『ワニワニパニック』開発者からグループ会長にまで上り詰めた男が語る、ナムコ激動の40年。創業者・中村雅哉との思い出、バンダイ経営統合の舞台裏【バンダイナムコ前会長・石川祝男インタビュー:ゲームの企画書】

『ワニワニパニック』開発者からグループ会長にまで上り詰めた男が語る、ナムコ激動の40年。創業者・中村雅哉との思い出、バンダイ経営統合の舞台裏【バンダイナムコ前会長・石川祝男インタビュー:ゲームの企画書】

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 大きな口を開けて迫ってくる、何匹ものワニをハンマーで撃退する──登場以来、プレイ中に味わえるスリルが老若男女問わずに人気を集める『ワニワニパニック』が誕生したのは、1989年のことである。

『ワニワニパニック』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

 以来、じつに29年もの長きにわたってロングセラー商品となった国民的エレメカを企画・開発した男は、その後『アイドルマスター』ではエグゼクティブ・プロデューサーとして作品を支え、2006年にはバンダイナムコゲームス(現バンダイナムコエンターテインメント)の代表取締役社長に就任。
 2009年にはバンダイナムコホールディングスの代表取締役社長として、激動のエンタメ界を突き進む巨大な船の舵取りを任されていた。

 その男の名は、石川祝男

 2015年よりバンダイナムコホールディングス代表取締役会長に就任した石川氏は、バンダイナムコグループの成長を推進し、2018年6月をもって取締役会長を勇退。顧問に就任することになった。

石川祝男氏

 「残りの人生は、立ち食い蕎麦店をやりたい」

 と微笑む石川氏だが、第2の人生を始める前に、ぜひ語っていただきたいことがある。

 『ワニワニパニック』のような大ヒット作品が生まれるまでの苦労、プレイステーション2発表直後に氏の率いるアーケードゲーム開発部門に訪れた危機、バンダイナムコの社長として向かい合った“赤字300億円”というどん底……。
 中村製作所からナムコに社名変更した翌年に入社し、“ナムコの生き字引”ともいえる石川氏のエンターテインメント業界人生は、必ずしも“順風満帆”というわけではなかっただろう。しかし、数々の困難を乗り越えたからこそ得ることができた経験則・哲学があるはずだ。

 そこで今回、“彼の言葉”を記録として後世に残すべく、インタビューを敢行。
 取材には、エレメカ(エレクトロメカニカルマシン【※】)やアーケード事業で石川氏と苦楽をともにしてきた、バンダイナムコアミューズメント執行役員の相木伸一郎氏と、同社クリエイティブフェローの小山順一朗氏にも同席いただいた。

 ナムコをよく知るお三方には、創業者である故・中村雅哉氏との思い出にはじまり、「遊びをクリエイトする」ためにナムコ社内で行われていた数々の試み、そしてバンダイとの統合の舞台裏、さらには大企業・バンダイナムコが抱えていた悩みとその突破口までを語っていただいた。
 約3時間におよぶロングインタビューとなったが、40年にわたるナムコ激動の歴史が凝縮された貴重な内容になっているので、ぜひご覧いただきたい。

※エレメカ
Electro Mechanical machineの略。ビデオゲームが登場する前、コンピュータを使わずに主にスイッチやモーター、ランプなどの機械的な制御を中心に作られていたゲームやプライズマシンのこと。時代とともにIC・LSIなども採用されているが、主に機械的な制御を中心に成り立っているものを指す。

聞き手/TAITAI
文/RonなかJ
写真/増田雄介


相木伸一郎氏(写真左)、石川祝男氏(写真中央)、小山順一朗氏(写真右)

ロングセラー『ワニワニパニック』は、自分を信じて粘り強くプレゼンを続けた渾身の企画

──この6月で会長をご勇退されると伺い、「お話を聞くチャンスはこのタイミングしかない!」と考えておりました。

石川祝男氏(以下、石川氏):
 ちょうど昨日(2018年5月9日)、取締役会が終わってほっとしているところです。おかげさまで2017年度はいい決算にできました。
 今後は顧問を務めさせてもらう予定です。

──先ほど秘書の方から、「取材をお受けするのは、これが最後かもしれません」とお聞きしました。なので、たくさん伺いたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 さて、石川さんといえば、いまなお大人気のエレメカ『ワニワニパニック』【※】を手掛けられたことが、まず頭に浮かびます。1989年のことです。

※ワニワニパニック
1989年にアーケード用としてリリースされたエレメカ。プレイヤーのほうに向かってくるワニをハンマーで叩いて撃退するゲーム。ナンバリングタイトルは3作。『カニカニパニック』、『サメサメパニック』などの派生作品のほか、リハビリを目的とした『ワニワニパニックRT』、『ドキドキヘビ退治RT』なども販売された。

石川氏:
 そうですね。私も企画ではいくつか失敗をしましたけれど、『ワニワニパニック』は大ヒットしました。今日は、ちょっと昔の資料を持ってきました。

小山順一朗氏(以下、小山氏):
 石川さんも企画書を書いたことがあったんですね?

石川氏:
 当たり前だよ(笑)。はじめて見ただろ? 「私が企画書を書いていた」って、ウソだと思ってたんだろ(笑)。

──これは……かなり貴重な資料ですね。

石川氏:
 これを見ると最初に書いた企画書が「昭和62年(1987年)10月2日」付けになっていますね。誕生まで2年かかったわけか……。

小山氏:
 企画書の字を見るに、当時すでに会社にはワープロがあったんです?

