銀の弾丸その2:“チュートリアル”が際立つ『ドラクエII』
この連載の2回目で、「コンピュータゲームは進行するにしたがって複雑化する特徴がある。なぜなら使われるメカニクスが増え、複雑化していくからだ」と書いた。
それだけなら大きな問題ではないのだけど、プレイヤーがついていけなくなったとき、それは問題になる。それぞれのプレイヤーの学習速度には大きな差があり、「あるプレイヤーが使えるアクションを、あるプレイヤーは使えない」などが積み重なり、後者はゲームがわからなくなっていくし、ひいては、そのプレイヤーにとってゲームの難易度が上がりすぎて解けなくなる。
この問題についても、RPGメカニクスは比較的適切な解決策を提供できる。
まず「成長=レベル」と単純化するとして、例えば以下のように複雑化(と難易度の上昇)の設計を行えばいい。
こんな風に「レベル1~5で基本的な物理の戦闘を、6~10で回復魔法を覚える。敵は回復しないので自分は楽に倒せ、さらにレベル11以降になると魔法と連携するスキルを覚える」というように、複雑化していくゲームをユーザーに合理的に学習してもらうことができる。
さらに細かく調整して「レベル1~3で攻撃の基本を覚え、6で体力回復を覚え、8でステータス回復を覚え、10までそれらの応用問題をやる」というように複雑化を設計することで、簡単なパートは手早く、複雑なパートはじっくりと学習してもらうといったことも可能になる。
具体的でない例ではわかりにくいので、ブーム初期のゲームでプレイヤーにRPGの常識がまだ形成されていない『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』(1987/FC/エニックス)が複雑化に対して丁寧なアプローチをしているので、これを例にとって考える(なおオリジナル版の『ドラクエII』は現在の基準からすると難易度はかなり高い)。
1. プレイヤーはひとりで旅を始める
→これは『ドラクエ』と同じ構造にしてプレイヤーの負荷を下げるため
2. アイテム・装備・魔法の使いかたを覚える
→ここも『ドラクエ』とほぼ同じ構造になっている。なお『ドラクエ』というゲームの偉大さのひとつは、このチュートリアルを30年経ってもやることだ
3. 敵が複数出現し、だんだん戦闘がつらくなってくる
4. ふたりめの王子がパーティに加わる
→ゲームが楽になると同時に、ふたりめの王子はプレイヤーが操るキャラクターと戦闘スタイルが決定的に違わないため、ひととおりの魔法+物理攻撃のアレンジ版のキャラクターなので、楽にパーティプレイが学習できる
5. 3人目のムーンブルグの王女がパーティに参加
→3人目は魔法に特化したHPの低いキャラクターで、プレイ時のマネジメントの難易度は上がるが、戦闘の幅は広がる。これで戦闘の複雑さはほぼ上限に達する
『ドラクエII』は、こんな風にしてゲームを段階的に覚えてもらうように作られている。
また、RPGメカニクスはゲーム進行が保存される前提と相まって、プレイ中に毎回同じことをしなくてもいいので、アーケードゲームにあった「最初からまたやらないといけない問題」も回避している。
ただ、これだけでは「どうしても学習できない人」はゲームを進められなくなるのだけど、これすら解決するのが自動難易度調整装置としてのRPGメカニクスだ。
銀の弾丸その3:「学習を放棄」してもクリア可能に
「なぜRPGメカニクスを使うと、ゲームが複雑化しても“クリア保証”が可能なのか?」を考えていくと、RPGメカニクスの、銀の弾丸としての最大の要素に行き当たる。
それは「プレイヤーがみずから難易度調整をすることが可能。言い換えるならプレイヤーが気持ちのいい難易度でプレイできる」ということだ。
