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『ダイの大冒険』『仮面ライダーW』三条陸が語る、「ヒーローの条件」とは?──どんなにカッコよくても、「頑張れ!」と思えなければ好きにはなれない

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 「80年代」……それは『ウルトラマン』と『仮面ライダー』という日本を代表する特撮シリーズに「空白」が生じた時代である。 

 1980年に放映された『ウルトラマン80』を最後に、1996年の『ウルトラマンティガ』までの間、ウルトラマンシリーズのテレビ放映は16年に渡って中断されることとなった。

 『仮面ライダー』においても、1980年に放映された『仮面ライダースーパー1』以降、1987年から1989年に掛けて放映された『仮面ライダーBLACK』、『仮面ライダーBLACK RX』という例外は在りつつも、2000年に放映された『仮面ライダークウガ』から始まる、いわゆる「平成ライダーシリーズ」までは長い休眠期間に入ることになる。

 そして1980年代とは、1981年に放映が開始された『Dr.スランプ』のアニメ化が大ヒットしたことを皮切りに、『スペースコブラ』、『キン肉マン』、『キャプテン翼』、そして『北斗の拳』などなど、「週刊少年ジャンプ」誌上の人気作品が続々とアニメ化され、それと連動するかのように同誌の発行部数も右肩上がりの急上昇を続けた時代でもある。

 つまり、80年代とはテレビを主戦場とした子供向けの人気コンテンツの覇権争いに大きな地殻変動が起きた時代なのだ。

 1979年に生まれた筆者は、80年代初頭の「空白」と週刊少年ジャンプ発のアニメ作品の台頭をまるで昨日のことのように覚えている。特に『北斗の拳』の伝説的な第一話を観た次の日などは、友達同士で北斗百裂拳の打ち合い、お互いの秘孔の突き合いをしたものである。

 今回インタビューを行った三条陸氏は、そんな激動する80年代初頭にキャリアをスタートさせ、少年時代から「ウルトラマンを作るおじさんになりたい」と志しながらも紆余曲折を経て、週刊少年ジャンプで大ヒット作品『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』の原作を担当した人物である。

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 三条陸という作り手の興味深い点。

 それには、ウルトラマンや仮面ライダーなどといった特撮作品に携わりたいと思いながらもシリーズの継続が途絶え、自身が最もやりたいことを実現することが極めて難しい状況下でデビューし、そこで作り手として挫けるどころか、むしろその時代に最も勢いがあったメディアである週刊少年ジャンプ誌上で『ダイの大冒険』というど真ん中の大ヒット作品を世に送り出した……ということが挙げられるだろう。

 更に、その後も様々な作品を手掛けながらも、遂には平成ライダーシリーズの11作目にあたる『仮面ライダーW』のメインライターを務め、さらにはスーパー戦隊シリーズ37作目の『獣電戦隊キョウリュウジャー』に至っては全てのエピソードの脚本を一人で描ききるなど、かつての自分が出来なかった特撮ジャンルのど真ん中でも非常に大きな足跡を残してもいるのである。

 そんな彼のきわめてユニークな足跡は、2023年に出版された『三条陸 HERO WORKS』を読めばかなりの部分を振り返ることが出来る。そして、その一部は当サイト、電ファミニコゲーマーでも読める。

 それにも関わらず、今回更に追加で三条陸氏へインタビューを行ったのは、『三条陸 HERO WORKS』という書籍をふまえた上で、更に違う角度から、三条陸という存在に迫ってみたいと思ったからだ。彼にとって80年代に発生した「空白」と、その隙を突くかのように台頭する週刊少年ジャンプの勢いとはどのようなものだったのかを、当事者中の当事者である本人に直接尋ねてみたかったからだ。

 なぜ三条陸氏は漫画や特撮、アニメなどといったジャンルの壁を超えた活躍が出来るのだろうか?なぜ現在においてなお再評価され続ける『ダイの大冒険』を筆頭に三条陸作品は時代を経ても古びないのだろうか?

 40年の長きにわたって追求し続け、そして時代を超えて愛される「ヒーローの価値観」について、聞き手である我々の思いも(若干過剰に)込めつつ三条陸氏本人に直接聞いてみたので、読んで頂ければ幸いだ。 

聞き手/hamatsu
編集/TAITAIジスマロック
カメラマン/増田雄介


三条陸が優れているのは、「人より失敗している」ところ

──『三条陸 HERO WORKS』を拝読させていただいたのですが、まず本の題名自体がすごいと感じました。自身の仕事をまとめた書籍は多くの方が出されているとは思うのですが、「HERO WORKS」というコンセプトの立て方が面白いと思います。この題名とは、どのような経緯で決まって行ったのでしょう?

