閃光のように
かくして覚醒したポップだが、その後の戦いで彼は立て続けに死にかけることになる。
自身の天敵とも言える魔法を反射する防具、「シャハルの鏡」を持ったハドラー親衛騎団の騎士シグマ戦は互いの知恵と力を駆使し、ぶつかり合う好勝負の末、なんとか勝利したものの、その後のダイとハドラーの一騎討ちの直後に発動したキルバーンの罠からダイを守るために自身も罠に飛び込んだ末に、今度こそ本当に死の危機に瀕してしまう。
ここで起きるハドラーとポップの唯一にして最後の共闘シーン、そしてその後交わされるふたりの会話は本当に素晴らしいのだが、このことについては以前にねとらぼの記事に書いたので詳しくはそちらを読んでもらうとして、そこでは何とか一命を取り留めたポップが、さらにその後に起きるミストバーンとダイとレオナ以外のメンバーとの対決においても、彼は自身の放った「メドローア」を撃ち返される形でまたまた死の危機に瀕する。
そうしてせっかく自己犠牲の連鎖を断ち切ったのに自分は二度目の死を迎えかけるという、あまりに危なっかしい大魔導士ポップを、その都度助けてくれる人物がアバンなのである。
すでに述べたようにダイとハドラー戦の後に訪れる、満を持してのアバンの復活は確かに感動的だが、同時にあまりにご都合主義的でもある。それでもアバンを復活させる必要があったのは、アバンの使徒達をさまざまな面で助けるためであり、自身が発生させてしまった「呪い」を解くためであり、そしてなにより自分の果たすべき役割を継いでさらに先へ進もうとしている存在、ポップを守るためである。
自身が放ったメガンテによって発生した自己犠牲の連鎖をとうとう断ち切ってくれたにもかかわらず、さらに死の匂いがする方へと向かう愛弟子を救うため、ポップに限らずアバンの使徒達の周囲に漂う死の匂いを払拭するため、アバンにはどうしても復活してもらわなければならなかったのだ。(と言いつつ自身はキルバーン戦で再度メガンテを使いかけてたりするのだけど……。)
そして、大魔王バーンとの決戦の際に、早い段階で前線から脱落してしまうアバンが自分の後継者的存在として指名するのは他ではないポップなのである。アバンがいかにポップを重要人物として捉えているかがよくわかる。
そうやってアバンに全てを託されたポップは、ダイを始めとする辛うじて戦える仲間達と協力し、最後は自身を苦しめた騎士シグマから譲り受けた「シャハルの鏡」すら利用し、遂に大魔王バーンの必殺奥義「天地魔闘の構え」を打ち破る。
圧倒的な力を持った強大な敵の、最強の技を、ここに至るまでで培った自身の努力や仲間との絆、かつては強力な敵だったはずの存在すら味方にするという、文字通り全ての過程をぶつける形で打ち破るという少年漫画の王道中の王道とも言える、この一連の展開は本当に素晴らしい。
しかし、『ダイの大冒険』の本当のクライマックスはここからだ。前回の記事の最後でも述べたが、ここからこの漫画は、個々のキャラクターが己の力を出し尽くし、燃やし尽くす「完全燃焼」とは別の領域へと進み始める。
「天地魔闘の構え」を破り、見事な会心の一撃を決めることでバーンの片腕を奪うことに成功したダイは相打ち覚悟でライデインを連発するが、すでに地上全てを爆破する手はずを整えていたバーンの目論見を聞かされ、最後の一手として多くの仲間が待っている地上への爆撃を行ない、仕上げの大爆破を止める手段が尽きていることを悟ると、とうとう心が折れ、倒れてしまう。
それでも、ポップに命を助けられたことで自身の力を目覚めさせたメルルによって地上に残された仲間は間一髪爆撃を避け、そこで仕掛けられた爆弾、「黒の結晶」を凍らせることで活動を停止させようとする。