CRPGにおいて、基本的にプレイヤーの障壁となるのは謎ではなく敵とのバトルだ(正確には探索ソースを減少させるものなので、毒の沼地も障壁になる)。
またCRPGでは一部の例外を除いて敵が経験値を供給してくれるので、敵は障壁であるのと同時に成長リソース供給装置にもなる。
だからプレイヤーは、敵が強いと判断したなら、バトルの難易度が適切になるまでキャラクターを強化できる。言い換えるなら、つねにプレイヤーがある程度のバランスを取ってくれるわけだ。
このため、CRPGはバランスが悪いクソゲーと言われる作品でも、レベルを上げられる限りはクリアできるので、ファミコンの『星をみるひと』(1987/FC/ホット・ビィ)【※】など、いわゆるクソゲーと呼ばれる作品でもクリアしている人が普通に存在するという面白い特性が生まれる。
※星をみるひと
1987年にホット・ビィがリリースした、ファミコン用RPG。SFベースのシナリオなど評価が高い面もあるが、仕様かバグかわからない技術の低さが出てしまっている部分や、難度など含むバランスの悪さなどが指摘され、低評価RPGの名前を挙げるときに持ち出されやすい。
これによって、前回指摘した「アーケードゲームは学習できないとクリアできない」という問題が解決可能になるわけだ。
上手なプレイヤーほどファミコンゲームは苦痛だった? 多くの問題を解決できる、RPGメカニクスの正体【ゲームの話を言語化したい:第三回】
よくCRPGは「レベルを上げて物理で殴ればなんとかなる」と揶揄されることがあるが、これは言い換えれば、「レベルを上げて物理で殴れば、万人がクリア可能」ということだ。
そしてこれはクリアするのに絶対的な何かの才能が必要な場合と比較すれば、時間を投入すればなんとかなるのだから、どれだけ偉大なメカニクスかわかるだろう。
と、ここまで成長メカニクスが持つ難易度調整の話を書いたところで、さらにとんでもない話を始めよう。
先ほど「RPGメカニクスの成長は、外部記憶と組み合わせることで、ゲームの複雑化を自然に扱うことができる」と書いた。これはあくまで外部記憶との併用で、長いストーリーを最初からやらずに、「本にしおりでも挟むように、続きができますよ」という以上のメリットがなかったのだけど、これが難易度調整装置としての成長メカニクスと組み合わさると、恐ろしく強力な武器に変化する。
なぜなら、学習の早いユーザーは低いレベルで(難易度が高い状態で)、学習が普通のユーザーは常識的なレベルで(想定された難易度で)プレイできることになり、ユーザーの学習速度に見合った速度でゲームが進行できることになる。
つまりユーザーの覚える速度にゲームが合わせてくれるわけだ。「毒を吐いてくるこの敵、苦手なんだよね」と言いながら、レベルが上がれば毒を治療できるようになり、そもそも毒のステータスにならなくなる。
そして、さらに恐ろしい事実がある。
『ドラクエII』では、さすがに回復魔法は覚えたほうがよかったが、以降のものでは「CRPGでは基本的にスキルを使わなくてもレベルを上げればなんとかなる」【※】ということだ。
※
後述する、さくま(あきら)先生のところのスーパーデバッガーたちの『ドラクエ』プレイを見ていても、回復魔法こと「ホイミ」を使えないデバッガーはいなかったので、そのあたりはどんな一般ユーザーでも使用可能なものだと考えている。(筆者注)
つまり、最低限のチュートリアルさえマスターすれば、あとは学習を放棄したプレイですらクリア可能なのがCRPGということになり、いかに成長メカニクスが偉大なものなのかわかる。
それでも出てくる「バランスの悪い」ゲームとは?
