皆さんは「興味はあるし気になっていたけど、プレイするには至らなかったゲーム」ってないだろうか?
私にはそんなタイトルがそこそこある。これはゲームには限らない話で、映画やマンガ、アニメなどまで含めてしまえば、気にはなっていたけど実際に観たり読んだりせずにスルーしてしまった作品はそこそこどころか無数にあると言っていい。
サブスクリプションサービスに加入して良かったなと思うこととして、この手の「興味はあったけど結局スルーしてしまった各種コンテンツ」に、サクッとアクセスすることが出来るということがある。なんせ一旦月額料金さえ払ってしまえば、ラインナップされている作品は見放題、遊び放題なのだから、貪欲にコンテンツを摂取する身にとってはこれほど有難いサービスもない。
例えば私がDisney+に加入したきっかけは『マンダロリアン』が観たかったからだ。その後もマーベルのドラマシリーズが定期的に配信されるので加入を継続していたのだが、ふと興味はあったものの劇場では観ていなかった映画、『フリー・ガイ』をDisney+を介して観ることが出来たのはとても良かった。
そこまで期待せずになんとなく観ていたのだが最後は画面に釘付けになって観てしまった。ゲームを題材にした映画は昨今は色々あるし、いくつか良作もあるがそれらの中でも出色の出来である。唯一の問題はやっぱ劇場で観ておけば良かったと後悔したことくらいだろうか。
サブスクリプションサービスに加入するにはそれなりに強い切っ掛けとなるキラータイトル的な一作が必要だと思うのだが、一端入ってしまえばちょっと気になっていたけどスルーしていた作品にどんどん触れることができ、そこで新しい出会いが生まれたりするのはこれらのサービスで得られる最大の恩恵と言えるだろう。
そんなこんなで今回、「『勇者のくせになまいきだ:3D』についての原稿を書きませんか」という提案をもらった時は、前回に続いて丁度いいタイミングで良い提案が来たなと正直思った。私にとってこのゲームは「興味はあったけどなんとなくやってなかったゲーム」の筆頭に位置するタイトルだったからだ。
前回に続き、時は来たということだろう。ちなみに『Demon`s Souls』はまだクリアできていないが、150時間かけてようやく『Elden Ring』はクリアした。
というわけで今回紹介したいのは7月にPS Plusのクラシックスカタログにも追加されたタイトル『勇者のくせになまいきだ:3D』(以下、『ゆうなま』)である。
文/hamatsu
※この記事は、ソニー・インタラクティブエンタテインメントとのタイアップ企画です。
「権力」の疑似体験
「ダンジョン・マネージメント」とも呼称される『ゆうなま』をプレイして、共通するプレイ感覚を得られるゲームとして、私が想起したのは『シムシティ』である。
ゲームというメディアの面白さの一つに、疑似的にではあるもののある種の「権力者」の立場を体験できるという点がある。そして、その「権力者」体験が必ずしも全能感に満ちた圧倒的な体験なのではなく、さまざまな要求や制約の板挟みに悩まされ、心が摩耗するかのような体験である……というあたりにゲームというメディアの妙味がある。
例えば、自分が市長を務める町に娯楽施設が欲しいという要望が高まったので、その声に応えるべくなにか大きい施設を建設しようと考える。しかし資金が足りないので、お金を得ようと税率を上げたらそれはそれで不満が発生し、町から人が去っていく……というなんとも言えない状況は『シムシティ』をプレイした人なら一度は経験したことがあるのではないかと思う。
繰り返しになるが『シムシティ』で発揮する「権力」とはあくまでも疑似的なものであり、「『シムシティ』で得た知識がそのまま市長になる上で役に立つ」なんてことを安易に言うつもりはない。
だが、市民の声と行政のバランスに絶えず気を配り、不満の出ないギリギリまで税率を上げて庶民から税金を絞り取りたいっていう身もふたもない「権力者」の本音を自身の体験として理解出来てしまうという点は、映画や文学でもなかなか表現することが難しい、ゲームというメディアの持っている大きな強みなのではないかと私は考えている。