石川氏:
 その頃は各部署に1台ずつワープロがあって、時間を決めて使わせてもらっていた(笑)。企画書はたった3枚ですね。もう、いかにも昭和の企画書ですよ。

──最初の企画段階から、すでに名前が『ワニワニパニック』になっていますね。

石川氏:
 当時はモグラ退治のゲームが流行っていたから、それならモグラよりはワニのほうが面白いと考えて、ペラ3枚の企画書で提案した。イラストもありますね。

石川氏:
 いま見るとふざけた企画書って気がしますよ。
 「ここは、アマゾンのジャングル。ドンドコドンドコ、遠くから何やら不気味な音が鳴り響いている。そろそろ凶暴なワニが潜んでいるあたりだ。出た〜! 大口を開けたワニがあちこちから向かってきた。危ない! 右手のハンマーで迎え撃て!」とか。

相木伸一郎氏(以下、相木氏):
 そんなストーリーだったんだ。企画書にゲーム内容が集約されているところはすばらしい。企画書はシンプルなのがいちばんいいですよね。
 この時点で“ワニが5匹出る”のも決まっていたのか。

石川氏:
 この企画書を当時の部長に持って行ったんですけれど、「モグラ退治と同じじゃないか」と言われて1回却下されたんです。「これまでにも『おかし大作戦』【※】とか、アクションゲームを作ってきたんだから、もうやめたら?」ってね。

※おかし大作戦
1981年にアーケード用としてリリースされたエレメカ。ピョコタンと呼ばれるお菓子のモンスターをハンマーで叩く、もぐら叩き風のゲーム。筐体はケーキをモチーフにしている。

──でも、筐体の手前部分は湾曲していて、見た目にも違いがありますよ。企画書のイラストではワニが自分に向かって来る様子も表現しているんですね。

相木氏:
 最初の頃の企画書のイラストには「ラコステ」って書いてある(笑)。

小山氏:
 湾曲は……作るのは技術者泣かせですよ。

相木氏:
 技術者に「やめてくれ」って言われるよね(笑)。

──かなり分厚い企画書ですね。

石川氏:
 最初はペラ3枚でしたが、企画が進行するほど、綴じていくファイルが増えるんです。最終的にはこういう形になっています。

──実際、石川さんが企画会議でプレゼンしたときも、ダンボールで模型を作ったそうですね?

石川氏:
 そうそう。これ、この取材のためにわざわざ作ったの?

石川さんが『ワニワニパニック』のプレゼン時に使ったと言われるダンボール製の筐体模型を再現したもの。インタビュー当日の朝、相木氏と小山氏が急遽思い立ってダンボールで作成してくださった。

相木氏:
 はい、今朝、小山とふたりで作りました(笑)。

小山氏:
 『ワニワニパニック』が発売されたのが1989年ですよね。私が1990年入社だったので、会社の就職説明会のときも『ワニワニパニック』のダンボール模型を使って、設計チーフの小林弘幸さんが実際に目の前でデモンストレーションをやってくれましたよ。ワニ代わりにスリッパを使って(笑)。

石川氏:
 あ、そうなの?

小山氏:
 「こういう涙ぐましいことまでして、ウチらは企画を考えて作っているんだ。それでもあなたは入社する?」みたいな感じで。

石川氏:
 それは知らなかったなあ。

小山氏:
 「スリッパをつかんで必死にやるんだぞ」と。

──企画プレゼンでは、どんな点をアピールされたのですか?

石川氏:
 「モグラ退治とは違う相手が迫ってくる恐怖感がこのゲームの最大のポイントだ」と訴えました。モグラ叩きは上に出てきた相手を叩いて押さえつけるイメージですけれど、『ワニワニパニック』は自分のほうに迫って来るワニを迎え打つ。だから『ワニワニパニック』の場合は、噛まれたら(ミスしたら)減点される。

──この手のゲームに、プレイヤー側が攻撃される“噛まれる”という概念を持ってきたことで、よりゲームがインタラクティブになったんですね。

石川氏:
 その点は企画段階から自信があったけれど、上司に言ってもなかなか理解されなかった。その背景には、それまでも私のいた部署はゲームの開発で失敗を繰り返していましたから、また変なものを作って失敗したら、社長の中村(雅哉氏)【※】からこっぴどく怒られると危惧していたんでしょう。だから必要以上に慎重になっていたとは思うんだけれど、結局作らせてもらった。

※中村雅哉
“Father of PAC-MAN”として海外でも知られるナムコ創業者。1925年12月24日東京生まれ。30歳のとき、ナムコの前身となる「中村製作所」を設立。1980年に日本アミューズメントマシン協会(JAMMA)会長に就任、1993年には経営破綻した日活の再建支援に乗り出すなど、エンターテインメント業界全体の活性化に力を注いだ。2005年にはバンダイナムコホールディングスで最高顧問に、翌2006年にはバンダイナムコゲームスで名誉相談役に就任。2017年1月22日逝去(享年91歳)。

──ダンボールの模型を使ってまでプレゼンした甲斐がありましたね。

石川氏:
 でも、この見本とは違って、ワニは5匹でしたけどね(笑)。ワニのスリッパはそのままだけれど、実際には蒲田のユザワヤ(手芸用品店)で買ってきた「目がついている動物のスリッパ」を使ったんだよ。同僚にスリッパを動かすのを手伝ってもらいながら、上司に「こちら側から叩いてみてください」と言ってプレゼンしたなあ。

──実際にやってもらって、ようやく面白さのポイントが伝わったと。

石川氏:
 そうでしょうね。当時『モグラ叩き』が人気だったという事実は、もちろん『ワニワニパニック』を作るきっかけのひとつにはなりましたが、それでも『モグラ叩き』の真似をしただけとは言われたくなかった。
 だからモグラとワニの動きの違いと、それによって遊びの感覚が変わる点を強調したのだけれど、それがよかったのでしょう。

──企画にOKが出た後は、開発期間にどれくらいかかりましたか?

