ゲーム批評史<2010年代>:『ポケモンGO』という虚構が、現実を塗り替える
――つまり、自由な主体性を要求されるオープンワールドや、暴力や戦争と向き合うFPSのような、いま世界を席巻しているAAAタイトルの特徴は、残念ながら日本人の国民性には合わなかろう、と(笑)。そこで聞きたいのが、久々に社会現象と言えるほどのムーブメントを起こした『ポケモンGO』です。
中川氏:
洋ゲーのAAAタイトルが日本で流行らないのは、映画で言えば『ダークナイト』みたいなものですよね。あれはアメリカ社会固有の文脈が剥き出しで出てしまっているから、本当に人類学的な意味では“グローバル”ではないというのが僕の見方です。
対して、日本アニメのキャラクター表現とかを吸収しつつ普遍的な物語構造やポリティカルコレクトネスに配慮した『アナ雪』とか『ズートピア』とかのディズニー作品については我が国でも大人気なわけで、むしろこっちに近いムーブメントが『ポケモンGO』なのだと思います。だからこそ、洋ゲー的な脈絡と日本ゲーム的な脈絡の合流点として、拙著のオチにもなりえたわけです。
で、さきほどソーシャルゲームについて、虚構の楽しさが現実に呑み込まれてしまったと言いましたが、『ポケモンGO』では逆に、虚構の力、コンテンツの力が現実のほうを呑み込みつつある。そういう次のターンに入ってきたなという印象です。
ゲームの話から離れますが、『ポケモンGO』と同時期に、“現実VS虚構”を打ち出した『シン・ゴジラ』があれだけのヒットに発展したのも、やはりフィクションが現実を呑み込む揺り戻しのターンに入ったことを示しているような気がします。
――ゲームを超えた、一つの潮流の中にあるという感じでしょうか。
中川氏:
さきほど2000年代後半で見た、アーキテクチャーの進歩によってコミュニケーションがコンテンツを呑み込んでいく全文化的な潮流の、さらに次の展開ですね。『ポケモンGO』よりも先に、日本では『妖怪ウォッチ』が流行していたわけですが、これは妖怪ウォッチというAR的なウェアラブルデバイスを通じて、「見えないものが見える」ように人間の感覚を拡張させるというギミックをフィーチャーした作品です。
今の子どもたちって、コミュニケーションそのものが物理環境以上に重要な、疑似自然環境みたいになっているじゃないですか。その疑似自然環境の中に紛れ込んでいる、コミュニケーション的な問題に紐づけられたモンスターとしての妖怪を、人間の持つシンボル化能力を強化してあげることで目に見えるようにする。
――なるほど、確かに『妖怪ウォッチ』とはそういうものなのでしょうね。LINEがあって、Twitterがあって、常にコミュニケーションが可視化されている状況では、僕らの若い頃よりも、コミュニケーションが物理的実態のように捉えられる感覚が生まれるというのも分かります。
中川氏:
そういうビジョンをまず、3DSの中で疑似体験させてくれたのが、『妖怪ウォッチ』だと思います。
『ポケモンGO』は『妖怪ウォッチ』が提示したそのビジョンを、先行する『Ingress』の地図情報システムを強引に使って、現実の風景をどんどん塗り替えていくという形で実現させてしまったわけです。
2000年代後半からのコミュニケーションメディア全盛の時代に入って、実用の効率の原理に呑み込まれていったはずの原初的な遊びが、スマートフォンという、基本的にはみんなが実用的なコミュニケーションのために使っているものにふたたび宿って、現実には見えないものが見せる別世界への誘い役になる。虚構によって現実を拡張していくことを、まさに今『ポケモンGO』がやっているわけじゃないですか。
その意味で、どんどんと個別的になっていったゲーム批評が、『ポケモンGO』によって今ふたたび、全体性を語れるところに帰ってきた感はありますよね。
――これまでのインタビューは、そこに至るまでの長い長い序文だったという気がしてきました(笑)。
中川氏:
かつて『ゼビウス』が、まだ近代的な文芸にはなっていないし、でも単なる玩具でもない、コンテンツとコミュニケーション体験の間(あわい)にあったからこそ、あれだけ豊穣な語りや体験をもたらしたのと同様の役割を、『ポケモンGO』が今、果たしつつあると思うんです。
――そこで、今度こそ中沢新一さんにやられる前に、もっと若い誰かがやるべきなんでしょうね(笑)。それにしても、ふたたびゲーム批評が全体性を語れる状況を招来したのが、ゲーム批評の始まりに位置していた人々が見落としていた、『ポケモン』というIPだったという、その現象自体がすごく批評的です。
ゲーム批評史<未来>:ゲームを語ることは、社会を語ることよりも重要になる
――ちなみに、『ポケモンGO』って、ゲーミフィケーションなのでしょうか?