三条氏
 『三条陸 HERO WORKS』は、簡単に言うと「三条陸の全仕事」という本です。

 ですが、「そんな説明的なタイトルではなく、本の題名やブランド名としてなにか良い言葉がないか?」ということについて編集さんやライターさんとディスカッションした際に、「やっぱり自分が好きなものは、“ヒーロー”なのではないかな」という結論が出ました。

 さらにそこから「そういえば、ドラクエの『勇者』は英語だと『ヒーロー』だよね」という話も出て、最終的に「HERO WORKS」というタイトルが決まりました。つまり、「ヒーローものに憧れ、いろいろな場で自分なりのヒーローを作ろうとしたのが三条陸の仕事だ」という意味のタイトルです。

 その経緯としては、斉藤征彦さん【※1】が声をかけてくれたのが始まりです。斉藤さんはVジャンプ内でリメイク版『ダイの大冒険』の全般を担当していました。その縁もあり、斉藤さんの方から「三条さんの仕事をまとめた本を作りたい」という企画が立ち上がりました。

 しかも、「『ダイの大冒険』や『仮面ライダーW』のような代表作だけでなく、これまでの三条さんの全ての仕事をまとめた本を出したい」という話を聞きました。

 正直……「マジで!?」と(笑)。

一同
 (笑)。

※1「斉藤征彦」
元Vジャンプ副編集長。『ドラクエ10』やリメイク版『ダイの大冒険』に携わり、「サイトーブイ」という愛称でも知られている。

三条氏
 最初は「クリエイターを目指す人々への励ましになるような本を作りたい」という話をしていたんですが……正直なところ、僕の経験は全然参考にならないと思いました。

 なぜかというと、具体的に「僕のようにやってみてください」と言っても、雑誌のライターから漫画原作をやったり、そこからアニメや特撮の脚本まで担当する僕のようなパターンはかなりレアケースです。普通の人は、こんな歩き方はしないんですよ!

 だから、「僕の経験が成功例や参考例になるとは思えないですよ」という話を初めにしました。でもまぁ……斉藤さんが僕の話を聞かないもんで(笑)。

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──打ち切られてしまった漫画なども含めて、『三条陸 HERO WORKS』では三条先生のお仕事がかなり赤裸々に語られていますよね。

三条氏
 斉藤さんのお話を聞いた時に、「確かにいろいろなジャンルに挑戦するのは、誰でも可能なわけではないよな」と改めて思いました。ですが、僕自身どれもストレートに「やりたいこと」を実現できたわけではありません。

 たとえば、一度は漫研から漫画家を目指したこともありましたが、当時はその夢を叶えられませんでした。そこから雑誌のライターやアニメの脚本などを経験し、最終的に再び漫画原作を担当することになりました。紆余曲折があった上で、こういう経歴になっています。

 そして僕の場合、「2回目の挑戦」で上手くいくパターンが多いんですよね(笑)。そこで1回目の失敗の経験が活きた結果として、上手くいくケースがほとんどです。

 だから、本を出すにあたって「誰かの参考になること」「僕が人より優れていること」を考えた時に真っ先に思いついたのは、「ちゃんと失敗している」ことだと思いました。僕は、どんな状況でも「途中で投げ出す」ことは絶対にしません。

 たとえ打ち切りが決まっていたとしても、「こういう失敗になりました」という最後の最後まで必ず付き合ったうえで、次の仕事に活かします。

 この「真面目に真っ向から失敗している」ことが自分の特徴でもあります。幸いその中でいくつか成功したお仕事もありますが、その成功はやっぱり「前の仕事で失敗していた」ことがキッカケになっています。僕の上手くいった仕事は、「あの失敗は起こさないようにしよう」と考えて、最初のセットインが上手くいったケースがほとんどです。

 だからこそ、僕の全ての仕事について語るのであれば、失敗した仕事も「この理由で失敗しました」という理由を明記しなければ、全体の流れが分かってもらえないと思いました。失敗した理由も含めて、率直に、赤裸々に書くしか「三条陸の仕事」を伝える方法はなかったんです。

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『三条陸 HERO WORKS』では当時の原稿と共に、三条先生のお仕事が赤裸々に語られてる。この記事内には、いくつか本書から抜粋した画像を掲載している。
(C)三条陸/集英社

──三条先生といえば「特撮」のイメージをお持ちの方も多いのではないかと思うのですが、実際に三条先生が雑誌ライターや漫画原作者としてデビューされたのは「ウルトラマン」シリーズや「仮面ライダー」シリーズなどが途絶えかけていた80年代半ばでしたよね。社会人として仕事を始めた頃の三条先生には、その状況はどのように見えていたのでしょう?

