ワンオアエイトは、『Fate/Grand Order』のあらゆる宝具演出を担当するなど、デザインに確かな実力をもち、業界内でも評判の高いゲーム開発会社だ。
今回、電ファミ編集部は同社の代表・小村一生氏に昨年発表された新作オリジナルゲーム『LOST EPIC』についての話を伺うはずだったのだが……取材を進めて見えてきたのは、小村氏が歩んできた、あまりに苛酷なゲーム制作人生だった。
浪人生からいきなりセガで第一線に放り込まれた小村氏は、『エターナルアルカディア』や『サクラ大戦3』の開発に携わる。その後コナミを経由し、「JRPG宣言」で知られるイメージエポックに入社。取締役として、当時経営不振に陥っていた同社の再建に尽力するが、東日本大震災を機に「もしこの仕事が最後だったら後悔するな」と思い立ち、思いを同じくしていた同僚とともに独立を志す。
しかし、独立の際に社内政争に巻き込まれた結果、小村氏は「クーデターの首謀者」としてイメージエポックを追放されてしまう。連れていくはずだった40人の部下のために用意したオフィスやマシンはすべて負債に変わり、1000万近くの借金を背負うことになった。
ワンオアエイトは、そんなまさに「一か八か」の状況から始まった。
子どもが生まれたときに購入した新築のマンションも、1日も住まずに売った。一切合切を清算して、最後に残った50万円でMacBookを2台買い、公園でゲームを作り始めた。
いったい何が、小村氏をそこまでしてゲーム制作に駆り立てるのか。
氏が語ったのは、「リスクがあるのは確かです。でも、作らない方がよっぽどリスクがあると思っています」という言葉だった。
バイト採用かと思いきやいきなり実践投入!セガ時代のデザイン業務からゲーム業界に進む
──小村さんはなかなかの苦労人だと聞いています(笑)。
小村氏:
そうですね……。経験がないなか無茶なことをやったり、多額の借金を抱えながら会社を作ってゲームを開発してきました。
──今日は小村さんのゲーム作りの歴史や、現在開発中の新作ゲーム『LOST EPIC』の話などを聞けたらと思います。
小村氏:
はい、よろしくお願いします。
──小村さんはどのような経緯でゲーム業界を目指したのでしょうか。
小村氏:
ゲーム業界を志す前は油絵をやっていて、大げさにいうと画家になろうと思っており、鹿児島から美大に入るために上京してきました。
当時はゲームに興味がなく、ゲームの情報はファミコンで止まっていたんですけど、浪人中に友人にゲームセンターに連れていかれたときに『バーチャファイター2』をプレイして「今のゲームってこんな風になってんだ!?」とものすごくビックリして、そのままハマってしまいました。
それで「俺はセガに行く!」と決めて、そこから「セガに入るにはどうするか?」と意識し始めました。
──なるほど。それで、セガに入社するためにどのようなアクションを仕掛けたのですか。
小村氏:
当時買っていた『サターンマガジン』という雑誌に、セガの「営業のアシスタント募集」という採用ページが出ていたんです。営業のアルバイトと言っても電話番みたいなものだったんですけどね。
営業のアルバイトなので、ポートフォリオを送る必要はまったくないんですけど、当時描いていた作品なんかも一緒に送りつけたんです(笑)。
──どうにか潜りこもうとしていたんですね(笑)。
小村氏:
結局、返答期限の1週間をまったんですけど、返答が無かった上に帰省しなければいけない用事があったのでいったん鹿児島に帰ってしまったんです。
けど、1か月後に東京に帰ってきたら留守電がチカチカ光っていたんです。実は僕が家を出た日にセガから電話が来ていて……。
──なんてタイミングが悪い……。
小村氏:
その留守電には、セガのプロデューサーから「お話があるので折り返し電話してください」と入っていたんですよ。
すぐに折り返し連絡したところ、「もう、1か月の間に営業アルバイトは決まってしまった」と言われてしまい……。
──それでどうなったんですか……?
小村氏:
けど、そのときに「開発に興味はありますか?」という提案をされて、そのままセガの開発チームに加わることになりました!
