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ぼくが面白くなかった『Fall Guys』、妻が楽しんだ『Fall Guys』。対戦マルチプレイゲームでひとりのコアゲーマーが振り返った「楽しい」の感情

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 ゲームについての記事を書くとき、ぼくは完結しているシングルプレイのゲームを扱うことが多い。だが実際は、普段ゲームをプレイする時間のほぼ大半を対戦マルチプレイゲームに費やしている。

 それはもう日々のルーティーンと化していて、忙しいとか忙しくないとか、やりたいとかやりたくないとかを超越して、つまり食事と同じように、マルチプレイで世界の誰かと日々殺したり殺されたりしている。

 『Fall Guys: Ultimate Knockout』(以下、Fall Guys)の配信が開始されたとき、ぼくは当然のように友人と時間をあわせてプレイした。

 結果、二戦やって僕らは「ふむふむ」と言い合い、「なるほどなるほど」、「あーそういうことね」と、ひとしきり意味のない微妙なやりとりをした。あとはなにも言わずに『Apex Legends』を起動し、カジュアルでチャンピオンを一回獲り、『オーバーウォッチ』で数勝して、満足してそのまま落ちた。

 後日、ひとりでも『Fall Guys』をプレイしてみたのだが、やはり数戦すると満足してやめた。数日それを繰り返してみたが、結果は同じだった。ぼくにとってこのゲームは「面白く」なかった。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 しかしある日、普段ビデオゲームをほぼ触らない妻が『Fall Guys』を誰かの実況動画で見たらしく、突然「本作をプレイしてみたい」と言い始めた。

 妻がゲームの動画を見るのが嫌いではないのは知っていたが、ビデオゲームのプレイにはほとんど興味のない人だ。まして対戦マルチプレイゲームをプレイしたいなど聞いたことがない。

 妻のプレイを後ろからみていると、普通に上手い。ほかのプレイヤーに悪態をつきながら、せっせとプレイをしている姿はとても「楽しそう」だった。そして妻は数回『Fall Guys』を遊び、満足してやめた。

 さて、ぼくが数戦して満足してやめた『Fall Guys』と、妻が数戦して満足してやめた『Fall Guys』。この両者のあいだに大きな感情的な開きがあったのかと考えると、さほど大きな違いなどないことに気付く。

 ぼくはたしかにこのゲームを「面白く」は感じなかったが、じつは「楽しく」はあったからだ。

 わちゃわちゃとしたキャラクターの動き。邪魔し邪魔される先の読めない試合展開。無いようでしっかりとある戦略性。それを上回る運の要素。これらを「楽しん」でいた。でも「面白く」はなかったわけだ。

 ぼくはそこでハッとさせられた。少なくともぼくはここ最近当たり前のように、対戦マルチプレイゲームを「楽しさ」ではなく「面白さ」で見ることが大前提となっていたのだ


面白い:「相手をどう屠るか」を考え練習する対戦マルチプレイゲーム

 少し時代をさかのぼってみよう。インターネットの回線環境が整い、見えない相手とカジュアルに対戦できる時代になってからこっち、対戦マルチプレイゲームというジャンルは極めて早いスピードで発展してきた。

 MOBAというジャンルを生み、対戦FPSというジャンルを生み、そしてそれまでゲームセンターの専売特許だった格闘ゲームというジャンルを家庭へと引き込んだ。その発展のなか、ぼくらは物理的な距離を超越した。

 だが、ぼくを含め多くの人は体験しただろう。対戦マルチプレイのゲームへの参入には“インターネットという匿名社会への参入”とほぼ同様の障壁があり、ぼくらの前に立ちふさがった。

 IDこそあるがほぼ匿名の文化圏では、某掲示板であろうと、某SNSだろうと、某マルチプレイだろうと、お構いなしに誰彼構わず牙を向いていたし、いまなおその環境に変わりはない。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 家庭で肩を並べるローカルマルチやゲームセンターでは、つねに「物理的距離間」が存在した。

 不可避の緊張感のなかに確実に存在した、人と人との関係性に関する最低限度の問題回避心理は、インターネットというあまりにも深い弾力に楽々と吸い込まれている。

 ゆえにネットゲームやマルチプレイの世界は「誰をどれだけ傷つけるか」というチャレンジのような様相を呈した。

 知らないもの同士の通信は、隙あらば無制限の暴言や中傷を気に入らない相手に送り付けるファンメールの応酬の場に転化した。

 掲示板の専用スレではIDの晒しが横行。ゲーム内チャットでは煽りメッセージの嵐。ボイスチャットでの暴言。常態化する死体蹴りや死体撃ちと、それに対する自治という名のマナーの押し付け。

 インターネットの普及とオンラインマルチゲームにおける負の感情の歴史は、生の感情を発露する人間とそれを受けた者のコーピングの歴史として、ほぼ期を同にしていると言って過言ではない。無間地獄だ。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 では、なぜぼくらはそんな思いをしてまでオンラインゲームを続けたのか?
 言うまでもなく、ぼくらはそれを含めて、対戦マルチプレイゲームが「面白くて」仕方なかったからだ。