三条氏
 僕が特撮やアニメを特に強く意識し始めた時期は1980年初頭くらいです。「スーパー戦隊」では1979年に『バトルフィーバーJ』があって、翌年に『電磁戦隊 デンジマン』が放送されました。『ウルトラマン80』と『デンジマン』が同級生だったことは今でも覚えています(笑)。

 一応1980年代にも『ウルトラマン80』と『仮面ライダーBLACK』『仮面ライダーBLACK RX』で一度ウルトラマンと仮面ライダーは復活していたのですが、どちらも2年くらいで終わってしまいました。そして私は、ちょうどこの時期が「マニアになった」時期でした。

 つまり、「ちょうど特撮マニア活動を始めた時期が、一度復活したのに途絶えてしまった作品が多かった時期だった」ということです(苦笑)。それでも、マニアとしての活動は変わらず続けていました。

 そんな時代の中でも放送されていたのは、やはり「スーパー戦隊」シリーズと、新しく登場した「宇宙刑事」【※2】シリーズでした。特撮マニアとしては戦隊や宇宙刑事を中心に活動しつつ、変わらず「ウルトラマン」や「仮面ライダー」も好きなままでした。放送が途絶えたからといって、興味を失うわけではありませんでしたね。

※2「宇宙刑事シリーズ」
1982年から放送開始された『宇宙刑事ギャバン』と、それに続く『宇宙刑事シャリバン』『宇宙刑事シャイダー』の三部作の総称。後に続く「メタルヒーロー」シリーズの基礎を作った。

──その「ウルトラマン」や「仮面ライダー」が途絶えかけていた時期を通った三条先生が、80年代の後半に『ダイの大冒険』の連載を開始されています。個人的な感覚なのですが、当時のいち読者としては「特撮などがやや途絶えていた時期に子供心を掴まれたのが週刊少年ジャンプだった」という記憶があります。

三条氏
 確かに、時代的にはそういう側面もあったかもしれないですね。

 そういった特撮マニアや雑誌ライターとしての仕事を経て、週刊少年ジャンプが相当勢いのあった時期にライターとして仕事を始めることになりました。当時は僕だけでなく堀井雄二さんやさくまあきらさん【※3】もライターとして活動されていましたから、そもそもジャンプに相当な元気があったのだと思います(笑)。

 そこからジャンプは500万~600万部くらいの最大部数を記録してましたし、『ダイの大冒険』でもしっかり当時の子供たちのハートをつかむようなヒーローを作り上げることができました。「ちょうどその時の子供たちに響くようなヒーローを、ジャンプが作っていた」ということでもあると思います。

※3「さくまあきら氏」
『忍者らホイ!』『桃太郎電鉄』などを手掛けたゲームクリエイターでありながら、『ジャンプ放送局』の構成なども務めたさくまあきら氏。堀井雄二氏とは学生時代からの親交がある。

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さくまあきら、堀井雄二、三条陸……伝説のクリエイターを輩出した「月刊OUT」とは

──『三条陸 HERO WORKS』の中でも語られていますが、三条先生は「月刊OUT」【※4】でもライターとして活躍されていましたよね。三条先生から見て、当時の月刊OUTはどんな雑誌だったのでしょう?

※4「月刊OUT」
1977年から1995年にかけて発行されていた月刊雑誌。オリジナルの企画ものや、読者の投稿ページが特徴的だった。三条氏だけでなく、さくまあきら氏・堀井雄二氏・ゆうきまさみ氏などの多くのクリエイターが活動していた。

三条氏
 元々「月刊OUT」はアニメ専門誌ではなく、いわゆる「変な雑誌」……つまりサブカルチャー雑誌としてスタートしました。「アウトサイダー」の「アウト」からその名前が付けられています。

 そして何度か刊行を続けていく中で『宇宙戦艦ヤマト』を特集した回が一番売れたので、徐々にアニメ分野に舵を切っていきました。だから、「アニメ誌ではあるけど、何でも取り扱うフットワークの軽さ」がウリの雑誌でもあったんですよね。後に出た「アニメージュ」などの正統派なアニメ専門誌とは、根本の部分が違います。

 僕がライターとして月刊OUTに招かれた時には、ちょうど「宇宙刑事」シリーズなどの特撮が流行り始めていました。やはり月刊OUTは自由な気風がウリだったので、アニメだけでなく特撮も扱いたいと考えていたらしく、「特撮の企画を作れる人はいないか」という話から僕に声がかかった形でしたね。

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──ちょうど「自由な気風」についてお話していただきましたが、一般的なアニメ雑誌と月刊OUTの違いは他にもあったのでしょうか?

