一般的なサバイバルホラーが、おもに主人公を取り巻く“外部”の異変や異常性を描いているのに対し、『サイレントヒル』シリーズは、サイレントヒルの街という特殊な力を持つ場所を通じて顕在化した、誰かの“内面”の異常性を描いている。それが『サイレントヒル』シリーズを数あるホラーゲームの中で独特のポジションに押し上げる魅力の源となっている。
テーマが人の内面についての物語なので、非常に暗喩的かつ衒学的で全体像が摑みづらい『サイレントヒル』シリーズだが、作り手たちはゲーム中のそこかしこに物語を理解するためのヒントを置いてくれている。本稿では、こうした『サイレントヒル』シリーズ独特の雰囲気を生む要素は何か、作品が描いているものは何かを考えていく。作り手の過去の言葉や作品の中に要素を訪ね、その怖さと魅力を語っていこう。今回対象としているシリーズの作品は、文献も多い国内制作の『1』~『3』に限った。性質上、ネタバレも含むので、未プレイの方は注意されたい。
文/小山オンデマンド
シリーズの核となる共通点
『サイレントヒル』シリーズの核とは何か。この核はふたつある。もちろん“恐怖”がそのひとつであることは間違いない。ではどんな恐怖か。『2』、『3』でシナリオを担当した大和久宏之氏はこれを「冷たく静かで、心に染み入るような暗闇の圧迫感にも似た、心理的な恐怖」と語っている。これらは具体的にゲーム中ではどう表現されているかを見てみよう。
『サイレントヒル』シリーズは、街を覆う霧や建物にはびこる暗闇によって、これから進もうとする先への見通しが悪いことがゲームシステムの礎となっている。この見通しの悪さは、そのままプレイヤーの不安と言ってもいいだろう。これがゲーム中に改善されることがないため、不安は維持され続けることになる。この不安に重ねて、いたるところに広がる血痕や錆から受ける生理的な嫌悪感や、延々と続く金網やタイルから感じる隔離されたイメージ、底なしの穴などを見て感じる虚無感や絶望感、さらに歪んだカメラワークに引き起こされる眩暈や倒錯、そして動悸にも似たノイジーでインダストリアルなサウンドが上乗せされる。これだけ負の要素が揃うと、プレイ中、この先に起こる“厭な何か”への想像が嫌でも掻き立たてられることになる。
だがラジオノイズによって存在は明かされているくせに、“厭なもの”そのものは霧や闇の向こうからなかなか現れない。するとプレイヤーはどうなるか。不安が延々と解消されず、プレイ中、絶えず緊張を強いられることになるのだ。たとえば他のタイトルであれば、セーブとアイテム管理が可能な部屋では、安心感を誘う音楽が流れ、プレイヤーはそこでひと息つくことができる。だが、『サイレントヒル』シリーズにはそうした場所がほぼ見あたらない。ストーリーで重要な役割を担うNPCと会話をしていても、直後に異形のものが現れたり、それどころかそのままそのNPCと戦闘になることも多く、まったく気が休まらない。
こうした抑圧の結果、プレイヤーはサイレントヒル市街を歩いているだけで、想像力によって作り手の用意した以上の恐怖を自分の中に生み出し、みずからそれを増幅していくのだ。心臓に刺さるというよりは、心臓をだんだん握り締められていくようなシリーズ独特の恐怖を形作る。どこで遭遇するのかわからない何かが潜むフィールドに向かって、緊張を強いられたまま心細い武器を片手に、自分の意志で隅々まで見て回らなければならない、という逼迫した状況が作る圧迫感、それが『サイレントヒル』シリーズを覆う恐怖の正体だ。
ではクリーチャーが現れるとすっきりするかと言えば、あまりそうでもない。なぜならリアリティがあって、なおかつ目の前にいるのに形を把握できない、名前の付けようもない代物が現れるからだ。フランシス・ベーコン【※】やヒエロニムス・ボス【※】に影響を受けたと言われるこれらのクリーチャーは、3作を通じてクリーチャーのデザインやアートディレクションなどを担った伊藤暢達氏の、人は「現代では、他者とくに理解不能なものに対して恐怖を抱く」という思想のもとに形作られている。1作目では、映画『ジェイコブズ・ラダー』にチラチラと登場する正体不明の怪異が参考にされたと言われている。クリーチャーのアブストラクトさがいっそう強まるのは『2』以降だ。レッド・ピラミッド・シング、通称“三角頭”のような、意思の疎通や理解を拒絶する存在が現れ始め、これまでに見たことのないような敵を前に、プレイヤーは混乱に陥いるのだ。
