みなさま、こんばんは。黒木ほの香です。
第一回の記事を読んでくださりありがとうございます。
感想を伝えてくれるみなさまのお声があたたかいものばかりで、嬉しいやら恥ずかしいやら照れくさいやら顔から火が出るやら…まぁつまるところ、とても「テレ…テレ…」としています。
前回の更新日は、大崎甘奈役で出演していた『アイドルマスターシャイニーカラーズ』の6thライブツアーの最終日で、ステージに立つといういつまでも慣れることのない緊張感の中にエッセイ公開へのドキドキがじわりとにじんでいたのを覚えています。
とてもいい六周年のライブだったのにくわえ一本目のエッセイの反応も良かったので、わたしの自己肯定感はグングンと高まっていきました。その瞬間高度は今回の会場であったKアリーナ横浜のLEVEL7に匹敵すると言っても過言ではありません。
Kアリーナ、初めて行きましたがいいハコでした。
客席が棚田のように段々になっていてステージが見やすいだろうし、わたしたちもみなさんの挙動が確認できて嬉しいものです。
\( ‘ω’)/<後ろの方まで見えてるよー!
そんなKアリーナにはスタンド席にLEVELが設定されており、簡単に言えば二階席、三階席…ということ。ただの階数なのに、LEVELというと途端に格好良くなって胸の底からわくわくが顔を出しますよね…。こんな瑣末なことでもテンションが上がってしまう我々オタクの心を横浜という街はよくわかっている…。
LEVEL7というのは、Kアリーナの中でも一番高い位置にあるいわゆる天井席で、その高さは「ビルの四階くらいなんだって」とS本さんに教えてもらいました。(※1)
「高いねー!」とわたしが言うと、わたしの隣で一緒に話を聞いていたY名さんが「ビルじゃん」と一言。
へ?なにそれ天然ボケ?元からビルで例えてんだよ!
全く…これがみぃかわというやつか…。
とまぁシャニマス6thライブの話は一旦置いておいて、二回目の更新では何をお話しようかと考えましたが、ここはやはりわたし自身について掘り下げるのがよい気がしました。ネットサーフィンの末にこの場所へ辿り着いて「誰やねんコイツ」って思っている方もいるかもしれませんからね。そんな人にも配慮を欠かさない、わたしは博愛主義なのです。(※2)
改めまして、黒木ほの香と言います。
二十歳のころから、声を使う仕事をしています。
月並みではありますがキャラクターに命を吹き込むことに憧れて声優を目指しました。
家族構成は、あまり家にいなかった大黒柱の父に、(ONE PIECEの)ドンキホーテ・ドフラミンゴみたいなコートを着てレゲエのライブに行く母、かつては宇宙一かっこよかった兄、そしてそんな一家の太陽であるわたしの四人です。
幼稚園生のころからなりきりごっこが好きで、自分ではない、何者かになりたがっていました。小学校中学年の時には仲のいいお友達と劇団を作って、道徳の時間に演劇の公演をしたり。今のわたしからするととんでもない積極性と行動力で、あのころの自分は無敵だったんだなぁと羨ましくなります。
初めて上演した作品はシンデレラをアレンジしたもので、わたしは脚本家であり演出家であり、継母役でもありました。
父の影響で知った『サクラ大戦』が好きで、神崎すみれという高飛車なキャラクターの物真似をするのにハマっていたためか、ヒロインであるシンデレラより嫌味な継母をやりたかったのです。
とはいえ、真宮寺さくらも好きだし、アイリスこと“イリス・シャトーブリアン”のことも大好きでした。
特にアイリスはわたしのストライクゾーンど真ん中の女の子で、金髪の幼き令嬢であり超能力者。は〜最高。
アイリスが肌身離さず持っているクマのぬいぐるみの『ジャンポール』という名前を、わたしもトイザらスで買ってもらったぬいぐるみに付けていました。わたしのは、猫のぬいぐるみだったけど。
そんな幼少期を過ごしたわたしが声優になりたいと思うのは自然なこと…のようにも思えますが、高校へ進学したころには「将来は看護師になる」と思っていました。
祖母(前回のエッセイとは違う方)から常々「看護師になりなさい」と言われていたから、そうなるものだと考えていたし、特に悩むことなく「看護系の学校に行くなら理数系の授業を取らなアカンよな〜」なんて感じで理数選択をしていました。
