※この文章は『タコピーの原罪』、『キスしたい男』、『ヒーローコンプレックス』などタイザン5作品全般のネタバレを含みます。
2021年12月10日に、少年ジャンプ+にて第一話が発表されるや否や大反響を巻き起こし、2022年3月25日に公開された最終回に至るまで、毎週最新話が公開されるたびにTwitterのトレンドワード入りするなど、今年上半期で最も話題を呼んだ漫画作品、それが『タコピーの原罪』である。
先日発表された「このマンガがすごい! 2023」のオトコ編でも3位にランクインし、ドワンゴ主催の「ネット流行語100 2022」でも2位にランクするなど2022年を代表する作品であることは間違いないだろう。
なぜまだまだキャリアの浅い新人漫画家の初連載作品にすぎない『タコピーの原罪』がここまで大きな反響を呼んだのだろうか。掲載されている少年ジャンプ+自体の強さやポップでキャッチーな絵柄など要因は色々考えられるが、その最大の要因は最新話が公開されるたびに読者に衝撃を与え続けたそのショッキングなストーリー展開にある。
それは強い引きで視聴者の興味を持続させることに長けた海外ドラマのようでもあるし、SNSで話題を呼んでなんぼの現代に最も最適化した在り方でもある。『タコピーの原罪』とはそんな現代の情報環境に最も適応することで生まれた非常に今日的なヒット作である。と、それっぽくまとめてしまうことも出来そうだが、私はこの漫画はそれだけで終わってしまう作品ではないと考えている。
というわけで2022年ももうすぐ終わってしまうことだし、今年最も話題を呼んだ漫画である『タコピーの原罪』とはどのような作品であるのか、そしてその作者であるタイザン5とはどのような漫画家であるのか、振り返って考えてみよう。
文/hamatsu
タイザン5作品にある共通点
この漫画の作者であるタイザン5は、『タコピーの原罪』の連載を開始する前に、『ヒーローコンプレックス』と『キスしたい男』という2本の短編を少年ジャンプ+にて発表している。どちらも発表時には反響を呼んだ短編であり、これでこの作者を知ったという人も多いのではないだろうか。(他にもジャンプルーキーで一作、となりのヤングジャンプで一作、タイザン5による短編を読むことが出来る。)
かつては誰よりも早く走れて学校の体育祭では大活躍し、周囲からもチヤホヤされていた主人公がやがて厳しい現実にぶつかり冴えない日常に埋もれていく一方で、自分をモデルにしたキャラクターが主役の漫画を描きそれがアニメ化されるほどに大ヒットしてしまい、一躍人気作家となった弟に対して複雑な感情を抱くようになってしまったことで起きる顛末を描いた『ヒーローコンプレックス』。
亡くなった母親の言葉の導きによってテレビの中に映るアンジェリーナ・ジョリーに一目ぼれし、彼女とどうにか出会い、仲良くなってキスしてもらうために高校に進学すらせずに渡米資金を貯めることにまい進する主人公と、そんな彼を危うさを感じてコンタクトをとろうとするかつての同級生の女子とのやり取りを通じて、主人公の恋(?)の行方を描く『キスしたい男』。
どちらの作品も一読して感じるのは、その漫画表現の巧みさである。伸びやかな描線、鮮やかなコマ割り、ここぞとという場面で決めてくる見開きの見事さ、タイザン5という人は「きっと漫画が、漫画という表現形式が好きに違いない」と確信させられる創意工夫とチャームがどの作品にも満ちている。
この2つの短編を読むだけでもこの作者の作品を継続的に追いかけたいと思ってしまう確かな力を感じさせる漫画家ではないかと思う。
そんな高い漫画力とは別に、私はタイザン5作品にはある共通点が存在すると考えている。
それは、いずれの作品においてもなんらかの創作物、「フィクション」が存在し、物語の中で重要な役割を担っているという点である。
そして、タイザン5作品における「フィクション」とは、主人公を楽しませる愉快なものなどでは決してなく、むしろ主人公をより過酷な状況へと追い詰める危険なものなのである。
フィクションは必ずしも人を救ってくれない、という酷薄な現実をフィクションで描く
『ヒーローコンプレックス』における主人公の弟は連載中の漫画が大ヒットしている売れっ子であり、主人公である兄をモデルとして描かれるその漫画は、陸上選手を引退し、冴えない現実を生きる現在の主人公のコンプレックスを容赦なく抉ってくる。
