今回インプレッションさせていただく『Sengoku Dynasty』は日本の封建時代を舞台にしたサバイバル・街づくりゲームである。
日本を舞台にした洋ゲーの歴史にまた新たな一ページが刻まれることとなった。
『Ghost of Tsushima』や2024年に発売が予定されている『アサシン クリード コードネーム:(RED)』等々、近年日本の中世を舞台にしたAAA級タイトルが多く世に発表されている。海外スタジオでは空前の「ジャパニーズヒストリーブーム」が来ているということなのだろうか。
おそらく識者の方々から見れば別に今に始まった話ではないのだろうが、何にせよ身近な場所がゲームになるというのは楽しいものである。
さて、そんな『Sengoku Dynasty』だが、本作の世界観はしっかりと史実に基づいた「リアルな戦国時代の日本」が舞台になっているとのこと。海外の人が日本に抱くタイピカルなトンデモジャパン像も非常に人気ではあるが、今作はあくまで徹底的に「リアル」路線である。そしてそれは、私自身の実際のゲームプレイの中からも伺うことができた。そこで、まずは本作のゲームプレイを通して感じた「リアルさ」について紹介しよう。
文/植田亮平
日本の雰囲気を作る
”If you think your salvation is assured, it is assured;
if you think it is not assured, it is not assured”Kenkō
ゲームを起動すると、兼好法師の『徒然草』の引用と共にロードが始まる。いきなり粋な演出だ。
これはおそらく『徒然草』三九段にある「往生は、一定と思へば一定、不定(ふじょう)と思へば不定なり」という一節を翻訳したものだろう。
ちなみにこのセリフは正確には兼好が述べたものではなく、浄土宗開祖である法然が述べたものということになっている。法然が述べたこの一節を兼好が引用して「まことに素晴らしいですな」と述べているのが『徒然草』三九段の内容なのだが、ともあれ日本古典の引用がゲーム開始からすぐに登場するのは何とも「いとおかし」である。開発側のリスペクトが見られて思わず期待が高まる。
もろもろのムービーを終えた後、プレイヤーは日本の「那谷」という新天地で新たな生活を始めることとなる。この「那谷」が現在の石川県小松市に存在する「那谷町」とどのような関係にあるのかは分からないが、風光明媚な良いロケーションである。道に生える薄は風になびき、遠くからは鳶の鳴き声がこだましている……。
Unreal Engine5で創られたこの日本の原風景は、経験したこともない戦国時代に、そして行ったこともない田舎町に対してある種の「郷愁」を抱かせてくれる(だが、とてつもない容量のメモリを占有するので私の貧弱なPCではそれら全てを表示することは叶わなかった……)。
しかしそんな郷愁に浸ってる暇もなく、まずは暖を取るための焚火と風をしのぐための風よけを作らなければならない。こうしている間にも既にサバイバルは始まっているのだ。
左下の空腹ゲージの減りに何やら不穏なものを感じつつ、物資を集めながら簡易的な寝床を作っていく。枝と石を拾って斧を作り、斧で木を切り倒して丸太を集め、丸太で木槌をつくり、木槌によって焚火を作る。火ひとつ起こすだけでとんでもない苦労である。
こうして物資を集めて着々とものづくりを行っていると、自分の行っているゲームプレイがとてつもなくリアルなものに感じられる。
しかし私は戦乱から逃れた百姓の身分ではないし、ましてや焚き木や風よけを作ったことなど一切ない。であれば、このゲームの画面に感じる「リアルさ」の正体とはいったいなんなのだろうか?
