「みんなこうしてるんだから……」。
髪型、服装、趣味など、周りの様子と比較され、同調を求められた経験は誰しもあるのではないだろうか。そんなとき、意識的にしろ無意識にしろ、周りに合わせてしまう人は多いと思う。
同調圧力や「出る杭は打たれる」といった、ある意味、日本文化特有の風潮。学生時代はもちろん、会社に所属してからも暗黙のうちに広まっている目に見えない何か。
次世代のゲームクリエイターにスポットを当てる連載「新世代に訊く」第6回は、そんな同調圧力に負けたくない思いを胸に「周りからどんな目で見られたとしても、自分の個性を表現したい」と語る、若きゲームクリエイターに話を伺った。
その若きゲームクリエイターの名は、フリュー株式会社に所属する礒部たくみ氏。
今年で32歳になる礒部氏は、入社1年目に100本以上の企画書を作り、2年目からオリジナルタイトルのディレクションを担当。そして、礒部氏がディレクターのみならず、企画原案からプロデュースまで担当したのが、2024年7月25日に発売される『REYNATIS/レナティス』(以下、『レナティス』だ。
そんな本作は、「個性は出した方がいい」「同調圧力に屈せず、好きにやろう」という自らの思いをテーマとして込めた新作だという。
実際に『レナティス』の主人公のひとり、「霧積真凛(きりづみ まりん)」は、魔法使いであることを理由にあらゆる抑圧を受けた中で育った結果、「誰にも負けない最強の魔法使い」……言うなれば「出すぎた杭」になるため、戦うという設定になっている。
礒部氏も過去、美術の授業で奇抜な作品を作ったら壊されたり、表現の一環として髪を派手な色に染めた結果、周りから異物として見なされるという「出る杭」として打たれる経験を受けてきたという。
それでもなお、自らの個性を表現し、ゲームを作り続けているのが礒部氏でもある。そんな氏がゲームクリエイターを志し、自ら作り上げたゲームにどんな思いを込めたのか。負けず嫌いの若手クリエイターが、自分の個性を表現するために貫く流儀に迫った。
入社1年目で106本の企画書を作り、2年目からはオリジナルタイトルのディレクションを担当することに
──『聖塔神記 トリニティトリガー』(以下、『トリニティトリガー』)、『レナティス』と、2作のオリジナルタイトルでディレクター【※】を務めている礒部さんですが、いまおいくつなのでしょうか?
※『レナティス』では企画原案・プロデュース・ディレクションを担当。
礒部たくみ氏(以下、礒部氏):
今年で32歳になります。
──その年齢で2作のオリジナルタイトルを作っているというのは、ゲーム業界では珍しいケースですよね。もともと、フリューにはどのようなきっかけから入社されたのでしょうか?
礒部氏:
フリューでは若いうちからオリジナルタイトルを任せてもらえると、会社説明会に参加した際に知ったのが大きいです。
その説明会に『カリギュラ』シリーズを手がけられた山中拓也さんがいらっしゃって、「ここ(フリュー)ならオリジナルタイトルを早く手掛けられる」と言ってくれまして(笑)。
──なるほど、当初から若くしてディレクターを務めることを意識されて会社を選ばれたのですね。職種としてはプランナーとして入られたんでしょうか。
礒部氏:
企画のアシスタントディレクターだったと思います。
入ってすぐのころは指導してくれる方がいたんですが、3ヵ月くらいでいなくなってしまって(笑)。
急遽、すでに動いていた版権タイトルのお手伝いをしつつ、空いた時間を無理やり作って企画書を作りまくっていました。 1年間で……106本ぐらいでしょうか。
──ひゃ、106本も!?