『キスしたい男』の主人公はTVに映るアンジェリーナ・ジョリーに傾倒し、お近づきになってキスをしたいと心から願い、アメリカに行くための資金を貯めようとするのだが、それはあくまでも「フィクションの中の人物であるアンジェリーナ・ジョリーに依存し、自身の向き合いたくない現実から目を逸らすための逃避先でしかない」と別の登場人物に看破されてしまう。
多くの人を魅了する「フィクション」は必ずしも人を本質的には救ってくれないという酷薄な現実を、魅力的な漫画という名の「フィクション」として描くねじれた作風、それが私が考えるタイザン5という漫画家の作家性である。
『ヒーローコンプレックス』も『キスしたい男』も、どちらも作中に登場する「フィクション」は主人公を救ってくれない。だが、どちらの作品も主人公に寄り添い、真っ直ぐな眼差しで気持ちをぶつけてくれる身近な人物によって彼らは自身を見つめなおし、自身が陥る窮地から脱することに成功する。
結局のところは「こちらを理解し、親身になってくれる身近な人物に優るものはない」という、身も蓋もない現実を描いている作風であるとも言えるわけだが、これはこれで否定しがたい説得力があるのもまた事実だろう。さらに、この作者にはそんな“当たり前の事実を、当たり前に感じさせない”漫画家としての非凡な表現力が備わっている。
だが一方でこのようにも思う。たしかに身近な人物の心を込めた行動や言葉で主人公が救われるこれらの物語は感動的だが、そんな風に都合よく主人公に接してくれる人物が身近に居なかったとしたらどうなるのか。
そしてなにより、本当に「フィクション」は無力で人を救う力などないのだろうか。「フィクション」を描き続ける作家として、それはあまりにも自虐的な作風ではないか。
そんなようなことをこれら二作品を読みながら考えていたら、少年ジャンプ+にて始まったのが、タイザン5初の連載作品『タコピーの原罪』である。
ここまで私が述べてきたようなことをタイザン5自身が考えているのかどうかはわからない。しかし、より踏み込んだ作品になっていることは第一話を読んだ時点でわかる。なぜなら、『タコピーの原罪』には読み切りの2作品で登場した主人公を真っ直ぐな眼差しで見つめ、寄り添ってくれる人物が存在しない作品だからだ(犬ならいる)。
身近に手を差し伸べて救ってくれる人物が居なければ、窮地に陥った人物はどうやって危機から脱すればいいのか。そして「フィクション」は本当に人を救うことはできないのか。私は『タコピーの原罪』をそのような人と「フィクション」の関係を巡る物語として読んだ。
「フィクションの象徴」としてのタコピー
キャラクターと「フィクション」の関係性という要素を軸にタイザン5という漫画家の作家性についてここまで述べてきたが、『タコピーの原罪』という作品には、作品内で重要な役回りを担う「フィクション」は登場しない。代わりに登場するのがハッピー星から来た異星人であるタコピーである。
この物語は、遠いハッピー星からやってきたタコピーが地球で出会った少女、しずかちゃんをハッピーにするために、ハッピー星から持ってきた様々なハッピー道具を駆使して奮闘する物語である。と、一応は説明できるのだが、私はこのタコピーというキャラクターを、タイザン5作品における「フィクションの象徴」として捉えている。
この作品を一応ジャンル分けするならば、「異星人と地球人の少年少女の交流を描くジュブナイルSF」というカテゴリが適当なのではないかと思うのだが、そのようなジャンルの作品として本作を受け止めようとすると、少なからず戸惑いを覚える人が多いのではないかと思う。
それはタコピーの故郷であるハッピー星やタコピーの存在自体がかなり極端な形で抽象化され、ファンタジックな描き方をされているからだ。タコピーは遠い星からやってきた「異星人」というよりも、「妖精」といった方が適当な描かれ方をされている。
なぜハッピー星の住人はわざわざ地球に訪れてそこにいる人をハッピーにしようとするのかであるとか、ハッピー星の生態系はどうなっているのか、タコピーとは別のハッピー星の住人は劇中に登場しないのか、といったことを詳細に考察し、深読みすることは本作においてはあまり重要ではない。
