」というジャンルが覇権を握り、アニメもライトノベルもその手法を用いた作品に溢れているが、その波はゲーム業界にも押し寄せつつある。
2021年7月3日よりアニメ放送される『ぼくたちのリメイク』は“ゲーム業界版異世界転生”とも呼べる作品だ。
破綻しているゲーム会社のディレクターが転生し、入学したかった大学で人生をやり直す。そこで出会った、天才クリエイターの卵たちとしのぎを削りながら、憧れのゲームクリエイターを目指すというストーリーだ。
一見すると普通の異世界転生ものに見えるが、本作が異色を放つのは主人公が「ディレクター」であるという点だ。
ディレクターという役職は、大雑把に言えば「旗振り役」である。誰に何をやらせるかを決め、締め切りを設定したり、クリエイターのモチベーション維持したり、作品全体のクオリティーを管理する仕事だ。
全部ひとりで行う個人制作はともかく、集団で何かを作る場合は、「旗振り役」となるディレクターの存在が不可欠となる。しかしこうしたまとめ役には、往々にしてクリエイティビティとは異なる適正が必要となる。
『ぼくたちのリメイク』の主人公・恭也は自分では何も書けないし、作れない。しかし、人をまとめる才能と知識があった。本作は、ディレクターと呼ばれるポジションの人間が、制作現場のなかでどのように立ち回り、作品を完成にまで持っていくかを描く作品なのだ。
今回は本作のアニメ化を記念し、原作者である木緒なち氏にお話を聞いた。木緒氏は本作の舞台となる大阪芸術大学出身であり、ゲームシナリオライター、小説家、アートディレクター、グラフィックデザイナー、VTuberなど多彩な方面に活動の幅を広げている。
取材を進めていくと、本作のリアルな制作現場の描写は木緒氏の経験に裏打ちされたものであることが明らかになっていった。仲間と同人ゲームを作ることになった氏は、まず同人ゲームの失敗例を調査。
そしてどの失敗例も「お金の分配で揉める」「旗振り役がいない」「そもそも完成しない」の3つが大きな要因となっていることを突き止め、それらの問題が発生しないように制作チームをまとめあげ、ゲームは無事完成し、成功を収めた。
さらに、今回のアニメ版『ぼくたちのリメイク』では原作者でありながら、木緒氏自らシリーズ構成を務めているほどだ。なぜここまで、ものづくりの工程を上流から下流まで器用にこなせるのだろうか。そこには木緒氏の編み出したロジックがあった。
※この記事はTVアニメ『ぼくたちのリメイク』と電ファミ編集部のタイアップ企画です。
映画をほとんど知らずに大阪芸大映像学科に進学
──木緒さんはゲームシナリオライター、小説家、アートディレクター、グラフィックデザイナー、VTuberなどさまざまな領域で活動されておりますが、まずは木緒さんの出自からお聞かせいただければと思います。
木緒氏:
自分の祖父が電電公社(現・NTT)で働いていたバリバリの営業マンで、めちゃくちゃ新しいものが好きだったんです。だから、日本ではまだ珍しかったApple IIも家に置いてあったりして。
──ゲーム機も揃っていたんでしょうか。
木緒氏:
それが「ファミコンが欲しい」と言ったら、MSXを渡されるような家で(笑)。祖父からは「遊ぶだけじゃなくて、考えて何か作れ。絶対コンピューターの時代が来るから。」みたいなことを言われていて。
環境がバッチリだったこともあり、コンピューターは大好きでしたね。『ベーマガ』や『月刊マイコン』に『MSX・FAN』、当然『ログイン』も、PC雑誌は毎月読み漁って、友だちと一緒に雑誌の投稿コーナーにあったプログラムを打ち込んだり。まさか今、それに近いことが仕事になるとは当時は思いもしませんでしたけど。
──かなり英才教育だったんですね。そこから大阪芸大に進学なさっていますが、入学したときの印象はどうだったんでしょう?
木緒氏:
大阪芸術大学の映像学科と日本大学芸術学部の映画学科って、あの当時の映像系では2大巨頭だったんですよ。東京や大阪でずっとメディアに触れ続けて、中学生のころから映画館にずっと通いつめてたような映画マニアが来るようなところなんですよね。
一方自分はと言えば、体系的な勉強もしてないどころか、「映画監督? 黒澤明ならかろうじてわかります」ぐらいなレベルでした。それも『七人の侍』を観たことがある程度で。言ってしまえば芸大、美大というものをほとんど知らない田舎の学生が放り込まれたわけです。
それこそ『ぼくたちのリメイク』の1巻で描いた主人公・恭也の戸惑いや驚きは、自分の原体験に近いところがあります。入学当初は「こんなすごい人たちの中に混じって、本当に4年間やっていけんのかな……?」とかなり不安でした。
──『ぼくたちのリメイク』って、「学生時代をやり直したい」という話じゃないですか。木緒さん自身、「学生時代にもっとこうしておけばよかった」だとか、あるいは「もっとこういうことしたかったな」みたいなものってあるんですか?
