この記事は、2019年10月に発売され高評価を得た『Disco Elysium』という英語のゲームが題材です。その難解で膨大な内容にも関わらず、編集部員が気軽に「やる?」とライターに投げたことにより起きた受難の旅、ライターの長大な思考の旅路を、本稿では記しています。
「酒を飲まない者を信用するな。やつらはたいてい、自分は正義を知っている、自分は正しいことと間違っていることをいつでも見分けられる、と思っている。ふだんは良いやつらだ、しかし正しさ優しさの名のもとに、この世のほとんどの苦しみをもたらしたのもやつらなんだ。やつらは判事で、野次馬だ。そして酒をたしなみはするが、芯から酔っぱらうことを厭う者を信用するな。やつらがそうするのは、いつも腹のうちで、自分が馬鹿か、臆病者か、卑怯者か、乱暴者なんじゃないかと怖れているからだ。自分自身を怖れているような人間を信用するなんて、できないだろう。しかしだ、折りにふれて便器の前にひざまずくような者は信用できる。ともするとこいつは、そうしながら、そいつ自身のごく自然な、人間であることのばからしさと、謙虚さと、自分自身を生き延びるすべとを、学んでいるんだ。内蔵の中身を汚れた大便器のなかにぶちまけながら、自分の存在を重くとりすぎるなんて、そうそうできることじゃないだろう?」
──ジェームス・クラムリー
「──ああ、あの本なら読んだよ、あくびが出過ぎて死ぬかと思った。(なぜですか?)なぜだって? ほかの書き手どもとおなじで、すばやさもリズムも文章にないからさ。生もなけりゃあ日の光もない。書くときはだ! 言葉は、こんなふうでないといかん──ビンビンビン! ビンビンビン! ビンビンビン! ビンビンビンってな! すべての文がそれ自体の美味ぁいジュースにあふれている。フレーバーあって、力がある。言葉が、ページをめくらせる! ビンビンビン! しかしああいう手合いがやることは、『うむ……うーん……あのそのー……どこそこのー……ポーチのうえに蠅がー……』〔…〕そんなんじゃ遅すぎる、もうおれたちは原子力の時代に生きてるんだ、すべての文がそれ自体の力を、それ自体のジュースを、それ自体の詩情を漲らせるようにしなきゃあ。書くことは、決して、退屈であっちゃいけないんだ。書くやつも、読むやつも、誰ひとりとして、退屈するようなことがあっちゃいけないんだ。なあ、あんた! わかるだろう?」
──チャールズ・ブコウスキー
「こんにちのテキストはたいへん貧しいものにされてしまった。こんにちのテキストはじつに退屈なものに見える。誰もがテキストを読みたくないと言う。しかし、それと同時にみんな、一日中読んでもいる。メッセンジャーや、ソーシャル・メディアで……。どうもみんな、そうすることが好きらしい。つまりテキストをじっと見つめて、それを理解したと、嘘をつくことが。実際には、視線が文字の上をすべっているだけだ。だから書くときには、テキストの意味にすべてを注がなくちゃならない。最高にパンチが効いていて、最高にパーソナルなものになるようにしなくちゃならない。この考えは、このゲームがつねに対面的であることを説明するものだと思う。誰もがみんな読み飛ばし、虚辞や間投詞だらけで喋っているこの時世、テキストはもっとアグレッシブで、対面的なものでなくちゃいけない。読み手をつかまえて、その関心を引かなくちゃいけない。」
──ロバート・クルヴィッツ
RANDOM TEXT ON INTERNET──昨年の暮れのことだったと思う。海外でやけに話題になったゲームがあり、「『ハリー・ポッター』シリーズ全七巻分のテキストをもつ」という触れ込みを聞いた。うんざりするような量のテキストだ。にもかかわらず、メディアの評価はおそろしく高かった。奇妙な話である。いまだかつてないほどのテキストの洪水にもまれながら、誰一人ほんとうには読んでいないこの時代に、それだけのテキストをもつ作品が評価されるなど、道理が通らない。ということは、よっぽどの名作であるらしい。
そういうわけで、私はプレイにとりかかった。ゲームを起動すると、暗黒の画面にテキスト・ボックスが表示され、突如として「ANCIENT REPTILIAN BRAIN〔トリビューン脳/古代爬虫類脳〕」が語りはじめた。
「なにもない。あたたかな原始の暗黒のみだ。おまえの良心は──麦芽の一粒ほどの大きさもないが──そこで発酵する。おまえはこれから、なにもしなくてよい。
ずっと。
まったくなにも。」
すると選択肢があらわれた。
1.ずっとまったくなにも?