中川氏:
ゲーミフィケーションというのは、ゲームの遊びを現実側の実利に回収するためのメソッドなので、僕はそうではないと思います。遊びと現実が渾然一体となっているという点では同じ方向を向いているんだけど、しかしそのベクトルは正反対ですよね。
――ゲーミフィケーションが、ゲームを「利用」した実利を得る仕組みになっているのに対して、『ポケモンGO』は現実に対してゲームの価値を与えるものである、と。
中川氏:
そういうことです。
ただ、それは使い方の問題であって、『ポケモンGO』で言えば、ルアーモジュールを使ってお店への集客を推進しようといった話になれば、それはゲーミフィケーションですよ。でも、ゲームコンテンツとしての『ポケモンGO』そのものが本来向いている方向は、むしろそれとは逆ですよね。
『ポケモンGO』が示しているのは、現実世界そのものが、実利的な価値とは別の意味を持った巨大なゲームフィールドになりうるということだと思います。そして、この巨大なゲームフィールドを語るということが、現実そのものを語るということと等価になりうる可能性なのではないのかな、とも。
――あるゲームクリエイターの方が言っていたんですけど、ゲームというのは人間の行動に価値を付加する遊びなんだ、と。だから、なぜ自分がゲームを作っているかというと、世の中の価値の総量を増やすためであると言うんです。
中川氏:
それはいい言葉ですね。
『ポケモンGO』でポケモンを捕まえることに、実利的な意味は何もないんです。でもそれを嬉しいと思うのは、そこに人間にとっての新しい価値が生まれていることを意味しているわけですから。
――少し文明論みたいな話をさせてもらうと、グローバル化以降の社会では成功体験を得るのは相対的に難しくなるわけじゃないですか。だって、全員が同じゲームボードに乗せられるということは、よほど優秀なエリート以外は基本99%の負け組に入るわけですから。この話は、プレイヤー数が増えると、上位に入る競争は厳しくなるよ、という対戦型ゲームが好きな人は身をもってよく知ってるお話です。その中で、『ポケモンGO』のような別のゲームボードが用意されて、そこで成功体験を積めるのは、決して悪くない話のはずなんです。
中川氏:
その通りだと思います。
地球に占める人類全体の人口規模が小さかった社会であれば、狩猟採集バンドとか農村共同体のように、そもそも生存自体が困難なので生きているだけで成功者だったし、1人1人が通過儀礼などを通じて社会内での役割とか意義を比較的平等に獲得して集団での成功体験や生き甲斐を感じることもできたんですよ。
でも、ここまで生存人口の母数が大きくなってしまって、寿命も延びて、かつ個人の独立性が高くなった今のスケールの社会では、どうなんだろうと思うんです。
――衣食住みたいな最低限度の豊かさは、それは昔より上昇していると思いますが、人間が自分に誇りを持てるような仕事などでの競争となると、もうこれまでの人類社会の比じゃない激しさですからね。
中川氏:
しかも、所有や能力をはじめ、様々な格差による結果の不平等が前提になってしまうので、成員全体に生き甲斐とか成功体験を行き渡らせるのが著しく困難になっているわけです。
そのときに、コンピュータという情報装置の力を使って何らかの精神的な価値をも生産し、個々人のクオリティ・オブ・ライフを埋め合わせなければいけない時代になりつつあるんじゃないかな、と思うんです。
――それがゲームの役割であろう、と?