石川氏:
 1年ちょっとです。当時のエレメカの開発期間はだいたいそんなもんですよ。最初は簡単な企画書からはじまって、その企画が採用されると今度は試作機の仕様書になる。そこから内容をつめてプロダクト1(P1)という段階まで進むと、機械の性能を入れ替えて作るような仕様書になる、と。P1ではまだお店でのロケテストができないので、社内で公開してアンケートをとり、それをプロダクト2(P2)に反映させていました。
 これはいまも同じやり方をしていると思いますけどね。

小山氏:
 ロケテスト【※】はどちらであったんですか?

※ロケテスト
ロケーションテストの略。開発途中のゲームをゲームセンターなどで一般公開し、遊んだプレイヤーからの意見を吸い上げ、難易度調整などに反映するテストのことをいう。
おもにアーケード用ゲームで行われる。

石川氏:
 ジャスコ葛西店だったよ(現・イオン葛西店)。

──お客さんの反応はいかがでした?

石川氏:
 筐体を搬入しているときから、小学生の子どもたちが5~6人いっしょについてきてうれしかったですね。
 『ワニワニパニック』は、開発中にいろいろな子どもにやってもらったんですよ。ウチの娘やその友だちも何度か開発現場に連れて来て、実際に遊んでもらいつつ難易度の調整をしました。
 あと、当時から言っていますけれど、これにはAI的な機能があるんです。

──そうなんですか!?

石川氏:
 ワニは、遊んでいる人の上手い下手を判断して出現のパターンを変えていて、100点を取れる間際になっても、なかなかパーフェクトが取れないようになっています。難易度調整機能は、子どもがやっても大人がやっても、ちょうどいい難しさになるので、けっこう受けましたよ。

小山氏:
 当時から考えると……先を行き過ぎていますね。

石川氏:
 といっても、プログラムの処理的には簡単で、早くワニを叩けたら、その結果を次のワニの出現に反映させればいいだけなんだけどね。
 いまにして思えば、筐体やワニのデザインはもちろん、“AI的な機能を使ったソフトウェアの力”もヒットに貢献したんじゃないかなと。

小山氏:
 筐体といえば、ワニの強度を出すのにも苦労されたそうで、「思いっきり叩いても本当に壊れないのか、金槌で叩いてみたことがあった」と誰かが言っていましたが?

石川氏:
 商品部長に金槌でワニを叩かれて、割れちゃったことがあった(笑)。

相木氏:
 本物のハンマーなら仕方ないですよね? 『ワニワニパニック』は海外から「OEM【※】として作りたい」というオファーがきたので許諾をしたのですが、図面を全部渡してもその通りの強度で作れないらしいです。みんな壊れてしまうんですって。

※OEM
Original Equipment Manufacturingの略。他社が相手先企業のブランド製品を作ることをいう。『ワニワニパニック』の海外向けOEM製品として、『Wacky Gator』や恐竜を題材にした『Dino Bonk』などが発売された。

石川氏:
 プレイヤーの中には思いっきり叩く人もいますから、それも踏まえて国内では耐久テストをだいぶやりました。
 あと、日本の筐体のワニが頑丈なのは、スタッフの小林弘幸さんが“いい樹脂”を探してきて作ったからですね。

──『モグラ叩き』のモグラは、上から叩いても下に沈むから衝撃を減らせるけれど、『ワニワニパニック』のワニの場合は叩かれた力を全部受け止めますからね。ワニが口を開きながら動いて、叩かれても壊れないのはすごい設計です。

石川氏:
 「ワニが口を開く構造なのは危険」と、営業から何度も指摘を受けたけどね。でも、怖さを表現するためにはどうしても口を開かせたかった。結果的には舌を分厚く作って、そこで衝撃をある程度吸収しているんです。

相木氏:
 口が“開く”のと“開かない”のとでは、ワニの躍動感も全然違うでしょうし。

──『ワニワニパニック』は、当時で何台ぐらい売れたのでしょうか?

石川氏:
 最初は数百台からスタートして、それ以降はずっとリピート生産が続いていましたから、いまではもう数え切れないんじゃないかな。5ケタは超えていると思います。海外のOEM分もありますし。

──ワニの声に声優の渡辺久美子【※】さんを起用するなど、けっこうこだわりもあったとか。

※渡辺久美子
1965年生まれの女性声優・ナレーター。アニメ、ゲームの出演作品は多数。有名なところでは『ケロロ軍曹』のケロロ軍曹役のほか、ナムコのゲームでは『風のクロノア』のクロノア役、『エースコンバット3』などにも出演。

石川氏:
 「まいったー降参だ」というヤツですね。そのようなゲーム終了時の結果表示にもこだわりましたね。

石川氏:
 ほかにも、ゲームの後半の“すべてのワニが一斉に出てくるシーン”で使うための「もう怒ったぞ〜!」にもこだわりました。企画書のコメントに「(ワニの声が)団体で言っているようなアレンジが必要」と書いていたり(笑)。

小山氏:
 『ワニワニパニック』を開発していた頃は、「国際花と緑の博覧会」【※1】用に『ギャラクシアン3』【※2】を作っているような時代でしたが、『ワニワニパニック』は後年、筐体どうしの通信にも対応させていましたよね。