そしてバーンの城で戦うポップ達と交信が出来るメルルの力によって、地上の残されたメンバーはどうにかして各地に仕掛けられた「黒の結晶」を凍らせるために奔走する。そしてポップもまたその中に加わろうとするが、バーンの城にかけられた魔力によって阻まれる。
ここで重要なのはこの時点においてダイは未だに心が折れ、倒れ込んでいるにも関わらず、同じ場所で戦い、同じくらい消耗しているはずのポップはすでに立ち上がって行動を起こそうとしている点だ。
ポップというキャラクターは一度は本当に死んでしまうし、最終決戦でも二度ほど死にかけるなど本当に危ういキャラクターである。しかし、それは彼が常に危険をかえりみず行動を起こす「勇気」ある人物だからである。
その意味においてやはりポップは「勇者」なのだ。そしてそんなあまりに諦めの悪い「勇者」に半ば呆れる形で大魔王バーンは遂にポップの名前を呼ぶ。
本作において名前を呼ぶという行為は、重要な意味を持つ。かつてハドラーがポップの名前を呼ぶタイミングがいつなのかを振り返ってみればそれは一目瞭然である。ついに大魔王バーンすらもがポップという存在を認める。そしてその後に放たれるポップ一世一代の啖呵。これは本当に凄い。
残りの人生が50年だって5分だって同じ事だ!!!
一瞬……!!
だけど……
閃光のように……!!!まぶしく燃えて生き抜いてやるっ!!!
それがおれたち人間の生き方だっ!!!よっく 目に 刻んどけよッ!!!
このバッカヤロ──────ッ!!!!
このポップによる一連の台詞が凄い理由、それは言葉の力、もっと言えば「表現の力」で敵と戦っているからである。
「完全燃焼」する人間の生き様を行動で示し、それを武器とするのではなく、「完全燃焼」する人間というものを「表現」し、それを最大最強の敵に向かって渾身の力を込めてぶつけること。
かつてポップが万策尽きた時に選んだ選択肢は、自身の命を捨てて相手を倒す、メガンテという名の自己犠牲だったが、その「アバンの呪い」を自身の力で解き、再び万策尽きかけた彼が選んだのはメガンテではなく自分を始めとする人間の生き方を「表現」することだった。
当然そこに含まれる攻撃力は0だ。ポップという存在に一目置いたからといってそんな台詞、そんな「表現」を受けたところで大魔王バーンの態度は一切変わらない。
しかし、これを読む読者にとってはそうではない。この台詞を、あらゆる面において平凡な人間でしかないポップがいうからこそ、この言葉、この「表現」は意味を、そして力を持つ。
大魔王バーンは知らなくても、読者はそのことを知っている。そしてもうひとり、読者以上にそのことを知っている人物がいる。共に戦ってきた相棒の渾身の「表現」の力によって、心折れ、力尽きていた本作の主人公ダイは遂に再び立ち上がるのである。
全てを持っている主人公、ダイが失ったもの
最後に、ここまでほとんど触れてこなかった、もうひとりの「勇者」、ダイについて振り返ろう。
ダイというキャラクターはあらゆるものを「持っている」キャラクターである。
剣士としての優れた資質、ここぞというタイミングで覚醒してくれるドラゴンの騎士としての潜在能力、歴史上たったひとりしか存在しない人間(王族)とドラゴンの騎士の間に生まれた子どもという特別すぎる血筋。
普段はほとんど魔法を使えないという欠点など軽く吹き飛ばしてしまうほどにあらゆるものを「持っている」キャラクター、それがダイである。
なぜダイをここまで全部盛りなキャラクターにする必要があったのか。それはやはり当時のあまりにも競争が激しい週刊少年ジャンプで生き残るためには、そのような即効性の高い、いわゆる「物理で殴る」タイプのわかりやすい魅力が必要不可欠だったからではないかと思う。
