※この文章は『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』(以下『ダイの大冒険』)の重要な部分に関するネタバレを多く含みます。
『ダイの大冒険』について考えるということは、『ドラゴンクエスト』について考えるということでもある。そして同時に、「少年漫画」について考えることでもある。
かつて『ドラゴンクエスト』は、RPGというゲームジャンルを日本に伝道する上で、鳥山明によるキャラクターデザインを始めとする少年漫画のさまざまな意匠や、当時黄金時代を迎えていた「週刊少年ジャンプ」というメディアの力を活用するなど、少年漫画の力を最大限活用することで社会現象を起こすほどの人気を獲得した。
そんな『ドラゴンクエスト』を改めて「週刊少年ジャンプ」誌上で漫画化する。その際に、『ダイの大冒険』がお手本としたのは、前回の記事でも指摘したように少年漫画の名作の中の名作、『あしたのジョー』である。
『ダイの大冒険』が当時絶大な人気を誇っていた『ドラゴンクエスト』のIPの力にあぐらをかいたような内容の漫画であったとすれば、おそらく現在にまで語り継がれるような人気作にはなっていなかっただろう。『ドラゴンクエスト』の各要素をどのような形で少年漫画化すればいいのかを徹底して考え抜いているからこそ、『ダイの大冒険』は面白い「少年漫画」になったのだ。
今回、改めて考えてみたいのは、『ダイの大冒険』における、「勇者」についてである。
『ドラゴンクエスト』シリーズ、特に初期ロト三部作において、我々ゲームプレイヤーの分身とも呼べるであろう主人公キャラクター、それが「勇者」だ。
『ダイの大冒険』は『ドラゴンクエスト』を漫画化する上で、「勇者」という存在をどのように解釈し、どのように漫画的に表現したのか。これは本作を構成する上で最も重要な核心の部分と言えるだろう。だからそんな核心について振り返る以上、今回この文章は非常に長い(大体15000字程度)。よろしければお付き合い頂きたい。
というわけで、本作に登場するふたりの「勇者」であるアバンとダイ、そしてもうひとり、この作品を語る上でどうしても外すことの出来ない人物、魔法使いのポップについて振り返ってみよう。
文/hamatsu
「勇者のセカンドキャリア」を生きるアバン
まずひとり目の「勇者」、アバンについて振り返ってみたい。
アバンというキャラクターを振り返る上で重要な点、それは「勇者」の「セカンドキャリア」を描いたというところにある。
かつて世界を危機に陥れた「魔王」を倒した紛れもなく本物の「勇者」であるアバンは、登場時点において「勇者のその後」を生きている人物である。
「魔王」を倒した後の「勇者のその後」が果たして幸せな人生になるのか。『ドラゴンクエスト』シリーズに限らず、さまざまなRPGタイトルをプレイした人なら一度くらいは抱いたことのある疑問なのではないだろうか。
ゲームを開始した当初はごくごく普通の一般人として、最弱クラスのモンスターすらどうにかこうにか倒せるくらいの強さしか持っていなかった「勇者」が、最終的にはその何倍、なんだったら数十倍、数百倍の能力を獲得し、世界全体を滅ぼしかけていた存在すらも倒してしまう存在になり、ついに「魔王」を倒した後に訪れる皆が待ち望んだ平和な「その後」の世界。
果たして「勇者」は、そこで平穏な生活を送れるようになるのか。かつての平凡な日常に戻れるのか。これはこれらのゲームをプレイしていれば自然と沸いてくる疑問だろう。
RPGの、特にダンジョン探索中の食事事情を丁寧かつ魅力的に描写することで人気を博した『ダンジョン飯』の作者、九井諒子による初期の短編集『竜の学校は山の上』に収録されている「帰郷」「魔王城問題」といった短編作品はそんな当時のRPGユーザー達がなんとなく抱えていた疑問点を具現化したかのような作品になっている。興味がある方はご一読をお薦めしたい。
世界を滅ぼすだけの力を持った「魔王」を倒し、世界を救った「勇者」とは、「魔王」に匹敵するほどに危険な存在でもあるのだ。そんな危うい「その後」を生きる人物こそがアバンなのである。
『ダイの大冒険』という漫画、そしてアバンというキャラクターの画期性は、そんな危うい「勇者のその後」、「勇者のセカンドキャリア」を極めて地に足がついた説得力のある形で提示している点にある。