※フランシス・ベーコン……20世紀後半のもっとも重要な肖像画家と称される、アイルランド国籍の画家。時間や動きを主題としており、見る者に不安を感じさせる抽象的なイメージを描く。デヴィッド・リンチの映画『イレイザー・ヘッド』の奇形児や、ギーガーの描くエイリアンのデザインにも影響を与えているとされる。
※ヒエロニムス・ボス……15世紀後半に活躍したオランダ人画家。聖書中の寓話を幻想的な筆致で描く。エデン、現世、地獄を奇妙なモチーフで埋め尽くした三連の祭壇画として描き上げた『快楽の園』などでよく知られている。
これらのさまざまな要素を絡め取ってひとつの恐怖に落とし込み、シリーズを名作たらしめているのが前述のサウンドだ。乾いたギターやマンドリンの響くフォーキーな曲があると思えば、ストレートな8ビートもある。またノイズに近いSE、インダストリアルロックの流れを汲むバトルBGMなど、『サイレントヒル』の音は、一定の方向を持ちながらも幅広い。これはシリーズを通してサウンドを手掛けていた山岡晃氏のカラーだろう。氏はかつてPlayStation.com上のインタビューで「ホラーゲームのプレイヤーは、謎を解きたくて、怖がりたくてプレイする。音楽を聴きたいと思ってる人はいない。だったら、サウンドの役割は、音でプレイヤーにどれだけ嫌な想いをさせるか。そこから、“ラジオのノイズって気持ち悪いよね”“工事現場の金属音ってすごく嫌だよね”と、どんどん話がふくらんでいって、僕らが感じる嫌なノイズを、できるだけゲームにぶち込んでやろうということになった」と語っている。プレイ中のサウンドはあくまで耳障りに、プレイの周囲を覆うサウンドはメロウに。この絶妙なバランスがシリーズ独特の“怖さと切なさ”を両立させているのだ。山岡氏は、1作目と『2』ではサウンドを、『3』、『4』ではプロデューサーを担当。シリーズを貫く空気感はそういうところから生まれているのだろう。
(c)2011 Konami Digital Entertainment
日常に隣接する違和感
ここまで『サイレントヒル』シリーズの恐怖について考えてきたが、ここで、この恐怖が依っているとされるモダンホラーとは何かを考えてみる。
モダンホラーは“ゴシックホラーに対してモダン”であるものとして定義される。19世紀から長らくホラーコンテンツの中心だったゴシックホラーは、神秘的、幻想的な小説、ゴシック・ロマンスに端を発する。これらは語りの中に、得体の知れない洋館の闇や人跡未踏の辺境の地など、特定の土地、空間、時代的な背景などの舞台を必要とする、異邦人として受け止めるホラーだ。一方のモダンホラーは、詳細に描写された、ありふれた身近な街などが舞台。その日常に隣接する違和感や怪異を描いている。そのため、逃げられないかもしれないという絶望感が受け手の潜在意識を刺激する。
モダンホラーの始祖は、定義の捉えかたによって、エドガ・アラン・ポーやハワード・フィリップス・ラヴクラフトなどさまざまな作家が該当する。だが、誰もが認める第一人者は、いまもなお現役のアメリカ作家、スティーヴン・キングその人だろう。キングは、『キャリー』、『シャイニング』、『デッドゾーン』、『ペット・セメタリー』、『IT』、『ミザリー』、『ダークハーフ』、『ミスト』などの映画化された数々の有名なホラー作品を始め、『スタンド・バイ・ミー』、『ショーシャンクの空に』、『グリーンマイル』などのヒューマンドラマも手掛けている。どちらの傾向のものであれ、彼の作品は怪異そのもの以外は多数の具体的な固有名詞などで彩られ、これによって物語がリアリティと日常性を獲得する構造となっている。そのリアリティの隙間から、他者による不条理や、呪われた運命による災厄などの闇が見え隠れし、恐怖も際立ちつつリアリティを持ったものとして機能するのだ。