2.(ただ非-存在をつづける。)
1を選択すると、ANCIENT REPTILIAN BRAINはつぎのように答えた。
「ずっとまったくなあーんにもしなくていいんだ、ベイビー!」
そして選択肢は「(ただ非-存在をつづける。)」のみになった。私はそれを選択した。
すると、またしてもANCIENT REPTILIAN BRAINが語りはじめた。
「法外なまでの時が過ぎた。苦しみはまったく欠落している。別れた嫁さんはそこに含まれていない。」
そしてまた選択肢があらわれた。
1.いいねえ!
2.もっとくれ。
3.その「別れた」ってのはなんのことだ?
ところで、この時点でプレイ時間は十五分を超えていた。理由はいくつかある。
まず、書き出し二文目の“primordal”という単語を知らなかったので、辞書を引いた(形容詞:原初の、原始の)。また、三文目の“Your conscience ferments in it”〔おまえの良心はそこで発酵する〕という言い回しが独特だったので、イメージするのに時間がかかった。はじめの選択肢があらわれたときにどちらを選ぶかすこし悩み、つぎの文であらわれた“inordinate”という単語がわからなかったので、辞書を引いた(形容詞:過度の、法外な、想定外な)。また、つぎ文の“It is utterly void of struggle”という言い回しが独特だったので、意味をつかむのに時間が要った(utterly〔形容詞:まったく~だ〕がかかっている単語には、何かが圧倒的に「有る」ことが語られるのが私には自然なのだが、ここではutterlyがvoid〔名詞:喪失、欠落、空所〕にかかっている。「無がある」といった言い回しに近い。あるいは私のこの混乱は、日本語の「ぜんぜん」という言葉が、明治大正のころには肯定に、昭和の中頃から否定に、そして平成に入ってから両方の意に使われていることへの混乱に近い。)
Logic (Medium:Success)──さらには、“No ex-wives are contained in it”〔別れた妻はそこに含まれていない〕で面白さを感じることができなかった。これはおそらく冗語法である。そこには苦しみがまったく「ない」ので、「別れた妻」もないはずであり、したがって「別れた妻は無に含まれていない」という言い方は論理的にあやしいが、そのあやしさが面白い、という仕掛けだ。こみいっていてユーモアが遠い。
RANDOM TEXT ON INTERNET──と、いったことを考えているうちに十五分が過ぎた。それからさらに一時間、暗闇のなかでの「ANCIENT REPTILIAN BRAIN」との対話が続いた。その対話のあとで、私は辞書をおそらく十回以上引き、それぞれの構文や文章の意味をなんとかつかもうと苦心した。そののち、私は静かにゲームを終了した。仕事があったのである。
翌日、もういちどゲームを起動した。昨晩の苦闘のあとにやっとあらわれたのは、つぎの画面である。
私はべつに何か目的があって英語を身につけたわけではないが、少なくとも一時間を辞書とのにらめっこに捧げた報酬として、腹の出た毛深い中年男性の下着姿のスナップ写真を受け取りたかったから勉強したのではない。しかも部屋には酒瓶が転がっていて、彼は頭に手を当てながら辛そうに立ち上がったので、この男はひどい二日酔いを感じているようだ。また、部屋は荒れ放題に荒れている。おそらくこの男が酔った勢いで暴れ回ったために、こうなったのだろう。
無様だ。と、同時に、私は疑問を抱いた。このような作品にたいして、いったいどんな愛着をもてというのか。そもそも、こいつはいったい何者なのか? 古代劇の主人公らしく鍛え上げられた肉体もない、現代文学の英雄らしく研ぎ澄まされた教養も(おそらく)ないこの男。ほんとうに、こいつが主人公なのか?
