アニメなんだから、「アニメみたいなこと」してほしい
ここからさらに私の持論が強くなります。……ちゃんと宣言しましたからね!
私がアニメに対して常日頃から思っているのが……「アニメなんだから、アニメみたいなことしてほしい」ということです。要は、「アニメである以上、アニメでしかできない映像表現が盛り込まれていると嬉しい」という勝手な願望です。
もちろん、徹底的にリアルに描かれたアニメ作品も好きです。ただ、私の根本的な好みの問題として、どうしても「アニメでしかできない映像表現」をアニメに求めてしまいます。
たとえば……「キャラとキャラがワイプで会話して、そのワイプに挟まったキャラが苦しそうにしている」、「アホ毛のキャラが、自分のアホ毛で感情表現をしている」、「屋内で大変なことが起こった時に一度建物を映しているカットに移り、その建物がボヨヨヨ~~~ンって跳ねる」……みたいな。
大丈夫ですか!? これ伝わってますかね!?
そして私が一番好きなアニメが……『フリクリ』なのです。いや、冗談抜きで「一番好きなアニメ」を決めるとすれば、『フリクリ』です。え、「一応こういう体裁の記事なんだから一番好きなアニメはマリオって言った方がいいんじゃないの」って? いや、それとこれとは別問題。
これはマリオの記事なので『フリクリ』の詳細は割愛しますが、この作品の一番好きなところは「とにかくアニメでしかできないことを尋常じゃないレベルまで詰め込んでいる」ところです。なんか額からロボットが出てきたり……人をギターで殴ったり……とにかく「アニメみたいなこと」を尋常じゃないレベルで詰め込んだアニメです。
……で、このアニメの解説(?)が書いてある「フリクリックノイズ」っていう本があるんです。この本の中で語られたことの中で、やたらと印象に残ってる言葉があって…………
貞本:
アニメって、そもそもがウソなわけじゃないですか。すべてがウソなわけだから、その中でできるだけリアルな空気感だったり、時間と動きのタイミング、あとは感覚を追求したほうがいい。そのほうが「よい」と思われがちだった。(中略)
鶴巻:
……いや、それでも別にいいんだけど。ただ、僕自身は『うる星やつら』も『さすがの猿飛』も大好きだったわけで、リアルじゃなくても全然いいんじゃないか、と思ってた。嘘っぱちな荒唐無稽アクションと、リアルな空気は共存して行けると思ってたし、共存することによって、どちらかがマイナスになるってことはないんじゃないかな、って。『フリクリ』がフィクションだって、感じながら観てもらって構わない。リアルでしょ、と嘘をつく必要なんてないでしょう。
これです。まぁ、今でも鶴巻監督が同じ考えなのかはわかりませんが、とにかく私はここが異常に印象に残っています。「あぁ、こういう考えの人だからこういうアニメができたのか」と。すべてが虚構のアニメの中だから、リアルとウソは同居したっていい。この考え、結構好きです。
だから、私は「アニメなんだから、アニメみたいなことしてほしい」と考えています。
そして『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』を見て感じたこととして……そもそも「マリオって、アニメと相性が良い」のだと思います。だって、元からウソの中でしかできないようなことが大量に詰め込まれているゲームだから。
キノコを食べると身体がデカくなる。花を獲得すると手から炎が出る。土管に入るとワープする……もう大体ウソだらけなので、アニメにしてもそのウソが映える! 元からアニメみたいな演出が大量にあったゲームだから、「スーパーマリオ」は題材としてアニメ向きだったのだ!!
……と、私は映画館で勝手に大興奮してました。ただ、ここは見る人の感覚によって千差万別なところだと思います。マリオのウソをド直球にアニメ化したら、やっぱり変になるじゃないかと感じる人もいれば、私のようにマリオのウソがアニメ映えしていると感じる人もいると思います。
ただやっぱり、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は、「アニメだからこそ生み出せる映像の快楽」を1時間半に凝縮したアニメだと思うのです。とにかく、「アニメである意味」があり、アニメでしか堪能できない快楽がここにある。
そしてこれは「1時間半のアニメ映画」というより、ひたすらに“楽しさ”をぶつけられる1時間半のアトラクションなのだと思います。たった1時間半しか入場が許されないテーマパークであり、その限られた時間の中で、ひたすらの“映像の快楽”をぶつけてくる。そういう映画です。
「マリオ」というコンテンツがデカすぎて、観客大半が共犯者
「イースターエッグ」というものは、作者と観客が「共犯者」になるもの。または、作者がそのコンテンツに溢れんばかりの愛を捧げるもの。原典通りであれば、その作品への「祝福の卵」。そして、あるいはただのギャグ装置でもあります。
そして、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はもう尋常じゃない量のイースターエッグが仕込まれています。もう……多すぎてようわからん!
