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なぜ『SIREN』の人気は衰えないのだろうか? 『SIREN』20周年に生みの親である外山圭一郎氏に訊く──ストーリーに余白を残しているためプレイヤーの想像に委ねる部分が大きい。だから自分なりの解釈を共有したくなる

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総勢34名による20周年記念メッセージ

 ここからは「ボーカゲームスタジオ」完全協力のもと『SIREN』関係者34名による “20周年記念メッセージ” をお届けする。本稿でしか読めない内容となっているため、ぜひ最後まで目を通していただきたい。

佐藤一信さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ 取締役社長・プロデューサー)
当時の担当・役職:キャラクターデザイン、システムディレクション

 『SIREN』ファンの皆様、本当にありがとうございます!
 いまだに『SIREN』に注目していただけるのは皆様のご支持のおかげでございます。そんな皆様と一緒に20周年をお祝いできることを大変うれしく思っております!

 改めて振り返ると、『SIREN』は私のゲーム開発人生において特別な作品です。『SIREN』で培った考え方や姿勢、拘りなどなど、いまも日々活きております。

 いまでは当たり前となった写真からキャラクターモデルを制作する手法も当時は手探りでした。初めは薄暗い蛍光灯のみの会議室で、スタッフをモデルに200万画素のデジカメで撮影し、その低品質な写真を元にモデル化のテストを繰り返していましたが、当然うまくいきません……。

 そもそもカメラの知識すらほぼないところからのスタートだったので、そりゃそうです(笑)。それでも諦めるという考えはまったくありませんでした。おそらく、アレがゲーム制作の楽しさを本気で感じた最初だったのだと思います。

 ひとつだけ心残りがあるとすれば、私自身が屍人になれなかったことです……残念!

玉手洋さん
当時の担当・役職:コリジョン、儀式の村人役

 発売から20年!!
 まさか、20年たってもこんなにネタになるなんて、当時は思っていなかったと思います。

 私は試作の初期(2001年9月)から参加していた、なんでも屋でした。本制作では、ローポリな背景コリジョンを手作りして、足音やルートを設定していました。

 暗くて歩きにくいゲームなので、壁際にズルズルと移動してもあまり引っかからないようなコリジョンを心がけていました。
 ルートデータは、頭のいい屍人が生っぽく移動できるようにと構成していたと思います。舞台が日本風のリアル建物だったため、通路とかドコも狭かったなぁと(笑)。

 そのほかには、会議室で大きなゴミ袋に入れられて「バタバタ動くさま」をナニかの参考として撮影されたり、新宿の公園まで歩いて行って衣装を着ながらナニかを食べているような動画を撮らされたり、「もっと屍人っぽい声で!!」ってという指示に「ドンナンよ?!」と思いながら声を録音されたり、ナニかを作るにしても、そのへんにいるスタッフが駆り出されて素材にされていました。

なぜ『SIREN』の人気は衰えないのだろう? 生みの親・外山圭一郎氏が “狙っていたこと” とは_033

 新規タイトルで大変ではありましたが、自由に楽しく手作りしたことが『SIREN』の味になり、いまでも楽しんでもらえる要因なのかもしれませんね。

 これからも毎年盛り上がって、ネットミーム的な土着信仰にでも変容したら面白そうだなーと。

大倉純也さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ CTO ゲームディレクター)
当時の担当・役職:リードゲームデザイナー

 『SIREN』がここまで長く深く皆様に愛され続けるとは、当時夢にも思いませんでした。これまで楽しんでくださった方々、盛り上げてくださった皆様には、ただただ感謝です。
 そんな『SIREN』の制作に関われたことを大変誇らしく思います。

 ネット動画でもいまだにさまざまな方に取り上げていただいて(これがすごいところですよね)、大変うれしく思います。新規に投稿される『SIREN』の動画を見つけては「ほー、なるほど~」と投稿者さまの深い考察や鋭い観察眼に感服して見ています。
 中でもRTAは驚愕です。開発当時の全てを知り尽くした我々がやっていたとしても、たぶん無理なタイムがバシバシ出ています。

 そういえば、開発時に使用していたチームのファイルサーバーに「ホラーゲームを作るぞ」ってことでNOROIやらTATARIやら不謹慎な名前をつけていたのですが、それらが次々と壊れたため、こりゃヤバイと入れ替えたサーバーには、HARAIやKIYOMEといった安心感のある名前がつけられたことを思い出しました。
 チームで神社にもお祓いに行き、そこでお守りをいただいたりもしましたね(それ以降、サーバーは最後まで壊れなかったと思います)。

 そしてなんとこのお守りが現在のプロジェクトのサーバー(名前は機械的単純なものになりましたが)にこっそりと添えられております(写真)。

なぜ『SIREN』の人気は衰えないのだろう? 生みの親・外山圭一郎氏が “狙っていたこと” とは_034

 思い返せば楽しい思い出がいっぱいの開発現場でした(当時なりの苦しみはあったけど)。私個人としても、ボーカとしても、その経験が現在の礎となっている事を実感しています。

 これからもまだまだゲーム作りは続けていきます。どうか今後ともよろしくお願いします!