木緒氏:
人並みですが、「もうちょっと勉強しておけばよかったな」と思いますね。一回生、二回生のときは基礎の勉強放り投げてバイトしてたりだったので、あのころもっとちゃんとしていればよかったなと。
ただ、恭也のように「やり直したい」という気持ちはじつはそんなに強くはないんです。大阪芸大で過ごした4年間にはいろいろな学びや発見も多かったし、別に「このままでは自分は何もできずに死んでしまう」ほどの後悔はしてないです。
──そうだったんですか。
木緒氏:
『ぼくたちのリメイク』は過去に戻って人生をやり直す話ではあるんですけど、伝えたいことは「いま生きている人生をちゃんと充実させよう」ということなんですよ。
「時間を巻き戻してチート能力で無双する」ではなくて、「いまこの現実で何ができるかを考えてほしい」というところをすごく意識して書いていますね。
「取り戻せない青春をもう一度」みたいに言われがちなんですけど、読んでみるとそうじゃないというのは、多分わかっていただけると思います。
「もう時間は戻らないからどうしようもない」と諦めかけている人に「そうじゃないんだよ」と言ってあげたい、という気持ちが強いんですよ。
広告会社で働き始めるが、『ガンパレード・マーチ』にドハマリしてゲーム業界へ
──大阪芸大卒業後はデザイン会社に入社されていますが、他に映画会社やゲーム会社は受けていたんですか?
木緒氏:
最初は任天堂に行きたかったんです(笑)。僕が大阪芸大に行こうと思ったのは、パンフレットに映像学科OBである、任天堂の小泉歓晃さんのインタビューが載っていたからなんですよ。
そのときに「ああ、すごい!この大学行ったら任天堂行けるんだ!」と思っちゃって。絶対そんなことはないんですけど、大学に入って、先輩に話を聞くと「そんなわけねえだろ!」って言われるわけですよ(笑)。
──(笑)。
木緒氏:
それでだんだんゲーム業界に行きたい気持ちは薄れちゃって。代わりに「自分がいま楽しくやってることを活かせるところってどこだろう」と思ったら広告だなと。卒業年度が1999年だったんですけど、当時は電通や博報堂など、広告系がめちゃくちゃ元気よかった時代なんですよね。
サントリーのクリエイティブをやっていた学科の先生からの勧めもあって、その道に進むことにしました。
──そこからなぜゲーム業界に転身したんでしょうか?
木緒氏:
最初は仕事がめちゃめちゃ忙しくて、土日も会社に出ずっぱりだったんです。ようやく仕事に慣れて休みが取れるようになったころ、「せっかくだから時間できたしゲームやろう」と思って、買ったままほったらかしにしていたプレイステーションを動かしたんです。
そのとき、大学の時のオタク友達に「最近なんか面白いのあるの?」と聞いたら「多分お前これ好きだけど、ハマったら保証できないよ」と言われて、紹介されたのが『高機動幻想ガンパレード・マーチ』だったんですよね。
一同:
ああー!
木緒氏:
「開発に時間かけすぎて販促費がゼロになって、全く知名度がない中で出たんだけど、あまりに面白すぎて口コミで広まった伝説のゲームだ」という触れ込みだったんですが、案の定めちゃくちゃハマってしまいました。
『ガンパレ』のBBSに入り浸って、ログを会社のプリンターで出力して延々読んだりだとか、仕事以外の時間は全部『ガンパレ』に注ぎ込むようになりまして。
広告の仕事も面白かったんですけど、もうその時「慣れ」が来ちゃってたんです。「あまりここに長くいすぎても、ここから先はやりたいことがやれないな」と思って。
──慣れ切った生活に『ガンパレード・マーチ』が風を吹かせたんですね。
木緒氏:
まさにそれですね。会社は区切りのいいところで辞めて、自由な時間がもうちょっと取れるデザイン事務所に移り、大学の先輩や友達と一緒に同人ゲームを作り始めたんです。
当時はちょうどTYPE-MOONさんの『月姫』がめちゃくちゃ面白くて話題になってて、「俺らも作ろうぜ」と。あのころに『ガンパレード・マーチ』に出会えてなかったら、ゲーム業界とは無縁になってたと思います。
ディレクターとは、「制作チームのお父さんになること」
──同人ゲームを作りはじめたとき、木緒さんはどういう役割をしていたんでしょうか。
木緒氏:
ディレクターやプロデューサーみたいなところですね。まず作り始める前に、 「同人ゲームってどうやったら揉めるんだろう」とか「どうやって失敗するんだろう」というのが気になって、いろいろと失敗例を調べてみたんです。
そうすると、だいたい「お金の分配で揉める」、「旗振り役がいない」、「そもそも完成しない」というパターンが多かったんです。「じゃあこれを潰したらうまくいくんじゃないかな?」と思い、自分が責任者になって進行周りを引き受けて、お金も出しますということで始めました。
──そこを最初に抑えられたのはかなり大きそうですね。
木緒氏:
