さらなる手がかりを求め奈良県・吉野へ……
というわけで奈良県の吉野にやって参りました。今回の長宗我部の話は父方の話なのですが、母方の実家は吉野にあるので何度も何度も来ている土地でもあります。
ここで、「吉野」という土地について補足をさせてください。
吉野は今でこそ近鉄電車が通ったり、道路も整備されて大阪・京都あたりからのアクセスが各段に良くなったし、全国的にも桜の名所として知られていますが、近代までは道も悪く、死ぬほどの山奥なので大きな軍勢で攻め込むのは難しい土地、かつ宗教色(吉野は修験道の聖地)も強かったので中央権力の目が届きづらい場所だったんですね。
周囲は山だらけ!
それもあって壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)がいったん身を伏せ、その後挙兵したのも吉野ですし、源義経が武蔵坊弁慶と共に逃げ込んだのも吉野ですし、政争に負けた後醍醐天皇が逃げ込んで南朝を開いたのも吉野です。
つまり、古来より吉野は亡命先として機能していた、日本史上重要な役割を果たした土地なのだ。
そんな土地なので長宗我部のみならず、大坂夏の陣で負けた残党が入り込んでいてもぜんぜんおかしくはない。
この日はあいにくの雨でしたが、如意輪寺にやって参りました。
如意輪寺は南北朝時代、吉野に朝廷を開いた後醍醐天皇ゆかりの地で、後醍醐天皇の御陵もある関西圏では有名なお寺です。
「一目千本」と呼ばれる桜で有名な、吉野における桜の名所のひとつでもある。
お忙しいのにわざわざ時間を割いてくださった加島ご住職。
ちょうどその、ヨッピーさんが座ってらっしゃる場所に昭和天皇がお座りになられてました。
ちょっと、いきなりビビらせないでください!
はっはっは。とは言え、文親公の話は何百年も前のお話ですから、私にもどこまでお話が出来るかわかりませんので、ご期待に沿えなかったら申し訳ありません。
えーと、僕は父親から「我が家は長宗我部盛親の末裔やで」という風に聞いておりまして、その後インターネットであれこれ調べたところ、この如意輪寺の中興の祖とされる長宗我部文親さんが引退した後は「豊田」という姓を名乗り、その豊田一族は喜佐谷(吉野の集落の名前)に住んでいた、みたいな記述を見かけたのですが。
はい、それはその通りですね。大坂夏の陣のあと、文親公はいったん四国のほうに潜伏されていたそうなのですが、徳川家の追手を恐れて今度はこの吉野に来られたと。
はいはい。
そして徳川の時代ですしね、長宗我部の名前のままでは命を狙われますから、文親公は出家して僧侶になられ、この如意輪寺を再興なさるわけです。
如意輪寺は元々真言宗のお寺だったんですが、この時に浄土宗に改宗されてるんですね。これは推測ですが、徳川家が浄土宗ですから、浄土宗のお寺なら目をつけられにくい、というお考えもあったんじゃないかと思います。
そして、その文親公が吉野に逃げ込んだ時に、盛親公の息子をふたり連れていたそうなんです。
おおーーーー、なるほどーーーー。そういうことか~~~。鉄牛上人こと文親公が盛親公の子どもを連れてたということなんですね。そうなるとその、豊田一族は文親公の子孫なのか、文親公が連れていた子どもの子孫なのか、っていうのはどっちなんでしょうかね……?
如意輪寺における、文親公の次の住職はその盛親公の息子さんがなっておられるんですが、文親公が「本流の血筋を残さなければ」という想いで、「自分の娘とその盛親公のお子さんをご結婚させて血脈を残した」というような話は伝わっていますね。いとこ同士という関係でしょうが。
あー、じゃあそこで文親公と盛親公の流れが合流するわけかあ。
そしてこれはちょっと余談なんですが、文親公は言わば落ち武者なのにお寺の再興というお金のかかる事が出来たのは、蜷川(にながわ)一族の支援があったからではないかという説もあります。
蜷川一族……?
「一休さん」に出て来る新右衛門さんの家系ですね。
あー、わかりますわかります。
この蜷川一族は長宗我部家と関係が深かったんですね。それもあって長宗我部家のお家断絶の際、この蜷川家が残務処理を引き受けたのですが、徳川の時代になってからも蜷川家がこっそり長宗我部の子孫たちを助けたのではないか、と言われております。そのバックアップのおかげで如意輪寺を再興する事が出来たのではないかと。
なるほど……。色んな名前が出てきますね。
文親公のお母さまは楠木氏の末裔という事で伝わっておりますから、ヨッピーさんが文親公の子孫であるなら、楠木正成(くすのきまさしげ)公【※】の血も流れていることになりますよ。
※楠木正成……鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。鎌倉幕府を倒したうちのひとりで戦(いくさ)がめちゃくちゃ強かった。足利尊氏のライバル。
だんだん話が大きくなってきた。
文親公はこの如意輪寺を再興させた以外にも、西蓮寺というお寺も再興されておられまして、西蓮寺も吉野にありますからそちらにお話を聞かれても良いかもしれません。
はい!ありがとうございました!