能登伸治さん
当時の担当・役職:UI、グラフィックデザイナー

 当時の自分はフリーランスのグラフィックデザイナーで、ゲーム本編の制作には関わっていませんでした。『SIREN』も最初は「タイトルロゴのデザインだけ」という話だったと思うのですが、その後UIのデザインもやらせてもらえることになりました。

 当時のホラーゲームといえば血まみれでガビガビにかすれたフォントみたいなUIが多かったのですが、「別にUIで怖がらせる必要ないですよね?」と提案したのが、「終了条件」といった『SIREN』のUIでした。

 その後も続けて『SIREN2』、『SIREN: New Translation』、SCE(当時:現SIE)に入社してからは『GRAVITY DAZE』シリーズに関わることになりました。自分にとって『SIREN』は、ゲーム業界で仕事をさせていただくきっかけになったすごく大事なタイトルです。これからも長く愛されるタイトルになるといいな、と思ってます。

なぜ『SIREN』の人気は衰えないのだろう? 生みの親・外山圭一郎氏が “狙っていたこと” とは_035

ベイリー・エリックさん(現在の所属:株式会社ExaWizards プロダクトマネージャー)
当時の担当・役職:ローカライズ

 20年前に宣伝を観た瞬間から『SIREN』のファンになりました。『SIREN』で遊ぶためにプレイステーション2を購入して、最後まで夢中になりました。熱狂的ないちファンとして『SIREN: New Translation』に携わることができて本当にうれしかったです。

 入社してすぐ真っ暗の森を取材し、撮影をした記憶がいまだに強く残っています。そしてアーカイブには自分で描いたベラちゃんの絵や私自身も登場したことは貴重な思い出です(当時、撮影現場を見ていた人はどう思っていたか……)。

菊池 杏子さん
当時の担当・役職:背景アーティスト

 新卒で初めて所属したのが『SIREN』チームで、初めて最初から最後までゲーム制作に携わったのが『SIREN: New Translation』でした。

 当時はいまと比べるとチームの人数も少なく、制作方法も人力の場面が多かったですが、いま振り返ると背景は細部までとてもこだわった作りをしていたと思います。私にとって初めての経験だったのでとても思い出深く、当時の先輩方のことはよく覚えています。

 『SIREN』シリーズの中で私が関われたのはほんの一部分にすぎませんが、20年もの間、人々の印象に残り続けていることをうれしく思います。

近藤聰明さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ)
当時の担当・役職:プログラマー

 『SIREN: New Translation』のときに、チームに参加させていただいてました。こんなにも長い間、多くの方に支持されるシリーズに関われたことを、うれしく思います。

 とてもこだわりの強いチームで、血しぶきひとつとっても「柱などの部分だけ正しく遮られるように」と苦労して再現した記憶があります。

 これからも皆様の盛り上がりを楽しみにしています。

高橋美貴さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ)
当時の担当・役職:屍人(アーティスト)

 『SIREN』にジョインさせていただいたことで、自分の人生が変わったと思っております。恩田美奈からシビトロまで描けたのは、本当に自分にとって財産となりました。

 発売後もたくさんの方に楽しんでいただけて本当に感無量です。ありがとうございます。

高柳美穂さん
当時の担当・役職:背景デザイナー

 「これでもか」ってくらいに、どこまでもこだわって限界まで作り込んで作り込んで……。いっさいの妥協を許さないこだわり。そんな想いが満載の、熱ーい現場でした。

 ゆえにキツイと感じることも多々ありましたが、だんだんと見たことのない絵ができあがっていくその過程はこの上なくエキサイティング。背景職人としては最高に楽しく、思う存分に作り込ませてもらえた感のある思い出深いタイトルです。20周年おめでとうございます!!

寺澤健治さん(現在の所属:株式会社マトリックス)
当時の担当・役職:アシスタントプロデューサー

 あれから20周年と聞くと感慨深いです。当時は30代半ばで、開発メンバーも全員まだ若く、いろいろ無茶しながら、ときには苦労し、ときには笑い、酒を飲み語り合い、バカもやりながら、夢を持ってゲーム作りをしていましたね。

 アシスタントプロデューサーとしては外山くんのやりたいことを実現させようと奔走し、プロデューサーとの狭間でいろいろ苦労されられました(笑)。でも、あのときの外山くんやチームのこだわりが20年経っても皆さんに愛されるタイトルとなった要因なのかなとしみじみ思います。

 第一作に縁あって関われたのは、振り返ればいい思い出であり、いろんな方と出会い、素晴らしい仲間と『SIREN』を開発できたのは宝物だったんだなと思います。

篠田瑠美子さん(現在の所属:株式会社クラップハンズ キャラクターデザイナー)
当時の担当・役職:イベントデモ

 あれから20年も経ったのか!と驚いております。
 発売日には既にSCEを退社し、クラップハンズで『みんなのGOLF4』の開発をしており、こちらもリリース前の開発末期で徹夜続きの朦朧とした中、ソフトを受け取りにSCEにうかがったので、とても印象深く記憶に残っております。

 『SIREN』ではイベントデモやモーションなどに携わらせていただきました。
 アーカイブでは私の小学校のころの写真を使ったり、多聞の似顔絵イラストなど描かせていただいたり、担当以外の部分でも楽しく仕事させていただいたことが思い出深いです。

 発売から20年経ったいま、こうしてファンの皆さんやスタッフと一緒にお祝いできることがとても嬉しいです。
 20周年おめでとうございます!

