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「ワイ、戦国武将・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の末裔説」を本気で検証してみた。佐賀の『はじまりの名護屋城。』をきっかけに遠い先祖(?)へ思いを馳せる

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ここでいったん名護屋城跡に戻ります

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さあ、皆さんすっかりお忘れかもしれませんが、今回は佐賀県の「はじまりの名護屋城。」×「信長の野望」コラボレーションのPR記事も兼ねております。

こちらは名護屋城跡に隣接して建てられたてられた名護屋城博物館。まじで立派!

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名護屋城博物館にある、当時を再現したとんでもないデカさの模型。
名護屋城とその城下町は7年間のみ存在し、当時人口20万人を超える世界最大規模を誇った幻の町なのだ。ミニチュアでこれなんだからすさまじいデカさだった事がうかがえる。

全国から人々が集まり、様々な交流が生まれた事で能や茶の湯、焼き物など多くの文化が花開いたらしい。

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博物館内に再現された黄金茶室!
豊臣秀吉が、天皇・公家や大名、そして外国使節との政治・外交上の重要な場面で使っていたそうだ。
豪華絢爛な茶室は息をのむほどの美しさだが、なんとここでお茶の体験もできるらしい!

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そして受付で戦国武将の家紋が売られてたので……、

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長宗我部家の家紋をばっちり買ったぜ!

僕:
ちなみに、長宗我部ってそんなに人気無いですよね……?やっぱみんな、豊臣秀吉とか伊達政宗とか買うだろうし……。

受付のお姉さん:
ええ、まあ……。

な、なんか答えづらいことを聞いてごめんな……。

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長宗我部家の家紋、七つ片喰(かたばみ)。

余談ですがこの日本の「家紋」からインスピレーションを受けてルイ・ヴィトンのモノグラムが生まれたのは有名な話。こうやってまじまじと見ると確かにデザインとして完成してるな~。

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思えば唐津の名護屋城跡で先祖に思いを馳せることから本企画がはじまったわけですが、やっぱり戦国時代の話ってロマンがありますね……!

そして実家に伝わっていた家系図の話

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そしてお待ちかね、実家から発掘された家系図らしきものも含まれた文書について。
全11ページあるのですが、文体が古くて大変読みづらいので、とある助っ人をお呼びする事にしました。

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じゃん!長宗我部維親(ゆきちか)さん。
長宗我部元親五男、右近太夫のご末裔だそうです。

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維親さんは個人的に長宗我部にまつわる逸話・伝承のたぐいを調査されていて、長宗我部について異常に詳しいんですよ。

実はこの方から「鐙について詳しく聞きたい」というコンタクトを頂いた事も、今回の記事を書く大きなきっかけのひとつなので、取材が進むたびに進捗を逐一報告していたのであります。

というわけで家系図らしきものが出てきましたが、いかがでしょう……?

いやー、これを頂いた時は興奮して眠れませんでした(笑)。
結論から言うと、書かれている内容はほぼ間違いのないものだろうな、という印象です。

おおお!そんなに!

私が今まで調べてきて、これまでにわからなかった事がこの文書にはちゃんと書いてあるんですよ。ずっと疑問に思ってたことが、「あ、そういう事だったんだ……!」と納得が行く形で書かれているんです。

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例えば、盛親公の子どもは男子が5人いるんですが、その子どもたちの母親が誰だったのか不明なんですね。盛親公の正室は信親公【※】の娘なのですが、信親の娘が産んだ子どもだとしたら年齢的に5人も子どもを産んでいるのはちょっと辻褄が合わないんです。

※信親公……長宗我部信親。長宗我部元親の長男で烏帽子親は織田信長。幼少期より聡明で将来を有望視され英才教育を受けて育ち、家臣からの人望も厚かったが戸次川の戦いで戦死。信親を溺愛していた元親は信親を失った事により鬱病のような状態になり、その後性格が一変したとされる。そして信親を愛するあまり、盛親に信親の娘を娶らせ、信親の血脈をなんとか残そうとした。詳しくはwikipediaで。

でもここにはその盛親の子どもたちが側室の子とハッキリ書いてありますし、今まで謎だった信親公の娘、つまり正室が亡くなった時期についても「信親ノ息女十八才困難ニ遭ヒ京ニ赴キ間モナク病没ス 子ナシ」とはっきり書かれているんですよね。

 

そして盛親の子どもは「盛恒」「盛高」「盛信」「盛定」など長宗我部の跡継ぎの伝統である、「〇親」って名前になってなくて、「なんでだろう?」ってずっと思ってたんですが、「側室の子どもだったから」と考えると合点がいきます。

 

あとはそれぞれの子ども達の幼名も年齢もはっきり書かれてるんですよね。これはかなり信ぴょう性が高いと思います。

なるほど~~~。

ただ、元親公の子ども達については生まれた順番なんかがズレていたりするんですよ。この文書によると、文親公は「西川主水正」という家臣の家で育ったようなので、元親公の周りの事情についてはあまり詳しくなかったのかもしれません。

 

ヨッピーさんの血縁に関係ありそうな部分をまとめると……、

 