どうやら、そうらしい。私はポイント・アンド・クリックの要領で、部屋に落ちた衣服をクリックし、パンツ一丁の男を動かして、それらを拾い集めさせた(彼は終始無言だった)。ところで、男が衣服を拾い上げるたびに、ファンシーなテキストが表示され、それらの衣服にかんする描写が克明に行われた。それらの文章そのものは不必要なまでに美しかったが、美しさとトレードオフでくどくもあった。衣服回収作業の最中、天井で回転するファン(シーリングファン)に引っかかって回っているネクタイを取ろうとすると、突如として「SAVOIR FAIRE」〔名詞:如才のなさ、才気煥発〕の「スキルチェック」が発動した。
成功率は50パーセントくらいだった。私はダイスを振った。悪い目が出て、失敗し、男は指をくじいた。ヒットポイント、マイナス1。
私はすごく嫌な気分になり、ゲームを終了した。ほかの仕事があったのだ。
ところで私は、このあたりですでに降伏することを考えはじめていた。「ハリー・ポッター」シリーズでいえば、主人公がキングス・クロス駅の九と四分の三番線に到着するどころか、まだ彼の悲しい身元が紹介されはじめた時点にすぎない。十ページも進んでいないはずである。そこで二時間以上が費やされており、しかも、まったく面白くなく、面白くなりそうもない。
私はしだいにこの作品のことを意識の隅に追いやりはじめた。
一ヶ月が経ち、二ヶ月が経った。ところで、私は偏食ではない。なんでもよく食べる。好きな食べ物は何ですかと聞かれると答えに窮するし、苦手な食べ物はありますかと聞かれると、随分経ってから「トリュフ」と答える。そう言うと大抵、笑顔の裏に妬みがあらわれるので、私はあわてて釈明する。私は苦手な食べ物があることが悔しいのだ。十年前にパクチーが流行ったとき、私ははじめのうち味も匂いもまったく駄目だったが、折しも近所に開店したアジア料理屋に通いつめて克服し、いまではブームが終わったことを悲しく思っている。
子供のころには紫蘇と人参がどうしても駄目だったし、中学生のころはオリーブの実、高校生のころには慈姑とウイスキーが苦手だった。つまり私が言いたいのは、私はなんでもかんでも口に放り込んではうまいと言うすてきな人ではなく、ある新しい味覚に出会ったときには、ごくふつうに混乱し不快に思う。しかしこの一度きりの人生で、肉体などという矮小な器が「これは不味い」と感じたために、もしかしたら隠されていたかもしれない喜びを味わえないのは愚の骨頂であると思うのだ。現在の私が嫌いな食べ物にトリュフを挙げるのは、べつにトリュフをこき下ろしたいわけでも、おれはトリュフを食べたことがあるぞと誇示したいわけでもなんでもなく、ただ単に値段が高くて、苦手を克服するための訓練をなかなか積むことができないという悔しさがあるからこそなのだ。
ところで慈姑は消えるべくして消えた食べ物だと思う。いや、もうほとんど食べられないのでわからない。できればもういちど食べてみたい。本当のところはどうだったのだろう。味の評価なんて、誰にできるのだ。食べもしないでどうして味がわかる。どうして嫌いだ、不味い、面白くないなどと言える。そんなことでは失礼ではないか。そうしたものがそのようにあることにたいして、失礼ではないか。
私は観念してゲームを起動した。テキストの内容をほとんど忘れてしまったので、もういちどはじめからやりなおすことにした。この作品は、プレイをはじめるまえに、あのパンツ一丁の中年男性の「アビリティ」を割り振ることができる。論理、同情、反射神経、動体視力、エレクトロケミストリーといった、24種の特性にポイントを振って、自分好みのキャラクターをつくることができるのだ。これらのポイントの数値によって、さまざまなイベントにおける分岐が生まれる。
前回のプレイで、このパンツ一丁の中年男性がシーリングファンからネクタイを取ろうとして怪我をし、そのときのスキルチェックが「SAVIOR FAIRE」であったことを覚えていたので、私はそこにスキルポイントをいくらか投入した。ネクタイを取るところまで進み、もういちどダイスを振った。チェックは成功し、男はすばやい機転をきかせてネクタイをキャッチした。彼はパンツ一丁にネクタイを身につけたあと、部屋のなかで私の指示を待った。
私は時が流れるにまかせた。
Hand-Eye Coordination (Challenging:Success) ──よし、このあたりでほとんどの読者は読むのをやめたはずだから、自由にやってやろう。すべての文章には固有の軸がある。たとえば公的な文章は、なによりも意味の正確さがたいせつだ。その内容がどれほどくだらないものであろうとも、公的な文書は、テキストの解釈がただひとつの意味にのみ限定されるような書き方をされなくちゃならない。広告の文章やコピーライティングには、法的にはOKだが倫理的にはNGな詐欺の技術が必要だし、コラムやレビューであるのならば、その内容ができるだけ事実に基づいていなくてはならない。