──そこから開発にオファーされるなんて、珍しい経緯ですね。
小村氏:
作品をいきなり送ったおかげかもしれません(笑)。いちばん最初に携わった作品は『エターナルアルカディア』というドリームキャストのRPGでした。それまで3DCGを触ったことがほとんどなかったので、必死で勉強しながらキャリアを積みました。
僕としてはどうせなら『バーチャファイター』シリーズに関わりたかったんですけどね(笑)。
──アルバイト時代はどのような仕事をやっていましたか。
小村氏:
ふつうに開発スタッフとまったく同じことをやらせて頂きました。
──アルバイトなのにですか!?
小村氏:
そうなんですよ。僕が入社したのは6月で、4月に入社した大半の人たちの研修期間が終わったときだったので、僕もいきなり実践の場に投入されました。正社員も派遣社員もアルバイトもごちゃまぜでみんなで開発に参加しました。
──『エターナルアルカディア』の発売が2000年なので、それらのお話は1997〜1998年ごろでしょうか?
小村氏:
そうですね。小玉理恵子さんのプロデュースでした。
──のちに『セブンスドラゴン』を手がけた方ですね。
小村氏:
『エターナルアルカディア』の開発を終えたあとは『サクラ大戦3』でイベントシーンの絵や背景などを担当しました。
──当時は3DCGパートの背景などを担当されていたそうですが、会社員時代にはディレクター的な仕事はなさらなかったんですか。
小村氏:
そうですね。当時はディレクターはまったくやりませんでした。ただ『エターナルアルカディア』ではバトルシーンに関わる「バトル班」の唯一のデザイナーとして配属されたので、そこではいろんなことを経験しました。
──これまたすごい経験ですね……。
小村氏:
ゲーム全体では総勢200名くらいのチームだったのに、「バトル班」は企画者もプログラマーもデザイナーもひとりずつ、合計3人の班で全部やらなきゃいけないという部門でした。
特に戦闘ステージを作るのは完全に僕ひとりという形だったんです。なので「ただ作るだけ」では済みませんでしたね(笑)。いろいろ段取りだったり、全体のバランスまでも考えなければいけなくて。
御影良衛氏との出会い、そしてイメージエポック入社で取締役になると思いきや……
──セガのあとはコナミに入社したんでしたっけ。
小村氏:
はい、コナミデジタルエンタテインメントスタジオに入社しました。けど半年ほどで辞めています。その後、ナムコ・テイルズスタジオに入ったのですが、そこで開発していたタイトルが世に出なかったんですよ。
それでリスタートすることになったわけですが、そのときに「ちゃんとRPGを作りたい」と思いはじめました。ちょうどそのときにイメージエポックの代表をやっていた御影良衛氏【※】から声をかけられて、イメージエポックに入ることに決めたんです。
※御影良衛
元イメージエポックの代表取締役社長。20代という若さで『ルミナスアーク』や『セブンスドラゴン』といったRPGシリーズの開発を手がけ、自社パブリッシングも行ったが、2010年ごろから経営不振が続き、同社は2015年に破産。その後御影氏は消息を断っていたが、2018年にPCブラウザ&スマホ向けMMORPG『クラン戦記』を発表した(参考記事)。
──御影さんもテイルズスタジオに参加していたんですよね。
小村氏:
そうです。御影さんとは背中合わせで仕事をしていました。
──御影さんはテイルズ時代はどのような方でしたか?
小村氏:
彼はものすごく好青年でしたよ。腰が低い方で。ただ当時作っているモノのクオリティは独特でした(笑)……。これは書いていいですよ(笑)。
──(笑)。御影さんにはいつ、どのようにイメージエポックに誘われたんですか?