『ゆうなま』もまた『シムシティ』とはまた違った形で「権力」を振るうことを体験として表現しているゲームだ。
本作がユニークなのは、単に魔物の育成をするのではなく、魔物の習性を利用することで、打倒勇者に効果的な「生態系の構築」をゲームの主眼としている点である。
そこで一番に求められるのは効率性とバランスだ。さらにモンスター同士の捕食関係、食物連鎖も発生するので、自分の手で世に放ったモンスターを、ある程度間引く必要も生まれる。
最終的な目標を達成するためなのだからしょうがないのだが、この全体最適のためには必要な行いである「間引き」という行為を行う時のちょっとした罪悪感と背徳感がこの『ゆうなま』というゲームにコクというかある種の奥行きを与えている。
あくまでも増えすぎた魔物である虫やコケのモンスターを間引いているだけなのだから一々心が痛むわけではないのだが、なんらかの活動を行っていた命の選別を自らの判断で行っているというのもまた揺るぎない事実だ。『シムシティ』と同様に『ゆうなま』もまた間違いなく超越的な「権力」を我々に体験させてくれるゲームなのだ。
そうしてそんなダンジョン構築過程においていくらかの犠牲を払いながらも理想的な生態系の構築へ向け自身の力を存分に振るっている最中に現われるのが、本作の打倒すべき目標である「勇者」なのである。
「受け身」で向き合う「勇者」
『ゆうなま』は、そのタイトルからもわかるように「勇者と魔王」の世界におけるプレイヤーが勇者側視点で、「魔王が敵対する側である」という定型を反転させたゲームである。
だが、2022年現在において、「勇者と魔王」の世界観を反転させることそれ自体に新鮮さがあるとは言い難い、「なろう小説」をはじめとする様々な角度から「勇者と魔王」を描いた作品が大量にリリースされた現代においてはもはややりつくされたネタのひとつでしかないからだ。まあ『ゆうなま』の一作目は2008年リリースなのだから10年以上前のタイトルにそんなことをいうのは、いちゃもんでしかないのだけれども。
しかし、表面的な部分が古くなったとしても『ゆうなま』というゲーム自体が古びてしまったわけではない。
『ゆうなま』における「勇者」とはこちらが苦心して作り上げたダンジョンにズカズカと上がりこみ、手塩にかけて構築した生態系を容赦なく破壊し、挙句は魔王を拉致して連れ去ってしまう傍若無人な存在であり、一種の「災厄」と呼んでしまっていいようなキャラクターである。
私がこのゲームを遊んでいて面白いなと思ったのは、あくまでもにっくき「勇者」を倒すためにダンジョンを掘り進めて生態系の構築に勤しんでいるにも関わらず、良い感じの生態系が構築出来てくると逆に「勇者に踏み込んで荒らして欲しくない」という感情が沸きだすところである。
せっかく調和が取れ始めた美しい世界を、なぜかき乱そうとするのか……。本来の目的そっちのけで生態系構築にハマってしまうのだ。勇者の侵入によってまた新しい生態系の可能性が拓けたりもするので、その悩みは一層深まる。
ゲームをクリアする上での「目的」であるにも関わらずその「目的」自身が率先してこちら側に攻め込んでくるため、プレイヤーは常に受け身の姿勢で「目的」に接することになる。
せっかく良い感じの生態系が築けつつあるのになんでこのタイミングで襲ってきますかね、みたいな。空気読めないウザったい存在として「勇者」が位置づけられている本作のタイトルが「勇者のくせになまいきだ」というのは、実にゲームの本質を見事に表しているのではないかと思う。
このウザったい感じは、仕事をしている時に良い感じに集中し始めた時にかかってくる電話とかメールの通知に気付き、それはそれで仕事なんだから取るし見るけど、「自分の良い感じの仕事の流れ」が完全に寸断されてしまった時のあの感触に一番近い。
ダンジョン構築においては絶対の「権力者」であるプレイヤーだが、対勇者においてはその「権力」は通じないのだ。
めちゃくちゃ難しいんですが……
そんなこんなで私は、ここまで述べてきたような能書きを垂れつつも楽しく『ゆうなま』のプレイしていたのだが、同時にこうも思った。めちゃくちゃ難しくないですか、このゲームは?