「スーパーマリオ」シリーズを全部遊んでいるわけではない私ですら「画面の情報量多い多い!!」と混乱してしまったので、もうマリオ知識を極めた人が鑑賞したら、脳のキャパオーバーで死んでしまうのではないでしょうか?
しかも、マリオとそこまで関係ない任天堂ネタまで仕込まれている。恐ろしい。
もう、私は劇場でヤラレチャッタ……。
ただ、この映画のすごいところは、「多くの人が元ネタを知っているイースターエッグ」が散りばめられているところです。もちろん、私が気付いていないだけで、超マニアックなネタも仕込まれていると思うのですが……あのイースターエッグの元ネタを知っていた時に感じる「うわっ、コイツやりやがった!(誉め言葉)」を、おそらく多くの人が体験できる映画なのです。
なぜなら、「マリオ」というコンテンツがあまりにデカすぎるから。「スーパーマリオ」というゲームが、コンテンツが、あまりに多くの人に親しまれているがゆえに……「あっ、このネタ知ってる!」という作者と観客の間で結ばれる共犯者の関係を、大勢の人間が結べるように作られているのです。この構造がすごい。マニアックなはずだけど、みんな知ってる。トゲゾーのシーン、バカで良いよね!
そしてそれだけ情報量が多いからこそ……フィルム全体からとにかく「熱」が迸っている。あのスーパースターへの愛が、スクリーンを迸っている。これまでいろいろと理屈をこねながら「アニメに何が欲しいか」を書いてきましたが……やっぱり最終的には「熱」がほしいんです。
アニメに熱が欲しい! アニメに愛が欲しい! アニメに狂気が欲しい! アニメに性欲<リビドー>が欲しい! アニメに憎悪が欲しい! その世界が本当に実在していると思い込んでいるような狂った人間が作った……本気のアニメが欲しい!
……とにかく、それくらいの「強い思い」が込められたアニメは、きっと永遠に愛され続ける作品になるのだと思います。もちろん、この映画にも詰め込まれています。
ところでイースターエッグというと、やっぱり『グリッドマン ユニバース』ですね。なんかこの映画、『電光超人グリッドマン』のネタが全39話分含まれているそうです。とにかく、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』も『グリッドマン ユニバース』も、同じくらいの質量の熱が込められているアニメなのだと私は勝手に感じています。
なんか書いてるうちに「あっ、言われてみればこの映画に近いの『グリッドマン ユニバース』かもな……」と勝手に類似項を見つけ出してしまったパターンですね。どう収拾つけるんだこれ。絶対前の段落で終わっておいた方がわかりやすいよ! 「グリッドマン」削った方が記事として面白いよ! きっとみんなもそうだよ! でも、私が伝えたいことはここにあって……。
いやまぁ……実際問題怪獣<クッパ>なんて出ない方がいいけどね?
とにかく、こんな最高の虚構<アトラクション>を楽しめるのは、キミたち人間だけなんだ。こんなジェットコースターみたいな虚構<テーマパーク>を愛せることこそ、人間の素晴らしさだよ。だから、映画を見に行ってね。微妙だったら最後に「普通」って言っちゃってもいいからさ!
自分の感性を信じるなら、最高の映画!