『ドラえもん』に着想を得る形で構想されたという『タコピーの原罪』という物語は、宇宙人と地球人の出会いを描くSF作品というよりも、「フィクションの象徴」たるタコピーが、あまりに過酷な現実を生きる少年少女と出会い、その現実を前にして己の、すなわち「フィクション」の無力さに七転八倒するファンタジーと現実が衝突事故を起こす物語、という表現が適当なのではないかと私は思う。
だからタコピーのもつハッピー道具は劇中において、ほとんど役に立たない。やっと役に立ったかと思えば想定していたのとは別の使い方だったり、一時しのぎの目くらまし程度でしかない。
使いようによってはかなり役に立ちそうな道具もあるのだが、状況をまともに把握出来ていないタコピーはまったく見当外れな形でしかハッピー道具を扱えない。これは、「あんなこといいな、できたらいいな」といった夢想、すなわち「フィクション」では劇中の現実に全く太刀打ちできないということを示すためだろう。
では次に、そんなタコピーと出会う少年少女と、彼ら彼女らが直面する事態について述べていこう。
既存のタイザン5キャラクターとしての東くん
本作を通じて、タコピーは3人の子供たちと出会う。
一人目が明らかに家庭環境に問題を抱え、学校でもいじめられているしずかちゃん。
二人目はしずかちゃんの母親の影響によって自身の家庭が崩壊したと考え、学校でしずかちゃんを執拗にいじめ苛烈な暴力すら振るう、まりなちゃん。
そして三人目がクラス委員を努め、クラスでのいじめに気付いてしずかちゃんにどうにか手を差し伸べられないかと思い悩む少年、東くん。
この物語は、タコピーが最初に出会うしずかちゃんと彼女を執拗にいじめてくるまりなちゃんの対立が軸になって展開される。物語が進行する上で実はタコピーはまりなちゃんともかつて出会っていたことなどが明らかになっていくのだが、まず着目したいのは3人目のキャラクター、東くんである。
本作においてこの三人目の東くんは、しずかちゃんやまりなちゃんとは少々立ち位置が異なる。
なぜなら東くんには、彼に寄り添い、親身になってくれる存在、兄の潤也が存在するからだ。その意味で東くんは読み切り時代の2作品に近い立ち位置のキャラクターといえるだろう。
もっとも、東くん自身はそんな頼れる兄のことを当初は疎ましく思っていたりもする。だが、タコピーの奮闘の甲斐あって劇中の事態がこじれにこじれ、絶望の淵にまで追い込まれてしまった東くんに救いの手を差し伸べてくれるのはやはりその兄なのである。
彼の兄が東くんにしてくれたことはただただ彼に親身に寄り添って話を聞こうとしてくれただけであって、事態が根本的に解決するわけではない。しかし、少なくとも東くんの心の在り方は大きく変化する。
彼の心、そしてその「目」には、兄の真っ直ぐな眼差しを通してかつては無かった確かな光が灯るからだ。タイザン5の漫画において、キャラクターの「目」に確かな光が宿る時、その光はそれを見つめる相手に伝播する。
自分の進むべき道、目指すべき光を失ったキャラクターの「目」にもう一度光を灯してくれるのは、情熱と誠意を持ってこちらを見つめてくれるキャラクターがその目に宿す「光」なのである。この言葉にしてしまえば陳腐なやり取りを漫画的としかいいようのない描き方で見事に描ききってしまうタイザン5という漫画家の表現力はやはり素晴らしい。
こうしてめでたく東くんは自身が思い悩み、絶望していた状況から少なくとも自分の心情の面においては抜けだすことが出来たわけだが、『タコピーの原罪』という物語は、当然ここでは終わらない。この物語は、東くんにとっての兄のような窮地から救ってくれる人物など周囲には存在しない2人の少女の物語でもあるからだ。
タコピーが直面するのは、そんな窮地から救ってくれる身近な人物など絶望的なまでに存在せず、それがゆえにこそ、一方がもう一方を執拗に傷つけようとすらする二人の少女が生きる、あまりに非情かつ過酷な現実である。
どうすれば二人をハッピーに、笑顔にすることが出来るのか。それは「フィクションの象徴」たる無力なタコピーにとってはあまりに解決困難な問題なのだ。
タコピーの居場所