しかしながら本来、文章とは、それが「書く前から必要とされた」ものでなければ、なにをやったっていい場所だ。もちろん、この場所は電ファミニコゲーマーという媒体であり、その媒体のモットーというか、スタイルが決定的に固定されているわけではないにせよ、いちおうは雑誌文体がもとめられる。おれは発注をもらって書いているのだ。というか、書くときに、おれはそういう文脈を自分の言語野に言い聞かせる。ここはゲームメディアだ。そういう読者を想定せよ、と。
Volition (Impossible : Failure)──しかしながら、たとえば評論する対象である作品があまりに巨大すぎるとき、ごく普通のやり方ではニュアンスを汲み取りきれないことがある。いや、そのやり方でくみ取ってもよいのだが、私にはその筋力がないようだ。純粋に美しいテキストをえんえんと礼賛する? 八十時間にもおよんだストーリーの粗筋を、原稿用紙二十枚をかけて要約する? こんなゲーム、誰も知らないのに? 誰も読みやしない。そんな時間、あるわけがない。ほら、つぎの電車が来た。乗りなよ。大事な商談だろ。
Half-light(Easy:Success)──あるいは、あんたは疲れてる。疲れてることを理由に、なにも学ぼうとしない。自分の生活の安全地帯から出ずに、これは難しすぎるとか言う。意味がわからないとか言う。そう思うんなら結構、さっさと家に帰って、おまえのかわいそうなぽんぽんでも十分消化できる、煮込みすぎたぐずぐずの粥みたいなコンテンツでも摂取してろよ。
RANDOM TEXT ON INTERNET──シーリングファンに引っかかって回転するネクタイをなんとか手に入れてから五十時間後、彼は湾港から伸びた砂嘴に建つうらぶれた教会のそばで、三人のパンク・キッズに尋問を行っていた。尋問の現場はキッズたちが建てたテントで、そのテントは彼らのお気に入りの音楽の振動で張り裂けそうだった。
「ウィーリング・イン・ラグスの裏庭にぶら下がっている死体について、きみたちはなにか知らないか?」
三人は胡乱な視線を返した。
「ハードコア・トゥ・ザ・メガ!」と一人が言った。
Drama(Medium:Success)──テキストはかつて喜びであった。書かれることと読むことのうちには、なんぴとも反駁できない必然的な美があった。あらゆるテキストはかつて、喜びとともに書かれ、喜びとともに読まれた。それは知的であり、野性的であり、利他的であり、利己的だった。とりわけ美しい詩文の一行が朗読されるときなどには、私たちは喜びに震え、歓喜に酔いしれた。それは神聖であると同時に堕落しており、呪われていると同時に聖別されていた。このような唯一の体験はつねに唯一であり続けるだろう。バベルの塔は決して崩れないだろう──誰もがみな、そう思っていた。
そして今日に至った。私たちは今日、あらゆるところで、喜びをもたらさないテキストを目にすることができる。誰もが書く。誰もが語る。あるいは誰もが、語っていることはすぐれていても、その文章に熟しきった石榴の実のようなジュースが張り詰めていない文章を、書くことができる。このテキストを読むことをやめて、いま、あなたのブラウザのとなりのタブに記されているテキストを読んでみるといい。そこに、ジュースはあるだろうか? 賭けてもいい。九割九分の確率で、ジュースはない。それはただの〈インスタント・テキスト〉でしかない。他人の脳が分泌したおしっこを、わたしたちはよろこんで舐めている。
RANDOM TEXT ON INTERNET──なんとか服を身につけて部屋の外に出ると、そこがホテルであるとわかる。廊下の灰皿の前でひとりの女性が煙草を吸っていて、彼女は彼にあいさつをする。その会話の内容から、彼は完全に記憶を失っていることがわかる。昨晩の彼の部屋の騒音について尋ねると、彼女はこう答える。「ものすごい大騒ぎをやらかしていたわよ……なんというか……ディスコな? 音楽がかかっていた。でも最後には、ものすごく悲しい歌になって……あなたは叫んだわ、『おれはもうこんなみじめな獣でいたくない!』って」
彼は階下のフロントまで降りていく。そこにはオレンジ色のボンバー・ジャケットを着たSeolite〔セオル人〕が立っている。
Encyclopedia(Medium:Success)──セオルは、インスリンディアン大陸西方に位置する国家。保護貿易主義かつ孤立主義。マイクロマシン技術とその輸出で知られているが、政治体制は現代的とはいいがたい。行きすぎた保護貿易主義のために、母国人以外の立ち入りは百年以上にわたって禁じられている。厳格な階級制度が支配し、刑法は懲罰的である。こうした前時代的な社会風俗を嫌うセオライト(セオル人)は、しばしば国を離れてべつの地に移る。