そうですね。「いつまでにこれができなかったら、ここで切りましょう」と完成までのスケジュールもあらかじめ全部決めたんです。
その代わりに、クリエイティブに関しては「締切さえ守れば尊重する」と最初に約束して、「とにかく完成させよう」と言って開発を始めました。その結果、無事いくつかの作品はちゃんと完成させることができたんです。
──いきなり複数人で作り始めて、ちゃんと完成させられたのはかなりすごいですね。そのときの立ち回り方について、もう少し詳しくお聞かせいただけますか。
木緒氏:
僕が最初に覚悟したのは、まず「この制作チームのお父さんになろう」ということですね。
お父さんになるために重要なのは、「怒らない」「説得する」「説得してわかるまで言う」の3つです。お父さんが怒ると、雰囲気が悪くなっちゃうじゃないですか。だからできるだけ怒らないようにして、わかってもらえるまで説得したり根回ししたりしていました。
──なるほど、「チームのお父さんになる」という言い方はわかりやすいですね。木緒さんは旗振り役としてそれを演じたということですか。
木緒氏:
そうですね、そうしないとチームはまとまらないと思ったので。実際、このときの経験はあとで会社経営をすることになったときに、めちゃくちゃ役に立ったんですよ。
ちゃんとスケジュールを立てたり、お金周りをきちんと管理したりとか、チームで何かをやる上で最低限しっかりしないといけない部分というのは、会社経営でも同人ゲーム制作でも変わらないということに気づいたんです。
あと、ディレクターをやってみてもうひとつ気が付いたのは、「解像度をちゃんとコントロールしよう」ということですね。
クリエイティブに対して解像度を上げすぎちゃうと、細かいところまで「そこはこうしよう、ああしよう」と言いすぎちゃうんですよね。クリエイター側からしても、細かく何度も「ここ直して」って言われたら面白くないじゃないですか。締切もあるので、どこかでケリはつけないといけない。
だから、アラっぽく見えるところでも、そこはずっと見続けてる自分だから見えちゃってるだけじゃないのか、実際のプレイヤーからしたら気にならないアラなんじゃないか?というのを見極める必要があって。
だから、「解像度を低くする」というか、それをコントロールして意識的に見えなくしちゃうのがけっこう重要だと思うんですよね。
──なるほど。その加減はなかなか難しそうですね。
木緒氏:
そうなんです。なので、僕の場合はある程度のところで「これ以上はクリエイターの領域だから、もう見ない」ということにしてますね。そのほうが現場の雰囲気とかも含めて、いろいろと良いんです(笑)。
──(笑)。少し話を戻すのですが、広告の仕事を続けるのではなくて、ゲーム会社に入るという選択肢はなかったんでしょうか。
木緒氏:
転職当時は26歳ぐらいだったのですが、「26歳の未経験者を中途で採ってもらえる」とは思えず、まったく考えてなかったですね……。
まず同人ゲーム制作を始めてみて、その後で何かしらゲーム業界に繋がるものができれば、ぐらいの考えでした。
──いまの状況から見るとかもしれないですが、ゲーム会社にサラリーマンとして入るより、同人ゲームを作りきる方が難しそうですが(笑)。
木緒氏:
当時はわからなかったんですよ(笑)。「同人の方が楽にできるじゃん!」と勝手に思いこんでたので。まあ楽じゃなかったんですけど……。
──当時作られていた同人ゲームはコミケで頒布してたんでしょうか?
木緒氏:
そうです。当時はいわゆるポスト『月姫』時代で、ゲームの体験版をROMに焼いて持っていくのが大流行りしていたころですね。
『月姫』がNScripterというスクリプトエンジンを使ってたおかげで、圧縮してもう一度解凍すると、元データのテキストレイヤーが全部見れちゃってたんです。しかも、ほかの命令も簡単に追加できた。
つまり、そこからテキストデータや画像を書き換えれば、簡単に自作ノベルゲームっぽいものが作れてしまった。僕たちもそこからスタートしていった感じですね。
──そのころって、同人界隈が一番盛り上がってたときですよね。透明なゴミ袋に、札束がぎっしり入っているのがサークルの会計の後ろにいくつも置いてあったようなイメージがあります(笑)。
木緒氏:
税務署に目を付けられてるようなところもありましたね(笑)。うちのサークルはさすがに、袋が3つも4つもとはいかなかったんですが、一番売れたゲームはゴミ袋が膨れるぐらいにはなりました。
──ええっ、すごいですね!
木緒氏:
当時はまだニコニコもなければYouTubeもなくて、発信できる場所はコミケしかなかったのもあって、一種のバブルだったんだと思います。
コミケはもともと絵を描く人たちの場だったから、『月姫』ブームまではライターや作曲者が発信できる場所があんまりなくて。だからこそ、同人ゲームはそういう絵描き以外のクリエイターたちにとって恰好の場になったんだと思います。その点も含めて、ありがたかったですね。