ここで問題なのはタコピーという落書きみたいな見た目をしたキャラクターの「目」である。タイザン5の漫画における「目」の表現の重要性について述べたが、タコピーの「目」は余りに簡素な点に過ぎず、他者を揺さぶり、光を伝播させる「目」をタコピー自身は持っていない。
だから周囲のキャラクターをハッピーにしようとするタコピーの言葉は常に空疎に空回りしてしまう。東くんの兄や『ヒーローコンプレックス』の漫画家として成功している弟、『キスしたい男』の同級生だった女の子の言葉がそれぞれの主人公たちの心を揺さぶるのは、誰よりもその人を理解し寄り添う言葉だったからこそなのだが、とにかく「目の前の人間をハッピーにしよう」という目的ありきで問題の根本を直視しないタコピーの言葉は誰にも届かない。
私がタコピーというキャラクターを「フィクションの象徴」というやや飛躍した見方をすることで『タコピーの原罪』という物語を読み解こうとするのは、このキャラクターが、一方的に善意やメッセージを伝えようとするわりに、人の話を聞いてなかったり問題の根本を直視しなかったりという一方通行な形でしかコミュニケーションを取ろうとしない、とれないキャラクターだからである。
その在り方は一方的に何かを伝えてくるがこちらの気持ちを汲み取って臨機応変に変化してくれるわけではない漫画やアニメといった「フィクション」の在り様に似ている。
「フィクション」の無力さとは、一方的なメッセージや感情を伝える上では確かに便利だし有効だが、それぞれの人物にそれぞれの適切な処方箋を与えるという行為には根本的には向いていないということでもある。
それが出来るのはやはり身近に寄り添ってくれる他者であり、『キスしたい男』でも一瞬言及されるように、行政や医療といった専門の機関なのである。『タコピーの原罪』においても本来機能すべきはタコピーのハッピー道具なのではなく、学校や行政であり、彼ら彼女らを文字通り親身になって護るべき大人たちなのだ。
では「フィクション」は全くの無力であり、このまま無力感だけを噛みしめてこの物語は終末を迎えるのかと言えばそういうわけでもない。転機となるのは、東くんとタコピーの最後の会話である。
最後に東くんはタコピーに感謝を伝える。その時の彼の「目」には、かつて兄の言葉によって救われた時と同様の光が宿っている。タコピーの言葉や行動はまるで空回りしていたが、タコピーと過ごした時間は間違いなく楽しいものでもあったからだ。
本当に伝えたいメッセージは伝わっていなかったとしても、共に過ごした楽しい記憶は残る。だから東くんはタコピーに全身全霊を込めて「ありがとう」と、感謝の言葉を伝える。だがタコピーのあまりに簡素な「目」はその光を完全には受け止めることが出来ない。それでも東くんのタコピーへの感謝の、そして存在を肯定してくれる言葉によって、自分に出来ることを初めて見出すことになる。
それは自分がハッピーにしたいと願った人の傍に寄り添い共に時間を過ごすということである。確かに、タコピーがそれぞれの人物に対して何かをしてやれることはほとんどないかもしれない。でも傍に寄り添い、共に過ごした時間を共有することは出来る。それは場合によっては楽しい、かけがえのない思い出にだってなるのかもしれないのである。
ようやく自分のやり方、自分の居場所を見出したタコピーはしずかちゃんに寄り添い、二人は共に時を過ごすのだが、タコピーはそれでは完全には満足することが出来ない。タコピーの本来の目標は彼女をたくさん笑顔にし、ハッピーにすることだからだ。自身の無力さをこれでもかと痛感しながらそれでもタコピーは何かをしたいと願ってしまう。それは自身の存在を賭してでもやりたいことでもあるからだ。
そして物語はクライマックスへと向かう。
「フィクション」は人を救うのか
終盤、タコピー自身を犠牲にすることによって壊れていた筈の、時間を特定のタイミングに巻き戻すことが出来るハッピーカメラを、自身を犠牲にすることで最後にもう一度だけ起動させることで物語の時間は冒頭に戻る。
タコピーと過ごした記憶も朧げになり、それぞれのキャラクターの相変わらずの生活が始まる。
しずかちゃんはまりなちゃんにこれまでと変わらずいじめられ、暴力を振るわれ続け、東くんもそのことを気にかけはするものの、救いの手を差し伸べられるわけではない。
