3月某日
佐賀県唐津市 唐津城
唐津市 名護屋城跡
佐賀県唐津市 戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)陣跡
そして僕。
「ご先祖様なの……?」
さーて!
なぜ中年のおっさんが長宗我部元親陣跡を見て「ご先祖様なの?」などと呟いているのかはひとまず置いておいて、本日は佐賀県唐津市にある名護屋城跡にやって参りました!
今から約430年前の朝鮮出兵時、大陸進出の足がかりとして豊臣秀吉がこの地に巨大な城を築き、そしてその城を中心に全国から150を超える大名・武将が集結して大いに栄えたのが唐津市なのですが、この名護屋城と「信長の野望」がコラボしてあちこちに「周遊サイン」が設置されているのだ。
「はじまりの名護屋城。」のページでは「名護屋城陣跡紹介マップ」が公開されていて、武将や陣跡までのアクセスが紹介されているぞ!
ということで、さっそく行ってみます!
文/ヨッピー
※この記事は佐賀県広報広聴課の提供でお送りします。
定説では「長宗我部氏の本流は途絶えた」とされていますが……
こちらは前田利家の陣跡に設置された周遊サイン!
そして前田利家陣跡!
立派な石垣もあって「陣というより、もはやお城じゃん」という感覚になってしまいました。
他にも豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、石田三成、加藤清正など錚々たる面子が集結しており、まさに戦国オールスター!
そして名護屋城跡には今回はじめてお邪魔したのですが、めちゃくちゃデカくてびっくりしてしまいました。
それもそのはず、当時大坂城に次ぐ全国2番目の規模のお城で、日本の100名城にも選ばれているお城が名護屋城なのであります。
天守台から見た風景。眺めは最高なんだけど、海が目の前で風がすさまじいので、「こんな所で暮らすの大変ですね」って言ったら、学芸員の方も「やはり風を嫌ってか、豊臣秀吉は本丸に住まずにすこし下がった山里丸という曲輪(くるわ)で生活していたそうです」とのことでした。やっぱり。
ちなみに名護屋城の当時の姿は、VRで見ることもできます。
わずか5カ月で築城され、大名の陣屋が130以上もあり、人口20万人を超える城下町だった
往時の姿をぜひ見てほしい!
名護屋城では、タブレット端末も貸し出し中!
堀秀治陣跡
やはり高台にあり、「陣っていうよりお城だなー」などと思いました。
そんな史跡が無数にある!
「戦国好き・お城好きなら一度は来るべきだよね!」というのが名護屋城跡並びに各武将の陣跡なのですが、その中のひとつに長宗我部元親陣跡もあります。
後ろに写っている小高い山が長宗我部元親陣跡。現在は民間の所有地になっているので調査がまだそんなに進んでいないらしい。
さあ、ここで「長宗我部(ちょうそかべ)」という変わった名前の戦国大名について解説させて頂きます。今でもその本拠地であった高知県では人気がある武将だったりするのですが。
長宗我部氏、元々は土佐(今の高知県)の1地方の豪族だったのですが、中興の祖とされる長宗我部元親が破竹の勢いで周囲へ領地を広げ、土佐一国、そして四国をほぼ統一したところで豊臣秀吉の四国攻めに遭い降伏。その結果土佐一国の領有を安堵された、という歴史を持ちます。
なので豊臣秀吉傘下の大名として朝鮮出兵にも参加しており、その頃の名残がこの「長宗我部元親陣跡」です。
そしてその元親が亡くなってすぐに関ケ原の戦いが起こり、その頃は盛親という元親の子が家督を継いでいたのですが、西軍側の大名として参戦したため、敗戦後に「土佐1国の領有もまかりならん」という事で領地を没収され、盛親は京都で浪人生活を送ることになります。
その後勃発した大坂冬の陣及び大坂夏の陣に真田幸村らと共に参戦するも敗戦、おちのびた先の京都で見つかって一族郎党共に斬首され、元親→盛親と続いた長宗我部家の本流は途絶えたというのが歴史的な定説になっているのです。
「夏草の賦(ふ)」「戦雲の夢」など長宗我部元親及び盛親を主人公とした小説を司馬遼太郎が書いているのですが、その結びも、
「長宗我部家はあとかたもなくなり、歴史から消えた」
司馬遼太郎「夏草の賦」より
というものになっていますし、大手新聞社の記事もWikipediaも全部そうです。基本的に「長宗我部の本流は途絶えた」というのが歴史的な定説なのです。
それなのに僕は何故か父親から「ウチは長宗我部盛親の末裔やで」みたいな事を言われて育ってるんですよね。本流の血は途絶えたはずなのに。
もしこれが事実であるなら、「長宗我部氏本流の血脈がいまなお残っている」という事で「長宗我部氏の本流は途絶えた」という定説が覆る事になります。
