物語を楽しめなくてもゲームは楽しめる
あまり大っぴらに語られることではないが、私にはゲーム中の物語は全然楽しめなかったけど、ゲームプレイ自体は楽しめたというタイトルが幾つもある。
有名なところで言えば、『スーパーマリオブラザーズ』には主人公であるマリオがクッパにさらわれたピーチ姫を取り戻す冒険活劇という明確な物語が存在するが、私は特にその物語を楽しんだことがない。だけど、ゲームとしては私の人生の中でも非常に重要な位置を占めるほどに楽しんだタイトルである。(昨今のマリオシリーズはクッパにさらわれたピーチ姫の救出という基本軸をブレさせずにあの手のこの手の技巧を凝らすようになっており、それはそれで非常に興味深いのだけど。)
物語を楽しむ上で、「感情移入」という言葉がよく使用される。確かに物語上の特定のキャラクターに自分を重ねることでより深く物語に没入して楽しめることはよくあることだ。それが全てではないにしろ、優れた物語は多くの人が感情移入できる器のような側面があると言えるだろう。
しかしながら、ゲームはキャラクターに感情移入をする以前に、身体を移入するメディアである。
私は『スーパーマリオブラザーズ』に感情移入ではなく、「身体移入」をすることで楽しんでいたんだと思う。マリオがクッパを倒しピーチ姫を救うまでの過程でどのような感情を抱えていたのか、私は知らない。しかし、マリオがその過程で向かえる出来事、冒頭のクリボーにすら躓き、パタパタに翻弄され、ハンマーブロスに苦戦し、ジャンプをし損ね数えきれないほどに落下死した体験の数々は、まるで自分のことのように心と身体に刻まれている。
ゲームは物語メディアである以前に、体験のメディアだ。そしてその体験は往々にして仮想の身体を通じて表現され、我々ゲームプレイヤーはそこに自身の身体を移入することによって、様々な体験を得る。
私はここで、ゲームに物語は必要ではないなんて大それたことを言うつもりはない。だが、少なくないゲームが持っている「物語を無視してプレイしたとしてもそれはそれで楽しめてしまう」という、その懐の深さみたいな部分がとても良いと思っている。
文/hamatsu
『SEKIRO』が描く物語──プレイヤーの成長が葦名弦一郎の絶望を見出す
ゲームは身体を通した体験によって駆動するメディアだが、その体験の先に物語が生まれることもある。
写真や映像で見る山頂の景色と、「登山」という体験を通して得られる山頂の景色が同じ山であっても全く違うものとして感じられるように、キャラクターへの「身体移入」を通して得られるゲーム体験の先には、ゲームならではの景色、ゲームならではの物語が広がっている。
フロム・ソフトウェアによって制作された『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』(以下、『SEKIRO』)は2019年のGAME OF THE YEARを獲得するなど、世界的に高い評価を得ているゲームだが、その特徴と言えばなによりその圧倒的な難易度の高さだろう。
特に、序盤から主人公の前に立ちふさがる宿敵、葦名弦一郎のあまりの強さには何度となく心を挫かれかけ、中には完全に心を折られたプレイヤーも多いのではないか。
だが、『SEKIRO』というゲームが良く出来ているのは、単に理不尽に難しいゲームというわけではなく、何度も何度も挑戦を繰り返すことで、当初感じていた絶望が次第に希望へと変わっていく過程を体感できるようになっているからだ。
繰り返し刀を交えることで、当初は圧倒的な連撃によって瞬く間に削られていたこちらの体力が、相手の体幹ゲージを貯める格好の好機に転じ、当初は全く隙が見当たらなかった弦一郎のうちに、次第に剣士としての粗が見え始める。大仰な攻撃が多く、意外に隙も多いのだ。
そうして、圧倒的な強者であったはずの葦名弦一郎は、次第に手強い好敵手に変わり、やがては強くはあるが、隙もまた多い雑魚へと変貌する。
そして終盤において、自らの死の間際に葦名弦一郎が呟く言葉を聞き、『SEKIRO』とは、彼にとっての絶望の物語であったことに気付くのである。
『SEKIRO』の舞台であり、亡国の危機に瀕する葦名の国にとって、葦名弦一郎とは唯一の希望である。だが、それにもかかわらず、なぜか葦名の国に満ちているのは「この国に先はない」という諦念だ。プレイヤー自身が、その圧倒的な強さをゲームの冒頭で体験しているだけになおさらその疑問は深まる。
しかし、プレイヤーに降り注ぐ絶望的な難易度、絶望的な体験を超えた先に見えるのは、葦名弦一郎という人物の脆さだ。何より彼自身がそのことに自覚的だったのだ。我々プレイヤーは、その事実を彼の最後に取る行動の後に、身をもって思い知らせられることになる。