礒部氏:
ええ(笑)。1年目は、版権タイトルのお手伝いと企画書づくりをしていまいた。もちろん、ただ流れるまま書いていったわけではなく、すべての企画にフィードバックをもらい、企画力を徹底的に伸ばしていきました。
結果として、企画力や提案力は伸びたと思いますし、新規タイトルの企画を出す際に、1年目に作った企画書から設定やシステムが使われたりもして、部分部分ですがその後のタイトルにも活かされています。
『レナティス』に関しても、その106本の企画書の中に原型みたいなものがあります。
──まるで100本ノックのように企画書作りに明け暮れたのは「自分のゲームを作りたい」という思いが原動力だったんですか?
礒部氏:
はい。入社1年目はゲーム作りのことが何もわかりませんし、あるとすれば熱量くらいのものでした。
「オリジナルタイトルを作りたい」という思いでフリューに入りましたので、それを叶えるためにまずは企画力を徹底的に伸ばす必要があるなと。そして、その熱量とやる気を示す意味でも、集中して取り組んでいきました。
──ひたすら企画書を作り続けた入社1年目を経て、どのようにオリジナルタイトルを手がけられるようになっていくのでしょうか。
礒部氏:
ディレクションを担当した『トリニティトリガー』は入社2年目からでした。
──え? 入社2年目からオリジナルタイトルのディレクターに抜擢されたのですか?
礒部氏:
少し特殊なケースでして……。フリューでは版権タイトルを複数手がけているのですが、僕はそちらの開発にはお手伝い以外で深く関わることはなく、オリジナルタイトルを担当することになったんです。それが『トリニティトリガー』でした。
このときに「ディレクターをするためにプロデューサーと兼任したほうがいい」と強く感じたんです。
──と言いますと?
礒部氏:
もちろん、ディレクションを担当する立場でも、開発中に意見を出すことはできます。ただ、「どこにお金をかけるか、かけないか」の予算まわりの取捨選択や、世界観やターゲット層などの設定は、すでに決められた状態なんです。
プロデューサーと自分で意見が割れたときには、上司であるプロデューサーの意見が優先され、自分の意見が通らないことがほとんどでした。それで大喧嘩したこともあります(笑)。もどかしい気持ちになることが多かったんですね。
その体験を経て、自分で予算やスケジュールもコントロールできるプロデューサーという立場も兼任すれば、「ゲームとしてのおもしろさ」を作るに当たってのディレクションもしやすいという考えが強くなっていきました。
「出る杭は打たれる」という日本特有の文化に対して「クソくらえ!」という思いを込めて
──自身がディレクターとプロデューサーを兼任して手がけられたのが『レナティス』になるわけですが、作り上げるうえで骨子としたのはどんなところなのですか?
礒部氏:
『レナティス』では「出る杭は打たれる」という日本特有の文化に対して「クソくらえ!」っていうテーマ性を感じてほしいと思って作りました。
──それは礒部さん自身が普段から「出る杭は打たれる」という経験をされているからなのでしょうか。
礒部氏:
……常日頃から感じていますね。たとえば、社会人になってからですと、髪を青に染めたときに周りから嫌な顔をされたり、異端の目で見られたりしました。ネイルをしていることも同様ですね。
あと、小中学校のころですが、美術の授業を受けていたときに、自分自身がおもしろいと思ったもの、奇抜なものを作ったりすると壊されたり、隠されたりすることを頻繁に受けていました。
同調圧力がすごいですよね。僕自身は「何も悪いことはしないんだから、堂々としていていいじゃん」って思っている人間で、(髪の色を指しつつ)こういう感じなんです。
──たしかに、ピンクの髪色のゲームディレクターは礒部さんだけだと思います(笑)。
礒部氏:
ただ、周りとは違うことをしにくい気持ちもわかるんです。自分もフリューに入社して間もないころは黒髪に染めていました。
けど、それってすごくもったいないなと。誰にも迷惑をかけないなら、自分のやりたいことを自分の表現としてやればいいと思うんですよね。
──ただ、義務教育を受けている時期は、それをしたくてもできないみたいなところがありますよね。
礒部氏:
それについては就職活動をしているときに思ったんですけど……義務教育って要は個性を否定する教育じゃないですか。
みんなで同じスタートラインに立って、平等に生活していくのが当たり前みたいになっている。けど、社会人になった途端、「人とは何が違いますか? 何ができますか?」って聞かれる。そんな矛盾を言うのだったら「最初から個性を出させろよ」って思います。
──そういった同調圧力に対する怒りみたいなものが、礒部さんのクリエイティブの源泉になっているのでしょうか。ルサンチマンと言いますか……。
礒部氏:
「怒り」もあるかもしれませんが、僕自身が負けず嫌いなんです。
さきほどの1年間で企画書を106本を書いた話も、もともと上司から「過去に100本作れた人はいない」と言われて、「だったら自分がやってやる!」という気持ちで臨んだので。
ほかの人から変な目で見られたのをきっかけに、自分の個性を否定してしまうのは、同調圧力に屈して負けた気分がして嫌なんですよね。それならば、周りからどんな目で見られようが、自分を表現していきたいと思うんです。
今の自分があるのは『キングダムハーツ』があったから
──幼いころからゲームはよく遊んでいたんでしょうか?