中川氏:
僕は、戦後から21世紀にかけて、なぜこんなにエンタメが発展したのかと考えると、そこには何かしら人間にとっての必然性があるのだろうと、考えてしまうんです。
そこで思うのは、戦争の世紀に絶滅の危機といえるくらいの状況をひとまずやり過ごしてからというもの、先進国の社会では、その後半世紀くらいを占めるデジタルゲーム史のプロセスを通じて、“生きる意味”を遊びの仮想体験で代替していくシステムを進歩させてきたことなんです。
――まあ、会社では全く労働なんてしたくないしダメダメだけど、このゲームだったら誰にも負けない、という人はいますよね(苦笑)。
中川氏:
でしょう。
そもそも、これだけ生物としての物質的なニーズが満たされた社会では、もう何のために生きるのかが自明でなくなるのは間違いないんです。そうなると、今度は“生きる目的”そのものを創出することが、これからの社会にとって最も重要な課題になってくるのは必然だと思います。
――もう仕事で誇りを得るとか、一部の人間にしか出来ないことかもしれないし、この無意味な人生に遊びで意味を与えるというのは、割と現実味のある未来ですよね。
中川氏:
究極的には、人生そのものが壮大な暇つぶしであり、そのような生の無意味と根源的に向き合う営みが“遊び”なんですよ。たぶん、これからのゲームは、もっとダイレクトに個々人の現実と結びついて、生き甲斐そのものになっていくのだろうと思います。
今年『ポケモンGO』が現実世界を侵食するかたちでブレイクしたことや、VRが本格普及していくことで、そういう可能性をようやくみんなが認識する時代の始まりに立ったのではないのかなと感じています。
――21世紀、「ゲーム」を語ることは「社会」を語ることよりも重要になる、という感じでしょうか(笑)。まあ、『ポケモンGO』のリリースは、東京都知事選よりもずっと重要なトピックとして報じられてましたからね。
中川氏:
そうですよね。
最初の方で、ゲーム批評の初期にリバースエンジニアリング的な意味での批評が必要とされて、そこから新しいゲームが生まれてきたという話があったでしょ。まさに、ポケモンはそこから生まれたものだし。
でも、あれはデジタルの領域にとどまっていた時代の話で、今やゲームと呼ばれるものの領域は、産業規模的にもどんどん大きくなってるし、その範囲も現実それ自体まで巻き込みだしてしまった。
そのときに、ゲームを批評する言葉は、現実を作り直していくための言葉に、限りなく近づいていくことになるんじゃないかな、と思うんです。文明そのものが遊びによって駆動されていくという“文明の遊戯史観”が、かつてないレベルで真実味を帯びてきている――そんなことを『ポケモンGO』の登場は予感させますよね(了)。
今回のインタビューで中川氏は、こちらの質問に対してときには自問自答するような形でじっくりと思索を巡らせ、考え抜いた上で言葉を紡いでいった。その様子からは、ともすれば自分自身の体験や思い出を語る形になりがちな“ゲーム語り”ではなく、あくまで全体性、普遍性の観点からゲームを語ろうとする、『現代ゲーム全史』の記述スタイルにも通じる真摯な姿勢が感じられた。
そうした思索を重ねた上で中川氏がたどり着いた結論は、本文にもあるように「ゲームを語る言葉は、我々の社会そのものを語ることよりも重要だ」というものだ。その言葉は、現実を呑み込むゲームの力強さを感じさせる一方で、ゲームを語る言葉がそれだけの重みを持っているということも指し示している。
また、今回のインタビューでも話題に上ったように、現在はゲーム実況をはじめとして、誰もが気軽にゲームについて語り、その語り自体がコンテンツとして流通する時代となっている。ゲームを語る言葉はすでに、作り手を目指す人のためのものでも、ゲームを評価したい人のためのものでもなく、すでに万人に開かれているわけだ。
であるならば。“ゲーム批評”のこれから、未来とは、ゲームを愛するあなた自身が語るものなのだ。——そういうことにして、本稿を締めくくらせて頂きたいと思う。