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もっとも怖いものとは何か? VRによって描かれるホラーの形~総力特集の最後に

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終わりの初めに

 8月中に幕を閉じるつもりで始めた“総力特集:ホラーゲーム”だったが、各執筆者とも気合いが入りまくり、当初の予定を大幅に通り越しての幕引きとなった。“ゲームの企画書”や、すべてのレビューを楽しみに待っていた皆さまには申し訳ないばかりだ。ただ、お待たせしたぶん、いずれの記事も読み甲斐のあるものとなったことと信じている。

 さて、その総力特集の総まとめとなるこの記事では、すべての記事を通じて導き出された、「怖さとはなんなのか?」、「ホラーゲームとは何か?」、「どうして僕らは恐いゲームをわざわざプレイするのか?」について語っていきたいと思う。来たるVR時代のホラーゲームを味わい尽くすときに手がかりとなるものが見えてくるだろう。

怖さとは何か?──理解できないものに対する根源的な感情

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 怖さ=恐怖を感じる現象の正体は、東大教授の池谷裕二氏に、脳科学の見地から尋ねた記事で明らかになっている。恐怖は、自分の生命を脅かすモノに対峙したときに、逃げたり戦ったりなどの選択を迫るシグナルだ。この感情によって、人は目を見開き、五感を研ぎ澄まし、全身を強ばらせることで、生命を守るためのつぎの行動を最速で取れるように身体が備え始めるのだ。

 この“恐怖”は、扁桃体という大脳辺縁系と呼ばれる脳の一部で生み出される情動だ。もともと扁桃体はこの感情を司るために生まれ、やがてほかの情動までもを司るようになっていった──つまり恐怖は、生き物として生存の確率を上げるために備わった、もっとも根源的な感情であるとわかる。

 さらに踏み込めば、恐怖を感じて上げる悲鳴は、「生存のために危険が迫ったことを仲間に伝えるという、人間のプリミティブな部分の装置が発動してしまっている」(外山圭一郎氏)状態と思われる。絶叫は、声を上げた当人が図らずとも、脅威を与える外敵の襲来を仲間にいち早く伝えるうえで、覿面に効果を発揮する。周囲の誰かが叫んだとき、身構えない人も、そこに視線を送らない人もいない。そういう風に僕らはできているのだ。

 ではどんなものに僕らは恐怖を感じるのか?

 もっともわかりやすい対象は、理解の外にあるものだ。『サイレントヒル』論で語られた、「意思の疎通や理解を拒絶する存在」、「理解できない他人の心(ときには自分の心)」や、ホラー対談の場で論じられた「どこまで行っても正体がつかめない、整理できないもの」(外山氏)、「理解できないもの」(柴田誠氏)などがこれに当たる。

 対象を理解していれば、つぎの行動や状況などの予測も可能だが、整理できない、名前の付けようもない代物からは、推測のもとになる経験や知識を引き出すことができない。この無力感や宙吊り感を人は恐怖に感じるのだ。マスク・ド・UH氏の寄稿文ホラゲ年表、そして福満しげゆき氏の語りの中で語られている“田舎ホラー”でも、「文明社会の及ばぬ地に潜む非合理」が恐怖の対象となる。“理性で解決できない得体の知れない何か”に、人は絶えず怯えているのだ。

 これらは条件が整うと、怖さをいっそう増すことになる。そのいくつかある条件のひとつが、三上真司氏の言う「見せない怖さ」だ。その先に何かが出てきそうであるとか、何かヤバそうだとか、「いやでも想像力が働いてしまうようなものがいちばん恐い」という指摘は、柴田氏のいう「そもそも、恐怖体験において「全てが見えないので想像する」というのは、非常に重要」と同じことを説いている。

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 この「真相がわからず、何も説明されないまま、どこまでも安心できないシチュエーション」(柴田氏)が延々と続くと、人は「想像力によって作り手の用意した以上の恐怖を自分の中に生み出し、みずからそれを増幅していく」のだろう。これはホラーゲームを作る際のテクニックにも活用されており、「“完成した話よりも未完成な作品のほうが気になる”という心理を意識」して、「嫌なことが起こっていて、それを解決したい。でも解決法がわからない。そういう状況をつねに残すようにしておく」。「それは怖さそのものであり、ホラーには欠かせない」と外山氏は語っている。いちばん怖いものは、宙吊りの状態に置かれた人が想像力によって生み出すものであって、作り手は手を貸すだけ。プレイヤーを恐怖で締め上げているのは自分自身の心なのだ。