『ギャラクシアン3』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

※1 国際花と緑の博覧会(花博)
当初は大阪府大阪市の市政100周年を記念して1989年に開催を予定していた博覧会。その後、政府の支援を受けて1990年に国際博覧会として開催された。

※2 ギャラクシアン3
国際花と緑の博覧会(花博)に出展された、28人が同時にプレイできる大型のシューティングゲームシステム。プレイヤーは重戦闘艇ドラグーンに乗り、砲台を操作して敵を撃破する。16台の120インチプロジェクターが全周スクリーンに継ぎ目のない映像を投影、プレイヤーの座る椅子を設置されたフロアごと動かすことで、迫力の体感ゲームが楽しめた。花博終了後は、1991年に16人用に内容を変更して一部の施設に設置されたほか、1992年には東京都世田谷区にあったナムコワンダーエッグにも設置。1993年には6人用の新型が登場、それをもとにしたプレイステーション版のゲームも発売された。

石川氏:
 開発当初から、「通信ができること」も視野に入れていたんですよ。

小山氏:
 通信対戦機能は、最初の『ワニワニパニック』が出た翌年か2年後ぐらいにはもう実現できていましたね。

石川氏:
 それでも当時の開発費を考えると、安いもんですよ。企画書に「P2試作機の制作費が1241万2500円」と書いてある。

小山氏:
 安すぎますね。どこかで費用をちょろまかしていたりして(笑)。

石川氏:
 当時はたぶん工賃が安かったんだと思う。

──いまでは考えられないほど安く試作機を作れたんですね。

石川氏:
 いまとは人件費の単価からしても全然違いますから。

小山氏:
 昔はブラック企業だったのか(笑)。

石川氏:
 違うって(笑)。研究費の扱いとか、償却の仕方がたぶん違ったと思うんですよ。当時のメーカーは、機械を開発費用としてではなく、技術研究費として処理できたんです。それで、個別の機械にかかる原価を抑えられた。

小山氏:
 いや、私は「昼夜を問わず働くのは楽しかったな」と言いたかったんです(笑)。

相木氏:
 当時の会社は本当に不夜城でしたね。朝も夜も絶対に会社の灯りが消えない。朝出社すると、机の下から誰かが這い出てきて「おはよう」と言うみたいな。

石川氏:
 まあ、さすがにいまは、そんなことはないですけどね(笑)。

中村製作所→ナムコに改称後の新入社員一期生は、2年間『ギャラクシアン』を売り歩いた

──いきなり貴重な企画書を見せていただきましたが、『ワニワニパニック』のリリースは、石川さんが1978年にナムコに入社してから11年めのことになるんですよね。
 その、『ワニワニパニック』リリース以前についてもお聞きしていきたいと思いますが、そもそも石川さんは、子どもの頃は高校教師を目指していたそうですね。

石川氏:
 本気で目指していたわけではなくて、「手堅い職業は何か?」と考えた結果が“教師”だったんですよ。

──教師を選んだのは、どなたかの影響ですか?

石川氏:
 自営業だった両親の姿を見て育ったからかもしれません。というのも、私が幼い頃は実家の羽振りが良かったんですけれど、だんだん調子が悪くなっていったのを見ているから、単純にボーナスがもらえる職業に就きたいと考えた。

 それで、「教師ならいちばん手っ取り早いかな?」と思ったわけですが、考えが甘かった(笑)。

──実際の就職先は、“手堅さ”はあまり感じられないエンタメ業界でした。

石川氏:
 一応、教師になるための試験は受けたんですけれど、大学で教職課程の単位を取らなかったので、就職を考えないといけなくなったんです。
 それで、就職情報誌をめくっていたら、「遊びをクリエイトする」というキャッチコピーが目に止まった。それがナムコだったのですが、当時の私はナムコという社名を知らなかったし、何をやっている会社なのかもわからなかった。よく見るとゲームを作っている会社だとあって、「そういえば昔ゲームをやったなあ」と、軽い気持ちで就職試験を受けてみたんですよ。

小山氏:
 その当時は「中村製作所【※】」ではなかったんですか?

※中村製作所
1955年に故・中村雅哉氏が設立した有限会社。中村氏は当時30歳。製造した木馬2台を神奈川県横浜市にある百貨店の屋上に設置するところから事業がはじまった。1966年からはブランドマークとして木馬のデザインを使用開始。2005年のナムコ創立50周年を迎えた際も、周年記念のシンボルマークには木馬があしらわれていた。1977年には改名して株式会社ナムコとなる。NAMCOはNakamura Amusement machine Manufacturing COmpanyの頭文字を取ったもの。

石川氏:
 入社したときはちょうど社名が切り替わった時期で、ひとつ上の先輩はまだ中村製作所への入社。私はナムコ一期生だった。当時は就職難の時代だったけれど、何とか滑り込みで入社できたのは幸運でしたね。

──関西大学の文学部・ドイツ文学科を卒業されているとお聞きしました。そこまで文系然とした方が、理系の多いゲームメーカーに入社するというのも異色だったのでは?

石川氏:
 そうですね。同期入社は42人いて、そのうち文系はふたりだったと思います。あとは技術者ですね。同期では、いまは(※2018年5月時点)常勤監査役をしている浅見(和夫)さんがいるのですが、彼も理系の大学を卒業しているはずですよ。

──技術者が中心となって会社が動いているなか、文系出身の石川さんはどういうお仕事だったのですか?