礒部氏:
いえ、小さいころはほとんど遊ばせてもらえませんでした。
当時は「目が悪くなる」、「勉強をしなくなる」など、ゲームに対するネガティブなイメージが強い時代だったこともあり、ゲーム機本体やソフトはなかなか買ってもらえなかったんです。
──物を作るのが好きな子どもだったんですか?
礒部氏:
「何かを作る」というのは小さいころから好きでした。ですので、ゲームを買ってもらえないことに不満はなかったんです。LEGOブロックのような知育玩具は買ってもらえたので、LEGOブロックで何かを作ったり、様々な素材で、いろいろなものを作ることに夢中になっていましたね。
──では幼少期はほとんどゲームに触れず?
礒部氏:
そうですね。ゲームが解禁されてからも1日30分までという制限がありましたし、ゲーム機もロクヨン(ニンテンドウ64)くらいしか持っていませんでした。
──現在の自分にもっとも影響を与えたゲームというと、どのタイトルになるのでしょう。
礒部氏:
いまの自分があるのは『キングダムハーツ』があったからだと思っています。
初めてがっつり遊んだロクヨン(ニンテンドウ64)の『スーパーマリオ64』や、初めて買ってもらった携帯ゲーム機のDSのゲームにも思い入れはあるのですが、いまの自分が形成されている要因として影響が大きいのは、やっぱり『キングダムハーツ』となります。
── 『キングダムハーツ』はいつごろプレイされたんですか?
礒部氏:
小学校高学年か中学生くらいだったかと思います。友人宅で友達がプレイしているのを見たのが、『キングダムハーツ』を知ったきっかけでした。
もともとディズニーが大好き、いわゆるDヲタ(ディズニーオタク)だったということもあり、その後自分でソフトを買いました。そのころには親からの躾も緩み、ある程度はゲームを遊べるようになっていたので。
──『キングダムハーツ』のどのあたりが響いたのでしょうか。
礒部氏:
アクションゲームって操作の待ち時間が少ない分、退屈しないじゃないですか。そこがベースのひとつとして、シンプルに楽しいと感じたんだと思います。
あとは、暗い世界が徐々に明るく広がっていくストーリーですね。1作目はまだストーリーがそこまで難解ではなく、ジャスミンやアリエルといったディズニープリンセスたちを助けていくという明確な目標が開示され、物語が展開していく作りでした。物語を楽しむことを重点的に楽しんでいた記憶があります。
──礒部さんは『キングダムハーツ』を手がけられた野村哲也さんを憧れの人と公言されていますが、当時から野村さんのことはご存じだったんですか?