RANDOM TEXT ON INTERNET──セオル人はつぎのような意味のことを言う。私はキム・キツラギ、あなたとともにホテル・ウィーリング・イン・ラグスの裏庭に吊された身元不明死体のケースを解決するために、第57所轄署から配属された警部補だ。さっそく調査に移りたい。そのまえに、あなたの名前を教えてほしい。これからあなたは私の同僚となるわけだから。
つい数十分前まで、ホテル・ウィーリング・イン・ラグスの二階でパンツ一丁だった男は答える。「まってくれ、警部補だって? おれたちはデカなのか? ああ、ちくしょう。まったくぜんぜんなにも覚えてないんだ──おれの名前はなんだ?」
それから三十時間後、彼らは湾港の砂嘴の葦林のなかで、「ファズミッド」とよばれる生き物を探している。ホテルのフロントにいたひとりの女性が、そうした不思議な生き物を調査している彼女の夫について言及し、彼の帰りが遅いから探してみてくれというのだった。
夫のほうは見つけたが、まだ捜索を続けたいようだ。それで彼らは仕事を引き継ぎ、おかしな匂いのするフェロモンを肌に塗って、葦のなかに隠された虫取り網に「ファズミッド」が掛かっていないかどうかを確かめている。キム・キツラギは、このような虫取りが捜査の進展をもたらすことはないとはわかっているが、女性に聞かされた生き物の話にひそかに夢中になっていて、静かに主人公のあとをついてくる。
「だめだ。見つからない」と記憶を失った男が言う。「そんなもの、ほんとうにいるのかね?」
Rhetoric (Medium:Success)──”Detective”〔名詞:刑事〕は”Detect”〔動詞:見つける〕から派生した語だ。接尾詞”-ive”は、ラテン語の”-ivus”を由来にもち、単語の接尾にくっついて、くっついた先の語の「性質」を押し出す。多くは形容詞に変化するが、”Detective”はとくに、名詞として扱われる。
Empathy (Easy:Success)──まるで、性質が、ある人間の人格を保証するかのようだ。
RANDOM TEXT ON INTERNET──ポイント・アンド・クリックの決定的な弱点は、プレイヤーによるインタラクションとゲームが用意したメカニズムが、本質的に同調しないことだ。アクション・ゲーム、レース・ゲーム、ファースト・パーソン・シューティング、なんだってかまわないが、こうしたジャンルにおいては、プレイヤーの入力それ自体がシステムのなかで翻訳され、価値と褒賞をプレイヤー/主人公に与える。しかしながらポイント・アンド・クリックは、多くの場合、画面上に浮かび上がっているあらゆるアイコンを機械的にクリックしていくだけの作業に堕していく。
もちろん、隠された意味を見つけだす喜びはある。しかしながら、たとえば流れてくるアイコンに合わせてタイミングよくクリックするだとか、狙いをさだめてタップするといった、プレイヤーのインタラクションに技術が要求されるシステムが採用されているわけではない。どちらかといえば、(ノベルゲームなどと同様に)それは技術ではなく、忍耐を要求する。ゲームが流れをつくるのではなく、プレイヤーが自らを律しつつ進むことを要求する。
私がポイント・アンド・クリックというシステムにあまり愛着を抱いていない理由はこのあたりにある。このジャンルは、形式そのものが表象するテーマと、表象された物語のあいだに乖離があることが多い(あるいは私は、たまたまあんまりおいしくない〔なんて失礼な言い方だ〕ポイント・アンド・クリックばかり食べてきてしまったのかもしれない)。
しかしながら、この作品は自分自身のシステムにじつに自覚的である。彼は”Detective”である。探す人、刑事であって、しかも見つけ出されるものも重ね合わされている。つまり公共的な真実としての殺人事件の経緯と、私的な真実としての主人公自身の正体である。
Half-light (Easy:Success) ──きのう、おれの喫っている煙草のパックの健康表示欄が大きくなり、インダストリアル・デザイナーが心をこめて行った仕事がぶち壊しにされた。またしても美が大義に陵辱されたのだ。なにがいやって、こんな臆病者ばかりの国で暮らすことほど厭なことはない。
Electrochemistry (Medium:Success)──腹が立つから「スピード」でもやってやろうか。
Logic(Medium:Success)──いや、それはやつらの思うつぼだろ。
Inland Empire (Challenging:Success)──煙草のパックが美しかった時代を思い出せ。平和を願ってつくられた銘柄のデザインに一億が投じられた時代を思い出せ。心に蓋をし、その美しい世界のなかで生きろ。
Drama (Medium:Success)──ああ、たのむから愚行権を返してくれ。