 これを意図的に誘導して成功した顕著な例がhamatsu氏の言う“『バイオ』の呪い”だろう。同作では、ゲームの冒頭に、窓のあるただの廊下で、窓ガラスを破って突然ゾンビ犬が乱入してくるシーンがある。同作のプレイヤーは、この体験によって「ゲーム上のほぼ全ての空間に対して、同じような「びっくり」の仕掛けが発生しうるという可能性」(hamatsu氏)を付与されるという鮮烈な呪いを負っているのだ。これらは岩崎啓眞氏が言うように、「表現力のあるハードウェア」によって3Dが描画され、ゲーム内の空間がリアリティを持ち得たことによって、ようやく実現されたものでもある。リアリティはプレイヤーに対して説得力を生み、ゲームへの没入を促す。そしてそこに潜む違和感や怪異にもリアリティを持たせ、いとも簡単に想像力を刺激するのだ。

ホラーゲームとは何か?──ホラーとゲームの相性の悪さから生まれる作家性

 この恐怖がホラーゲームとして落とし込まれるとどうなるのか?

 特集中にたひたび登場するのは、岩崎氏やhamatsu氏が語る、“ホラーとゲームの相性の悪さ”だ。映画であればカット割りによって、「作り手側が効果的に見せたいカメラアングル」(岩崎氏)を提示できるものが、ゲームとなると作リ手の考えるタイミングでの脅しなどはほぼ成立しなくなる。それを踏まえて『アローン・イン・ザ・ダーク』や『バイオハザード』のように、カメラアングルを位置ごとに固定して近い効果を狙うと、恐怖感を煽る演出の効果は劇的に上がるが、ゲームとしての操作性が犠牲になり、「「空間把握の困難さ」という致命的な欠点」(hamatsu氏)を抱え込むことになる。「ホラー映画やホラー小説なら恐怖の対象から逃げ回ればいいけど、ゲームは恐怖と向き合って倒さないといけない」(柴田氏)以上、操作性の悪化はゲームそのものの致命傷にもなりかねない。

『バイオハザード』(画像はバイオハザードシリーズラインナップページより)
『バイオハザード』(画像はバイオハザードシリーズラインナップページより)

 だが同時に『バイオハザード』は、そうした「空間把握の困難さ」や操作性の悪さを逆手に取り、「観てるこっちがじれったくなる感じを」「ゲーム的な形で体験」(hamatsu氏)させ、「ホラー映画的な身体性」(hamatsu氏)やホラー的な負荷にうまく転換している点に優れていた。これは『クロックタワー』シリーズなどにも顕著で、キャラクターをダイレクトに操作するのではなく、「移動もあえて位置指定タイプにすることでプレイヤーにもどかしさを感じさせ」(UH氏)、プレイヤーをパニックに陥れる。ホラーゲームとすれば、「移動を快適にすると「負け」」(柴田氏)なのだ。

 また、謎解きやカスタマイズなどゲーム的なイベント類も、ホラーとの相性が悪く、福満氏はこれを「あまりカスタマイズなどが行き過ぎると、ゲームが怖さから離れ」ていくと指摘している。外山氏も『SIREN』製作時に、パズル的な謎解きを禁止することで恐怖の度合いを下げないように工夫したという。これらのロジカルなイベント類は、池谷氏の解説によれば大脳皮質によって担われるものだ。これにより、人は扁桃体が生み出す恐怖を大脳皮質が抑制することで、その先にある報酬を逃さない理性的な行動を導くのだ。抑制する部位が活発になれば、おのずと恐怖の度合いは低下するため、これらの二律背反にどう対応していくかが、各タイトルの作リ手の腕の見せどころ、あるいは作家性となるのは自然だろう。

 具体的には、たとえば外山氏は「基本的にはタイミング依存の表現は切り捨てて、「その場を歩いているだけで怖い」というのを基本に置きつつ、恐怖が起きやすい環境の設計を考えていくしかない」と答えている。柴田氏は「ゲームであるからには「解決している」感もほしいんです。そのときに、私としては「カメラで撮影することで幽霊を写真に収める」という辺りでどうか……と考えた」。「特に、カメラを覗くと視界が狭まるのがいいんですよ。ヒュッと霊がいなくなると、慌てて探し回らないといけない。上を見たら、いきなり降ってきてもいいですしね。そこは単純にバトルとしても、ホラーとしても面白くできるんですよ」と、それぞれ解決法を模索している。