緒賀岳志さん(現在の所属:フリーランスのイラストレーター)
当時の担当・役職:背景、背景コンセプトアート

 『SIREN2』からの参加ですが、当時30歳で業界ほぼ未経験の自分を採ってもらえて本当にありがたかった。奇跡です。右も左も分からなかった私は『SIREN』チームに育てていただきました。

 『SIREN』チームといえば、とてもアツいチームだったなあ……と思い出します。直属のリーダーがとくにアツかったというのもありますが、チーム全体に熱気が満ちていました。 皆若かったですし。なんでもアリな雰囲気というか……工作したり、取材に行ったり、どこか青春感がありました。
 そして皆さんよく働いていました。私自身後にも先にもあれほど働いたことはありません。

 『SIREN2』でそうなので『SIREN』のころはもっとアツかったはずです。その熱が『SIREN』には封じ込められていて、だからこそ発売後20年を経てなお愛され残り続けているのではないでしょうか。そんなプロジェクトに関われたことは幸運でした。

 『SIREN』20周年、おめでとうございます!

小宮進吾さん(現在の所属:株式会社D・A・G クリエイティブ室 プロデューサー/ブランド・広報室 室長)
当時の担当・役職:リード・バックグラウンドアーティスト

 『SIREN』20周年、おめでとうございます。

 『SIREN』は極めて異質です。これほどまでに、人々の人生に……深く深く、えぐるように、強い影響を与えたゲーム作品は、ほかにないと思います。

 いまでもふと、廃墟が目に入ると、人知れず心を躍らせてしまいます。いまでもつい、取材文化や写真の面白さを、周囲のクリエイターに根付かせようとしてしまいます。いまでもたまに、「『SIREN』を作っていた」と明かすと、意外な場所で「『SIREN』大好きでした!」と言ってもらえることがあり、その度にとても嬉しい気持ちになります。

 つい先日もSDKのものまねを披露してくださった方がいて、「いまでも深く愛されているなぁ」と感慨深くなりました。

 さて、開発当時に思いを馳せてみます。
 私たちバックグラウンドチームは、全国各地の廃墟や集落を訪れ、そこに立ったときの「異様な感覚の正体」を要素として抽出し、ゲーム中に再構築することがミッションでした。

 廃墟には、完全な状態で残っているものはなにひとつとしてありません。あらゆるものが時の流れに抗うことができずに、必ずなにかが欠けています。そのような〈足りない世界〉を目の前にして、「一体これはなんだ……? かつてこの場所でなにがあったのだ……?」と想像を巡らせることで、とても怖くなるのです。

 その感覚を再現するために、あえてゲーム中にもすべては描きませんでした。足りない要素を、ユーザーの皆さんの想像力で補ってもらうことで、それぞれの『SIREN』を完成させてほしい。そんな思いで、世界を作っていました。

 20年前のあの日、『SIREN』の世界に込めた想いや、向き合ったときの気持ちは、いまでも鮮明に思い出せます。火の見櫓の脚の曲線がバシッと決まった時の高揚感、軽トラのフロントガラスを砕き、前面に赤い液体を塗りたくったときの背徳感、国会図書館に通いつめ軍艦島の実測調査資料と向き合ったときの充足感、怪力屍人の背が高すぎてスクリーンショットの撮影に大苦戦したときの絶望感などなど、とても怖いくらいに……。

 極めて異質である『SIREN』という作品に対して、溢れんばかりの才能を持ったチームメンバーと共に向き合う日々は、本当に楽しかった。私の人生の礎といっても過言でない、心から愛すべき作品です。

 あらためて、20周年おめでとうございます。そして『SIREN』を愛してくださったすべての皆さまに、心より御礼申し上げます。『SIREN』に出逢えて、本当によかったです。

真取輝和さん(現在の所属:フリーランスのイラストレーター・2Dアーティスト)
当時の担当・役職:2Dアーティスト

 新卒で初めてお世話になったゲーム制作の現場。あの思い出深い制作の日々とリリースした喜びの日からもう20年も経っていたのか……とびっくりしました。大袈裟かもしれませんが昨日のことのように思い出せます。チームのメンバーはとても個性的で、クリエイターとして学ぶことも多く貴重な体験をさせていただきました。

 いまだに多くのファンから愛されている『SIREN』に関われたことは私にとっての誇りでもあります。
 当時の私はアイテム制作を担当していたのですが、入社前はなんとなく「イラストとしてデジタルで描くのかな」と思っていました。