登場初期はヘタレで卑小な側面が強かったポップですら、初登場時にいきなりメラゾーマを使用することで敵を丸焦げにするくらいなのだから、主人公であり勇者でもあるダイには盛れそうな要素はどんどん盛っていくのは当然のことだったのだろう。
しかし、そのあまりに拙速な「強さ」を求める過程で、ジャンプのバトル漫画の主人公としてパーフェクトなダイがその冒険の過程で失ったものがひとつ存在する。
それは、「勇者に憧れ、鼓舞される心」だ。
連載が開始される以前に掲載された読み切り『デルパ!イルイル!』においてダイとは、「勇者」に憧れ、自分もいつかそうなろうと願う少年だった。
しかしその週刊連載が開始されて以降のダイはそんな憧れを呑気に抱えている暇も無いほどの急な速度で、世界を救う勇者としての階段を駆け上がってしまう。連載序盤でアバンとの別れを経て以降の彼にとって「勇者」になるという行為は夢を叶える自己実現的な行為ではなく、必ず遂行しなければならない「責任」であり「義務」なのだ。
同時期のジャンプにおいて圧倒的な人気によってアンケートのトップに君臨し続けた『DRAGON BALL』の主人公、孫悟空が世界がどれほどの危機に瀕したとしてもワクワクしてしまう心を失わなかったこととは対照的に、ダイにとって戦いとはまったくワクワクするような代物ではなかったのではないだろうか。
ダイは大魔王バーンと初めて対峙し、完敗を喫したのちにこんな弱音を吐く。
……おれ
昔は勇者ってかっこいいなあ……って思って
ただ憧れてるだけだったでも レオナに出会って……
先生に出会って
みんながおれを勇者だって言ってくれて……だから少しでもみんなのために強くなりたいと思ってがんばってきた………!
でも おれの力なんか まるで役に立たないんだ!!
大魔王バーンの前ではっ!!!それなのに……
みんなはまだ おれなら何かできると……
おれを本物の勇者だと思いこんでるんだよ!!……もうおれは限界なんだ
これ以上みんながおれに期待して戦ったりしたら……みんな……
父さんみたいに俺の前でっ……きっと……!!
それでもダイは「勇者」としての責務を全力で果たそうとする。しかし、バーンの城へと乗り込んでの最終戦を仕掛ける布石として、アバンの使徒全員が協力してミナカトールを発動させようとした際に、ダイの持つ資質が「勇気」ではないことが判明する。
「勇気」の資質を持っているのは「勇気」とは一番遠い位置にいるようにも思えたポップだったのである。ではダイの資質が何かといえば、劇中において「純粋さ」ではないかという会話がされたりもするのだけれども、それもなんだかわかったようなわからないようなモヤモヤ感を残す。
この結果をそのまま解釈してしまえば、「勇気」の資質を持つポップこそが本作の「勇者」であり、誰もが「勇者」としての資質を疑わなかったダイは実は「勇者」ではないということになる。
しかし、この残酷なようにも思える事実は、ダイが物語序盤で失っていた彼の本質を呼び戻すことにも繋がる。
すでに述べたように、大魔王バーンとの死闘の最中、遂に一矢報いたかと思いきや地上に仕掛けられた「黒の結晶」を爆破させ、地上もろとも吹っ飛ばすという宣告をバーンから受けることで、ダイはとうとう戦う気力が尽きて倒れこんでしまう。
そこでポップによる一世一代の「表現」とその中の「閃光のように……!!!」という言葉は多くの人間の心を揺さぶるが、その言葉を誰よりも近い位置で受け止め、その言葉に励まされ鼓舞されたのは他でもない、ダイなのである。
ここで彼は自身の原点ともいえる「勇者に憧れ、鼓舞される心」を取り戻す。なぜなら目の前には最高の「勇者」がいて、力尽きたはずの自分に「勇気」を与えてくれるのだから。