ところで、ここまでの話で「自分で難易度が調整できる」とわかったCRPGなのに、ユーザーが「バランスが悪い」と言うことがある。このときは以下のパターンが考えられる。
1. 成長リソース獲得速度が極端に遅すぎる/早すぎる
2. プレイヤーの探索リソース消耗速度が極端に遅すぎる/早すぎる
3. プレイヤーの成長に対して制限がかけられている
このうちの1、2は実際にバランシングや対象としているユーザーターゲットの問題だが、3については大きく分けて問題となる場合とならない場合のふたつの側面があるので、少々プロフェッショナルな話題になるが、少し詳しく書いておきたい。
問題となる場合:ユーザーの能力の幅に対応不可
ゲームをデザインするとき、適切なバランスでプレイしてもらいたいと思ってレベル制限をかけると、たいていの場合には問題を引き起こす。なぜなら、適切という言葉があまりに曖昧だからだ。アクションの場合はもちろん、アクション要素がゼロでも、プレイするユーザーの能力には恐ろしく幅がある。
僕からすれば、1ターン後に明らかに死ぬ状態で「ねえ、これ次のターンに死ぬけどどうするの?」と聞いたとき「かいしんのいちげきが出る気がするんですよ、先制できると思うんですよ」と言って、何の手も打たずに死んでしまい「あーっ! 死んだ!」と驚いて叫ぶ、さくま先生のところにいたスーパーデバッガーたち(『天外魔境II』【※】を作っていたときの逸話である)を見ていれば、作り手が適切と思う範囲などまったく当てにならないとわかる。
つまり適切なバランスでプレイしてもらいたいとレベル制限をかけると、たいてい難易度が高すぎるか、「レベル制限ってナニソレ?」と質問される状態になるかの二択になってしまうことがとても多い。
だから適切な難易度でゲームを遊んでもらいたいなら、それがマス向けのゲームである限りは、むしろレベル制限という手段はとらないほうが実際のユーザーにとっては適切なバランスでプレイされることになり、いいやりかたとなる。作り手に立つことがあれば、ぜひ考慮してもらいたい。【※】
※
ただしこれもオンラインゲームのイベントなどでは、全員のレベルを統一することで条件を一定にするといった特殊な使い道はある。だからレベル制限で適切な難易度のプレイをさせるのが問題になるのは、コンソールなどのひとりプレイで、かつF2P(「Free To Play」の略語。基本無料で遊べるオンラインゲームを指すことが多い)のように、それを課金などで救済する手段がない場合ということになる。
問題とならない場合:F2Pの「差別化」では機能する
成長の制限が問題にならないのは、F2Pでの「差別化」のために使う場合だ。これは言い換えれば、成長限界を設けることで意図的に「格差」を作り出す目的で、いわゆるレアリティ(希少度)でプレイヤー間に上限レベルの差をつけるシステムがそれにあたる。
この場合は、制限が課金への導線(次のテーマとして取り上げたい)になったり、プレイヤーの究極の目的になったりするので、問題ではないことになる。【※】
結論として、レベル制限などの恣意的な限界は、意図的に悪いバランスを作り出すためなら問題ないが、そうでない場合には、たいてい何かしらの問題を引き起こす。だからゲームのユーザーを意図的にせばめる場合を除けば、基本的にはユーザーの差別化以外の理由で制限を設けるのはお勧めできない。
※
正確には、「プレイヤーにとっては問題となるが、制作者によって意図的に作られたものであり、またゲームデザインとしてそれが許容されている状態」だということ。この差別化の壁=「レアリティの壁」は、登場から2011年ごろまでは、突破できない、つまりノーマルをレアに育てる方法はないのが一般的だったが、いまでは許容するゲームも多数ある。というか、ユーザーの不満が噴出することを避けるのであれば、いまでは許容するほうが当たり前のゲームデザインだと思う。許容の仕方にも「一段階上のレアリティに移転することができる」、「最高レアリティまで時間をかけて努力すれば上げることができる」などなどいろいろある。
ほぼすべてのゲームに使われる「RPGメカニクス」
まとめるなら、1970年代後半から80年代前半にかけて、RPGメカニクスをコンピュータゲームが手に入れた結果、成長を軸に置き、プレイが保存できることを前提にするゲームが登場することになった(進行が簡単に保存できるのもコンピュータゲームの大きな特徴だ)。