 しかしなんと祭壇やレリーフなどさまざまなアイテムの実物を作ることになりました。それをカメラで撮影し、レタッチするという手法で制作したのです。正直この方法にはびっくりしました。

 祭壇を作る際は別室が用意され、そこで美術さんのようにコツコツと制作していたことをいまでも覚えています。廃材の朽ちた鉄パイプや針金でマナ字架を作ったり、アンティーク人形の首を外しバーナーで軽く炙ったり、魚の骨をくっつけてみたり。さらにそれを土で汚してから一眼レフで撮影し、フォトショップでレタッチしていきました。
 このように作っていたので東急ハンズにもとてもお世話になっています(笑)。

 そういったチームみんなの気合の入った制作が結果的にとんでもないゲームを生み出したのは紛れもない事実でしょう。あのとき学んだ「すごいものを作る」というこだわりや姿勢はいまも私の中に息づいていると思っております。

真田麻子さん(現在の所属:プラチナゲームズ株式会社)
当時の担当・役職:ツールプログラマー

 『SIREN2』と『SIREN: New Translation』の開発に参加しました。私はアーティストのツール作成がメインの作業でした。

 『SIREN』シリーズの制作で特徴的だったのは、廃屋取材や役者さんのスタジオ撮影、アーカイブのアイテム作成など「デジタル以外の作業」が多かったこと。これはゲーム制作にはあまりない工程です。

 プログラマーでもスタジオ撮影の手伝いや闇人屍人に扮してモデルになることもありました。プロのメイクさんにがっちりメイクしてもらったのはなかなかない体験ですごく楽しかったです。デジタルで全部用意できそうなものも、集めたり作ったりしながら撮影し、タイトル毎に100個のアーカイブを作りました。開発チームの周辺に衣装や小道具が大量にあるゲームとしてはめずらしい制作現場でした。

 「実物として存在していた」というのはゲームの空気感にも強く影響していると思います。「こんなところまで作り込むの?」という場面もいろいろとあったのですが、私が好きなのはプレイアブルキャラクターの表情です。この表情もベースは役者さんに全部演じてもらっています。

 通常は操作してるキャラクターの表情はあまり見えないのですが、『SIREN』は視界ジャックしている相手からだと正面から見えるのです。ゲームプレイとしては屍人とエンカウントしてしまうことは失敗なんですが、そのときのキャラの驚きや怯える表情がすごくいいのでプレイするときはぜひ見てください。たいてい死ぬんですけど(笑)。

清水佑輔さん(現在の所属:株式会社ブラストエッジゲームズ 代表取締役社長)
当時の担当・役職:ゲームデザイナー

 20周年おめでとうございます。

 ゲーム雑誌の見開き広告で見た棚田のアート&クリエイター募集がきっかけで、元々シリーズのファンだった自分は、『SIREN: New Translation』のプロジェクトに参加させてもらいました。
 チームに参加早々、秩父の廃村に取材に行くこととなり、さすが『SIREN』チームだ、と思ったことを覚えています。

 実在のアクターさんをそのままゲームに登場させたことが、これだけ長く認知され続け、まさに生きたゲームになったのかなと、いまになってみると思います。

 また「外山チームとはなんだったのか?」を振り返って考えてみると、外山さんの個性や世界観などよりも、「チームメンバーに手柄やチャンスを平気で与えてゲーム作りができるところ」だったのかなと思いました。

 そのようなことができる人を、あとにも先にも見たことがありません。そんな外山チームが作るこれからの作品も楽しみにしています。

前田晃紀さん
当時の担当・役職:メインプログラム

 『SIREN』20周年おめでとうございます。

 SCEはチャレンジングなタイトルが開発可能でしたね。私自身も楽しかったです。『SIREN2』の開発時にはつらいこと・楽しいことがありましたが、いまではよい思い出です。

 自身の作業だったミニゲーム「国盗りす」は短期間で頑張った記憶があります。皆さん、覚えてるかな?

倉持信人さん
当時の担当・役職:スクリプト

 『SIREN』20周年おめでとうございます!
 『SIREN2』ではスクリプト担当でレベル作成をしていて、当時とても楽しい制作作業だったことが思い出されます。

 外山さんから屍人を主人公にしたレベルを依頼されたときに、屍人主人公に女性屍人が息子を助けてほしいと懇願する物語を作りました。屍人たちをメチャメチャ流暢にしゃべらせた上に「アイロンが息子です」と伝えたとき、外山さんと直子さんが笑顔で「そりゃない」と仰られたお顔を昨日の様に覚えております。ボツにせず「形見」に修正して使っていただいた優しさに改めて感謝しております。
 
 これからもずっと『SIREN』が皆様と共にあります様に。

大窪圭さん
当時の担当・役職:モーションデザイナー

 『SIREN』 20周年おめでとうございます!
 当時も画期的だなと思った視界ジャックですが、いまならVRで3倍楽しめそうですね。ボーカゲームスタジオで開発中の『野狗子: Slitterhead』も楽しみにしています。