礒部氏:
いえ、当時は存じていませんでした。
『キングダムハーツ』からいろいろ調べて、スクウェア・エニックスさんや野村さんのことを知りました。そこから『ファイナルファンタジー』を知って遊ぶようになったんです。
──『キングダムハーツ』から入って、そこから野村さんが以前に手がけられたタイトルも含めて、「野村哲也作品」に夢中になっていったと。
礒部氏:
はい、野村さんの作品はすべてプレイしています。
野村さんの作品は「現実の世界にファンタジーがある」という特徴があるんですが、そこで描かれる「光と闇」というテーマ性にとても魅力を感じました。
題材としてはシンプルでわかりやすいのですが、そこから複雑な物語を作り上げているところが自分の性癖にドンピシャで刺さった感じです。もちろん、世界観やビジュアルをはじめ、全部が大好きなんですけど一番はそこかなと思います。
ゲームクリエイターを志して情報系の大学へ入るもプログラムに面白さを見出せなかった
──『キングダムハーツ』に心を奪われた少年時代を経て、明確にゲームクリエイターを目指そうと考え出したのはいつくらいからなのでしょうか。
礒部氏:
ゲームクリエイターになりたいという思いは、高校生のときから持っていました。
さきほどお話ししたように、小さいころから「物を作る」のが好きだったんです。じつは母がデザイナーでして、絵を描いたり、デッサンする様子を間近で見ていたこともあって、幼少期はデザイナーか漫画家になりたいという思いがありました。
そこに「ゲーム」が入ってきて、自身の将来像と合体し、ゲームクリエイターを志すようになりました。
──デザイナーでもなく漫画家でもなく、最終的にゲームクリエイターの道を選んだのは?
礒部氏:
たとえば、映画や漫画などは見るだけ、読むだけなんですよね。でも、ゲームって自分が操作することで反応が変わったりするインタラクティブ(双方向)性がある。
それがすごいなって思うようになって、徐々に自分でもそのおもしろさを生み出して、みんなに体験してもらいたいという気持ちになっていったんです。
──ゲームクリエイターを志すようになったことで、大学は情報工学科を選ばれたのですか?
礒部氏:
山口県で生まれ育ったので、高校卒業後、山口大学の工学部知能情報工学科に入学しました。
プログラミングに関しては、専門学校以上に専門的な知識を学べると考えていましたし、さらに大学院まで行けば、技術力も身につく。あとは、ゲーム業界に入るとしても、ゲーム以外の知識もあったほうが絶対的に強いと思ったので、大学一択でした。
──情報工学科ということは、大学在学中はプログラミングを勉強されていたのでしょうか?
礒部氏:
そうですね、情報系でしたのでC言語、C++、Javaといったプログラム言語全般を勉強していたんですけど……文字を打つことばかりで「……なにがおもしろいんだ?」ってなってしまったんです(笑)。
──それはどの部分がおもしろくない、自分には合わないと感じられたんですか?
礒部氏:
理由はいくつかあります。ひとつは、普通の大学だったのでゲームをテーマにしていない研究としてのプログラミングを学ぶものだったこと。興味のない分野でプログラミングを学ぶことは、モチベーション維持が困難でした。
もうひとつは、プログラミング言語を学ぶにあたって、C言語なら「if文」や「ポインタ」などの定義や構造体を覚えるんですけど、それが、ゲームにどのように活かされているのかが、具体的にイメージできませんでした。今思えば、自分で学んでいけばよかったのですが。
──プログラムが好きな方って、ソースコードの美しさだったり、演算の速さだったりを追求する方が多い印象を持っているのですが、礒部さんはそういうところに魅力を感じなかったんですね。
礒部氏:
まったく感じなかったです(笑)。とはいえ、おもしろさを見出せなかったことを知れただけでも学びとしては大きかったです。それもあって、プログラマーを目指す就職活動もしませんでした。
ただ、おもしろさを見出せなくても、コードを書いてきてはいるので、プログラミング的な考え方やアルゴリズムなどの基礎知識はもちろんあります。なので、ゲームの開発会社さんとお話する際には役立ちましたし、プログラムをまったく学んでいない方とは異なる強みにはなったのかなと思います。
──大学卒業後、フリューへ入社されたのですか?
礒部氏:
大学卒業後は地元の大学院へ進学しました。就活でフリューを受けて入社が決まり東京に出てきた、という経歴です。