どんどんついていけなくなる数II数Bの授業になんとか食らいつき続け、高校三年生に進んだある夏の日のこと。
進路を決める最後の面談用紙を前にした時に「わたしがなりたいものは、看護師じゃないかも」とふと思ったのです。
そこからのわたしは、早かった。
自分のやってみたいことは芝居だ!と、声優学校の資料を取り寄せて、気になるカリキュラムを見つけたら体験入学の申し込みをしました。結果、二校目に足を運んだAMG大阪校へ入学を決めたのでした。
母は「声優になりたい」と言ったわたしに驚きながらも
「ほの香やったらイケるやろ」
「なんてったって、お母さんの娘やからな」
と、自分をアゲながらも背中を押してくれました。
この『あたしの娘やから』という言葉は母の昔からの口癖で、わたしが周りの人達から褒められた時に母がよく発していた記憶があります。手柄を横取りするスタイルだなぁと不満を持ったことも一度や二度じゃないです。(笑)
ただ、あの日に限って言えば『もし上手く行かなかった時は、一緒に責任を背負うよ』という優しい気持ちからくるものだったのかもしれません。
そうして二年間声優学校に通い、その集大成である事務所決定オーディションでは落ちてしまいそうになっていたのですが、学内で一番の友人であった同期が何気なく放った言葉のおかげで、なんとか三次審査へ進めたのです。
彼女には、折りに触れて心の中で感謝をしています。
晴れて最終審査に合格し事務所に入所したのは良いものの、所属してからの一、二年くらいはほとんど仕事がなく、お給料も雀の涙。
お給料が一円も入らない月は事務所からの給料明細の送付が無いので、給料日が近付くと郵便ポストを見るのにほんの少し勇気が必要でした。
ガチャリと無駄に大きく響く音と裏腹に慎重にゆっくりと開く銀色の扉。左目をつぶりながら覗いて何も入っていなかった時のガックリ感は、もう思い出したくないものです…。
ちなみに、整理整頓が趣味のわたしはことあるごとに引き出しの中を整理し直すのですが、昔の書類たちを見ていると、月ごとに片付けてある明細が欠けに欠けていてあの頃のわたしを慰めてあげたい気持ちになります(笑)。
大阪から上京して一人暮らしのわたしが生活費をまかなえるわけもなく、家賃を両親に払ってもらいながらアルバイトをする日々。
ほぼ毎日あるレッスンに慣れない自炊をして狭いワンルームで迎える夜に、わたしは気付かぬうちにとても疲れていたようで「がんばりたくても、がんばれないんですぅ」とマネージャーに訴えたこともありました。
若い…若すぎる…。恥ずかしいぜ、まったく!
そんな状況でしたから「なんでもやります!」をいろんな場所で唱えていたら、いろんなことをやらせていただけるようになりました。今では生放送やラジオなどの『わたし自身』が求められる機会がとても増えたんですよね。「生放送から黒木さんを知りました」と言われることも多々あります。すごい時代だ!
過去にしてきた何気ない経験や選択がいまこの場所にいる自分に繋がっていると思うと、なんとも不思議なことです。
ひとつひとつの出来事を大切に、一日一日を丁寧に過ごしていきたいな、なんて文字を打ちながら思いました。
みなさんも、忙しなく過ぎていく今日を、いつもよりもう少し、大切にしてみませんか?
黒木ほの香
※1…会話を載せる許可取りのためS本さんに連絡を入れたところ、快くOKをもらいました。ありがとう。その際「本当に4階かはわからないけど!!!」とのメッセージがきたのでササッと調べたところ、ぜんっぜんビル四階の高さじゃなかった。そりゃあビルのつくりによるから多少のばらつきは起こるだろうけれど、それにしたって四階ではないだろうなという高さでした。女性声優はふわふわとした会話を繰り広げているということが露呈してしまったな…。みぃかわ、あきかわ、ほのかわなオチでした。
※2…わたしのことをよく知る人なら心の中で唱えたでしょう「ダウト」と。そうです、悲しいことに嘘です。とある番組で『初デートの思い出』というテーマで視聴者が送ってくれたメールを紹介した時は、文面から伝わる多幸感に肌を灼かれ「お前は土でも食ってろ!」とコメントしたこともありました。しかも、その発言をしたことを先日まで忘れていました。なんとも薄情者です。
編集:川野優希
企画協力:スターダストプロモーション