池田桃子さん
当時の担当・役職:アソシエイトプロデューサー

 初代『SIREN』の制作時は、とにかくなにもかもが手探りで、作業も考えることも山積みで、油性ペンで手の甲にメモを走り書きしつつフロアを走り回っていた記憶があります。

 思い出深いのは、スタジオで行ったキャラ撮影や野外ロケ、数多く行った取材です。
 ザコ屍人などは多くをスタッフで賄っていたため、撮影スタジオでは屍人メイクと衣装のままでデータの吸い出しや管理をしていました。野外ロケでは肌寒い時期に水死体役で水をかけられ船の甲板に寝そべったりもしました。

 とにかく目が回るほど忙しかったですがチームは大学のサークル的なノリで楽しく、いま思えば若さでねじ伏せていたんだなと思います。もうあんな働き方はできません。

 発売から20年という月日が経ち、自分の年齢を考えると若干遠い目になりますが、当時の役者さんたちともスタッフともずっと仲良しで、いまでも盛り上がってくれるファンの皆様がいるなんて本当に夢のようです。

 このタイトルに関われて幸せだったなと、すべての関係者とファンの皆様に心から感謝いたします。

竹林伸一さん
当時の担当・役職:プランナー

 もう発売から20年になるのですね。ファンの皆様、長きにわたって応援いただきありがとうございます。

 私は『SIREN2』からスタッフに加わったのですが、ネタ出ししたり、取材に行ったり、お祓いをしたり、役者さんを招いて撮影をしたりといった日々がつい先日のように感じます。
 取材と言っても「おっ、いい錆」とか「雨水が伝った壁のこの汚れ、最高」とか「この椅子、ひっくり返して裏側も撮っておくか」と変な写真ばかり撮っていたので、たまたま見かけた人は何この怪しい集団と思ったでしょうけど。

 ゲームの中に登場させてもらったのも思い出深いです。闇人零式、闇人甲式、アステカ・クイーンの中継になんとか映り込もうとする野次馬、カレーナインSの看板のおじさん……中でも闇人は衣装テスト、メイクテスト、撮影本番、発売日イベント、映画の宣伝と何度もやらせてもらったので、特に思い入れがあります。

 私が演じた闇人は一部ファンの皆様の間ではニックネームで呼ばれるほど面白がられているようですね。ありがたいことです。眉を剃り落として顔や手足を真っ白に塗ったり、真夏は着込んだ衣装で汗だくになり、真冬は裸足で震え上がったりと大変なこともありましたが、それも楽しい思い出です。

 発売日イベントで闇人の姿で立っていたら「ヤバい! ヤバい!」と渋谷のギャルに写メを撮られたこと。映画の試写会でやはり闇人姿で立っていたら「すげーリアルな人形……(触ろうとして)うわあああ目が動いた!」とデート中のカップルに驚かれたこと。こんな楽しいこと、ほかのタイトルでは経験できなかったと思います。

 変なものに本気で取り組み、自分たちも楽しみながら作る。このへんが20年愛され続けている理由なのかなと思います。50年後、100年後も8月になるとジャム入り蕎麦を食べたり車燃やしたり午前0時に一斉に「ううぅぅう!」って書きこんだりする人がいて、ルーツ不明の奇祭として根付いてほしいと願っています。

中山貴伯さん(現在の所属:Orange Butterfly合同会社)
当時の担当・役職:プランナー

 『SIREN』発売20周年おめでとうございます。Orange Butterflyの中山と申します。

 当時はレベルデザイナー的なお仕事をしていましたが、現在はカットシーンの制作会社をやっています。記憶が定かであるならば、上粗戸、大字粗戸、刈割、屍人ノ巣のレベルデザインと美耶子のAIを担当していました。少し思い出を書き連ねます。

 【上粗戸】
 どうしても崖の上から石田に銃を乱射させたく、マップを改造していただきました。

 【大字粗戸】
 大枠のルートがマップを見れば想像がついてしまうデザインだったため、どうやって緩急をつけて仕上げるか結構悩みました。

 【刈割】
 ここは遠景が綺麗だったので、「ゲーム文法的にイベントカメラはそういう使い方はしないけどな」と苦言を言われつつ、綺麗な景色重視でなんとか収めていただきました。

 【屍人ノ巣】
 犬屍人の移動バグを使ったマップを最初にモックで作ってもらって楽しんでいたら、さすがに怒られました。

 【美耶子】
 ベースAIの修正時に変更を最小限にするため、ベースのAIロジックに手を加えないように目が見えない処理をオーバーラップするのが結構大変だった上に、AI的に(自分のマップが野外だけだったこともあり)室内対応が甘く、プランナー仲間から仲良くディスられつつ、泣きながら修正しました。

 日常的には、プランナー同士で各マップを遊び倒して穴を見つけあったり、移動ルートを自然にする為にルート用コリジョンを細かく割ってメモリー的に怒られたりしました。

 また、『SIREN』は視界ジャックを実現するため「放置していても存在感がある」「プレイヤーが引きずり回しても破綻しない」という屍人を作る必要があり、いろいろな技術や工夫が詰め込まれたタイトルになっています。このあたりは技術陣から振り返っていただきたいのですが、今から振り返ると「2003年によくあれを作ったな」と本当に思います。