そう、最後の最後に登場するラスボスこそが、葦名の国の、葦名弦一郎の、本当の希望であり、プレイヤーに渾身の絶望を浴びせてくる存在だったのである。ここまで幾多の激戦を超えてきたプレイヤーですら心を折られてもおかしくない、圧倒的な存在を前に葦名弦一郎の抱えていたであろう想い、己の力では国を救うには足りないだろうという悲しい諦念を悟るのである。
以上は、『SEKIRO』をどうにかこうにか最後までクリアした筆者なりの、物語解釈だが、このような解釈に至ったのはまがりなりにも『SEKIRO』を最後までクリアしたから、何度も心折られそうになりながらも、どうにかそれを乗り超えたからである。そして、この解釈はあくまで葦名弦一郎というキャラクターに焦点を当てたもので『SEKIRO』のゲームの孕む物語の一側面に過ぎない。主人公や御子、梟や仏師の物語はまた別に存在している。
私にとって『SEKIRO』の、葦名弦一郎の物語は、主人公の身体に己の身体を移入し、何度も何度も死を乗り越えた先にようやく見えるものである。ゲームという身体移入を通した体験するメディアの特性を活かした唯一無二の物語体験だったと今でもあの激闘の日々を思い出す。(それにしてもラスボスは強かった。強すぎた……。)
体験の先に、自分なりの物語が起動する──『十三機兵防衛圏』
『SEKIRO』はその圧倒的な難易度により、プレイヤーに問答無用で成長体験を積ませてしまうことで、対峙してきた相手の見方が180度変わるという体験的な物語を描いた。
こうしたゲームに特有の体験的な物語という観点では、昨年発売され、圧倒的な高評価を獲得している『十三機兵防衛圏』はまた違ったアプローチを取っている。
このゲームにおいて重要なのもまた、ゲームキャラクターへの「身体移入」を通して得られる体験である。2Dサイドビューでそれぞれのキャラクターを描き、アクションゲームのようにキャラクターを直接操作することが出来る本作は、十三人もの主人公キャラクターそれぞれへの「身体移入」を通して描かれる群像劇なのである。
私がこのゲームをプレイして面食らったのはこのゲームのADVパートにあたる「追想編」と、バトルパートにあたる「崩壊編」が、プレイした当初はストーリー的に繋がっていないところだ。いきなり臨戦態勢で戦場に放り込まれる「崩壊編」と、まだそれぞれのキャラクターが後に登場することになる機兵の存在にすら気付いていない「追想編」が並行して展開される。そしてプロローグが一通り終わってしまえば、「追想編」も「崩壊編」もプレイヤーの任意で好きなように遊べてしまう。
いくらかの制限は課せられるし、プレイヤーごとのストーリーは基本的には筋道に沿って展開されるが、この出来る限りプレイヤー任せの好きなように遊べてしまうという点こそがこのゲームの最大の特徴だろう。そしてその好きなように遊んだ結果を整理するためのデータベース的な機能を果たすのが3つ目のモード「究明編」である。
己の関心の赴くままに「追想編」「崩壊編」「究明編」という3つのモードを行き来しながらプレイする『十三機兵防衛圏』のゲーム体験を一言で語るのは難しい。それぞれのモードについての感想は言えるし、言いたいことだって沢山あるが、このゲームの真髄はこれらのモードを行ったり来たりするという運動の中にこそあるのではないかと思えるからだ。
強いて言えば、『スーパーロボット大戦』をプレイしている途中で、自分の知らない参戦ロボットについてネットで調べてみたり、好きなロボットの活躍シーンにあてられて再度原作アニメを振り返ってみたり、当時の評判を改めて振り返ってみたりという、幾つものメディアを横断する一連の動作を、ひとつのゲームで表現し、体験出来るという言い方が近い。
ともすれば一方的な受動的な体験にも陥りがちな物語というものを、出来る限り能動的な形に開き、ストーリー中に幾つも埋め込まれた謎を「究明編」を頼りに自分なりの関心に応じて紐解き、自分なりの物語を構築するゲーム。それが『十三機兵防衛圏』というゲームだと言えるだろうか。
本作に登場する重要なアイテムであるビデオテープは、本来であれば一方的に受け取るだけだったはずの映像というものを、一時停止、早送りや巻き戻しなど時間の操作を可能にしたという意味において、本作を象徴するアイテムなのである。
しかし、それだけではまだ言葉が足りない。プレイしている途中は全く気にならないし、なんて凄いゲーム体験、物語体験なのだろうと感動しっぱなしなのだけど、『十三機兵防衛圏』というゲームは思った以上に自由度が低いという側面もあるのだ。