そして、そのおかげで、RPGメカニクスを使ったコンピュータゲームは、以下の特徴を手に入れた。
・難易度の自動調整機能。これによってアーケードゲームが持っていた「一定難易度を超えると解けない人」が出てくる問題が消滅した。
・ゲームのメカニクスを分割して、少しずつ複雑化しながら与えるチュートリアル機能。
・最終的に必要な学習ができなくても、レベルを上げれば「クリア可能になる」柔軟性。
つまりRPGメカニクスは、アーケードゲームからの伝統として存在した「パズルを解けなければゲームがクリアできない」問題を、「成長することでパズルの条件そのものを変える」という、まったく革命的な方法で覆し、どんなユーザーでもクリア可能にさせていった。
また、RPGメカニクスは状態の保存が簡単なコンピュータゲームとの相性が極めてよく、成長した結果を保存すること=大きなストーリーの途中で保存することを可能にした結果、「毎回最初からプレイするので、うまくなると最初が退屈」という問題も解決した。
そして登場してから約40年経って、RPGメカクニスは、スキル・経験値・レベルなどなど、およそあらゆるゲームに普通に含まれている普遍的なものになり、RPGメカニクスが生み出した要素を、少しも使わないゲームのほうが珍しいと言えるまでになった。
RPGメカクニクスこそ、ゲームが生み出した史上最強の銀の弾丸だったのである。
補論:“クリア保証”と“買い切り型モデル”の関係
「クリア保証」という考えかたが重要になったのは、家庭用のコンソールゲームとPCゲームのビジネスモデルが買い切り型だったことと強く関係がある。
アーケードゲームのビジネスモデルは都度課金型(一度プレイするごとに課金するもの)で、1回100円だった。だからおのずと商売としては、時間で区切られたゲームが中心になり、時間が区切られていないゲームでは、「プレイが進行する=時間が経つ」につれて難易度を上げてプレイを区切るようになるのは必然と言ってよかった。そしてコンピュータゲームの特性を考えたとき、そうなるのが自然だったのは前回説明したとおりだ。
ところが、この都度課金のビジネスモデルで作られたゲームを、数千円を投入してゲームを購入するPCやコンソールゲームに持ってくると、「毎回スタートから始まって、3分楽しんだらゲームオーバー」となり、「どうして毎回最初からなんだ」、「難易度が高すぎるだろう」、「5000円払ったのにエンディングが見られない」などなど、容易にユーザーの不満が噴出するのが想像できる(一方、買い切りのゲームの中でも、レースゲームなど時間で区切るゲームには不平不満が出づらい)。
また、この「5000円払ったのにエンディングが見られない」といった不満は、初期のアメリカのゲームビジネスでは訴訟沙汰になったこともあるという伝説にもなっている。ただ、これが本当かどうかは僕にもわからない。
つまりビジネスモデルが都度課金型から、買い切り型に変化した結果、アーケード型のゲームの作りかたは市場との相性が悪くなり、よりコンソールやPCに適した、じっくりと腰を据えてプレイ可能なゲームを作る方向に変化したわけだ。
このように、その時々のビジネスモデルは、ゲームのスタイルやジャンルに大きな影響を及ぼすことを強く意識しなければならない。
ちなみに、技術的な問題もコンピュータゲームのスタイルに大きく影響を及ぼす。当たり前だけど、音が鳴らないハードで音ゲーは作れないし、3D表現ができないハードでは3Dゲームは作れない。そして、初期のファミコンにはバッテリーバックアップがなく、大量のデータの保存が必要なCRPGを作るのはそもそも難しかった。加えて、主にPCで遊ばれていたCRPGは、ファミコンの主なプレイヤー層(小学生中心)には難しいと思われていたので、前回書いた「プレイを最初から繰り返すアーケード型のコンテンツ」が中心になっていたわけだ。
そこに登場したのが『ドラゴンクエスト』(1986/FC/エニックス)や『ゼルダの伝説』(1986/FCディスクシステム/任天堂)などの、パスワードやディスクによって進行状況が保存され、大きな物語が進んでいく形式だった。RPGブームの初期においては、「進行状況が保存され、物語が続いていくゲーム」というコンセプト自体が人を惹きつけたという事実は意識しておいたほうがいい。
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