 このような思い出がありますが、個人的にはゲーム業界に関わり最初に世に出たタイトルが『SIREN』で、『SIREN』にゲーム制作の基本を教えていただいた、言わば人生の背中的なタイトルのひとつです。
 改めまして、20周年おめでとうございます。

津吹順さん
当時の担当・役職:バックグラウンド

 『SIREN』に関わってからずっと思っていることは、とんでもなく未熟な20歳代でこのタイトルに関わらせていただいたのはとても幸運で、とても貴重な経験でした。ありがとうございました。

 そして20年経った今でも、このような機会で集まれるのは、『SIREN』を応援してくれている、好きでいてくれる方々がいるからだと思っています。大変ありがたいタイトルです。ありがとうございます。

 開発時を思い出すと、いろいろな思い出がありますが、例えば『SIREN』の世界観を出すために、実際に廃墟へ撮影に行ったのはよい思い出です。廃墟の雰囲気は理解しつつも再現する能力が足りず苦悩していたのもよい思い出です。

 最後に、『SIREN』に関わる皆様と引き続き今後もお付き合いできれば幸甚です。

貞満政紀さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ)
当時の担当・役職:プログラマー

 もう20年も経つんですね、当時苦労しながらドアのシステムを実装していたことを思い出します。
 引き戸、開き戸、引違い戸、内開き、外開き、鍵扉……多彩なドアがあり、それらへのアクションやAI対応は苦労したのですが今となってはよい思い出です。

 長く愛されるゲームになってよかったです。

藤井貴裕さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ)
当時の担当・役職:UIデザイナー

 SCE時代の青山一丁目のオフィスに「Project SIREN」は存在していました。ジュニアポジションの自分にとって「青春編」的な位置付けです。

 徹底的な実写志向、本職がゲーム制作ではないアーティストも常駐参加し「ゲームっぽい」というところからあえて距離を置くスタンス。それなりにトンガっていた自尊心が砕かれた挫折感と、『SIREN』三本の矢(と勝手に思っていた)外山さん、佐藤直子さん、アートディレクターの高橋功さんとの会話での知的興奮を今でも憶えています。

 印象深いのは実写撮影とゲーム外コンテンツ制作です。
 撮影は川沿いの土手、古民家、森林、漁港など当時のゲーム制作では珍しい「ロケ」。仕事しにいくんですが自分は遠足気分でした。

 「Sleep Walker」というWebコンテンツ制作では準備も撮影も若手主体で行ったので「本当にそれでいけんの?」とドライアイスで煙った部屋でアートディレクターに詰められながら制作したのもよい思い出です。
 「Siren Blood Curse: Behind the Curtain of Terror」という海外用メイキング映像も、編集や見せ方を含めいわゆる”ゲーム”っぽくない造りにできたのも、ゲーム外でもコンセプトが合うのも、品質が高いものをとりこむ土壌がある「Project SIREN」ならではかと思います。

 自分のノスタルジーとは別の世界線での出来事かと思うようなネットでの盛り上がりは、ユーザーやファンの皆様と関わっていただいた演者、スタッフの情熱あってのものです。

 20周年おめでとうございます。

藤井康裕さん(現在の所属:ソニー・インタラクティブエンタテインメント PlayStation Studios)
当時の担当・役職:キャラクターモデラー

 発売20年が経過してこのようにメディアで取り上げていただけるのは素晴らしいことだと思います。

 私は『SIREN2』からチームへ加入しましたが、取材や撮影は特に思い出深い出来事が多かった記憶があります。その中でも『SIREN: New Translation』のオープニングの実写撮影がとにかく過酷で、早朝に会社を出て現地に着いてからは撮影の準備、リハーサル、本番と慌ただしく動きつづけて宿に入ったのが深夜になってからでした。

 当時は多少体力には自信がありましたがとにかくへとへとになり、どんな食事を摂ったのか、風呂に入ったのか、翌日に宿を出て家にどうやって帰ったのか記憶が曖昧でぼんやりするほどでした。

 上記のような例は稀ですが、通常のゲーム制作では遭遇しないような私のその後の糧になるような経験ばかり積むことが出来た思い出深いタイトルです。

 オリジナルのゲームに携わられた皆様、20周年おめでとうございます。

日下部実さん(現在の所属:時間株式会社)
当時の担当・役職:カットシーンディレクション

 当時はフリーランスとして、『SIREN』、『SIREN2』のカットシーンの演出に参加させていただきました。ラフコンテを書き、編集やザラザラした画面エフェクトを作り、さまざまな撮影と飲み会に参加しました(笑)。『SIREN』はストーリーが複雑かつ断片的なので、理解するのが大変だった覚えがあります。

 裏話としては、当初役者さんたちは「外見」と「表情のムービー」までが収録範囲で、声は別の声優さんにお願いする予定でした。しかし、「外見と同じ役者さんに声もお願いしたほうが、演技に一貫性が生まれるし、実写っぽい雰囲気に合うのではないか」と自分が提案したところ採用されたのでした。