本作の物語には大きな分岐というものが存在しない。十三人もの主人公を任意に選べるので、強制的に押し付けられているという印象もあまりないのだが、どのようにプレイしたとしても最終的には同じ着地点にたどり着く。
解釈の余地は広大にあるが、物語の決定的な分岐点においてはプレイヤー側に選択の余地はあまりないゲームとも言えるだろう。
『十三機兵防衛圏』とは、「追想編」というADVパートの名称からも明らかなように、実は徹底して「追体験」のゲームであり、プレイヤーがゲーム中ですることのほとんどは十三人の主人公たちの行く末と物語の顛末を「見届ける」ことなのである。
クリア後に明かされるあるシーンでも明らかなように、本作の作り手たちはプレイヤーがより能動的にゲームキャラクター、ゲームシナリオに関与し、まったく別のルート、別のエンディングが生まれる可能性やその面白さ自体を否定しているわけではないと思う。まあそれをやったらいよいよシナリオの収拾がつかなくなって開発が終わらないという内部事情もあるのかもしれないが、それをしないことで、本作の「追体験」という側面はより強固なものとなっている。
だからこそ、こうなることはわかっていたし、ずっと前から決められていたことだという己の運命を受け入れる瞬間、すなわちそれぞれの主人公たちが機兵を起動する瞬間に、私はどうしようもなく感動してしまうのである。
それぞれの主人公が機兵を起動する瞬間、それは共に物語を進めてきたプレイヤーが主人公と一体化して盛り上がる瞬間でもあるし、どこかプレイヤーの「身体移入」からゲーム中のキャラクターが分離し、己の決断によって歩み始めた主人公たちを送り出すような瞬間でもある。本作の主人公の何人かにはそれを見守るように傍らに存在するキャラクターがいるが、プレイヤーとしての私の感情はその傍らで見守るキャラクターのほうに同調している。
なかでも主人公の一人、薬師寺恵を己の目的のために行使するキャラクター・「しっぽ」が最後に彼女にかける言葉は、まるでゲームをプレイすることを通してそのキャラクターを好きになってしまう過程を代弁するかのような言葉でもあり、私は正直ここでかなり「しっぽ」側に「感情移入」し、かなりグッときてしまった。
『十三機兵防衛圏』をプレイすることで、なんともいえない清々しさを覚えるのは、自らの関心の赴くままにゲームを進め、物語を自由に読み解けるようにしつつ、ゲーム中に影響力を行使するという側面に対して抑制的でもあるからだ。自分の欲求の赴くままにゲームをプレイしているようで、それぞれ懸命に生きようとする主人公たちを傍らで見守っているかのような境地にも辿り着く。
ゲームとはゲーム中のキャラクターを操作し、そのキャラクターに「身体移入」し、「なる」娯楽であると同時にそのキャラクターを「見る」娯楽でもある。
ゲームキャラクターに「なる」ことを通して体験的な物語を描くと同時に、傍らで主人公達を「見届ける」キャラクターを配置し、自分とは別の存在として「見る」ことで生まれる物語をゲーム中に並列化させ、同時に表現するという離れ業に成功しているのが『十三機兵防衛圏』なのである。
ゲームと物語の良い関係
ゲームの持つキャラクターへの身体移入を通して得られる体験によって、『SEKIRO』は将来を嘱望された若者の絶望を描き、『十三機兵防衛圏』は少年少女の希望を描く。どちらもゲームだからこそ表現出来た物語であり、ゲーム以外のメディアで表現したとしても、そこで得られる体験の質は全く違うものになっていただろう。
少なくないゲームは、シナリオが理解できなかったり、無視して進めてしまったとしても、それはそれで楽しめてしまう。そんなゲームというメディアだからこそ描ける、体験できる物語というものもまた存在する。
だが、そのような物語をゲームプレイを通して読み取れなければ、そのゲームを楽しめないなんてことは全くない。ただひたすらに手強い敵キャラとチャンバラし続けるだけでも『SEKIRO』は充分面白いし、追想編そっちのけで崩壊編を延々とプレイして機兵のカスタマイズに興じるのもまた楽しい。
上記で延々と書いたそれぞれの物語だって、私がゲームをプレイして勝手に読み取ったものに過ぎない。ひとつだけ言えるとすれば、良いゲームというものは物語を過剰に読み込んだり、ほぼ無視したりする勝手なプレイヤーに対して寛容だということだ。そういう側面においては、あんなに厳しい『SEKIRO』だってとても優しい。
私はそんなゲームの懐の深さがとても良いと思うのである。
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