RANDOM TEXT ON INTERNET──捜査をはじめてから三十時間後、彼はキム・キツラギとともに、海岸沿いの泥のなかに埋まり、高潮に半ばのまれた警察車両の残骸のまえで、うち捨てられたブランコに座って潮が引くのを待っていた。あらゆる状況が、これは彼の引き起こしたカタストロフィであると物語っていた。近くの寂れた農村の浮浪者たちの証言。
「その警察車両はまちがいなくあんたのものだ、あの晩、ものすごい音がするから浜辺に出て行くと、ぶっこわれた車とあんたが倒れていた。助けようとするとあんたは目覚めて、酒はないかと聞いた。もちろん、酒場の裏からくすねてきた余りがたんまりあった。古くなったリキュール、酒瓶の底のシングル・モルト……そして、あんたはおあしを持っていた。おれたちは焚火を囲んで宴会をやった。あんたはそこで、自分は刑事だと言い、それからスーパー・スターだと名乗り、ほんとうの名前は「テキーラ・サンライズ」だと宣言した。」
ゲーム内の時間で二時間後、潮が引いた。彼は警察車両の残骸を調べ、そのなかから彼のジャケットと、彼のほんとうの名前が書かれたIDカードを発見した。選択肢があらわれ、それを自分の名前と認めるか、それとも自分は「テキーラ・サンライズ」であるか、とシステムが詰問した。私は後者を選んだ。私は/彼は、もうこんなみじめな獣でいたくなかったのだ。つめたい潮風が吹きつけた。
「キム、おれはいったいなにをしちまったんだろう?」と彼は言った。
キム・キツラギは──日に一本しかそれを喫わないのだが──彼と並んでブランコに座ったまま、煙草に火をつけた。
「私の目には、あなたは泥酔してこの車両をお釈迦にしたように見える」とキムは言った。
「おれにもそう見える」と彼は言った。「どれくらいの損害なんだろうか?」
「レバショールの一般的な所轄には、規模にあわせて二台から四台の車両が配置されている。あなたの所属する所轄41番の人員はそこまで多くないはずだから、二台だろう。そのうちの一台を失ったことになる。ところで車両の値段は、一台あたり450万レアル。ウィーリング・イン・ラグスの部屋が一晩、25レアル。控えめに言って、かなり大きな損失だ」
Encyclopedia (Medium:Success) ──レバショールはかつて首都であったが、歴史がその誇りに泥を塗った。失敗に終わった世界革命の果てに、列強国に分割されて統治されることとなったのだ。この街はインスリンディアン大陸西方のル・カルー島に位置している。
RANDOM TEXT ON INTERNET──彼は頭を抱える。
「とはいえ」キムは長い一服をする。「この事件は、あなたの仕事のおかげで、解決にむけてかなりの進展をみせた。事件がただの私的なリンチではなく、この湾港地域一帯を巻き込んだ、大きな規模のものであることまで見えてきた。警部補、わたしはほとんど確信しているが、この事件が解決されたあかつきには、車両の損失も必要な犠牲の一部だったと、RCMは認めることだろう」
Encyclopedia (Medium:Success) ──RCMは、Revachol Citizens Militia(レバショール市民自警団)の略語。法治が存在しないレバショールにおいては、警察機構もまた存在しないはずだが、市民からその権威が問い糾されることはない。この団体のおもな目的は、190に分割された所轄区の治安の向上と維持である。
RANDOM TEXT ON INTERNET──「フム」彼は嘆息した。
「それはそれとして、警部補、わたしの車両の無線をもちいて、あなたの所轄にこの事態を報告すべきだ」
「まさか!」と彼は言う。「あいつらはおれをまたしても笑いものにする!」
Esprit de Corps (Medium:Success)──間違いなくそうする。しかし、批難はしないだろう。おかんむりになるのはお上のほうだ。現場には関係がない。
Shivers (Easy:Success)──むしろ、蔑視と尊敬の混じった好奇の目で、やつらはおまえを見るだろう。それでおしまい。一先ずはだが。
RANDOM TEXT ON INTERNET──「警部補、電話一本で新しい車両がすぐに配備されるのなら、わたしも放っておけばいいと言うだろう。しかし、あとのことを考えれば、いま報告しておいたほうがいい。事件を解決したあと、まさか歩いて署まで戻るわけにもいかない」
「戻りたいかどうかはべつにしてな」
「もちろんそれは重要な論点だ」キムは微笑む。「大丈夫だ、警部補。わたしがついている。形勢が悪くなれば、仲裁しよう。大切なのは、あなた自身が信じることだ──これは事件の捜査に必要な犠牲だったんだと」