三条氏
 やっぱり「なんでもやっていい」ことが最大の違いなんじゃないかと思います。かなり「バーリトゥード(なんでもあり)」な本というか……噛みつく以外であれば、蹴っても殴ってもいいような戦い方をしていましたね(笑)。その好き勝手できるからこその「自由度」が最大の強みでもありました。

 逆に考えてみると、月刊OUTでは「アニメ」という枠組みで名声を得ることにこだわっている人が少なかったのかもしれません。その自由度があったからこそ堀井さんやさくまさんのように、アニメとは全く別の分野で有名クリエイターになるような人を輩出したのだと思います。

 それこそさくまさんは月刊OUTでやっていたことをそのまま「ジャンプ放送局」【※5】で続けていましたし、もしかしたら「なんでもやる」気質の人を生んでいた場所なのかもしれません。

 そして僕が月刊OUTの仕事と並行してジャンプで仕事を始めた時も、「これは漫画雑誌の仕事だ」と、すぐに頭を切り替えることができました。そこから漫画原作や特撮のシナリオを書くことになって、いろいろな場所を転々とし始めるんですけど……(笑)。

 ですが、そこで特定のジャンルにこだわりすぎずにいろいろな仕事ができたのは、実は月刊OUTで培った「なんでもやる」気質のおかげなのかもしれません。

 新しいジャンルで仕事を始める時にはそれまでの自分の癖は一旦忘れてから取り組むようにしていますし、この「最初から構えすぎない」姿勢は月刊OUTの気質で、魅力のひとつだったと思います。

※5「ジャンプ放送局」
週刊少年ジャンプにて、1982年から1995年まで連載された読者投稿コーナー。さくまあきら氏が構成を担当し、「読者投稿コーナー」としては異例の人気を博した。単行本化もされている。

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三条氏
 僕が加わった頃のジャンプは既にナンバーワン雑誌になっていましたが、創刊当時のジャンプは漫画雑誌としては最後発でした。そして有名な漫画家さんを使えるような立場でなかったからこそ、「若い新人をガンガンに前面に出し、編集者と二人三脚で協力して作品を磨き上げる」というスタイルを取っていました。

 ある意味ジャンプには「ゲリラ的で、手段を選ばない」側面があったのだと思います。勝つためには手段を選ばない。そこが月刊OUTの気質に近かったのかもしれません。「メジャーな雑誌と同じことをやっても勝てないから、なんでもアリで行こう」という考えは、まさに共通しているところですよね。

 ジャンプのやり方では、どんなにすごいアイデアであってもめちゃくちゃ叩かれるんですよね。編集者の「これはどうしてこうなるの?」「これじゃダメなんじゃないの?」といった疑問に対して、「こんな風にすれば面白くなると思います」とハッキリ反論できる人じゃないと、ジャンプでは企画は全然通りません。その代わり、面白ければその企画は絶対に評価してくれます。

 この「まず、みんなで頑張って成功しよう」という姿勢が全員の間で共有されているところが、ジャンプと月刊OUTの近いところだと思います。

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ライター
某ゲーム会社勤務のゲーム開発者。ブログ、「枯れた知識の水平思考」「色々水平思考」の執筆者。 ゲームというメディアにしかなしえない「面白さ」について日々考えてます。
Twitter:@hamatsu
編集長
電ファミニコゲーマー編集長、およびニコニコニュース編集長。 元々は、ゲーム情報サイト「4Gamer.net」の副編集長として、ゲーム業界を中心にした記事の執筆や、同サイトの設計、企画立案などサイトの運営全般に携わる。4Gamer時代は、対談企画「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」などの人気コーナーを担当。本サイトの方でも、主に「ゲームの企画書」など、いわゆる読み物系やインタビューものを担当している。
Twitter:@TAITAI999
ライター
転生したらスポンジだった件
Twitter:@yomooog

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