そして再び立ち上がったダイは自身の力と父親であるバランより継承したドラゴンの紋章の力を全て開放し、バーンとの最後の一騎打ちに臨む。その戦いは人の域を超えた神の戦いとでも呼ぶべきもので、そこにはバトル漫画としての熱さというよりも一種の悲壮感と神々しさが交じり合うものとなっている。
ダイとバーン、両者の戦いは、やがて互いの死力を尽くしたぶつかり合いに突入する。そして、そんな両者の勝敗を分けるきっかけになるのが、やはりポップの言葉なのである。
この決着の直前には、ダイの「血筋」そして生まれながらに与えられた「宿命」の象徴であるバランの愛刀、真魔剛竜剣すらも通じなかったバーンに対して、なんの血筋も隠された能力も持たない、だからこそ真に「勇者」と呼ぶべきポップの「閃光のように……!!!」という言葉こそが、ダイの最後の力を呼び覚まし、勝利をもたらす。
不要な言葉を排した静謐なトーンで描かれるバーンとの最終決戦は、同時に両者が互いに対して不思議な共感を寄せあう戦いでもある。それはそうだろう。最早神ですら手が出ないほどの領域に突入したふたりは、最高の理解者同士でもあるのだから。それゆえに、決着後にダイは、哀悼をこめてバーンに別れの言葉を言うのである。
その後、ダイはどうにか地上に無事帰還を果たす。だが、生き延びていたキルバーンの体内に仕掛けられた「黒の結晶」の爆発から地上を守るため、最後はポップすらも蹴落として爆弾を抱えて遠い空へ飛び立ち爆破と共に消息を絶ってしまう。
ポップはどうにか断ち切ることが出来た「アバンの呪い」はダイ自身は断ち切ることが出来なかったのだろうか。ダイが最後の台詞で述べているように、ドラゴンの騎士とは世界を守るために命を捨てて戦うことが「義務」である以上、これは避けようの無いエンディングだったのだろうか。
確かに国どころか世界すらも簡単に滅ぼせてしまうほどの力を単体で抱えるダイが、もし無事に地上にそのまま戻ってきたとしても、その後平穏無事な「セカンドキャリア」を築けたとは思えない。
現在放映されている『ダイの大冒険』のアニメ化の第一報で提示されたメインビジュアルは『ダイの大冒険』の漫画の最後のコマと同様のものだった。おそらく今回のアニメ版は原作の最後までは描かれるのだろう。そうでなければこのようなイメージを最初に打ち出したりはしないだろう。
あまりに時期尚早な要望であることは重々承知の上だが、もし、原作の最終回の「その後」が描かれるのだとすれば、あまりにもその「責任」と「義務」を果たしすぎた勇者ダイの「その後」を見てみたい。
『ドラゴンクエスト』と「少年漫画」の批評としての『ダイの大冒険』
ここまで、ねとらぼ掲載の記事も含めれば5つの記事で『ダイの大冒険』について書いてきた。我ながらよくもまあこんなに書いたなと思うが、まだ採り上げたい事柄はたくさんある。
たとえば、みんな大好き、そして私も大好きクロコダインにはもうちょっと触れておきたかった。彼が人間側の味方をするようになって以降の献身ぶりというか、常軌を逸したタフネスっぷりは特筆に値する。
そんなクロコダインのタフネスエピソードの極致が、かの有名な名台詞「ギガブレイクで来い」なわけである。この台詞がすごいのは、劇中でも最強クラスの必殺技「ギガブレイク」の直撃を喰らったとしても死ぬ気はないというところに尽きる。
この命を捨てた自己犠牲には陥らないクロコダインの健全な献身性が、この漫画、そしてそれを読む読者に与えたポジティブな影響は決して小さくないと思っている。
それと、本文でもちょっとだけ触れたが、フレイザードやザボエラといった救いようのない悪役達にももう少し言葉を費やしたかった。たとえば、フレイザードの必殺技、弾岩爆花散を使用することで自分もけっこうなダメージを受けているにも関わらず連続使用に踏み切るところなどは、当時読んでいた小学生時代ですらもちょっとカッコいいと思ってしまったし、ザボエラの自分の息子に対して、自分ための道具になれと言い放ってしまうところなど、「利己性」の極致のようなキャラクターだと思う。