アバンが「魔王」を倒した後に歩んだ道、それは次世代の「勇者」を育成するための「家庭教師」だったのだ。次の時代を担う有望な弟子を探して育成するという名目で諸国を旅して回れば、不必要に目立つ恐れもないし、自分の正体だって隠しやすい。
そして何より新たなる危機に対して備えることが出来る。非常に理にかなった見事な「セカンドキャリア」ではないだろうか。
その「セカンドキャリア」を、義務感や使命感も当然あったのだろうが、基本的には楽しそうに取り組んでいるアバンのパーソナリティも魅力的だ。
私は、そんな過酷な使命を引き受けてなお、ユーモアを欠かさないアバンというパーソナリティを考える上で最も重要なポイントは、広い意味での「オタク性」にあると考えている。
興味を持った分野を広く深く探求し、彼にしか使えないような特殊な魔法を駆使したかと思えばあらゆる武術に通じ、独自の必殺技を編み出し、さらには魔弾銃のような発明までしてしまう(さらに料理すら出来る)。
さまざまな分野に精通した上で自分なりのオリジナリティを発揮してしまうクリエイティブ精神の塊とでもいうべき、「オタク的」なキャラクター。それが『ダイの大冒険』におけるひとり目の「勇者」、アバンなのである。
そもそも『ドラゴンクエスト』シリーズにおける「勇者」という職業は、武器の扱いにも魔法にも、それも攻撃魔法と回復魔法の両方に長けたあらゆる職業のいいとこ取りをした万能職であるため、具体的にどのような存在なのかということはよくよく考えてみるといまひとつわかりにくい抽象性の高いキャラクターである。
その抽象性の高さは、ゲームであれば我々プレイヤーが、想像で補完すれば良いためむしろ好都合であった。しかし漫画においては一歩間違えば、若干嫌味ですらある優等生的なキャラクターか、特徴のない平べったいキャラクター造形になりかねない。
キャラクターに魅力がないということ、それは週刊少年ジャンプ誌上で生き残る上では致命的な欠点になりかねない。だからこそもうひとりの勇者ダイが、序盤においては魔法をほぼ使えないキャラクターとすることで、勇者というよりはほぼ「戦士」としての側面が強い、凹凸のあるキャラクターとしているのはキャラクターの特徴を明確化する上では必要な措置だったのだろう。
修行過程の未熟な「勇者」であるダイならば、多少の欠点があったとしもそれは個性にもなるし、今後の伸びしろにだってなる。しかし、アバンはすでに「魔王」を倒すという偉業を達成した、登場時点で完成された「勇者」なのである。「魔法が全く使えない」なんてことは許されない。
『ダイの大冒険』という物語においてアバンが、家庭教師としてダイの前に姿を現わし、ハドラーの急襲を迎え撃つ際にやむを得ず放ったメガンテによって退場するまで、登場話数はたったの7話である。後に回想シーンなどで頻繁に登場してくるとはいえ、序盤の数話にしか登場していないにも関わらず、彼が読者に残した印象は極めて強い。
なぜこの短い期間の間にアバンというキャラクターが、読者に鮮烈な印象を残せたのか。それは、「勇者」という抽象性の高いキャラクターに、一種の「オタク性」を加味した上で、勇者像にひとつの正解を提示し、そしてそんな「勇者」が歩む「セカンドキャリア」を極めて具体的かつ魅力的な形で提示したからだ。
かくして偉大なる勇者アバンは惜しまれつつも物語から(一旦は)退場する。しかし、この時、アバンはひとつ大きなミスを犯している。この時、彼の犠牲によって、彼自身ですら意図せぬ形でひとつの「呪い」が発生してしまっているのである。
アバンの呪い──「利他性」の果ての自己犠牲、そしてその意図せぬ継承
アバンを語る上で重要な要素である「勇者のセカンドキャリア」や「オタク性」といった特徴以外にも、彼にはもうひとつ大きな特徴が存在する。
それは、自身の能力を徹底して他人の為に使おうとするという「利他性」である。そもそも「勇者」の家庭教師という「セカンドキャリア」を通して自身の技や知恵を次世代に継承していくという行為自体が、「利他性」の発露とも言えるだろう。そしてそれは作中においても繰り返し念を押すかのように、アバン自身の言葉として語られていることでもある。
ポップ
元勇者だかなんだか知らないけど
なんでそんなムチャをするんですか!?