 多くの役者さんにはモーションキャプチャーも演じていただいていますが、もともと声の演技をする予定がなかったので、オーディションで選ばれた役者さんの中に演技経験が少ない人もいると知ったときは驚きました。ちょっと苦労したところでもあります。

 担当していたカットシーンの制作工程は下記のとおりです。

 ①演技のリハーサルをひと通り行い、ビデオに撮り、尺を決める
 ②それをもとに表情のムービーを撮る
 ③さらにモーションキャプチャーを撮る
 ④3Dのチームにデータが渡り、カメラを決める
 ⑤それから音の作業で、アフレコやSEや音楽を入れる

 ひとつひとつのスケジュールが非常にタイトだったのを覚えていますが、面白いチームでしたし、さまざまな人と関われて、とても楽しい仕事でした!『SIREN』20周年おめでとうございます!

並木良夫さん(現在の所属:株式会社ボーカゲームスタジオ)
当時の担当・役職:モーション

 『SIREN』20周年おめでとうございます。20年と長く愛される作品に関われて大変光栄です。

 当時はモーションスタッフとして仕事を始めたばかりで、モーションキャプチャやスタジオ撮影など刺激的な毎日でした。特に実際の演者さんがそのままゲームの中で演じていただく作品はめずらしく、不思議な感覚でしたし、貴重な経験になりました。

 これからもファンとして応援し続けます。おめでとうございます!

堀川直美さん(現在の所属:アトリエ・ジャッキーリトル)
当時の担当・役職:バックグラウンド

 当時、背景デザインの他に、屍人役などもやらせていただきました。他にも役者さんのフェイシャル演技を
 キャプチャするために、スタジオで役者さんの頭を押さえる係をやったりだとか、取材先で買ったばかりの自前カメラを谷底に落としたり……。
 ほかにも、『SIREN』チームではスタッフ使いが荒い事が多々ありましたが、それも今となっては良い思い出です。発売20周年をこうして皆様とお祝いできて、嬉しいです。

朝倉紀行さん
当時の担当・役職:「THE BUSTER!」作詞・作曲・ボーカル

 『SIREN』20周年おめでとう御座います。

 あのエンディングロールの「THE BUSTER!」は、私のキャリアの中でも特に珍しいスタイルで、一気にあっという間に仕上げた曲でした。
 というのも、元々バンド出身であるために昔取った杵柄という感じで、作曲だけでなく、Vocal また作詞も手掛けたのですが、この作詞が笑えるのは「英語のようでいて何語か分からない意味不明のコンセプトで行こう」と藤澤Pと話し合ったうえでおもしろおかしく作詞したものです。皆さんも「Buster」以外はなにを言ってるのかわからなかったと思います(笑)。

 私の音楽スタイルと言えば「和」のテイストだと思ってる方々に「朝倉ってこんな事やるんだー!?」なんて、いまさら笑ってくだされば幸いです。
20周年おめでとうございました。

西島卓さん(現在の所属:コミュカ・プロモーション合同会社)
当時の担当・役職:プロモーション

 思い出深いのはテレビCMです。外山さんとふたりきり、狭い会議室で協議した思い出がよみがえります。
 物語の重要シーンをCMに使っていたため、外山さんに難色を示されました。「いくらなんでも、見せすぎでしょう」と。

 最終的にOKをもらったときの僕の決めゼリフは「ネタバレをひとつふたつ見せただけで、『SIREN』の秘密はまったく揺るぎません!」でしたが、外山さんの印象には残っていなかったみたいです(笑)。

 当時は映画『呪怨』のテレビCMが朝の時間帯にも流れていたり、『キル・ビル』が鮮血を真っ黒に加工して一般向けPVを放映していたことなどを研究し、『SIREN』のCMもゲームと比べて血を黒く加工し、刺激を弱めにして朝と夜に流していました。

 『SIREN』が発売されたころ、日本国民が注目していた長嶋JAPANの日米野球がゴールデン帯で中継され、なんとその時間にスポットCMを1本だけ流せることになったのですが、その放送の後に反響が大きくなりまして……。

 いま考えると若気の至りだらけですが、いまだにボーカゲームスタジオとお仕事をご一緒できていることに感謝しています。『SIREN』を創ってくれたクリエイターの皆さま、楽しんで遊んでくれた皆さま、あらためてありがとうございます。

高橋功さん
当時の担当・役職:アートディレクション

 『SIREN』が発売されてから20年、コントローラーを握りゲームをプレイすることだけに留まらず、多種多様なプレイ動画の鑑賞やSNSでの交流、2次創作など、楽しみ方も経年変化していることに驚きと感動を覚えている。

 『SIREN』発売から遡ること7年前の1996年、初代プレイステーションで発売されたバイオハザードにすさまじい衝撃を受けた。「ゲームは10年後、20年後にきっとすごいことになるに違いない」。社会人2年目の根拠のない確信を胸に、すぐさまゲーム会社に転職をした。この年、アトランタオリンピックでサッカー日本代表がブラジル代表に初勝利し、世界中が奇跡と称したことを鮮明に憶えている。