小村氏:
誘われた時はまだ「合資会社イメージエポック」として設立されてから3か月くらいしか経っていないころでしたが、既に30人くらいのスタッフがいました。
御影さんに「自分ひとりではどうにもならないから、手伝ってくれないか」と言われて、イメージエポックに入りました。
新宿ゴールデン街で飲みながら話しているときに「どこでも転職しようと思えばできるでしょ?」って御影さんに言われたんですね。実際、現場たたき上げで経験を積んできてはいたので。
だけど「でも、どこに行っても小村さんがやること同じだよ?」と言われて、「たしかにそれもそうだな」と思ったんです。そのときは20代最後の年だったのですが「若いうちにいっぺん新しいことをはじめてみるか」と決心したんです。
──入社当時はイメージエポック内で小村さんは年長者でしたか?
小村氏:
いえ、僕より年長者はたくさんいました。
──それでも統括する立場で採用されたんですね。
小村氏:
いえ、たしかにそういう話ではあったんですが、入ってみると「いち作業員兼営業」みたいな感じで突然放り込まれました(笑)。
──ええ……。
小村氏:
入った次の日、いきなり「企業のウィキペディアとかを見ながら営業の電話をかけて」って言われたんです……。
それまでは絵を描いたり3Dの背景を作っていたので、突然電話で仕事を取ってくる仕事になったので、どうすんだよという感じでしたね。でもしょうがないので仕事のシミュレーションをあらかじめして、台詞とか考えて頭から電話をかけていきました。
──結構無茶ですね(笑)。
小村氏:
そうなんです、御影さんからは結構無茶ぶりをされましたね(笑)。
全然状況のわからない打ち合わせに連れていかれて、案件について知っている体で話したりしてなんとか収めたりと大変でした。
──それは入社してからどのくらいの話ですか?
小村氏:
営業に行くようになるまでは入社してから1か月とかそのくらいでした。
営業の仕事は「モノをつくらなくても給料が貰えるんだ」みたいな感覚で楽だな、くらいに思っていましたよ(笑)。
──イメージエポックの取締役になるのはどのくらい経ったころですか?
小村氏:
入社してから半年かそれより短いくらいですね。当時は合資会社だったのでまだ取締役という肩書はなかったですが。
──これもまたスパンが短い……。
小村氏:
当時は営業する上で「合資会社」という看板がとても邪魔になっていました。最初に「合資会社とはなにか」というのを毎回訊かれるし、信用不足で「発注できない」と言われることもありました。それで株式会社化しようという話になったんです。
当時はまだ会社法が改正される前だったので、合資会社を株式会社に突然組織変更することができなかったんです。それで新しい会社を設立することになりました。
「株式会社スタジオイメージエポック」を設立し、「合資会社イメージエポック」を吸収合併して、それから社名変更して、「株式会社イメージエポック」になりました。で、その「株式会社スタジオイメージエポック」の取締役に僕がなったんです。
──話が早くて、勢いがすごいですね……。
小村氏:
まさに勢いはすごかったですね。
──御影さん自身は営業的なことに長けていたんでしょうか。
小村氏:
彼は営業力ではピカイチだと思います。人の懐にふっと入っていくのも、座組をつくるのもすごく上手いなあと、見ていて思いました。
実際にプロジェクトを立ち上げたときに「ああ、これはうまくいくかもしれない!」と可能性を感じさせる座組を組む人だったなあと思います。
──イメージエポックがゲームそのものをまるっと請けて作るようになったのはいつからですか?