・長宗我部元親六男・文親は長宗我部家の親戚であり家臣である西川家で育った

 

・大坂夏の陣後、西川家の西川勝長や盛親の子、盛高・盛定と一緒に香川県に逃げるも、追手を恐れて吉野川(※四国の吉野川)をくだり、大和路に入って吉野まで逃げた。東軍の追手をかいくぐる事が出来たのは幼少期より西川家に居た事により周囲に知られていなかったから。

 

・吉野に着き、喜佐谷の「うたたね橋」【※】に寄りかかって休んでいたところ、近隣の村人に助けられ、近くに小屋を建てて暮らすことになった。

 

・そして柴刈りの手伝いなどして夜露をしのぐこと3年、吉野山に登った時に荒れ果てた如意輪寺を見て心を痛め再興を決意、江戸の増上寺(今もありますね)で学んでから鉄牛上人となり如意輪寺を再興させた。

 

・引退後は屋号を「新ン屋」そして名前を「豊田義右衛門」とし、家督を盛親の子、盛高に譲り、もう一人の盛親の子、盛定は出家し如意輪寺再興からの二代目住職となる。

 

・家督を譲られた盛高は長女に「文」と名づけ、文を文親の子、義太郎に娶らせ家督を譲り、明治に入るまで豊田家は代々喜佐谷に住んだ。

 

という感じでしょうか。

※うたたね橋……吉野・喜佐谷にある「義経がこの橋の上でうたた寝をした」という伝承が残る橋。今でも橋の跡は現地にある。

うおおおおおおお!壮大だな~~~。盛高さんが長女に「文」っていう名前をつけてるのは、明らかに叔父さんである文親公の恩義に報いようとするものですよね。そして文親公の遺子に娶らせてるのも。

間違いなくそうでしょうね。そして私が「あ、これは本当だろうな」と確信した根拠として、今の香川県の、文親公が潜伏したとされる場所の近くに盛親公の末裔であると自称されている一族がいらっしゃるんですよ。盛親公の子どもたちを含めた一団が一時期、香川県に潜伏していたっていう伝承と合致しますよね。一団のうち、香川に残ったほうが今も残っているという。

でも、長宗我部元親の六男は長宗我部康豊とされているのではないかとか、文親っていう六男の存在はどこの文献にも出て来ないとか気になるところもあるんですが。

長宗我部康豊は後世の軍記物の登場人物で、母親も不明ですし養子説もあるんですよ。だから実在したかどうかはいまだにわからないんです。それに元親公の子どもについては「元親記」というものに書かれているものが元になっているんですけど、この元親記も後世に長宗我部家の元家臣が書いたものなんですね。書いた人が盛親公の子どもを連れて逃げた文親公の事を知っていたら存在を隠してもおかしくない。

 

それに、「長宗我部」っていう名前は江戸期においては指名手配犯のようなものじゃないですか。長宗我部をかくまっていた、っていう事実がバレるとお寺ごと焼かれたりしかねないのに、嘘ならそんなリスクを犯してまで如意輪寺という由緒正しいお寺がわざわざ伝承を残すわけが無いと思います。

言われてみればそんな気がしてきました。

ただ、如意輪寺に伝わっている伝承とは少し違いますね。如意輪寺では「文親公の母親は楠木氏の末裔」と伝わっていますが、この文書によると文親公の母は「小少将ノ方」とされていますし、文親公の娘を盛高に嫁がせたのではなく、盛高の娘を文親公の息子に嫁がせてますし。このへんは口伝で伝えているうちに、どちらかが間違って伝わったのかもしれない。

 

ただ、難しいのは「これだ!」という物的な証拠が出て来ない事ですよね。この文書も近代に書かれたものでしょうし、特に長宗我部みたいに断絶させられた家となると、その名前を文書に残しておいて幕府に見つかったら大ごとになりますから基本的には口伝による伝承頼りになるんですよ。私が色々調べる中で苦労する部分でもあるんですが。一次史料がないとなると歴史家の人達からすると「信ぴょう性ナシ!」ってなっちゃうかもしれないですね。

ふーむ、じゃあまとめると、

 

吉野の如意輪寺を再興させ、西蓮寺も再興させた鉄牛上人という人が実在し、それが豊田家のご先祖様である事は間違いなさそう。だけど、その鉄牛上人が本当に長宗我部元親の息子だったのかどうか、また吉野に逃げた際に盛親の子を連れていたのかどうか、については確実なものとは言えない

 

くらいの結論になるんですかね。

そうなるでしょうね。でも、ここに書かれている文書にある、例えば「西川家」についてなど、あれこれ調査を進めていけば「どうやら本当らしい」みたいなのがわかってくるんじゃないかと思いますし、蓮光寺だって確信がない限り鐙を譲ったりしないでしょうから、ひょっとしたら豊田一族が吉野に隠れている時から蓮光寺とこっそりやりとりしていて、明治に入り、「徳川の時代が終わったから」ということで堂々と出て来たって考えると辻津が合うので、そういう文書がどこかから出て来るかもしれない。長く続くお寺に残された文書のたぐいって膨大な量になるので、ご住職も全部把握してない場合も多いんですよ。

なるほどなーーー。じゃあ僕が今回の記事を世に公開したら、あちこちからまた情報が集まってきてまた新しい事が何かわかるかもしれないですね。

そうです。それが歴史の面白いところなんですよ……!