 入社してすぐ、ホラーゲームの新企画参加を打診され喜んで快諾した。ホラーは昔から好きだったし、なにより『バイオハザード』を超えるホラーゲームを創りたかった。背景の制作を任され、デジタルカメラでたくさんの街の写真を自分で撮影しテクスチャーに変換した。

 この時代では1枚の写真をPCへ転送するためだけに5分以上の時間を要した。インタラクティブ3Dゲーム制作で写真を元にテクスチャーを作成する手法は、1996年当時まだだれも行っていなかったと思う。

 1999年にソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)に移った。『SIREN』の制作でも前の会社からの制作手法を活かせることになり、多くの廃墟を取材する機会を得た。朽ちた木材や錆びた鉄、染みついた汚れ、いまでは目にしなくなった年代物の経年変化に改めて美しさを感じた。デジタル空間にあえてノイズを加えるビジュアル表現はとても魅力的だと感じたし、感情に訴えるリアリティ表現としても『SIREN』に最適だった。

 訪れた廃墟は風化し、取り壊されているかもしれないが、若き日のキャストの姿と共に羽生蛇村や夜見島として『SIREN』のゲームマップとして存在している。『SIREN』はマニアックなゲームだし、いまも昔もこれからもそういう際物が大好きだ。さらにいい感じに経年変化した『SIREN』について想い起こさせてくれたこと、このコメントの機会を与えてくれたことに感謝している。

佐藤直子さん(現在の所属:メディウム合同会社)
当時の担当・役職:設定、シナリオ、屍人、屍霊

 「オカルトランド画像掲示板」「都市伝説調査隊」と架空のサイトを作成し、ゲームという枠を超え、虚と実の挟間を曖昧にする世界観を生み出した『SIREN』が、20年経過したいまネットを通じて新たなファンを増やしていることが感慨深いです。

 ここ10年くらい、「『SIREN』好きです!」と言ってくれる若者たちと出会い、彼らと仕事で組むことが増えていますが、皆、才能豊かで心根のいいやつばかりで本当に助けられています(いま頼んでる税理士さんも『SIREN』ファン!)。

 『SIREN』という文化的遺伝子とそのチルドレンに心から感謝です。
 20年前の自分はこんな未来が来るとは1ミリも想像もせず、ただただ盲目的に「これ好き!」をかき集め、ぶっこんで煮詰め、『SIREN』という闇鍋作りに夢中でした。

 いまは『SIREN』の魅力のひとつとしてグッズにもなっているアーカイブも、制作開始時はチーム内では「忙しいのにあの人はなにをやっているんだ……」と冷ややかな目で見られることもありました。しかし最終的には「顔出し」から「代筆」、「私物の持ち出し」と、チーム全員からさまざまな協力を得て作り上げることができたよい思い出です。

 人生ままならないことは多々ありますが、「閉じたループに見えてじつはだれかの小さな行動が新たな世界線へと繋がる『SIREN』のシステム」を思い、日々諦めず手ぬぐいを凍らせ続けようと思うのです。

 『SIREN』を楽しんでくれてありがとうございます! 永遠の夏休みが羽生蛇村にはある!

藤澤孝史さん(現在の所属:株式会社FOX-ONE)
当時の担当・役職:プロデューサー、サウンドプロデューサー

 このチームに注ぎ込んだのは、本物を求めて既知の雑念に縛られないマインド。このチームから受け取ったのは、無償の愛と形見のアイロン。

 俺に任せな!


 インタビューを通して “『SIREN』がいかに画期的なゲームだったのか” を改めて実感した。どこを切り取っても独自性が高く唯一無二の体験ができたのは、外山氏が「ほかにない新しいこと」を徹底し、チーム全体が同じ方向を向いてたからこその結果だろう。

 アーカイブを作り込むことも、衣装を合わせて収録することも、緻密なシナリオを完成させることも、すさまじい労力が必要となる。しかしながら『SIREN』はそのすべてを妥協なくやり切っていた。

 個人的に驚いたこととしては、主人公の須田恭也が宮田司郎の愛車を使って屍人を陽動するあのシーンを外山氏がまったく狙うことなく書いていた事実だ。今年の炎上祭は、宮田への同情でいつも以上によく燃えるのではないだろうか。 
 そしていつしかそれが「なぜか宮田という人の愛車を燃やす日」として伝承されていく。それが外山氏の望みでもあり、これからの『SIREN』の姿なのかもしれない。

『SIREN』
©2003 Sony Interactive Entertainment Inc.

『野狗子: Slitterhead』
©Bokeh Game Studio Inc.

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副編集長
電ファミニコゲーマー副編集長。
編集者
幼少期からホラーゲームが好き。RPGは登場人物への感情移入が激しく的外れな考察をしがちで、レベル上げも怠るため終盤に苦しくなるタイプ。自著『デブからの脱却』(KADOKAWA)発売中
Twitter:@MarieYanamoto

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