小村氏:
そうなったのは途中からで、最初はあくまでデザイン会社でした。一息ついたと言えるタイミングが株式会社化したというところで、当時のゲームリパブリックさんから出た『ブレイブストーリー』という宮部みゆきさん原作小説のPSP版のゲームのデザイン部分をまるっと請けたんですよ。
その時のお金を元手に、ほかの営業と並行して、プログラマやプランナーを採用して、ちょっとずつ自社開発をはじめていきました。
──そうした人員増を行いながら、企画を持ち込んで開発するようになっていったんですね。
小村氏:
はい。世の中に出た最初のタイトルが『ルミナスアーク』でしたね。ちょっと後の話になるんですが、イメージエポックはデベロッパーになったころに「新規のRPGを作る」というのがひとつの方向性になりました。
──JRPG宣言【※】に繋がっていくわけですね。
※JRPG宣言
2010年にイメージエポックがパブリッシャー事業への参入を発表した際に掲げられ、「JRPGは不要なのか?」「私たちは、そうは思わない!」と大々的に打ち出された(参考記事)。
小村氏:
そうですね。当時の採用面接では、「RPGを作りたい」という応募者がすごく多かったですね。その子たちを採用して、RPGをなんとか作れるようになったのは良かったことかもしれません。
──その「RPGを作る」というイメージエポックのアイデンティティはどこから産まれたんでしょうか。
小村氏:
それはもう御影さんの思いですね。彼がRPGを作りたいと思っていたからです。なので、イメージエポックはRPG以外は作っていないです。
──たしかにブランドイメージとしてもそういう宣伝をやっていましたよね。
イメージエポックの崩壊。「JRPG宣言」で一発逆転の博打に賭けたものの……
──その後イメージエポックは崩壊していくことになるかと思うのですが、当時はどういった状況だったんでしょうか? あまり詳しく話せないこともあるかとは思いますが……。
小村氏:
ちょうどイメージエポックが「JRPG宣言」を行ってパブリッシング事業に乗り出すとともに、IPO(新規上場株)に向けて目立つ動きをしはじめた時期です。当時僕は「経営戦略部」という部門にいて、現場を完全に退いていました。
そのため、経営周りでいろんな方たちがイメージエポックに入ってきて、その人たちが取締役や執行役員になったりしていったんです。当時の会社の規模は120人ぐらいだったんですが、その結果、段々と派閥争いや社内政治が活発になってしまって。それで会社自体も「作りたいものを作る」というよりは「自分が有利になるように、失敗しないものを作る」という保守的な雰囲気に変わっていってしまったんです。
──どうしてIPOをすることになったんでしょうか?
小村氏:
じつは、当時のイメージエポックは開発の請負仕事がいくつも炎上していて赤字続きで、それによる借金返済に追われている状況でした。
ディベロップは作り終えないとお金が貰えないのに対して、パブリッシングは発売して店頭に並ぶ前にお金が入るんですね。だから、御影さんは「パブリッシングのほうが資金の回転が早い」ということに着目したんです。表向きはIPOだったんですが、「お金の周りを大きくして速くする」ことでキャッシュフローを確保しようという戦略だったんですね。
──請負仕事が赤字ってどういうことですか?
小村氏:
見積もりが甘かったという事です。本来1年かかる仕事を10ヶ月で見積もってしまい、その差額が赤字になるみたいな感じですね。ひとつひとつは小さな差額でも、積もり積もって大変な額になっていきました。
──それはなかなか大変ですね……。
小村氏:
御影さんはメディアとか外向けにはすごく「イイこと」を話したりするので、内部のスタッフはそれを見て「ウチの会社こんなイケイケなんだ」と思ったりしてしまう。でも利益が出ているわけではないので、社員の給料は上げられないんですね。「赤字だから給料上げられないんだ」という話になって不信感も広がったりして。
1年目のキャッシュフローを回す賭け自体は成功し一瞬は光が見えたんです。ただ、それ以前に抱えていた仕事の負債がすごすぎて押しつぶされてしまった、というのが結論ですね。
──すさまじい話ですね……。「一瞬は光が見えた」というのも惜しいというか、つらい話です。
小村氏:
見えました見えました。だから、御影さん含めみんなの心さえ折れなければいけた……のかもしれないです。
イメージエポック退社。震災を機に、クリエイター人生に後悔が無いよう独立へ
──イメージエポックでの一発逆転の賭けが失敗に終わってしまったなか、小村さんは独立し「ワンオアエイト」を立ち上げていますが、それはどんな経緯だったんでしょうか。
小村氏:
イメージエポックを辞めたいちばんのきっかけは東日本大震災なんです。
震災があった3月11日は、たまたま会社に僕しか取締役がいませんでした。そんな中、会議している途中でものすごい揺れが起こって。ビル管理者の人からも、「この建物自体もどうなるかわからない」と言われたんです。
とりあえず当日は社員を全員避難させたんですが、その後の余震やテレビで津波の映像を見たりしたときに「これは、明日死ぬかもしれない」と思ったんです。
そう思ったときに、「いま自分がやっている仕事が最後の仕事でいいのか?」と考えて、「もしこの仕事が最後だったら後悔するな」と思ったんです。自分が作りたいものを作っているわけでもないし、自分を偽らず突っ走っているわけでもありませんでした。
あるとき当時の開発部の部長だった方とふたりでご飯を食べたときに、ポロっと「自分もそういうことを思っていたんです」と言われて、ふたりで意気投合したんです。
それでもろもろあって、ふたりで会社を辞めて独立しようという話になりました。部下に優秀な子たちもいたので、あとを任せても問題ないだろうと。
──イメージエポックはすんなりと辞めることができたのですか?
