インベーダーゲームを足でプレイしていたら “人生勝ち組”の仕組みに気づいた慶應義塾大学教授

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 今回で3回目の開催となる、デジタルからアナログまで古今東西のゲームが集まる日本最大級の“ユーザー参加型”ゲームイベント“闘会議”。2017年2月11日(土)、12日(日)に開催される“闘会議2017”は、ゲームと一緒に、生きてきた。」というテーマを掲げている。

 電ファミ編集部では、この「ゲームと一緒に、生きてきた。」というテーマを体現し、ゲームを通して人生を謳歌している人々に、インタビューを行っている。

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 今回は、慶應義塾大学先端生命科学研究所の所長であり、同大学の環境情報学部教授でもある、冨田勝(とみた・まさる)さんにお話を伺った。

 冨田さんは慶應義塾大学工学部を卒業後、アメリカのカーネギーメロン大学コンピューター科学部で、人工知能や自動翻訳の研究を行った。そこから生命科学の研究に転じ、細胞シミュレーションやメタボローム解析といった分野の第一人者となっている。

 このようにアカデミックな経歴を持つ冨田さんだけに、我々ゲーマーとは縁遠い存在のように思われるかもしれない。ところが冨田さんは、大学生時代に『スペースインベーダー』と出会い、周囲から“名人”と呼ばれるレベルのプレイヤーになったことが、その後の研究人生にとって非常に大きな影響を与えているのだという。

 『スペースインベーダー』ブームやパソコン黎明期の知られざるエピソードから、チェスの世界チャンピオンに勝利したコンピューター“ディープ・ブルー”との意外な関係まで、ゲームファンにとっても興味深い話題を自ら語ってくれた。

取材・文/伊藤誠之介


『スペースインベーダー』の“魅せプレイ”で歓声を浴びていた

――さっそくですが、冨田さんと『スペースインベーダー』との出会いは? 

冨田勝教授(以下、冨田):
 もともと僕はゲーム少年だったんです。夏休みの自由研究ってありますよね。中学1年生の自由研究は「ポーカーの確率」、1人でポーカーを5000回やって、どういう役が何回出るかという統計を取りました。

――それはスゴいですね。

冨田:
 中学2年の自由研究は“五目並べ必勝法”っていって、黒を真ん中に置いて、白を桂馬飛びに置いたら黒が絶対に勝てるっていうことを、全通り調べて書いたんです。そのぐらいゲームが好きだったんです。

――ということは、TVゲームが世に出てきた時には、かなりハマったのでは? 

冨田:
 そうですね。『ブロックくずし』【※】が世の中に出始めたのが、大学1、2年生の頃だったと思うんですけど、それまでは僕は、コンピューターっていうものをどうしても好きになれなかったんです。

※『ブロックくずし』
移動するボールをパドルで打ち返し、画面上のブロックを消していく、現在でもおなじみのビデオゲーム。1976年にアーケードで登場したアタリの『ブレイクアウト』が元祖となり、その影響を受けたアーケードゲームが日本でも多数登場した。
ちなみに、グーグルで「atari breakout」で画像検索すると、HTML版を遊ぶことができる。

――えっ、そうなんですか!?

冨田:
 今、コンピューターの操作ってキーボードでやるじゃないですか。昔はカードだったんです。穴を開けたカード1枚が、プログラム1行になるんですよ。だから100行のプログラムをコンピューターに読み込ませるには、カードパンチャーで100枚のカードを作って、それをパタパタパタッと読み込ませるんです。

 大学の必修科目に計算機実習があって。その授業で“円周率を下4ケタまで求めよ”っていう課題が出たんです。カードを読み込ませて、上手くいかなくてまたカードをパンチし直して、また読ませて、ということを延々とやって。それで出てきた答えが、3.1415ですよ。これのいったい何がおもしろいの? こんなの最初から知ってるんですけど、みたいな。

――あくまでコンピューターの使い方の実習だったわけですね。

冨田:
 それでコンピューターというのは自分にとって、もうぜんぜんつまんないものだと思っていたんです。ところが世の中にTVゲームが出てきて。最初はテニスゲームで、しばらくして『ブロックくずし』が出てきて。それでいよいよ出てきたのが『スペースインベーダー』【※】ですよ。“これはスゴいゲームだなぁ”って思いましたね。