 これらのジレンマは、「プレイヤーに怖さを味わってもらうことが最大の目標」(岩崎氏)であるホラーゲームにおいて、「ホラー性を追求するならば、本当は反撃したくない」「ですが、スカッとするところがないと」、「プレイヤーには不満が溜まります。ホラー要素の強いゲームとして怖さを保ちつつ、ゲーム本来の快感を追っていくというのはなかなか大変な作業」という三上氏の言葉に顕著だ。かくいう氏は、「ゲームであることは大事」という理念のもと、ロケットランチャーの一撃や敵の本拠地の爆破などで、プレイヤーに最終的な爽快感や達成感を得させている。

どうしてホラーゲームをプレイするのか?──恐怖に転移した快感

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 これについてはhamatsu氏が「充実した時間」というプレイヤー観点で答えている。恐怖に対峙するこのひとときに、プレイヤーは持てる能力をできるかぎり発揮しようとするからだ。「これほどまでに濃密な体験はそうそう味わえるものではないだろう。だからこそ不快な体験を通して快楽を得るという大いなる矛盾をはらんだホラーゲームというジャンルを、我々はプレイしてしまうのではないだろうか」と氏は語る。

 前述の、“仲間に悲鳴で恐怖を伝達しているのだろう”という観点から語られる、「怖い話を共有することに、人間が興味を覚えるのは本能的なもの」という外山氏の示唆も見逃せない。知らないことが恐怖を形作るなら、ホラーコンテンツに触れて、さまざまな恐怖の形を知ること、恐怖を与える危険な何かを語り継ぐことは、まさに恐怖を克服するためのワクチンのようでもある。ホラーゲームをプレイする僕らは、知らず、人の想像し得るあらゆる危険を共有しつつ、学習しているということになる。

 また池谷氏からは明解な回答もなされている。「人間は不快感と同時に快感を覚える」のだという事実だ。脳は痛みを感じると同時に、痛みを振りきって恐怖の対象から逃れるために快感神経も走らせている、と語る池谷氏は、ホラーコンテンツの緊張と弛緩の体験後によって得られる解放感や達成感が、「快の転移」と呼ばれる現象によって、怖いものそのものに移っているのではという。僕らは、いつのまにかホラーによる抑圧後の解放感を、ホラーそのものの快感と認識して楽しんでいるのだ。

VRという“場の体験”がもたらす恐怖

 技術の進化によって3Dを得て、それまでの平面から空間をリアルに表せるようになったホラーゲームは、この先、どういう地点へとたどり着くのか。

 「その場にいるだけで」(外山氏)、「本当にただ「怖いところを歩くだけ」で」(柴田氏)というように、ホラーゲームはVRという“場の体験”の登場によって、今後劇的に変革していくことが予見されている。VRでは、映像や小説など「これまでのメディアでは表現しづらかった」(柴田氏)感受性の高さを要求する表現を、場を設けることで一瞬で説明し、怖さに直結させられるようになる。

 問題はその相性の過度な良さで、「怖く作ろうと思えば、いくらでも怖くできてしまうから、むしろさじ加減が難しい」(外山氏)と語られるように、ホラーVRによって生死に影響するほどのショックを受ける怖れもあるだろう。これはまさにVRによる身体性への侵食の一種で、これがVRと並行して進化を遂げている人工知能と合わさったとき、VRは取り返しのつかない領域まで人を運んでいく可能性もある。そのとき、僕らはホラーコンテンツを、退屈な日常に刺激をもたらすものとして、純粋に楽しめるのかどうかもわからない。

 「僕としては、感覚が人間を超えていってしまうような体験が見たいですよね。VRを見ていて本来の自分の身体感覚が段々揺らいできたら、怖いと思います。実際、とあるVR用ゲームの試作を体験したときなんかは、高熱が出たときの不思議の国のアリス症候群みたいな感じの映像が出てきて、もう頭おかしくなりそうでした。素晴らしいですよ、本当に(笑)」。(外山氏)

 そのときを迎えた僕らがいちばん恐れるものは何かを想像すると、それはきっと「人類の狂気」(UH氏)、「生身の人間の怖さ」(福満氏)、「「こんな登場キャラクターが身の周りにいたら嫌だな」とか「現代社会の裏でこんなことが行われていたら嫌だな」などの「嫌悪感」(レトルト氏)など、やはり人間であることは間違いないだろう。徐々に内容が明かされつつあるVR対応の『バイオハザード7』が、(何かの理由があったとしても)意思を持った人間の狂気を描こうとしているように見えるのは、決して偶然の一致ではないのだ。

『バイオハザード7』(画像は『バイオハザード7 レジデント イービル』公式サイトより)
『バイオハザード7』(画像は『バイオハザード7 レジデント イービル』公式サイトより)

 



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