小村氏:
それがですね、独立の話を御影さんにしたところ「ふたりに辞められたら、会社が立ち行かない」、「どうしても辞めるというなら、小村の部下を全員連れていって独立してくれ」と言われたんです。
当時僕はデザイン部に所属していて、部下が40人くらいいたんですが、その全員を連れていけと。「無理です」と断ろうとしたんですが、そうしなければ認めないと言われてしまい……。
──また大きな壁が立ちふさがってしまったんですね。
小村氏:
そこで、開発部長とふたりで部下を連れて独立しようということで事業計画を練り直しました。取引先の会社にも独立して、これだけの人数でこういう会社になるということを話してみました。そうしたらみなさん全然構わないと言ってくださって、ありがたいことに社員が半年食えるぶんだけの仕事は確保できたんです。
「それじゃあみんな連れていけるね」ということで社長に報告したんです。そうしたら、「5人くらいのリーダーは置いていけ」ということになりましたがひとまず承諾されました。
──一応はうまくいったんですね。
小村氏:
そこまでは、なんです……。「部下を連れて独立します」と全社向けに発表をしたら、本体のイメージエポックに残る社員たちがすごくざわざわして。
というのも、イメージエポックでの請負仕事がほぼ全部赤字の中、僕がデザインの請負仕事だけは唯一の黒字部門だったからなんです。
その唯一の黒字部門がいなくなることで、「イメージエポックはこの先やっていけるのか?」という不安で広がったらしく……。
──雲行きがあやしくなってきましたね……。
小村氏:
それで、取締役会に突然呼び出されたと思ったら「その話はナシだ」と言われて、さらには「これは小村と開発部長のクーデターだ!」というような話になってしまっていたんです。
そのときの僕のミスがあって、独立の話を取締役会の決にかけてなかったんです。もちろん口頭で話は通していたんですが、取締役会や監査役会で議題としては正式に上げていなかったんです。
それで「そんな話は聞いていない」という風に言われてしまって……
──すごい話ですね……。それで結果としてどうなったんですか?
小村氏:
結果的には僕と開発部長だけが会社からロックダウンされて、社員とも連絡が取ってはいけないという条件になってしまいました。
──結局はいちばん最初の計画に戻った感じですか。
小村氏:
そうですね。ただ、また問題がありまして……。
ワンオアエイトには40人来る想定だったので、銀行への大型の借入や、オフィスの契約もしてしまっていたんです。マシンやソフトのライセンスも、40人分用意してあって。
ところが40人から2人に条件が変わってしまったので、「話が違いますよね」ということで借入れの審査がやり直しになってしまいました。不動産などの契約は結んじゃったので支払いをどうしようかと……。
支払いまで残り2週間しかないというなかで、借金からのスタートとなりました。開発部長とふたりで、自分たちの子どもの通帳まで足して勘定したんですけど、一千万近い金額が足りない。どうしよう、というところからがワンオアエイトのスタートになります。
借金を抱えて、たったふたりで公園でMacbookを広げてゲーム制作に
──ワンオアエイトを設立されたのはおいくつのころですか。
小村氏:
2012年なので、36歳でした。
──36歳でその状況はなかなかですね……。
小村氏:
会社がダメになるかもしれないというときに、子供も生まれたばかりだったので新築のマンションを買ってしまっていたんです。それも一日も住まずに売ってしまいましたね……。
いろいろオプションつけていたせいで、戻すために余計にお金を払ったりしました。当時はいろんな借金していたのでマヒしていましたね。「ここから100万借金増えてもべつにいいか」みたいな感じで(笑)。
──まさしく「一か八か」の状況からスタートしたんですね(笑)。そんな借金を抱えた状態から、ワンオアエイトはどのように成長していったのでしょうか。
小村氏:
会社設立当初は「月末までにお金用意しないと自己破産するしかない」という状態でした。たまたま付き合いがあった税理士事務所の方が「日本政策金融公庫」という政府系金融公庫の方と知り合いだったことがラッキーでした。
その税理士事務所の方が「これまでやってたことも、これからやろうとしていることも理解しています。」と言って金融公庫の方と話をする機会を与えてくれたんです。
そのときは支払い期限まで残り1週間くらいになっていたんですが、僕らの事業計画を説明したら「わかりました」と言っていただいて、1週間後に振り込んでくれたんです。
──審査とかはなかったんですか?