石川氏:
 最初は2年ほど販売を担当して、東京都内を回ってお客さんに機械を買っていただいていました。新入社員で右も左もわからない中、当時の上司には「お客さんに買ってもらって、代金が決済されるまでが仕事」と言われ、一生懸命売り上げた経験が、私の仕事の原点になっていますね。
 開発部署に移った後も、「お客さんに、ちゃんと買ってもらえるものを作らないといけない」と考えるようになりましたし、営業経験を積んで本当によかったと思っています。

──当時営業されていたゲームだと『F-1』【※1】『サブマリン』【※2】でしょうか。

※2 サブマリン‥‥1978年にアーケード用としてリリースされたシューティングゲーム。潜水艦の潜望鏡を模したコントローラを操作して敵の軍艦を捉え、魚雷発射ボタンで撃沈するのが目的。
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

※1 F-1
1976年にアーケード用としてリリースされたエレメカレースゲーム。筐体の中にある回転式の幻灯機がコースを映し出し、その上を走るクルマをハンドルで操作して遊ぶ。ハンドルを切ると投影画面が左右に動き、これでクルマを操作しているような感覚になれるのが特徴。

石川氏:
 そうですね。ほかに『シュータウェイ』【※】もありましたね。そういえば初代の『シュータウェイ』は、本物の銃がベースになっているんです。というのも、創業者・中村の実家が東京の神田にあった銃砲店で、本物の銃を参考にそれをゲーム用に作ったものだったから。すごく重量感があるし、そのリアルさがお客さんに受けたのかもしれないですね。

『シュータウェイ』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

※シュータウェイ
1977年にアーケード用としてリリースされた射撃ゲーム。クレー射撃をモチーフとしており、筐体前方のスクリーンに投影されるクレーを銃型のコントローラで狙い撃つ。ふたりプレイも可能。

──そんなエピソードが!? あと、その頃は『ジービー』【※】や『ギャラクシアン』が登場した時代ですね。

※ジービー……1978年にリリースされたブロック崩しゲーム。ボールを跳ね返すバンパーや、ボールを下に落ちないようにするセーフティーゲートが存在するなど、ピンボールのような要素が盛り込まれている。
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

石川氏:
 当時は『インベーダー』ブームの後、『ギャラクシアン』が出て、アーケードゲーム人気が盛り上がっていたんです。
 いまだから話せますけれど、当時は『ギャラクシアン』を1台売るときは、あまり人気がなかった『ボムビー』【※】も販売担当としておすすめしないといけなかった。

※ボムビー……『ジービー』の改良版として1979年にリリースされたブロック崩しゲーム。グラフィックがカラーになり、バンパーやブロックなどの配置も変更されている。
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

一同:
 (笑)。

石川氏:
 『ボムビー』は『ギャラクシアン』と同価格だったけれど、それでも『ギャラクシアン』といっしょにけっこう買ってもらえたんですよ。豪快なお客さんになると、買ったその場で「石川君、『ボムビー』は持って帰っていいから」と言うんです。

──営業マン時代は、ゲームセンターは何店ほど担当されていたんですか?

石川氏:
 30店くらいかな。他社さんの営業マンは課長クラスの方が多かったみたい。こっちは新入社員で初々しいから、話しやすい安心感があったかもしれないですね。

小山氏:
 結局、『ギャラクシアン』は何台ぐらい出荷されたんですかね?

石川氏:
 正確な数字は覚えていないけれど、全部で5ケタは超えているでしょうね。

──ゲーム機1台、当時はいくらほどですか?

石川氏:
 『ギャラクシアン』の定価は56万円だったと思います。

相木氏:
 たかっ!

『ギャラクシアン』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

石川氏:
 いい値段だよね(笑)。実際には、当時は定価の何割かの価格で売る「オペレーター(ゲームセンター経営者)プライス」が一般的だったんですけれどね。

──営業時代に辛い思い出などありましたか?

石川氏:
 たくさんありますけれど、なかでも“人気のない機械”を売るのは、特に大変だった。
 たとえば、インベーダーゲームに似た他社さんのゲームの販売を当時のナムコが引き受けていたんです。これは『インベーダー』ブームが下火になった頃に発売されたから、あまり売れなかった。でも売らなければいけないので、喫茶店回りをしたんです。

──喫茶店? オペレーターではなく?

石川氏:
 そう、アーケードゲームの営業マンなのに、街の喫茶店【※】を10軒ほど回って、「こういうゲームがあるんですけれど、お店に置かせてもらえませんか?」と売り込む。喫茶店にOKをもらったら、オペレーターさんにゲームを売って、オペレーターさんから喫茶店に売ってもらうというわけですね。

※街の喫茶店
当時のアーケードゲームは、テーブル型の筐体が主流だったため、ゲームセンターだけではなく喫茶店や飲食店にも置かれることが多かった。

──オペレーターが喫茶店への設置までやっていたと?

石川氏:
 そうです。ナムコも当時はオペレーターをやっていましたけれど、私はセールスが仕事だったので販売数を増やさないといけない。だから、“街の喫茶店の開拓”と“地元のオペレーターさんへの売り込み”を同時にやっていました。

当時蔓延していたコピー対策に、社員が一丸となって奔走

小山氏:
 「探偵団」はやらなかったんですか?

──? 「探偵団」とは???

相木氏:
 その話は聞いたほうがいいですよ。岩谷(徹)さん【※】の留置場暮らしの話。

──岩谷さんって、『パックマン』の岩谷さんですよね?