ゲーム内の時間で一時間後、彼は電話を置いた。ところで電話は、スキルチェックにことごとく失敗し、ダイスの目が悪く、所轄の仲間たちがさんざん彼のことを笑いものにしたために、モラルへ3のダメージが加えられた。
「起こったことを悔やんでも仕方がない」とキムは言った。「捜査をつづけよう、警部補」
それから彼らはマルティネーズの呪われた商業地区を家捜しし、湾港沿いに停泊していたヨットをあやつる婦人からこの世界を覆い尽くす「PALE」についての知識を得、思想キャビネットにウルトラリベラリズムをインストールし、それと同時に選択的共産主義をインストールして思想的に混乱し、浜辺の公園でゲートボールをやっている退役軍人たちのボールを海にむかって砲丸投げし、スト破りを監視している筋骨隆々かつ教養たっぷりのレイシストと議論を戦わせ、ホテルの裏庭に吊された死体のまわりの凍った泥の足跡の数を解析し、漁師の夫を失った妙齢の婦人をデートに誘って砂嘴を散歩し、失われたオーギュメンテッド・リアリティ・テーブルトーク・RPGの開発会社の資料を発見し、呪われた商業地区の奥深くでダイス職人をやっている女性に特注のさいころを発注し、死体を捜査しているときに嘔吐したのをきれいにするためにキム・キツラギが貸してくれたハンカチを質屋に入れてレアルに換金し、死体に石を投げて遊んでいた頭の足りない悪ガキの親父のアパートメントからスピードを回収し、湾港会社の薄汚い重役から失われた銃にかんする情報を人質にとられ、完璧なカクテルのレシピを考案するためにあらゆる原料の組み合わせを試しているうちに一日をふいにし、ホテルの一階のカラオケ・システムにテープをもちこんで最高に悲しいバラードを歌いあげ、パンク・キッズたちが彼の助けをかりて設立に成功した『ディスコ・エリシウム』で朝まで踊り狂い、スト破りをこころみる労働者たちのためにボルシチにウォッカを投入し、ホテルのバックヤードに隠されたピンボール工房を発見し、慈善ではなく金のために街中の空き瓶を回収し、失われた電話回線のむこうで涙にくれる女性の声に動揺しつつも最終的にはそれが自動音声であることを見抜き、なぜかいつもシャツのボタンをあけたままにしている妙に魅力的な男性のことが頭から離れなくなり、突如として巻き起こった銃撃戦からぎりぎりのところで生還し、浜辺のベンチで人生の意味について深い省察を行いながら、すこしずつ真実へと近づいていった。
Authority(Medium:Success)──この作品が邦訳される可能性はごく僅かだが、それが優れた訳業になる可能性は、邦訳されたジェイムス・ジョイスの作品が優れたものになる可能性と同等である。テキストの難度と圧倒的物量に加えて、ストーリーラインの文脈がプレイヤーの選択に委ねられているために、これをべつの言語に移し替えるには、並大抵ではない努力と予算が必要になるだろう。とびきりの名翻訳者たちの心からの愛情と、衣食住を五年間まかなえるだけの給金など、どこから捻出すればいいというのだ。
Hand-Eye Coordination (Medium:Success) ──したがって本稿の筆者はこの作品の、せめてテキストの部分を「読んでいる感覚」だけでも再現しようと試みた。
Authority(Medium:Success)──ここまでついてくることができたなら、おそらくあなたはこの作品に入りこむことができるだろう。
Conceptualization(Hard:Success)──この作品はプレイヤーの選択によって夢幻のようにテキストが変化し、またそれ自体の量も膨大なため、筆者が感心した部分を紹介しても、スポイルとはならないだろう。この作品は、「ポイント・アンド・クリック」というジャンルにおける〔形式と内容の一致〕を達成している。
Rhetoric(Legendary:Success)──”Detective”という語が、接尾語”-ive”をもつ語群のうち、とくに名詞化しているという興味深い事実については先述した。つまり刑事であることは、そう名指されること自体に〔探索者〕の意味がこめられていることになる。この作品の主人公はふたつの真実を探索する。吊された死体の謎という公共的な真実と、失われた自分自身のアイデンティティという個人的な真実。
Drama(Easy:Success)──追求のための手段は重ね合わされている。あらゆるアイコンをクリックし、あらたなテキストを読み進めていくうちに、これらふたつの真実は、じつにゆっくりと、しかし確実に、プレイヤー/主人公にとって明らかなものとなっていく。
作品の世界はおそろしく細密に、巨大に組み上げられているが、作品はそのなかにプレイヤーを引きずりこもうとはしない。ただプレイヤー/主人公が、まるではじめてこの世にやってきた幼児のように、こわごわとそれらのテキストに触れ、いやな気分になったり、興味深く思ったりする行為そのものを、静かに尊重しつづけている。この態度はシステムによって勧められたものではあるのだけれど、それだけに、この作品が語ろうとしている究極的なテーマに、プレイヤーが主体的に接近することを助ける。