そしてそのまま吉野にある西蓮寺にお邪魔して色々お話を聞いたのですが、お話頂いた内容は如意輪寺の住職がおっしゃられていた事と合致する上、「西蓮寺の歴史をまとめた」という冊子も頂きました。
こちらは長宗我部文親こと鉄牛上人の没後300年を記念してまとめられた冊子で1972年に書かれたもの。
それによると鉄牛上人の子孫たちはそれぞれ僧侶になって吉野の地で教えを広げ寺を開き、その寺々が西蓮寺の末寺となって西蓮寺系列のお寺が吉野で栄えたそうです。今では廃寺になったものも多いそうなのですが。
中身の一部。「弟文親に盛高・盛定の2人を託し」という文言もある。
ただし如意輪寺の住職がおっしゃられた、「文親公の娘と盛親公の息子・盛高が結婚して血脈を残した」というものについては書かれておらず、この冊子では盛親公の血脈と文親公の血脈が枝分かれしているので、僕の家系はこの盛親公ルートの末裔、ということなのかもしれない。
ただし盛高の子が西蓮寺の2代目住職を務めていることになっているので、そのへんもどういういきさつなのか気になるところであります。
なんと長宗我部のことが記された文書を発見!
【鐙の謎】
ここでちょっと話を変えて家に伝わっている「鐙」の話です。これについても調べてみました。
この、盛親公が使っていたとされる鐙なのですが、まったく同じ、もう片方の鐙が盛親公のお墓がある、京都の蓮光寺にも残っております。
僕の父親が盛親公400年法要の時に蓮光寺に貸し出し、「100年ぶりに一対が揃った」みたいに報道されたりもしているのでまずもって本物です。
じゃあなんでその本物の鐙が僕の家にあるか、という部分について蓮光寺のご住職にお話を聞いたのですが、その蓮光寺の住職も「もともと片方しか無いもの」と長年思っていたところ、たまたまお参りに来ていた僕の父親から「ウチにもうひとつがありますねん」という話を聞き、びっくりして「ぜひ400年法要の時に貸してください」「どうぞどうぞ」みたいなやりとりがあったらしい。
そしてその際、僕の父親は「100年前の300年法要の際、祖父が当時の真海住職より譲り受けた」と言っていたらしい。
つまり僕からすると「ひいおじいちゃんが蓮光寺から貰ってきた」という事になります。住職いわく「当時の住職も、豊田氏が盛親公の末裔である何かしらの確信があってお渡ししたのかもしれないですね」とのことでした。
あと、補足ですが僕にとっての「ひいおじいちゃん」は戸籍上のひいおじいちゃんという事でして、ひいおじいちゃんは男子に恵まれなかったため長女の息子、つまり自分の孫であるおじいちゃんを養子にしたそうなので、「戸籍上はひいおじいちゃん、血縁上はひいひいおじいちゃん」という事になります。ややこしい。
【ここまでの情報をまとめると】
春の時期はやたらと桜が綺麗なのが吉野。
というわけで吉野に残る伝承をあれこれまとめてみました。
・長宗我部元親の息子・文親が大坂夏の陣後、盛高・盛定という盛親の子2人を連れて、讃岐刈田の豊田、現在でいう香川県観音寺市あたりに潜伏し、その後奈良県の吉野に逃げた。
・吉野に隠れた文親は出家して鉄牛上人を名乗り、如意輪寺を再興させ、西蓮寺も再興した。
・文親は引退後「豊田」姓を名乗り、豊田一族は吉野近辺でたくさんのお寺を開き、明治になるまでは吉野で暮らしていた。
・明治に入りひいおじいちゃんが大阪に移住、盛親公没後300年法要の際に蓮光寺から鐙を譲り受けた。
という感じです。西蓮寺に記載されていた豊田一族の親戚については西蓮寺の方から連絡先を教えて頂いたのですが、なかなか繋がらないのでこちらについては引き続き調査してみたいところ。
そして、母親から「家系図みたいなやつがどこかにあったはず」という話を聞いたので、「それが見つかったら話が早いのにな~~」などと思いながら実家をあれこれひっくり返しながら漁ってみました。
そしたら……!
あったんですよ……!
あったんです!!!!!!!!
じゃん!!!
うおおおおおおおおおおおおおお!!!
長宗我部の事が色々と書いてある!
恐らくは僕の父親がどこかで保存されていた文書をコピーしたものだと思われる。
文体からして明治後期~昭和前半くらいの間に書かれたものではないかと予想。
果たして何が書かれているのか!?