それはおそらく、このゲームにおけるプレイヤーの立ち位置が「農民」であることに由来するのだと思う。
戦国時代で生きるということ
「戦国時代」という言葉から想起されるのは、そのほとんどが「侍が戦をしている」風景ではないだろうか。私たちが今まで触れてきた多くのエンターテインメントがそうであったように、私たちの戦国時代のイメージは、華々しい戦のドラマで埋め尽くされている。
しかし、当然ながら当時の日本に暮らしていた多くの人々はこのゲームの主人公と同じような農民の身分である。彼らは村という共同体を築き、家を建て、食料を自給し、まさにこのゲームと同じく「サバイバル・街づくり」をしてきた人々のはずである。何かを作る大変さ、夜の暗闇の怖さ、人との出会いで生じる温かさ……。私の感じる「リアルさ」の正体とは、まさしくそのような「時代に生きた人々に肉薄したリアルさ」ではないかと思う。
本作のゲーム体験は、そのほとんどが「何かを造る」か「林の中を駆けまわる」かで構成されている。そうしたゲームプレイは本作の舞台が戦国時代であることとは対照的に、非常に穏やかで牧歌的なものだ。私が今までゲームを通して体験した華々しい戦いはこのゲームには見られない。代わりにあるのは、自らが建てた家と、そこで暮らす人々の慎ましやかな生活のみである。
それが、面白い。戦国時代に生きる市井の住人になり、ゆっくりだが着実に発展していく村を眺めるのは、それまで武将のドラマとイコールになっていた私の戦国時代観に新たな視点を与えてくれた。そのような体験は初めてのことであったし、そのような体験ができることが本作の醍醐味と言えるだろう。
「戦乱の世をそこに暮らす人々の視点で描く」という点において、本作は『This is war of mine』などのサバイバルゲームと軌を一にするが、だからといって特段啓発的なメッセージが込められているというわけでもない。この絶妙なバランスと視点のトリッキーさこそが、本作を唯一無二のゲームに足らしめている点だろう。そのような意味でも、本作は戦国時代の日本の雰囲気を高いレベルで作り上げることに成功している。
村を作るのって大変だ
本作が「時代の雰囲気」を上手く作り出していることについて述べたので、ここからはゲーム内容にフォーカスして紹介しよう。
このゲームの世界観は細かいディテールに至るまで日本文化で埋め尽くされているが、それらを取り巻くUIやゲームシステムはThe・洋ゲースタイルとでもいうべきものに仕上がっている。ゲームをプレイしてみれば前情報を知らなくても「あ、海外のゲームだな」と感じられるだろう。
例えば、ツールを選ぶホイール画面やスキルツリーのUI、小さいフォントや少々雑な翻訳は、良いか悪いかは別にして間違いなく洋ゲーっぽさを醸し出しているし、目玉となる村づくりに関して言えば、良く言えば自由度の高い、悪く言えば導線が不親切に感じられるものになっている。
なぜここまで「洋ゲーらしい」ことについて話しているかというと、ここがおそらく本作の評価を大きく左右する部分だと私自身感じるからだ。あえて「良くも悪くも」的な記述にしているのもそれが理由である。そう、このゲームは良くも悪くも「洋ゲーすぎる」のだ。
なので、本作のゲーム部分に関しての感想は「この手の洋ゲーに慣れているかどうか」にかなり依存するものになっている。少なくとも私はそのような印象を受けた。
これは本作のシステムの大部分が、前作『Medieval Dynasty』から引き継がれていることに理由があるのだろうが、筆者は前作をプレイしていないのでここについて比較することはできない。
しかし、いずれにせよ現時点での本作は「街づくりゲーの基本的な経験値」が問われる仕上がりになっていると言えるだろう。なにせ火を起こすだけでとんでもない作業量が課されるゲームである。建物を建てるとなると、そこに発生する苦労は火を起こすとかいうレベルの話ではなくなってくる。
例えば、「水を汲みたい」と考えたとしよう。まずは井戸を作るための道具を作って、それから井戸を作る。しかしそれだけではダメで、井戸から水を汲むためには桶が必要になる。桶を作るには木工品を作るための作業場を作り、そこから資材を投じて桶を生産する必要がある。水を汲むためだけに二つの建造物を先んじて建てなければならないというわけだ。
これが橋等のインフラ設備になるとさらに大変だ。橋を作るための作業所の建設と、そこで働く人を規定人数用意するところから始まる。そしてそれらを用意するためにはさらに莫大な資材と時間が……という具合に、村づくりは迂回に迂回を重ねていき、「俺は何がしたいんだっけ?」と当初の目的すら分からなくなる事態に陥る。
村らしい村を作るのに私はいったい何百本もの木を伐採したのか覚えていない。しかし、こんなに自然を破壊して仏罰が下りはしないかと心配するほどの木を切り倒したのは確かである。そして村を作っても、そこに暮らす住人に水や食料、その他様々な資材を与え、適切に仕事を割り振らなければならない。このあたりから私の小さい脳みそが追いつかなくなってくる。膨大な「やれること」に対してプレイヤーのキャパが対応できなくなる。おそらくこの手のゲームに慣れたプレイヤーからすれば一番脂ののった部分なのだろうが、初心者にとっては難しく感じられるだろう。