※岩谷徹
1955年東京生まれのゲームクリエイター。1977年にナムコ入社。1980年に他の社員4人とともに『パックマン』を開発し、北米で発売されるや否や「パックマンフィーバー」が起こるほどの大ヒットを記録。のちに世界的なヒット作となり、ギネスにも登録される。プロデューサーとしては『マッピー』、『ドラゴンバスター』などナムコの初期の名作の多くに関わっている。現在は東京工芸大学ゲーム学科ゲーム学研究室の担当教員を務めるなどの活動も行っている。

石川氏:
 アレね。創業者の中村は、自社の生み出した製品を自分の娘のように可愛がっていましたから、コピーされることをものすごく嫌がっていたんです。でも当時は、どこかのコピー業者に一部のゲームが複製されていたんですよ。
 その証拠を掴む要員のひとりとして、新入社員の頃に私も駆り出されましてね。コピーが行われているらしい工場をなんとか突き止め、夜中にその近くにクルマを停めて、本当にコピーされているのかを見張っていたわけです。

──えっ、営業さんがそこまで……刑事ドラマの張り込みみたいですね(笑)。

石川氏:
 そのとき『パックマン』を作った岩谷さんは、「工場に誰もいないのは怪しい」と言って、工場の隣にあった倉庫の中に潜入したんですよ。そうしたら、そこに本当にコピー品があった。でも、倉庫に入り込んだ罪で捕まった(笑)。

──不法侵入、ということですか?

小山氏:
 新入社員なのにそんなことで捕まって、親に「お前はなんでそんな会社に入ったんだ?」と言われたらしいです(笑)。

石川氏:
 しかも指紋まで取られて。岩谷さんがいつも言っていますよ、「酷い会社だ!」って(笑)。これは有名な話なんですよ。私は捕まりませんでしたけどね(笑)。
 というエピソードがあるくらい、当時は社員総出で「コピーをやめさせよう」と意気込んでいたんです。

──会社の法務部が動くのではなく、社員総出で対処したんですね。

石川氏:
 法務担当はもちろんいましたけれど、証拠を掴むのには社員総出の必要があったんです。

相木氏:
 あんパンをかじりながら牛乳飲みつつ、工場前で張り込んでいる石川さんの姿が目に浮かびますよ(笑)。

石川氏:
 いま思えば怖いなぁ。でもさ、向こうだって悪いことをしているわけですから。

──昔はコピーしたゲームが蔓延していましたからね。

石川氏:
 そういうモラルの低い会社がけっこうあったんですよ。いまでこそ「著作権を守る」なんて当たり前のことですが、当時の他社の遊戯用乗り物には、他社のキャラクターを勝手にアレンジして使っているものもあったんですよ。これはアーケードゲームに限ったことではなくて、どこの業界も最初はコピーが出回ることが多いんです。おもちゃ業界もそう。

 でもナムコには、創業当時から「創造者の権利を守る」という理念はしっかりと根付いていた。

 だから、ビデオゲームを手がける前の頃に作った、ディズニーや藤子不二雄さんのキャラクターをあしらった遊戯用乗り物も、すべて版元さんの許諾を得ています。ですから、中村と藤子不二雄先生の記念写真もけっこう残っていますよ。
 というわけで、他社さんのいいところは参考にさせてもらうけれど、そのまま真似したりデッドコピーしたりはナムコはやらない。それはもう昔からのナムコのポリシーです。

マッピーやニャームコなどのロボットを手がけた「事業課」時代

──販売を経験されてから開発部署へ異動したのは、石川さんの希望だったのでしょうか?

石川氏:
 そうです。1981年に、アミューズメントロボットを作る「事業課」という部署に異動して、遠山(遠山茂樹氏【※1】)と一緒にマッピーやニャームコのロボットを作っていました【※2】
 『受付小町』【※3】という受付担当のロボットもありましたね。最初は『説明小町』という名前で、プロモーションビデオを流しながら商品の説明をする機能があったなぁ。

※遠山茂樹:
1959年生まれ。ゲームクリエイター、デザイナー。1981年ナムコ入社。同期だった遠藤雅伸氏とともに『ゼビウス』の制作に参加。メカニックデザインを担当する。そのほかにも『サンダーセプター』『スターラスター』などのキャラクターデザインのほか、『プロップサイクル』や『ガンバレット』では企画も担当。2002年に発明した遠山式立体表示法は、自然な三次元立体画像の再生がアナグリフ(赤青メガネ式)、レンチキュラ(透明の特殊な樹脂レンズで見る方式)など、複数の方式に対応している優れたもので、ナムコ社長賞・発明賞を受賞。実用化もされている。現在はバンダイナムコスタジオに在籍。

※マッピーとかニャームコのロボット……1980年に登場したニャームコ、1981年に登場したマッピーともに、かつてナムコが作っていた迷路脱出ロボットのこと。1983年にアーケードゲームとして発売された『マッピー』は、このロボット2体が登場キャラクターのモデルになっている。
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

相木氏:
 『受付小町』といえば、その相棒の『キュージくん』もありましたね。

『キュージくん』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

石川氏:
 あったねぇ。お茶を運んでくれるんだけれど、一度もまともに給仕してくれなかったんだよなぁ。

──え? なぜでしょう?