※『スペースインベーダー』
株式会社タイトーが1978年にリリースしたアーケードゲーム。隊列を組んで攻めてくるインベーダーを自機で撃ち落とす、シューティングゲームの元祖となる作品。1970年代後半に社会現象となるほどの一大ブームを巻き起こし、日本にコンピューターゲームが定着する礎となった。
(画像はスペースインベーダー35周年記念サイトより)

 それまではテニスゲームと『ブロックくずし』しかなかったのが、『スペースインベーダー』は遊べば遊ぶほど、どんどん難しくなっていく。これはハマりましたね。もう、想像を絶するほどの時間とお金をつぎ込みまして。おかげでプレイヤーとしてはかなりの腕前でしたね。自分で言うのもなんですけど。

 『スペースインベーダー』は、1面クリアすると次の面がだんだん難しくなっていくんですけど、いちばん難しい面をクリアすると、またいちばん最初の難易度に戻ってしまうんです。だから上手くなってくると、4時間でも5時間でも、永久に遊べてしまう。

――100円玉1個で。

冨田:
 そう、100円玉1個で(笑)。しかもスコアが99990点を超えると、またゼロに戻ってしまう。そうするともう、いったい何のためにやってるんだってことになるじゃないですか。

――今でも“カンスト”といって、スコアが上限から増えなくなることはあるんですけど、『スペースインベーダー』の場合は、スコアがリセットされちゃうんですね。

冨田:
 そうなんですよ。だから相当な腕前になると、最後のほうにはいよいよやることがなくなって、UFOを撃ち落としたボーナスを毎回300点にする技とか、“レインボー”って技をやったりしてましたね。

 『スペースインベーダー』には、ある状況になるとインベーダーが足跡を残してしまうバグがあるんです。それを“レインボー” 【※】って呼んでたんですけど。そういう技をやると、後ろから「おーっ!」って歓声が上がるんです。

※レインボー
インベーダーに残像が残る“レインボー”は、いわゆるバグ技。特にスコアに影響はなかったが、続編では成功すると“レインボーボーナス”が入るようになった。

――観戦しているギャラリーがいたんですか? 

冨田:
 当時はものすごい『スペースインベーダー』ブームで、ゲーム機がなかなか空いていなくて、後ろで順番待ちして並んでたんですよ。だから遊んでいる人は、台の上に100円玉を積んで“俺は当分やめないぞ”と意思表示をする。そういう時代だったんです。

 そうやって周囲の人たちに、“レインボー”などの技を見せて。要するにエンターテイナーですよね。

――現代のゲーマーが言うところの“魅せプレイ”を、『スペースインベーダー』の時代にやられていたんですね。

冨田:
 あとは手を使わないで、足でゲームを遊ぶとか(笑)。昔はテーブルの中に画面がある形だったから、やろうと思えば足でも操作できたんです。普通の人は手でやっても6000点ぐらいなのに、この人は足で8000点超えてるよ、みたいなね。

今でも、当時の面影のまま昔から営業している喫茶店などには置いてあることがあるテーブル筐体。懐かしい人も多いのでは?
(画像はスペースインベーダー35周年記念サイトより)

――それはホントに名人の領域ですね。

冨田:
 当時、「東京六大学『スペースインベーダー』大会」という番組を、東京12チャンネル(現・テレビ東京)が土曜日のお昼に放送したんですよ。その時に僕が、慶應大学代表の3人のうちの1人で出場しまして。残念ながら準優勝だったんですけど、それでもまぁ、はっきり言って名人でしたね。

――お話を伺っていると、プロゲーマーやゲーム実況といった、ゲームプレイを他人に“魅せる”というカルチャーを、冨田さんは『スペースインベーダー』の時代にパイオニアとしてやられていたんですね。

冨田:
 そう言ってもらえると、ありがたいですね。今から10年近く前『スペースインベーダー』30周年の時、ニュース番組の特集に呼び出されて、『スペースインベーダー』の思い出を語ってくれって言われて。『スペースインベーダー』に熱中した人として、今でも認識されていることは、嬉しいですね。

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