『サイレントヒル』シリーズから受ける恐怖は、こうしたキングの作品と同根の、リアリティに隣接した得体の知れないものによって引き起こされている。また、モダンホラーの系譜ともズレるが、観る者に絶えず不安定さを突きつける佇まいは、デヴィッド・リンチの映画のようでもある。
サイレントヒルという街の正体
では具体的に『サイレントヒル』シリーズで描かれているリアルとは何か? じつはこのシリーズは、サイレントヒルという街が作り出す、人気のない異空間に主人公たちが踏み込むところから始まることがほとんどであるため、人々の営みそのものはほぼ描かれない。街のディティールなどに残された部分にリアリティを感じ、人々の日常を推測するばかりだ。だが、それを可能にするだけのディティール群が街にはあふれ、リアリティを醸しだしている。さらに残されたメモなどの断片を読み込むことで、このサイレントヒルという街の正体も明らかになるのだ。
その正体とは何か。この街は訪れた者の内面の闇を目に見える形にして表す不思議な力を持った街なのだ。1作目では物語の鍵となる少女アレッサの苦悩が、『2』では主人公ジェイムスの抱えた闇が、そして『3』ではカルト宗教の司祭であるクローディアや再びアレッサの内面が顕在化し、現実に侵食してきている。この街は同時に、罪を抱えた者を呼び寄せる力を持っており、とりわけ『2』の登場人物たちはそのおかげで街に集うことになるのだ。また街では時空の境界もおぼろげで、時間を超えて人々が交信し合うエピソードも描かれる。
これらの力は、明確で合理的な説明こそないが、おそらく街がたどってきた数奇な運命に由来するものと考えられる。17世紀初頭にヨーロッパから入植者がやってくる以前から、この地は先住民族の聖地だった。この地が持つ不思議な力が崇められ、信仰されていたのだろう。邪悪なものではなかったが、プリミティブに生贄の儀式なども執り行われていたらしいこの信仰は、やがて入植者によって土着の人々とともにこの地から追われていく。そしてかすかな記憶の残滓だけが土地に残っていく。
その後、17世紀の末には伝染病が蔓延。街は放棄され、19世紀頭の再入植を待つことになる。再入植と同時に刑務所と病院が建設され、刑務所が19世紀半ばに閉鎖したあと(跡地が歴史資料館になっている)、炭田が近くで発見されて街は全盛期を迎えるのだ。その後、南北戦争の捕虜を収容する捕虜収容施設(のちの刑務所)が1860年代に成立すると、このころから街では神隠しが多発。20世紀に入ると刑務所は廃され、観光地化していくのだが、相次ぐ船の事故などにより、またもや寂れていってしまう。
このように伝染病や刑務所の設立などの負の因子が土地本来の力を歪め、街は邪悪なものとなっていった。さらに信仰はやがて宗教となり、1作目に登場するダリアは神の復活を望み、『3』に登場するクローディアは神に救済を求め、ビンセントは教団をより強固な組織に作り上げていったという経緯がある。
物語を運ぶのは“愛”
『サイレントヒル』シリーズを形作るもうひとつの核は、紛れもなく“愛”だ。ホラーはプレイの動機になるが、物語を駆動させない。物語を動かしているのは愛なのだ。1作目では“娘を愛した父親と、娘を愛さなかった母親”を、『2』では“愛した妻を失った男の狂気”を、『3』では“互いに思い合う父娘の愛と、思い合えなかった父娘の姿”を描いていると大和久氏は語っている。これらを描いた理由については、「ただ“人間の人間らしさを、そしてその清濁や美醜を一番見せることができるものは? 人間が途方もない恐怖に出会ったとき、それでも立ち向かえる理由は何か?”と考え、「愛」というものを描こうとした」と氏は語る。『サイレントヒル』のプレイを通じて、鮮烈なホラーの向こうに切なさを覚えるのはこのためだ。