勝てない相手だって自分で言ったじゃないですか……!?アバン
勝てない相手だからこそ……
命をかける必要があるのですそれにねポップ……
やっぱり修行で得た力というのは他人のために
使うものだと私は思います
その「オタク的」な資質を徹底して「利他的」に使うことで、英雄の象徴とも言えるようなキャラクターとなったのが『ダイの大冒険』における勇者アバンなのだとすれば、同じくその「オタク的」な資質を徹底して「利己的」に使うことで、非常に魅力的且つ印象的な悪役として作中に君臨するのが『機動警察パトレイバー』におけるシャフトエンタープライズ企画7課の内海課長なのではないかと私は考えていたりする。
このような「オタク性」を抱える対照的なキャラクターが期せずしてほぼ同時期の80年代後半から90年代初頭にかけて登場したことは非常に興味深いことなのだが、この件について触れると長くなるのでまた別の機会に改めよう。
ここで私が問題にしたいのは、一個人としてはあらゆる面で模範的というかもはや聖人の域に達しつつある英雄、アバンのその徹底した「利他性」の行く末についてである。
彼はかつての宿敵、魔王ハドラーの急襲にあい、一騎打ちの末に劣勢に陥り、正攻法では勝てないことを悟ると、迷うことなく自爆技であるメガンテを使用し、戦いを相打ちに持ち込もうとする。
自身の命を失ってすら残された弟子達を守るために「利他的」な振る舞いをしたアバンは、間違いなく本物の「勇者」と呼ぶべき存在だろう。
しかし、それを「利他性」の大事さを伝えてきた弟子たちの目の前で、「利他性」の究極の発露としての自己犠牲を師匠の最後の姿として弟子たちに見せてしまった時、それによって命を助けられた弟子たちはどうなるか。師の教えを忠実に守る弟子であればあるほど、彼の歩んだ自己犠牲と同じ道を辿ることになるだろう。
この「利他性」の果ての自己犠牲とその意図せぬ継承。これがアバンが残してしまった「アバンの呪い」の正体である。
自身の力を他人のために使うこと、それ自体はなんら責められるようなことはない立派な行為だ。そして、目の前の大切な仲間を危機から救うために自分の身を挺する行為を咎められる人などいるだろうか。
だが、その自己犠牲精神をなんの疑問もなく受け継いでしまう集団が居たとすればどうだろう。ひとりの英雄の自己犠牲、それ自体は崇高な行為だとしても、その英雄と同じ道を歩まない人間を責めたてるような風潮が生まれたとすればどうか。一個人としては英雄的なアバンの行為は、極めて危ういものを弟子たちに継承させてしまったのである。
ここまで述べればすでに『ダイの大冒険』を読んでいる人なら気づいただろうか。この究極の自己犠牲精神の現れである「アバンの呪い」に最も強く呪縛される人物、それはポップだ。
ポップが、竜騎将バラン戦において、その圧倒的な力を前に万策尽き、それでも人間側に残された唯一の希望であるダイを守るためにあらゆる策を巡らせた末に見出す立ったひとつの活路、それはかつてアバンが見せてくれた最後の姿だったのである。
そして、ポップはアバンの最後の足跡をそのままトレースするかのように竜魔人と化したバランに対してメガンテを使い、その命を落とす。
この自己犠牲の連鎖を「呪い」と呼ばずになんと呼ぼう。
この後の展開でなんだかんだでポップはその命を取り戻すのだが、この時点において、アバンを至高の師と仰ぎ、死してなお心の支えとし続ける、アバンの使徒達は戦いの最後の手段としてメガンテすら辞さない悲壮な戦闘集団と化してしまっている。