 楽しくてしかたなかったから、暴言チャットやファンメールなどまったく意に介さない。むしろ一種の年中行事として楽しむように訓練された。
 屈伸には屈伸で、死体撃ちには死体撃ちで、トロールプレイには除外投票で、僕らは歪んだ笑顔を浮かべ続けた。

 なぞの猛者に正面から挑んで殺され続けた。
 なぞのクラスター爆撃でトラウマレベルの味方の死体を眺め続けた。
 なぞのリスポーンの仕様にリス狩りされ続けた。
 なぞのサブ垢の初狩り勢になすすべもなくやられ、見えない中段に屠られ続けた。

 そう、ぼくらは虐殺することにも虐殺されることにも慣れすぎたのだ。そしてぼくらはいつかコアゲーマーと呼ばれるようになった。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 オンライン上の対戦マルチプレイゲームという世界でのコアゲーマーとは、つまりどんな罵詈雑言も流し、代わりに強烈な殺意で画面の向こうの相手を屠ることにのみ力を注ぐ人種のことを指すのだ。

 本質的に勝ち負けだけが価値を持つ、見ず知らず誰かとの戦い。誰がなにを言おうと結果だけが満足感につながるオンラインゲーム。だからこそ生粋のコアゲーマーは勝つための努力を惜しまない。

 ぼくは新しいFPSを始める時にMAP構成から覚えていくのが好きだ。クリアリングポイントを覚えて強ポジで置きエイムするのが好きだ。射撃練習場でアタッチメントの効果を確かめながら指切りの練習するのが好きだ。相手が使用しているキャラクターのメタキャラクターを考えるのが好きだ。一生トレーニングモードでコンボ練習をしているのが好きだ。フレーム消費を考えて動くのが好きだ。複合グラップを仕込みが好きだ。セットプレイの練習も大好きだ。

 つまり画面の向こうの相手を殺すためにする行動のパターン化自体が快感だ。それが対戦ゲームなのだと。ぼくはそう思ってきたし、今もそう思っている。それこそがぼくがマルチプレイゲームが「面白い」と考える部分だ。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

楽しい:地獄不要ですぐに「遊んでいる感」を味わえるゲーム

 しかし。

 しかしながら、だ。

 冷静になって考えてみよう。

 はたして、そんな血のにじむような努力をみんなが望んでしたいだろうか。

 そんなわけないのだ。

 以前、『Dead by Daylight』のゲームの構造でも同じことを述べた覚えがあるが、近年のオンライン対戦ゲームの潮流は「スタートラインに立つまでに必要な努力」が必要な構造をカットしようとしていった。

なぜ『Dead by Daylight』は日本と世界で流行したのか? その理由を近年の人気マルチプレイ対戦ゲームと照らし合わす

 格闘ゲームなら入力を簡易にすることはその努力の一環ではあるだろう。

 FPSやTPS界隈では『PUBG』(PLAYERUNKNOWN’S BATTLEGROUNDS)や『フォートナイト』に代表されるバトルロイヤルゲームが流行。ゲームのコンペティティブな部分にかかる時間を極力削ぎ落し、逃げ隠れしたり資材を集める時間を重視して、多くのプレイヤーに「ゲームに参加している気分」を与える構造となっていた。

 そして明確な勝利条件が設定されていない『Dead by Daylight』のように、無意識に参加プレイヤーによって目標を切り替えるさせるという試み。

 どれも『Call of Duty』で「0キル50デス」などという無残な結果に心が折れてしまうことのないように、ゲーム自体の習熟度の必要性と参入障壁のバランスを取って、ゲームが広く好まれるようになった。

 もちろん、それでも「やっている感」だけでなく「しっかりと安定して勝ち抜く」ためには、すさまじいばかりの努力が必要とされる。そのデザインは「競技性」という名においてジャスティファイされ、上手いプロプレイヤーや上手いストリーマーが生きていく糧になっている。

 それはそれでいい。マルチプレイゲームのあり方として至極まっとうなあり方だろう。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 だが『Fall Guys』はどうだろうか。

 もちろん信じがたいほど上手いプレイヤーは現に存在するし、もちろんそれは評価されるだろう。誰でも練習すれば上達もする。ただ練習すれば練習するほど、繰り返せば繰り返すほどに「は?運じゃん」と思う場面は多くなる。

 群衆にもまれて、思っていた方向に飛ばずに、誰かに妨害されて、そもそも野良チーム戦など運そのものだ。だからぼくは5戦もすると満足する。妻も同じように満足する。それはけっしてネガティブな印象ではなく、ただただ「楽しい」ゲーム体験なのだ。

 それはゲームをどう攻略し敵を倒すかという「面白い」体験ではないが、刹那に仲間たちと感じる「楽しい」快感だ。

 ぼくはありとあらゆる対戦マルチプレイゲームにほぼ見境なしに遊ぶが、ここまで参入障壁を下げたタイトルには近年あまり出会っていない。努力する意味もまったく感じない。何戦か遊び、そしてどんな結果でもなんとなく楽しく、満足して止める。

 人間のあらゆる負の感情を凝縮してきた対戦マルチプレイゲームであるはずなのに、ここまで人をムキにさせない作品はめずらしい。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