私は、自分の感性がすごく子供っぽいと思う時があります。別に良い意味でも悪い意味でもなく、ただ事実として色々な感性が成長しないまま止まってしまった気がします。最近、それが少しだけ怖い時があります。周囲と意見があまり合致しないことに、たまに恐怖を覚えます。
とはいえ、「そんなに気にしなければいい!」と自分自身の感性に絶対の自信を持てるわけでもありません。「作品にどんな感想を抱き、どう発信するかはその人次第」などという綺麗事を信じ切れるほど、純粋にもなれないのです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は……正直、いろいろ難しいことを考えることのできる人が見れば、微妙だと感じるのかもしれません。でも、私の心は最高の映画だと叫びたがっています。理屈も過程も難題もぶっ飛ばして、とにかく最高の映画だと叫んでやりたいのです。
ここまで書いてあることを見ればわかる通り、私は作品の根底に根ざした深いテーマ性なんて上手く読み取れません。政治や社会問題もよく分からないので、その時勢に絡めた「映画批評」なんて大層なことは絶対にできないです。
知識もない。そんなに賢くもない。なんか周囲と感性がズレている気がする。大人と、ミニマムな断絶が起きている気がする。 ……でも、この「感性」に嘘だけはつけない!
街中で怪獣が大暴れしてるシーンとか、ダイナゼノンがバトルゴーしてるところとか、クモオーグにライダーキックして「しまりました。空中では私の方が圧倒的に不利━━━!」してるとことか、もう超好き!!!
そこに快楽を覚える感性が子供っぽいと言いたいわけじゃないんだけど、それでも心の中にある「気持ちいい!カッコいい!!最高!!!ヤッタ────!!!!」という溢れ出す思いには絶対に抗えない!そこに嘘をついちゃったら、人間って終わりだよ!! 楽しいことにウソついちゃダメだよ!!!
そんな自分自身の感性を、それでも信じるならば……
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は最高の映画です!!!!!!!
……と、明らかにここで終わった方が綺麗なのにまだ終わりません。最近、個人的に「逆襲のシャア 友の会」という本を読みました。急に逆シャア友の会の話を始めようとしているのも、ただこの記事を書いている時にちょうど読んでた本がこれだったからです。面白い本なのでオススメです。
いやほら、『フリクリ』とか『シン・仮面ライダー』とかでちゃんと前振りしたから……一縷の文脈は繋がってるかなって……とにかく、この本から引用したいのがここです。
庵野:
なんせ僕らの共通体験ってTVしかないから。他に語るべき言語、シンボルを持っていない、寂しい世代ですからね。
多分「逆シャア友の会」を読んだ人からは「お前どっから引用してんだよ」と怒られるかもしれません……。どんな文脈の言葉なのかはこの本を買って確かめてください。そして庵野監督のこの言葉を借りるなら、私の中における「他人との共通体験」は基本的に「ゲーム」で構成されている気がします。
もちろんアニメも、映画も、マンガも、TVも見てはいた。でも、やっぱり「他人との共通体験」の中心は、やっぱりゲームだった。ハッキリ言ってしまえば、私はそこまで「マリオ」の熱狂的なファンではないのだと思う。どちらかというと人並みにマリオに触れ、人並みにマリオのゲームを遊んできた人間なのだ。
ただ、「マリオ」というコンテンツは、この「人並みに触れる」の範囲が極端にデカい。たとえ、「人並み」だったとしても、生きている中でマリオを目にしないことなどほとんどありえないのだ。友達の家に行けば『マリオカート』で遊び、ひとりで遊ぶ時もDSを開けばマリオがいて、みんなで集まって『スマブラ』を遊ぶ時も、なんだかんだマリオがいる。
『スマブラX』ではデデデを使い、『スマブラfor WiiU』ではデデデを使い、『スマブラSP』でもデデデを使っていたような自分ですら……なんだかんだどこかでマリオを目にしている。自分の周りにマリオがいないことなど、ほとんどなかった。私の他人との共通体験に必ず介在しているのが、「マリオ」なのだ。
人生のどこかに、必ずマリオはいる。
これは、そんな「マリオ」への祝福の映画。他者と他者を繋げる娯楽である「ゲーム」史上、最高のスーパースターへの愛を謳うフィルム。マリオ、私の初めてのゲームを奪ってくれて、ありがとね。これからもよろしく。『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は、そんな……福音の映画でもある。
……以上! 私の感想、終了!!
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は4/28より全国で公開中!
見てください!!!!!