石川氏:
 運搬が荒いから急須からお茶がこぼれまくって、お客さんに出す頃にはほとんどお茶がないの(笑)。

相木氏:
 でも考えてみれば、ソフトバンクの『Pepper』よりも30年くらい先を行っている。

小山氏:
 企画としてはタイミングが早すぎましたね。
 私は機械工学系の大学を出ていて、「ロボットが作れる!」というからナムコに入社したんだけれど、その頃にはもうロボットを作っていなかったという(笑)。

石川氏:
 ロボット事業は、就職希望者を集めることにも非常に役に立ったんだよね。小山みたいに、「ロボットを作っているからナムコの就職試験を受ける」という人が多かった。
 私は“事業課”時代は、ロボットがAIで会話するイベントの企画を考えたり、ロボットのプロモーションをずっとやっていたりしたんです。

 また、ロボットを作る延長で、「ロボットの技術をいかに売り込んでいくか」を考えていたので、販促関係のメーカーさんにいろいろと提案をしていました。たとえばお菓子メーカーさんにお菓子を配るロボットを提案したこともあるし、その一環で体重計【※】を企画したこともあったね。
 私は文系出身で、機械の図面を書くドラフター(製図台)ひとつも使えない。けれど、だからこそ“ものづくりに関わらせてもらったことが非常に楽しかった”んですね。プログラムもできませんが、どんなものかというのは体験してみたりもしました。

※体重計
『木登りモグラの体重計 ハッカンベー』のこと。大手食品メーカーが消費者向けプレゼントとして企画した賞品。体重計に乗るとモグラが木を登っていき、重さの目盛りのところで止まってアッカンべーをするというもの。

小山氏:
 その時代はソフトウェアではなくて、すべて回路を組んで作っているんですよね。

石川氏:
 そんな私を含めナムコには、ものづくりに関しては当時からヘンなこだわりがいろいろとあって。いちばんよく覚えているのは遠山とロボットのマッピーを作ったときかな。
 創業者の中村、私、遠山で意見が完全に割れたことがあったんです。マッピーは、迷路を進んで中央にある風船を最後に割るんですけれど、その最後のマッピーのアクションについて、私は“男らしく風船の正面から割りに行くべきだ”と主張した。それに対して遠山は“マッピーが後ろ向きになってコソコソと割りに行くべき”と言うし、中村は中村でまた別のことを言う。そうして喧々囂々とやっているうちに、喧嘩になってしまった記憶が(笑)。

一同:
 (笑)。

石川氏:
 風船の割り方なんて、どうでもいい細かいことなんだけれど、あえてつまらないことにもこだわる。「風船をどう割るか」で、社長も加わって喧嘩をするなんて、普通の会社ではないんじゃないかな。
 こういった細かいこだわりはロボットだけじゃなく、ナムコ開発陣のDNAとして脈々と受け継がれていると感じますね。

ナムコ創業者の故・中村雅哉氏は超こだわりの人

──たびたび創業者・中村さんのお話が出てきますが、中村さんは、さまざまな開発プロジェクトにどのように関わられていたのでしょうか?

石川氏:
 創業当初からしばらくは“キャラクターの目の色ひとつ決める”のにも揉めていたくらい、とにかくいろいろなところに関わっています。岩谷さんの『パックマン』だって、色を決めるときにひと悶着あったくらい。後年はだいぶおおらかになっていましたけど(笑)。

『パックマン』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

相木氏:
 私がゲームの開発をしていたときも、最終確認のときには必ず来ていましたね。ご自身が遊んで満足されないと、プロジェクトを先に進めさせてもらえなくなるから必死でしたよ。

小山氏:
 アーケードの『アルペンレーサー』【※】は、中村に「スキーのシミュレーターみたいなゲームを作れ」と言われて作りはじめたものなんです。「そんなゲームは世の中にはないから、絶対に売れる」と。その後2年間ぐらい、ずっと苦労して作りましたっけ。


『アルペンレーサー』
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

※アルペンレーサー
1995年にアーケード用としてリリースされた、スキー競技をモチーフにしたレースゲーム。スキーの板を模したコントローラ部分に乗り、脚だけで操作するのが特徴。

石川氏:
 中村は随分こだわりと思い入れの強い人でしたね。だから、機械の性能ひとつにも文句を言ってくる。年間で何百タイトルも作るのに、ゲームのネーミングはすべて社長決裁でしたもんね。
 ……でも、ひとつ、「この人は偉いな」と思ったエピソードがある。

──それは?

石川氏:
 私が「開発二部」に移ったばかりの時期、アームを操作してお菓子をすくい取る『スウィートランド』【※】を開発していた頃(1986年)のことです。
 この機械は若いスタッフが企画し、私はフォローすることになったんですが、中村は『スウィートランド』の筐体が角ばったデザインになっているのがどうしても気に入らなくて、修正を指示してきたんです。

 でも、開発者いわく「機械の構造上それはできない」とのことだったので、その旨を伝えると、中村が「こんなもんは絶対に売れない」と言い出した。それを聞いた私は思わず頭にきて「売れます! もし売れたら謝ってくれますか?」と啖呵を切った。

『スウィートランド』
©BANDAI NAMCO Amusement Inc.

※スウィートランド
1986年にアーケード用としてリリースされたプライズゲーム。ショベル状のアームを操作して、筐体内にあるお菓子などをすくって獲得する。

小山氏:
 よくそんなことが言えましたね(笑)。

石川氏:
 その場の勢いだよ(笑)。それから3年後だったかな? 『スウィートランド』が売れて各地にようやく浸透したときに、中村が「俺の負けだな、悪かったよ」って言ったんですよね。

──大々的に喧嘩をされても、最後は自由にやらせてくれたんですね。

石川氏:
 そういう人なんですよ。
 我々がどうしても作りたいものがある場合、中村はとりあえず了承してくれるんです。0から1を生み出そうとすることに関しては、「どんどんやりなさい」と言っていた。でも、それでできたものに対しては、“自分の好みやこだわり、感性をもとに、でき栄えを判断したい”という思いが、どうしてもあるのでしょう。

小山氏:
 なんでもやらせてくれていた、という一例で……『忘我(ぼうが)』を覚えていますか? 私が入社した1990年当時、「もう5年も研究している」と先輩が言っていた機械です。入社したばかりのある日、先輩に実験台にされたことがあるんですが。

──どのような機械なんでしょう?