「楽しい」対戦マルチプレイゲームには、まだ需要がある

 そんなゲームが大人気を博していること。それは一も二もなく喜ばしいことなのだ。

 昨今のビデオゲームの業界は、一瞬でも気を抜くとゲームメディアの中の人間でさえすぐにトレンドから取り残される激流だ。そして多くの人が気付かない内に、数年前と比較してもゲーム人口は膨張し続け、年齢性別構成比も、その関わり方も大きく変わり続けている。

 『Fall Guys』は“eスポーツという言葉”の大流行の裏に隠れて気付かれなかった需要の受け皿そのものなのかもしれない。

 なんども言うが、僕は競技性の高いビデオゲームを好む。しかし現在、ビデオゲームに注目している多くの人たちは、リコイルコントロールやタクティカルリロード、空中コンボに詐欺飛び、メタ編成やデッキ構成のトレンドと、敵を屠るためだけに費やす労力や時間などに興味などないのだ。

 あらゆる娯楽が可処分時間を食い合っている時代に、参入障壁が高いゲームをプレイしようなどという人間は、昔ながらの被虐体質特性持ちのごく少数のコアゲーマーしかいない。

 それは至極当たり前のことだろう。だが私を含め、昔ながらのゲームプレイヤーはそのことを失念していたのかもしれない。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 日本において、ゲームの競技化はここ数年のトレンドだったし、それ以前から対戦マルチプレイゲームのバランスに関して過敏なほど神経質だった。

 強武器や強キャラは即刻調整を求められ、その対応がもとで過疎化したゲームは枚挙に暇がない。しかし、対戦ゲームにおけるバランス調整は、けっきょくのところ機会の均等をもたらしはするが、結果の均等をもたらしはしなかった。勝負ごとなのだからそれはとても普通のことだ。

 ぼくが『Fall Guys』において味わったのは、後者に限りなく近い感覚だ。

 ほとんどの場合、よくわからない流れで負け、優勝したときも「ああ、うん」としか思わない絶妙な手触り。それでいてプレイしているあいだは、ただ楽しい。

 わちゃわちゃと動き回るキャラクターはすべて人。その多くがひとつの画面の中でひしめいている。「殺伐としなければおかしい」状況にも関わらず、殺意よりも楽しさが勝つ。みんな楽しくてみんな満足できる。

 それは例えるならば、綿密にリサーチしてロジックを戦わせるディベートの大会と、大した内容のない雑談をしている飲み会の違いのようなものだ。

 もしかしたら満足感は前者が優勢かもしれない。だが大多数が楽しもうと思ったら、ビヤホールで乾杯していたほうが簡単だし、なんの準備もいらない。

 そのふたつのどちらがより高級で高等なのか? という議論ではなく、どちらであればより多くの人が楽しめるのかということだ。確信をもって言うが、過半数以上の人が後者を選ぶだろう。

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(画像はSteam 『Fall Guys: Ultimate Knock Battle』より)

 『Fall Guys』の流行を見て、ぼくはマルチプレイゲームというものの立ち位置に関して、長く抱えてきた勘違いを正さなければならないだろう。

 誰だって本当は不特定多数で楽しくゲームで遊びたいが、そのために最低限クリアしなければならない基準を満たすのはしんどいのだ。勝ち負けというものに大きな価値を持たせず、プロセス自体をどれだけ娯楽化するか。

 そこにはとんでもない需要が埋まっているし、飽くなき殺意で敵を殺すことに努力を惜しまない対戦マルチプレイゲームのコアゲーマーは、その存在をあらためて認識してもいいかもしれない。


 『Fall Guys』が生み出した熱量がどこまで続くのか、いつ飽きられるのか。ぼくはその点にまったく興味を示していないが、このゲームの存在自体を過小評価すべきではないとは思う。

 ただプレイすることで「楽しい」時間を体験できること。娯楽にそれ以上の付加価値を求めることなど本来は無意味なのだ。ぼくは無意味でも殺意まるだしで誰かと殴りあったり撃ちあったりすることを止めないだろうが、それがどこか歪んだ趣味であることを認めようと思うのだ。

 今日も妻は『Fall Guys』を数戦だけ楽しみ、今日もぼくは画面の向こうの相手を殺し殺されつつマルチプレイゲームの「面白さ」を堪能する。お互いに肩を隣り合わせながら。

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悲野ヒコ
レビュアー、インタビュアー、企画立案者。業界とは深い関わりを持たないにも関わらず、独自の着眼点で名記事を生み出してきた異端児。その作家性の高い文章や思考から、ゲーム業界の内外から高い評価を受ける。代表作は「亡き父親のゲーム攻略メモ」など。彼のバイオはこちらから
編集
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ニュースから企画まで幅広く執筆予定の編集部デスク。ペーペーのフリーライター時代からゲーム情報サイト「AUTOMATON」の二代目編集長を経て電ファミニコゲーマーにたどり着く。「インディーとか洋ゲーばっかりやってるんでしょ?」とよく言われるが、和ゲーもソシャゲもレトロも楽しくたしなむ雑食派。
Twitter:@ishigenn

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