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もし今回の話が本当なら、僕のこの、可愛い可愛い息子氏が十ン代目とかになるので、ご先祖様も鼻が高いに違いない。

そんなわけでモヤッとした感じで終わってしまって恐縮ですが、確認作業自体がめちゃくちゃ面白かったんですよね……!
謎解きゲームっぽい、っていうんですかね?

隠棲した鉄牛上人は豊田儀右衛門と名乗り、代々豊田氏を称した」というくだりを発見した時とか、「文親公が盛親公の子どもふたりを連れていた」という話を聞いた時は「それだー!!」って鳥肌が立ちました。

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そして、全てのはじまりはここから!

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例えば前田利家の陣では当時、お茶会なども開かれて大名同士が盛んに交流していたらしいので、長宗我部元親もこの陣跡に遊びに来た事があったかもしれない。

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ちなみにこの名護屋城を築いた豊臣秀吉も、吉野でデカい規模のお花見をした記録が残っていたりするので「色々と繋がっていくものですな~」と思っていまいますね。

いやーーー、やっぱり戦国時代にはロマンがあるな~~~!

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ちなみに佐賀県の唐津には唐津城や名護屋城といった歴史的な名所以外にも、全国的に有名な「呼子のイカ」や、

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美しい松林が並ぶ「虹の松原」

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虹の松原内で販売される「からつバーガー」

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夕焼けが美しい「波戸岬」と、すぐそばで海鮮が食べられる屋台など、名所が死ぬほどあるのでぜひ名護屋跡巡りついでに行ってください!

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こちらも錚々たるメンツの武将達がお出迎えします!

唐津も吉野と同じく、大好きで何度も何度もお邪魔している場所なので、戦国時代フリークスの皆さん、ぜひ一度遊びに来てください!

最後に奈良県・喜佐谷のお墓参りへ

そして西蓮寺の方から「長宗我部と豊田さんのお墓は喜佐谷(きさだに)にあるはずですよ」というお話も聞いたのでそのお墓がある「喜佐谷」という集落にも行ってみました。

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喜佐谷。喜佐谷から如意輪寺までは古い道が残っており、歩いて行ける距離です。

そもそも、吉野は母方の実家でもあるので赤ちゃんの頃から何度も来てますし、この喜佐谷でも沢ガニを獲って遊んだりした記憶があるんだよな……。

お墓があるなんて話、そもそも聞いてないのか、聞いたのに忘れたのか今となってはもうわからないのですが、細かい場所がぜんぜんわからないので地域の方に聞いて教えて頂きました。

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そのお墓は、元々墓守をされていた方が施設に入られてしまって以来、誰も近寄らないようになってしまい、今では鹿よけの柵があるとのこと。

僕:
入って良いんですかね?

おばさん:
子孫の人がお墓参りするんだから良いんじゃないですか?

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そんなわけで鹿よけの柵を乗り越え、山の中に入っていくと……、

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立派なお墓があったんですよ……!
お墓が作られたのは明治の頃でしょうか。

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お墓がある場所からは喜佐谷の集落全体が見渡せる。
だいぶ荒れてたので、このへんの修繕とかは僕がやるべきなんでしょうね……。
めっちゃお金かかるじゃん……。


そんなわけでいかがだったでしょうか。

「ぜんぜん知らんやつの家の話を延々されても……」みたいに困惑している人もいるかもしれませんが、歴史好きにとってはけっこう面白い話なのではないかと思います。

しかしながら取材をすすめる内にヒシヒシと感じたのは「血に対する執念」みたいなものです。「なんとしてでも子孫を残すぞ!」っていう。

僕の家だけじゃなく、考えてみれば江戸時代には大きな飢饉が何度もありましたし、近代に入っても大きな戦争が何度もありましたし、今でこそ平和にのほほんと暮らしてますが「ご先祖様は子孫を残すために苦労したんだろうな~~」という部分に思いを馳せると「頑張らなくちゃな~~」という気がしてきますね。パチンコとか打ってる場合じゃない。

それに、今回僕が一念発起して「よーし、調べるか!」と思い立ったのでまだあれこれ手がかりを探す事が出来ましたけど、このまま気にせず僕の息子の代とかになってたらこういう伝承もどんどん消えていっていたかもしれないな、と思うと「今回、唐津に行ってマジで良かったな」と思いました。

混沌の戦国時代から江戸時代、明治大正昭和平成と続き、そして令和まで繋がっている壮大な時の流れを、唐津に集結した大名たちの陣跡を見ながら感じてみるのはいかがでしょうか!

そんな感じです!

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ライター
自称“無職”のボードゲーム好き。 ライターとしてさまざまな媒体で面白記事を執筆。 現在はメディア運営のアドバイザーやWEBライター塾の講師としても活動している。
Twitter:@yoppymodel

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