小山氏:
 メディテーション(瞑想)ができるというか、リラックスができるというか、あの世に連れて行かれそうになる機械です(笑)。

 入社したばかりのある日、先輩に「ちょっと来て」と呼ばれて黒い椅子に座らされ、頭にバイザーのような機械をかぶせられたんですよ。すると、風や匂いが出たりして、目のあたりに光が回りながら照射されたり、何か独特の音楽を聴かされたりして……たぶん10秒ぐらいで意識を失ったと思います(笑)。
 当時は「第6次産業を目指したマシン」とか言われていましたね、『忘我』。

──「第6次産業」というのは?

石川氏:
 私もいまだによく理解できていませんが(笑)、中村いわく、「小売業やサービス産業が第3次なら、第4次は情報を扱う産業。第5次はその延長の情緒産業だよ」と。そこまでは理解できましたが、第6次は「さらにその先の宗教的なものも含む」とか言っていました。
 そういうリラクゼーション方面の研究もしていたんですね。

小山氏:
 1985年頃の企画ですから、いま考えてもすごい発想だなと思いますけど。

──その企画の発案者は中村さんなんですか?

石川氏:
 私の部下の藤原慎一という者が考えた企画で、中村さんが「これは第6次産業というか、将来必要になる機械だ」と言ってそれを気に入っちゃったんですよ。私は当時部長でしたが、しょせんサラリーマンですから、中村さんが気に入っちゃっているなら企画を進めるしかない。開発費はかなり巨額でしたけれど、途中までは進めましたよ。

 でもね、それはそれでなかなかいい企画だった。研究発表の内容を含めて、学術的な面では評価が高かったけれど……実際に買ってくれる人はいなかったなぁ。本当に「無の気持ち」になれたんだけどなぁ(笑)。

小山氏:
 現代はストレス社会だから、いまこそ欲しがられる企画なんじゃないかな。

石川氏:
 これも時代の先を行き過ぎた機械なんですよ。
 ナムコっていうのは、いろいろと企画には着手するんですけれど、商売が下手なんですよね。取り組むタイミングが早すぎる。旬のときにやれば、もうちょっと儲かったかもしれないのに。

はじめて企画したメダルゲームが大ヒット作に

──さて、営業としてキャリアをスタートさせた石川さんが、ようやく企画畑へと異動しました。ここからご自身で企画されたり、後進の企画を容認していったりなど、アーケードマンとしての活躍がはじまるわけですが、まず『スウィートランド』をフォローしたあと、担当されたものは何だったのでしょう?

石川氏:
 自分が最初に企画したメダルゲーム『カーニバル』【※】を作りました。1周するランプが次に止まると思う場所を予想して、当たればメダルが払い出されるゲームですね。
 このゲームはランプが3重の輪になっていて、外側の輪に何カ所か設けてあるワープゾーンに止まると、内側の輪に移り、さらにその内側の輪にも移ることができて、最終的にはコインが90枚ももらえる仕組みにしました。

※カーニバル……正式名称は『カーニバルI』。1987年にアーケード用としてリリースされたメダルゲーム。ルーレットが次に止まる場所を予想して賭けを楽しむ。初代の筐体には『パックマン』の絵柄があしらわれているが、シリーズには『マッピー』などの絵柄も採用された。
©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.

──その仕組みは……射幸心が煽られますね(笑)。

石川氏:
 現在でもアメリカとかイギリスのカジノでは続編が置いてありますからね。おっしゃるような部分もあるかもしれないんですけれど、ヒットしましてね(笑)。その後シリーズ化して『カーニバルVII』までは作りました。

小山氏:
 7代目までいったんですね。

石川氏:
 『カーニバル』を作っていた頃は、早く製品化しないと部署が潰れるような危機感があったんです。だから、普通に回るルーレット方式にして最初から設計していると時間が足りないから、カトウ製作所【※】の既存製品から筐体や制御装置をそのまま利用させてもらったんです。

 プログラムは別ですけれど、仕様を変えて『パックマン』の絵柄を付け、本当に短期間で作ったんですよ。それがまた売れたので、助かった。

※カトウ製作所
1964年に東京都世田谷区で設立された遊戯機械メーカー。2008年にカトウ株式会社に改称。
 数々のメダルゲームやクレーンゲームなどを開発・発売した。歌付きのクレーンゲーム『Jungle Land』やアーケード用の音ゲー『三味線ブラザーズ』(販売元はコナミマーケティング)など、一風変わった製品を開発していた。現在は関連会社がゲームセンターを運営している。

──『カーニバル』がヒットして、開発二部に勢いが出てきたんですね。

石川氏:
 長年経験していますけれど、ヒット作が出ると、その部署の社員はみんな元気になるんですよ。反対に、低迷するとどんどん気持ちが沈んでいく。
 メダルゲームのヒット作が出たとか、“音ゲー”ブームや“プライズゲーム”ブームが来たとか、『ぷよぷよ』みたいな“落ちゲー”が出るとか、この業界は昔から浮き沈みの繰り返しなので、厳しい状況でもヒット商品がひとつ出れば一気に盛り上がりますからね。まぁ、楽観視はできないですけれど。

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