何事もなかったかのように、まりなちゃんによるしずかちゃんへの苛烈ないじめは継続する。けれども、ノートの片隅に落書きとして描かれ、最もプリミティブな形で「フィクション」そのものに転生したタコピーの姿が二人の記憶に辛うじて残ったタコピーの記憶の残滓を呼び覚ます。
「フィクションの象徴」たるタコピーは、自身でもこの物語を通じて痛感するように本当に無力だ。タコピーが彼女たちにしてやれることは本当に本当に少ない。でも、辛うじてお互いに残った記憶の媒介(メディア)になることで暴力を振るう手を止め、二人を対話の糸口に立たせることに成功する。
やはり「フィクション」は無力だ。窮地に陥った人が救われるために必要なのは、親身に寄り添い手を差し伸べてくれる身近な人の力である。でも、「フィクション」は、直接救うことは出来なくても誰よりも身近に寄り添うことは出来る。
それぞれに事情を抱えた異なる二人をつなぎ合わせて対話の糸口を作ることは、もしかしたら出来るかもしれない。「フィクションの象徴」たるタコピーは、『タコピーの原罪』という物語を通して最後の最後にそのようなわずかな「フィクション」の持つ可能性を提示する。
そして時を経て、親しい友人関係になったと思われるしずかちゃんとまりなちゃんの二人の笑顔で本作は幕を閉じる。
それはタコピーが最後まで二人に対して願ったことだ。その願いは、最後の最後で遂に叶う。
二人を笑顔にしたのは、タコピーの数あるハッピー道具のなかで最も大した機能をもたない「宇宙ウサギのボールペン」である。
使いようによっては相当なことも出来そうなタコピーの他の道具と違い、本当にどうでもいい機能しか持っていなかったこの道具は、朧げながらも二人の記憶に確かに刻まれ、そのどうでも良さ、役に立たなさ、他愛のなさによって呆れ半分の苦笑いとはいえ、たしかに二人を笑顔にする。
確かに「フィクション」は無力かもしれない。だが、人を笑顔にすることは出来るのだ。そんな風にして最後に一矢報いるような形で『タコピーの原罪』という「フィクション」は幕を閉じる。なんと見事なハッピーエンドだろう。
遂に週刊少年ジャンプ本誌に進出、次は「大罪」だ!
『タコピーの原罪』という作品は第一話の衝撃性や、立て続けに起きるショッキングな出来事などから、一種の残酷ショー的な形で注目を浴びた側面は間違いなくあると思う。そして、おそらくは作者が想定している以上の深読みや考察をされてしまった作品なのではないかとも思う。私のこの文章もその中のひとつかもしれない。
私は『タコピーの原罪』という作品が完璧な作品だとは思わない。サプライズを序盤から連発し過ぎたあまり、タイムリープを多用する終盤の展開はだいぶバタバタしているし、エピソードの最後にタイトルを見せる演出を多用してしまったために印象がボケてしまっているようにも思う。
しかし、タイザン5という人がただただ残酷な場面や、「フィクション」の無力さをこれでもかと露悪的に描くだけの作家だとも思わない。この作者はやはり漫画という「フィクション」が好きで、「フィクション」に何が出来るのかということを真摯に考え模索し、それを作品を通して表現しようとする誠実さを持った作家なのではないだろうか。私はそんなタイザン5という作家を信頼する。
現在、タイザン5は遂に週刊少年ジャンプ本誌にて、新連載『一ノ瀬家の大罪』を開始している。「一家六人全員が記憶を失ったところから始まる」という奇想天外な設定が目を引くが、物語の冒頭から、「ドラマの中みたいだと 他人事のように思った」というモノローグが挟まれ、記憶を失った家族が架空の思い出という「物語」を共有することで絆を再構築しようとする第一話の展開を見るに、やはりタイザン5作品の根底には「フィクションは人を救うのか?」テーマが存在しているのは間違いない。
今後もタイザン5の描く「フィクション」の行く末を見届けたい。
『一ノ瀬家の大罪』第1話
— タイザン5 (@taizan_5) November 15, 2022
試し読みを配信していただきました。https://t.co/uMaRFmjEib
週刊少年ジャンプで連載中です。
何卒よろしくお願いいたします…! pic.twitter.com/qS80LNpGGU