しかしながら小学生くらいの時に父親から聞いた話ですし、子ども心に「ホンマかいな」くらいに思っていたので特に気に留めることもなく元気よくカブトムシを捕まえたり大学で麻雀ばっかりやって留年したり、東京の満員電車に揺られまくって疲弊しつつもそれなりに成長しましてね。
今ではもう立派なおっさんになってしまっているのですが、そうこうしているうちに僕の父親が病気になってしまい、あまり細かいコミュニケーションを取れるような状態ではなくなってしまったため、その「我が家、長宗我部盛親の末裔説」について父親から詳しい話を聞く事も出来なくなってしまいました。
そんな時にこの、佐賀県の「はじまりの名護屋城。」×「信長の野望」コラボレーションの話を聞いたので、「戦国時代の話だし、この機会に本当かどうか、調べてみようやないか」と思い立った、というのが今回の流れです。
前置きが長くてすいません、そして結末もやたらと壮大な話になってしまうのですが、お付き合い頂ければ幸いです。
まずは手探りでいろいろ探してみる
【いま現在持っている情報】
長宗我部盛親が使っていたとされる鐙(あぶみ)。
・「我が豊田家は長宗我部盛親の末裔である」ということを父親から聞かされた。
・家になぜか「長宗我部盛親が使っていた」とされる鐙がある。
・先祖から伝わった「備前長船祐定」「同田貫上野介」という刀の刀身も残っている。
・豊田家は僕のひいおじいちゃんが事業で一発当てて大金持ちになったけど、第二次世界大戦の大阪大空襲でお屋敷も倉も工場も家財道具も全部焼けて没落した。
・僕のおじいちゃんは全財産を失ったショックなのか、戦後の混乱期もまったく働かず残った土地を切り売りすることで生活し、僕の父親が物心ついた時には財産と呼べるようなものは全部なくなっていた。
・父親が「あの土地が今でもあれば……」などとよくボヤいてたけど、子ども心に「無くなったもんはしょうがないやないか」などと思っていた。
このへんの情報を総合すると、「それ、大金持ちのひいおじいちゃんがカネにモノを言わせて鐙だの刀だのを入手して、そのあと『我が家は長宗我部の末裔ちゅうことにしとこ』って、適当に捏造したんちゃうの……?」と思わずにはおられません。
【色々探してみよう】
そんなわけで「何か情報が無いかな~」と思って、まずはあれこれ検索をかけてみるんですよ。「長宗我部 末裔」とか、「長宗我部 子孫」とか色々。
ご先祖様の情報について一生懸命、真剣なまなざしで調査する僕。
でも出て来るのはやはり「本流の長宗我部氏は途絶えた」っていう情報ばかりなんですよね。
今でも長宗我部姓を名乗っておられる、長宗我部氏の末裔の方はたくさんいるんですけど、この盛親の血筋は完全に断絶してるっぽいんですよ。
「さすがにネットで調べてもダメか~」と、諦めかけたその時です。
「親戚が居たりしないかな」と思って、「長宗我部 豊田」でX(旧Twitter)で検索かけてみたんですよ。そしたらこんな書き込みを見つけましてね。
「長宗我部」と「豊田」の名前が一緒に出て来た!!
うおおおお!
これもかもしれん!!!
そこで、「長宗我部文親って聞いたことないな」などと思いながら、今度は「長宗我部文親」で検索をかけるじゃないですか。色々検索してみても「長宗我部元親」の情報しか出て来なくて検索ワードを「鉄牛上人」とかあれこれ変えつつ検索していたらこのHPがひっかかったのです。
それが、奈良県吉野の如意輪寺(にょいりんじ)のHP!
この如意輪寺のHPにはこういう記載があります。
その後、江戸時代に四国の戦国武将・長曾我部元親と、正行公の弟・楠正儀の末裔となる女性との間に生まれた文親と呼ばれる武将が出家して文誉鉄牛上人となり、如意輪寺中興上人として入りました。その際に真言宗から浄土宗へと改宗され、念仏を弘通し、御陵を守護するお寺として現在に至っています。
そして更にこういう記事も引っかかった!
現在の西蓮寺が開かれたのは、江戸時代の初期、文誉鉄牛上人による。
<中略>
隠棲した鉄牛上人は豊田儀右衛門と名乗り、代々豊田氏を称した。
その末裔は今も大阪市内に住む。
うおおおお!
やっぱり「豊田」の名前が出てきた!!
大阪市内っていうのも合致してる!
僕の祖先って、これでは!?
しかしながら、これが本当だとしても、「先祖が長宗我部元親の子、文親」という事になるので、盛親に続く血脈という事にはならないんですよね。
このへんのいきさつをもう少し詳しく知りたいと思い、この楠正行通信を書かれた扇谷先生にコンタクトを取ってみたのですが、代理の方がおっしゃるには現在対応出来ない状況にあるとのことでした。
ここらへんで如意輪寺のある、奈良県吉野の出身である僕の母親に「長宗我部の末裔が吉野に逃げてた」みたいな話知ってる?と聞いたところ、「そういえばお父さんがなんかそんな事言うてたわ」との事でした。言われてみれば、そんな話を聞いたような気もする……!
うーん。どうしよう。