予め申し上げておくと、本作はアーリーアクセスのゲーム、つまりまだ開発中のゲームであるから、このあたりの親切さはアップデートで改善されていくと思われる。
ともあれ村ひとつ作るのがどれほど大変か、私は本作を通じてひしひしと感じたのであった。
やることは無限大
しかし、「大量のやれることに対して説明が追いついていない」という海外製シミュレーションゲームに特有の感触が、時に私を解放してくれる瞬間もある。「村作るの難しすぎんだろ!」と感じたなら、村なんて放っぽりだして広大な那谷を見て回るという楽しみ方もできる。
大変というのはあくまで村づくりについての話である。日本の豊かな自然を駆け回り、出会う人々とのお喋りを楽しむというのもまた一興である。そしてそのような楽しみ方をも許容してくれるという点が、本作の大きな魅力のひとつだ。マップに点在する寺社仏閣を巡るもよし、各地を練り歩く商人とマネーゲームを繰り広げるもよし、野を駆ける野生動物を槍で貫くもよしと、自由な生き方が用意されている。
また、一見村づくりと関係ないように思われることが結果的に(新たな生産技術を獲得できるなど)村の発展に寄与するということもありうるので、那谷を積極的に探索してみるというのもプレイヤーの成長に役立つ。
それに本作にはメインストーリーやサブストーリーなど、豊富な「やることリスト」が用意されている。何をしたらいいかわからないという方は、とりあえずこのメインストーリーを着実にこなしていくだけでもそれなりに楽しむことができる。
メインストーリーを進行させるにつれてプレイヤーも次第にやれることが増えていき、なおかつシステムにも習熟していくことができる作りになっている。プレイヤーが村づくりを放っぽりだすことはあっても、村づくりがプレイヤーを放っぽりだすことはないだろう。
結論を言うと、村づくりに全力を投じなくても楽しいのだが、やはりこのゲームの目玉は「村づくり」にあるということだけは改めて念を押しておきたい。冒頭に「空腹ゲージが不穏」などと書いたが、本作のサバイバル要素は意外と優しいものになっている。
明日の生き死にを巡って食べ物を探すということは基本的に無かったし、動物や蛮族に襲われて村壊滅というような事態も私のプレイでは起こらなかった。なので「命がけの限界ギリギリサバイバル」というテンションでこのゲームを遊ぼうとするのはあまりおススメしない。
余談だが、本作において私の主食は常に「ごぼうと木苺」であった。とくにごぼうの腹持ちは半端なく、腹が減ったらとりあえずその辺に生えているごぼうを引きちぎって食べるというワイルドな食生活を送っていた。多分、戦国時代においてもごぼうは本当に優れた栄養源と考えられていたに違いない。日本の食を支え続けていたごぼうに改めて感謝の念を抱かざるを得ない。合掌。
生を愛すべし。
『Sengoku Dynasty』におけるゲーム内時間の流れは非常に速いが、そこでの私の暮らしはとてもゆったりとしている。
日が昇ればござから身を起こし、ごぼうを食べ、小山の中腹にある神社へと向かう。そこで卵を稲荷の神にお供えしてから、隣村の商人に会いに行く(神にお供えするとバフがかかるので足は速い)。商人から鉱石と石材を買ったのち自分の村へ帰り、新たな建物を建造しつつ水と食料が村に行き渡っているかをチェックする。建材が足りなければ近くの山へ行き木を伐採して丸太を削り木材を手に入れる。
作業に疲れたら浜へ行き、海をぼんやりと眺めながらメインクエストの進捗を確認する。働けど働けど終わらぬ村の建設に嘆息しながらも、決して見えぬゲームの終わりに微かな興奮を感じる。
本作はそんなゲームである。
既にお分かりかと思うが、本作は基本的に時間泥棒のゲームである。やってもやっても終わりが見えないというのは、ともすれば徒労感を与えることもあるだろう。しかし、作りこまれた戦国時代の日本の風景を眺めながら、洋ゲーの骨太なシステムに圧倒されるというのは、奇妙な愉悦を感じるものでもある。その営みは「徒然なる」というにはほど遠いものだが、このゲームでしか味わえない素晴らしい体験であることは論を待たない。
本作は未だ粗削りな部分もあるが、それらは日々のアップデートで改善されている。ほとんど毎週入るであろうアップデートの頻度を見るに、開発の「Superkamiスタジオ」もかなり気合を入れて本作を作り上げようとしているようだ。
「存命の喜び、日々に楽しまざらむや。」という徒然草の一節はこのゲームにまさしくぴったりな言葉である。本作が兼好を引用していた意図というのは、なるほど本作のゲームプレイの中にくっきりと浮かび上がっている。甲冑を着た武士同士の殺陣も、法螺貝が鳴り響く戦国のドラマも本作にはないが、自分で家を建てる喜び、食料を自給する喜び、誰かと一緒に村を作り上げていく喜びといったエッセンスは、アーリーアクセスの段階ながら本作に既に十分に備わっている。そうした喜びに溢れた日々を楽しむことができるゲーマーにとって、これからの『Sengoku Dynasty』が素晴らしいゲームになっていくことは間違いない。
また、戦国時代という激動の時代の中で「あえて村づくり」という本作のコンセプトは、間違いなく日本を舞台にしたゲームの歴史に貴重なものとなって残るだろう。