まあその一番の理由はトレーニングをすっ飛ばしていきなり本番に挑む自分にある。おとなしくトレーニングモードで基本的な知識を身に着け、ネット上に豊富に存在する攻略動画などを見るなどして今作の新要素である「魔水」の効果的な使い方などを覚えて実践してみると結構先に進めるようにもなったのだが、それでもまだ負ける。せっかく築いた生態系をズタズタにされる。
なぜこんなにも勇者に負け続けるのかと言えば、結局自分でプレイしているとついつい欲を出していろんなことをやりたくなってしまうからでもある。「こうすれば勝てる」みたいな定石はある程度慣れてくれば見えてくるのだが、それをただ繰り返すだけでは、単なる作業になってしまう。
より手を拡げてモンスターを大繁殖させてみたり、逆に超ミニマルな必要最低限の生態系のみで勝負してみたり。まだまだ始めたばかりということもあるが、そんな1プレイごとの思考錯誤の幅を許容してくれる器の大きさがあるので、あの手この手と思考錯誤することそれ自体が好きな人には最高のゲームなのではないかと思う。
実際に自分がやることはツルハシを振るって地面を掘り進めたりモンスターをツルハシの一撃で適宜間引いたりという極めてシンプルな内容であるにも関わらず、結果として出力されるダンジョン、そしてそこで生まれる生態系はプレイするたびに形を変えるので、ついつい繰り返しプレイしてしまう。
この同じことを繰り返しているようで毎回異なる道筋、異なるダンジョンが生成されていく遊び味は、ローグライク/ライトにも近しいものがあるのではないかと思う。10年前よりも2022年現在のほうが、このプレイ感覚、遊び味に親しみを感じる人はむしろ多いのではないだろうか。
ドット絵の古びなさ
2012年にリリースされた、今からほぼ10年前のタイトルであるにも関わらず、『ゆうなま』は遊んでいて古さを感じることはあまりなかった。2009年にリリースされた『Demon’s Souls』のPS3版を遊んだ時はさすがにグラフィックや各種UI系などに古さを感じさせられたが、『ゆうなま』は驚くほどにそういう部分が少なかった。
唯一セーブ&ロードをする際に、普段は〇ボタンで決定する操作ルールが×ボタンに変わるのでやたら混乱させられたが、それ以外は特に問題なくプレイすることが出来た。個人的には「×ボタンを決定とする」という統一ルールは問題なく受け入れつつあるのだけれども、旧作を遊ぶ時にルールの混乱が起きるのはなかなかにツラい。
おそらく古さを感じない最大の理由は、ドット絵というアートスタイルにあるのではないかと思う。昨今ではあえて8bit調のドット絵を選択するインディー系のタイトルは決して珍しいものではなくなっている。
昨今のゲームシーンは大量のリソースを投入して作られるハイエンドな3Dグラフィックだけではなく、多種多様なアートスタイルをもった様々なゲームがリリースされている。そのようなシーンにおいて、かつてはちょっと地味にも映った『ゆうなま』はむしろ今っぽいゲームのようにも見えてくる。その独特としか言いようのないゲーム内容も含めて、今改めて注目されても良いゲームなのではないかと思う。
もし私と同じように気になってはいたのだけれどもなんとなくスルーしていた人がいるのであれば、この機会に触れてみては如何だろうか。