Empathy(Medium:Success)──この主人公の行動や反応がどんなものであれ、粘り強く真実にむかって進んでいく姿、そしてその途上で明かされる暗示的な過去や自己認識のプロセスは、彼という人間の根源的なキャラクターをはっきりと物語る。彼は、どうしようもなく、堂々とした、”Detective”〔見つける人〕なのだ。なにかがそこに隠されているかもしれないという彼の期待は、もしかするとこの作品は面白いのかもしれないというプレイヤーの期待と重ね合わされ、そして彼ら自身がその答えを見つけ出していく。ガイドもなく、チュートリアルもなく、攻略法もテクニックも最善のルートもない。そして驚くべきことに、それでいい。それでかまわないのである。
RANDOM TEXT ON INTERNET──百時間のプレイののち、彼らは浜辺の海岸でホシを追い詰めた。そのあたりに自生している植物がはなつ毒素の影響で虚脱したホシを拘束しているとき、葦林の奥からふしぎな生き物があらわれた。かつてどこかで誰かに頼まれて捜索したが、ついに見つからなかったあの生き物、「ファズミッド」があらわれたのだ。その生き物との一時間にもわたる心的会話ののち、彼は自分自身の存在を、肩書きではなく、ひとつの行動する意志として認識した。その意識の流れは、つぎのようなテキストで、簡潔に表現された。
「DETECTIVE / ARRIVING / ON THE SCENE」──「刑事が/現場に/やってくる」
Shivers(Easy:Success)──私たちのほとんどはもう、テキストをじっくりと味わうことをやめてしまった。私たちはもはや、義務的な昼飯としてチェーン店の牛丼をかきこむようにしか(あわてて断るが、牛丼は美味い)、テキストを読むことはない。こんにちのテキストは狂牛病を、SARSを、ヒアリを、テロを、香港でのデモを、コロナ・ウイルスをもたらすが、それらを水際で食い止めようとした誇り高き人々の戦いを歌いあげることはない。あるいはこんにちのテキストは、洗練されていない思想を、洗練されてはいるが根源的に間違っている思想を、間違ってはいないが退屈な思想をもたらす。
Half-Light(Easy:Success)──あるいはこんにちのテキストは、LINEの窓のなかでつぎのように言う、「藤田さん、そろそろお店にこない~?〔ハートの絵文字等〕」。あるいはこんにちのテキストは、SLACKのなかで業務連絡し、GMAILのなかで「お世話になっております」と言う。あるいはこんにちのテキストは、根源的なことを書かず、彼女のおまんこのことや、ぼくのおちんちんのことなどを書く。
Volition(Medium:Success)──このようなテキストに対抗する唯一の手段はただひとつ。テキストを書くことだ。海に浮かぶ汚れたペットボトルのような文章が氾濫するなかで、たったひとつ、たった一文だけでも、優れた文章を加えていくことだ。そしていつの日か良いテキストが書き手に影響し、ひどく病んだ分母に少しずつその数が加えられ、やがてはジュースがペットボトルを圧倒するだろう。
RANDOM TEXT ON INTERNET──この目標の達成のために『Disco Elysium』がとった作戦は、物量であった。この作品はひとりの登場人物に対し、平均して一時間ぶん以上のテキストを用意した。TRPGを精神的母胎とし、プレイヤーが任意に割り振った24の能力値に対応して、テキストを夢幻のように変化させるシステムを組み上げた。ポイント・アンド・クリックを採用し、どのNPCとの会話からはじめてもよい構造をとった。そのなかでひとつの街とひとりの男が危機に瀕し、それらを解決するための手段がゲームプレイのなかで重ね合わされた。
しかし、この作品が行ったことのうちでなによりも偉大なのは、テキストの喜びを復権したことだ。単純な話だったのである。テキストは、面白ければ、読まれる。美しい絵画の線がわれわれに喜びを与えるのとおなじ理由で、うまく書かれたテキストは、ただそれだけで私たちにとっての喜びなのだ。もちろん、そうしたテキストを書くための技法や、プレゼンテーションには、さまざまなやり方がある。しかしテキストは、それが熱意ある者の手によって細心に書かれたとき、それだけで読者を喜ばせるアートとなるのだ。『Disco Elysium』は、その単純だが忘れ去られていたすばらしい真実をも、ビデオゲームのなかで復権させることに成功した。
Suggestion (Easy:Failure)──この作品は、2019年に発表されたビデオゲームのなかで、もっとも優れた作品のうちのひとつである。日本語訳はない。