特に、ザボエラの息子が、父親に認めてもらいたいという動機によって行動してしまうことで、「利他的」な行動をとってしまい、その哀れな姿がダイ達にも同情されてしまうという結果的には、「利己性」を極めた父親とは別の道を辿っていることなどはかなり興味深い。
ザボエラのあまりに「利己的」なその資質は自分の実の子どもにすら継承されない一代限りのものなのだ。アバンがその「利他性」によって多くの弟子を持ち、その能力や意志が継承されていくのとは対照的な位置にいるキャラクターだと言えるだろうし、そんなザボエラが、魔王軍側で一番先に人間側に寝返った、つまりは最も早く「利他性」に目覚めたクロコダインによって決着をつけられるシークエンスなどはあまりの構成の巧みさに何度読んでも唸ってしまう。
なぜ『ダイの大冒険』という漫画はここまで多くの語りどころがあるのだろう。
それはこの漫画が『ドラゴンクエスト』と「少年漫画」に対する批評性がある漫画だからではないかと思う。
批評性などというとなにやら小難しいことをいってると思うかもしれないが、やっていることは至ってシンプルだ。
『ドラゴンクエスト』をプレイして感じるおもしろさや疑問点、そしてそれを漫画化する際に発生する課題を的確に認識し、おもしろさはより強調し、疑問点や課題にはそれに対する解答を用意しながら作品を作っていくという地道だが非常に知的な体力を要する作業を、連載開始から終了まで徹底して行なっているから、『ダイの大冒険』は今読んでも面白いのである。
そしてその批評性は、『ダイの大冒険』が連載開始した1989年にリリースされた『ドラゴンクエストⅣ』から始まる天空三部作にも見られる批評性と同質のものでもある。
天空三部作のテーマを簡潔に述べてしまえば、それは「勇者と魔王」の再解釈だ。だから『ドラゴンクエストⅣ』では掟破りのいきなり勇者の村に攻めてくる魔王が描かれ、『ドラゴンクエストⅤ』では主人公が勇者ではなくなり、『ドラゴンクエストⅥ』では勇者という職業が誰でも転職でなれる一職業と化し、複数の魔王が乱立する世界になっている。
『ドラゴンクエスト』の基本フォーマットや幅広いユーザーに訴求できる間口の広さはそのままに、自身で確率した「勇者と魔王」の物語を批評的に解体し、再構築してしまう堀井雄二の手腕はやはり並のモノではないが、『ダイの大冒険』もまたこれと同等水準の「勇者と魔王」の再解釈を、王道の少年漫画のフォーマット上で展開するという離れ業をやってのけている。
RPG的な世界観をメタ的に再解釈したいわゆる「なろう系」や「異世界転生モノ」がひとつの潮流を作っている現在、『ドラゴンクエスト』というRPGの王道中の王道を再解釈しながらそれでも古色蒼然とした王道であり続ける『ダイの大冒険』は逆に新鮮に映るのかもしれない。
それと、この文章ではどうしてもストーリーの展開や構成に主眼を置いて語っているため、あまり触れることが出来なかったが、作画を担当している稲田浩司氏による絵の魅力は本当に素晴らしい。現在においても本作が古びない要因の大きな部分はこの絵柄に依る部分がかなり大きいのは間違いない。
ずいぶん長い文章になってしまった。ここまで書いてしまうと逆にもっと竜騎将バランやマトリフ師匠やマァムや北の勇者やニセ勇者一行や、『ダイの大冒険』からの『冒険王ビィト』の流れについてもなにか書きたくなってきたが、この辺りで一旦終わりにしよう。
この文章を通して『ダイの大冒険』の魅力がひとりでも多く伝われば幸いである。