その後、さまざまな戦いを経た末に、超魔生物と化したハドラーとダイとの熾烈な一騎打ち、そしてその後のキルバーンの罠に落ちたふたりを助ける形で介入したポップとハドラーが期せずして心を交わす感動的なシーンの果てに、読者含めて誰もが死んだと思っていたはずの勇者アバンはまさかの復活を果たす。
この復活からのハドラーの最後を看取るシーンは文句なく感動的なシーンである。そのことに異論はない。しかし、同時にいくらなんでもご都合主義過ぎないかと思ったのもまた事実だ。
一応なぜアバンがメガンテで死ななかったのか、その理由こそ説明されるものの、いわゆるひとつの後付けと言われても仕方のない強引なものだったように思う。
それでもなぜ多少のゴリ押しすら辞さず、アバンを復活させる必要があったのか。競争の激しいジャンプで生き残るための強力なテコ入れ、それもあるだろう。
しかし、私の考えるもっとも大きな理由、それは自身の死に際で犯した最大のミス「アバンの呪い」を自身の力で解呪するためである。それ自体は尊い行為であったとしても、それを継承させてしまった時点で恐ろしく危ういものに変貌する自己犠牲を伴う「利他性」の呪いを解くため、アバンにはどうしても復活してもらう必要があったのだ。
それにしてもハドラーにしてもキルバーンにしても、アバンにしても、なぜここまで敵も見方もポップに固執するのか。
それは彼こそが、一度は「アバンの呪い」によって命を落としながら、奇跡的に復活し、その後さまざまな苦難に直面しながら成長し、ポップ自身でも意図せぬ形で「アバンの呪い」のさらに先へと進むことに成功した、本作における最重要人物になりつつあったからなのである。
「利他」と「利己」の相克
ポップというキャラクターが、連載初期においてジャンプの編集者から嫌われ、早い段階で物語から(おそらくは死ぬことで)退場させられそうになっていたというのは有名な話だ。
『ダイの大冒険』の物語を全て知っている今となっては、とんでもない提案としか言いようがないが、連載当時の、特に連載初期のポップであればそういわれるのも仕方がないようにも思う。
それは、ポップというキャラクターは、アバンの弟子とは思えないほどに「利己的」な人物だからである。それも徹頭徹尾「利己的」な筋金入りの悪党というわけでもなく、連載初期の、特にクロコダイン戦前半くらいのポップはそんなどっちつかずの、ただただ卑小な人物として描かれている。このようなキャラクターが少年漫画で人気を獲得するのはなかなか難しいだろう。
一方、アバンの使徒達が一部を除いて誰もが「利他的」なキャラクターなのだとすれば、対照的に魔王軍の面々は誰もが「利己的」なキャラクターばかりである。
妖魔司教ザボエラや氷炎将軍フレイザードのような自身の手柄にばかり固執するキャラクターは当然として、魔王軍の中では人格者の方であろう獣王クロコダインですら、自身に与えられた任務にやりがいがないとみるや、即座に仕事を部下に任せて洞窟で休息を取り続ける始末だ。
それを率いる魔軍司令時代のハドラー自身、己も含めて一応同じチームを作っているとは思えないほど自己中心的な面々で構成されていることを重々承知しており、後にそれを反省を込めて振り返っていたりもする。
……思えば
魔王軍六大団長は最強のメンバーだった
だが ダイたちに勝つ事はできなかった……指揮官であるオレの心に 野望と保身以外の感情がなかったからだ……!