小村氏:
通常なら1か月は最低でもかかるところを、すぐに振り込まれたんです。ドンって入って来て、すぐドンと出ていったんですけどね。
それで1か月の間にオフィスやら何やら全部を解約して、清算して何もない、ただ借金だけある状態に戻ったところで、いろんな方から連絡が来たんです。
みんな「小村さん大変なんだって?」と心配してくれて。ありがたいことに、「お金はあげられないけど、仕事はあげられます」という話がたくさん来ました。それを開発部長とともにかたっぱしから受けて仕事したんです。
いろいろ清算して最後に残った50万円で25万のMacBookを2台買って、公園で仕事したんです。今でいうノマドみたいな感じですね(笑)。
──公園でゲーム開発ができるんですか!?
小村氏:
できるんですよ(笑)。ひたすら仕事してひたすら借金を返すということを公園で繰り返していました。雨が降ったらコンビニに駆け込んでね。
──すごくいい話ですね(笑)。そこからどうやってここまで大きくなっていったんでしょうか?
小村氏:
いちばん大きなきっかけは、まだLINEゲームが発表される前のNHNジャパンさんからの仕事でした。
当時の取締役から声がかかって、『ストライクウィッチーズ2 蒼空の絆』というソーシャルゲーム開発に関わったんです。「色々と事情があって、なかなか開発を進められていないタイトルがあるんだけど、やりませんか?」という話で。
それで我々ががディレクター、アートディレクターを務めました。本当にMac Bookふたつであーでもないこーでもないと言いながら公園で作ってたんです。
そんななか、プロトタイプを制作している段階でNHN JAPANさんから「解散した子会社のオフィスの賃貸契約が残っているから使っていいよ」と言われたんです。
──やっとここでオフィスが(笑)。
小村氏:
突然40〜50人入れるフロアに我々ふたりがポツンと入ることになったんです(笑)。当然、水も電気も通っていました。
そのうち開発がうまくいく目途が立ったので、NHNさんのスタッフを使っても良いということになり、10人くらいのスタッフを呼んで、引き続き制作しました。
そうこうしている内にNHNさんがLINEなどの事業をはじめて、オフィスを渋谷ヒカリエに移転することになって、それを機に僕らもそこで仕事できるようになったんです。ワンオアエイトという会社は公園のノマドから突然、ヒカリエに移ったんです(笑)。
──とんでもないステップアップですね(笑)。
小村氏:
そのとき「開発だけでなく自社の営業活動とかもしちゃいますよ? それでもいていいんですか?」みたいな話をしたら、「それでもいい」と言ってくれたんです。本当にありがたかったです。
──オフィスの賃料などは払っていたんですか?
小村氏:
いえ、タダでした。払えないという話もしてましたし。
──取締役の方の温情みたいなかたちでしょうか。
小村氏:
そうですね。NHNさんとはイメージエポック時代に『シュヴァリエ サーガ タクティクス』といったタイトルでお付き合いがありましたし、僕自身デザインの外注仕事などで関わって仲良くさせていただいたプロデューサーさんなどがNHNに合流していて、そういう縁もあって呼んでいただいた感じだったんですね。