たとえば1作目の場合、主人公ハリーがサイレントヒルの街を彷徨う目的は、愛娘シェリルの捜索だ。無償の愛である一方で、通常の親子ではないだけに、霧に消えた娘が二度と戻らないのではないかという不安をハリーは潜在的に抱えているようにも思える。この世界を異界に仕立て上げている犯人は、アレッサだ。物語の7年前、神への信仰が行きすぎたダリアの考える世界の破壊と神の復活のため、降神の儀式が執り行われ、実娘アレッサは重度の火傷を負いながらも神を宿し不死となる。その想像を絶する苦痛たるや。懸命に娘を探すハリーと、娘を信仰のための道具としか見ていないダリアはひどく対称的で、ハリーの真摯な姿勢を通じて、そのコントラストはいっそう色濃く浮かび上がる。死にながら生かされたようなアレッサの悲痛と苦悩はやがて街全体を覆い、サイレントヒルの街はアレッサの内面を映し出したものとなる。
『2』はこの3作の中で、もっともシナリオのつながりの薄い作品だが、描かれる愛は歪みながらも特濃だ。死んだはずの妻から届いた手紙を片手に、ふたりの想い出の地であるサイレントヒルを訪れた主人公ジェイムス。いまはもういない妻メアリーへの思慕と、その妻にうりふたつのセクシャルな女性マリアとのあいだに生じる関係性が、愛憎や愛の不確かさなどを示すとともに、妻に対するジェイムスの決して許されない罪や自罰感情がサイレントヒルの街では顕在化しているのだ。前述のレッド・ピラミッド・シングなどは、みずからを罰するジェイムスの心が無意識に作り出したものと開発スタッフによって明言されており、処刑人を思わせる姿から想像するに、ジェイムスはこの街へ死ぬためにやってきたとも受け取れる。ほかにも、『2』に登場するNPCのエディーやアンジェラはそれぞれジェイムスと同様に罪を抱えてこの街に引き寄せられており、それぞれ劇中で何らかの形でそれを贖うことになる。
『3』で描かれているのも、ふた組の親子の愛だ。巻き込まれた主人公ヘザーとその父のあいだに描かれる親子の愛は劇中の絶望的な転換点を経て、曖昧だった輪郭が深い愛として明確な形をなす。一方、ヘザーと対峙する司祭クローディアは、父親レナードに愛されなかった娘だ。レナードもまた信仰が行きすぎて娘に信仰を強要し、不信心と見ると過激な暴力に訴え出ていたことが話中では語られている。スポイルされた娘は歪に育ち、街を異世界に変えるほどの闇を抱えることになる(父親はというと精神に疾患を抱え、とうとう娘とわかり合えないまま最期を迎えることになるのだが)。
愛も悲哀も憎悪も不条理も
以上のように、人の内面を投影する舞台としてサイレントヒルの街は存在する。内面の物語であるから、理解できない他人の心(ときには自分の心)が、そのまま理解できない形の怪異となって主人公たちに襲いかかる。この恐怖に立ち向かうたったひとつの武器が、理解し合った相手との心のつながり=愛であり、それは「ホラーに立ち向かうのは家族だったり、親子だったり、最終的には愛しか手立てがないのかな」と言う、1作目のディレクターである外山圭一郎氏の言葉に象徴される。この心臓をギリギリと締め上げる恐怖と、喪失などネガティブな状況から逆説的に導き出される愛情のコントラストの激しさが『サイレントヒル』の特徴であり、それらの強い感情が、街を覆う霧や闇の生み出す物悲しさや静謐さの中でのたうち回る。これらが『サイレントヒル』のシリーズを底通して響き渡るものの正体だ。
だが、どの作品も、主人公たちの行動によってエンディングは分岐し、そこには愛も悲哀も憎悪も不条理(UFO!)もすべてが内包されており、結果、サイレントヒルという街が主人公にとって何だったのかは、プレイヤーの手に委ねられることになるのだ。
週刊ファミ通、ファミ通.comなどを経て、電ファミニコゲーマーに参加。過去に『サイレントヒル』シリーズを初代から『ZERO』まで担当。この特集で購入したホラー映画のDVD/Blu-Rayは20枚を超えた。好きなホラー映画は『HOUSE』(恐くない)。