つまり『ダイの大冒険』とは「利他的」に振る舞うアバンの使徒サイドと、「利己的」に振る舞う魔王軍サイドのそれぞれの生き方を巡る戦いなのである。
そこで重要になってくるのが、アバンの使徒でありながら、我が身可愛さで仲間をおいて敵前逃亡すらしてしまう「利己性」を捨てられないポップというキャラクターだ。
ポップは、クロコダイン戦後半や超魔生物になる直前のハドラー戦、そしてなによりメガンテを使用し一度は命を落とすことになるバラン戦において、彼は下手な攻撃以上にその場に居るキャラクター達の心を揺さぶる言葉を放つ。
そのポップの言葉に、なぜクロコダインやハドラーなど魔王軍の強者が心揺さぶられるのかと言えば、ポップが魔王軍の面々が抱える「利己性」を同様に抱える人間だからだ。
ポップ以上に「利他性」と「利己性」の間で揺れ動くアバンの使徒はいない。だからこそ、我が身可愛さゆえに、自分の本分を見失い過剰なまでに「利己的」に振る舞うクロコダインやハドラーは、なけなしの勇気をふり絞って放たれるポップの言葉に激しく心を揺さぶられるのだ。
ちなみにザボエラやフレイザードのようなキャラクターにはポップの言葉が一切届かない。なぜなら、彼らがあまりにも揺るぎなく「利己的」だからである。
これはこれで一本筋が通っている生き方をしているブレないキャラとも言えるだろう。特に自分の実の息子にすら徹底して「利己的」に振る舞うザボエラはここまでいけば逆に立派ですらある。
そんな「利他性」と「利己性」の狭間で翻弄され、一度は完全に命を落としてそこから復活するという荒波を超えてきたポップに、さらなる試練が襲い掛かる。アバンの使徒4人にレオナを加えた5人が強力して放つ大魔法、ミナカトールを放つ上で必要な輝星石に灯る光をポップだけが灯せなくなってしまうのである。
「他のキャラクターが特に苦労せずに灯せているのに、なんでポップだけこんな苦境に陥れますかね」と正直思うが、改めて考えればこの試練は非常に重要な試練である。
なぜポップにこの試練が必要なのか。それは彼がアバンの使徒としては珍しい強めの「利己性」を持っている人物だからだ。ヒュンケルだって魔王軍時代は「利己性」に囚われていたが、それは魔王軍を離脱した時点できっぱり捨てたと言ってしまっていいだろう。
この試練を乗り超えるきっかけはザボエラ(またコイツ……)がポップを仕留めるために放った強力な毒矢の直撃をポップをかばって受けた占い師のメルルの献身によって起きる。
かつてポップは自身の師、アバンと同じ道を辿るかのようにして放ったメガンテによってその命を落とした。しかし、彼は彼だけを庇う形で、誰かが命を失うことを受け入れることが出来ない。自分自身にそのような「利他性」を発揮してもらうだけの価値を認められないからだ。
しかし、その受け入れがたい現実を前にし、死の際にあるメルルに懇願される形で、自分の秘めた感情を吐露し、それが引き金となって遂にポップの輝星石はその光を灯す。
自身の正直な感情を告白することによって「勇気」の光が灯る、これをここまでの私なりの考えで解釈するならば、「利他性」に満ちたアバンの使徒達の中で例外的に「利己的」なキャラクターでもあったポップだが、同時に誰よりも「利他的」に行動し、その果てにメガンテを使用する。彼はあまりにも純粋にアバンと同じ道を辿り過ぎているのである。
だからこそ、奇跡的に命を取り戻した彼に必要なのは、彼が持っていた「利己性」を改めて問い直し、世界の危機を前に、自分の想いすらまともにいえないでいた事実を素直に認めることで、アバンとその弟子たちの誰もが辿り着けなかった誰よりも「利他的」でありながら、同時に「利己的」でもあるという一種の「悟りの境地」に立つことなのだ。
なんと険しい道かと思うが、それは誰よりも卑小でありながら、誰よりも勇気のあるポップにしか立てない境地でもある。
そしてポップは遂に「悟る」。『ドラゴンクエスト』において「悟る」とはどのような意味を持つか。
そう、「賢者」になるのだ。
かくして「賢者」となったポップは使用可能になった強力無比な回復魔法(ザオリク級と劇中では言われている)によって、瀕死のメルルを回復させ、かつては自分自身が繋いだ「アバンの呪い」の発現としての自己犠牲の連鎖を、今度は自身の力によって断ち切ることに成功する。
この時のポップに灯る光は「勇気」の光だ。つまりこの時、自身では「賢者」などではなく「大魔導士」と呼称してはいるが、彼は『ダイの大冒険』における3人目の「勇者」になったのである。