9月15日公開の岡田麿里最新作『アリスとテレスのまぼろし工場』は、そのビジュアルからは想像しがたいほどにエネルギッシュで挑戦的だった。
『君の名は。』の大ブレイク以降プログラムピクチャー的に毎年量産される「そういう感じ」の長編アニメ映画。誰もが二匹目のドジョウをつかみとらんとするガラパゴスな界隈に、『あの花』や『さよならの朝に約束の花をかざろう』などで知られるアニメ界の重鎮・岡田麿里が一石を投じる。脚本家として名を馳せた同氏の、『さよならの〜』に次ぐ監督第2作となる。
正直に言えば、予告編公開時点では『アリスとテレスのまぼろし工場』にもさほど食指は動かなかった。いわゆる「『君の名は。』っぽい感じ」のよくあるアニメ映画にしか見えなかったからだ。
しかし本作は実際のところ、むしろそうした「そういう感じ」を自覚したうえでそれを打ち壊さんとする、野心と反逆性に満ちた作品だったように思う。
本作は「時間の止まった田舎町」を舞台としたジュブナイルファンタジーだ。その独特の舞台設定で描かれる停滞と鬱屈は、アニメのクリエイターと製作委員会、および視聴者との関係性のメタファーなのではないだろうか。
美麗なアニメーションや魅力的なキャラクターはさておき、アニメ作家・岡田麿里の心情の反映としての『アリスとテレスのまぼろし工場』を考えてみたいと思う。
文/波木銅
※本稿では、『アリスとテレスのまぼろし工場』のネタバレ及び結末に触れる内容が含まれております。あらかじめご了承ください。
「時間の止まった田舎町」が暗喩するもの
本作の予告映像を映画館で目にしたときには、さしたる関心を抱かなかった。「ふーん、またこういうのね」という感じだ。主題歌に中島みゆきを起用するのはちょっとウケる。されど映画館に通っていると毎年必ず予告を目にすることになる、「いつもの感じ」の日本産長編アニメ映画そのものに見えて、食指は動かなかった。
ノスタルジーあふれる田舎町を舞台に、ティーンエイジャーの男女(たいていシスジェンダー・ヘテロセクシャルの)の恋と悩みについて掘り下げ、それが結果的に世界の命運を担うことになり、ミステリアスな少女も登場、ささやかな家族愛なんかが描かれたりもして……。そういうのもうよくないですか。
2016年の新海誠作品『君の名は。』の記録的大ヒット以降、国産長編アニメ映画は例年制作・公開され続けている。岡田脚本の前作『空の青さを知るものよ』『心が叫びたがっているんだ。』も、その系譜に連なるものといって差し支えないだろう。
それらの作品群のクオリティーは過不足ないものがほとんどだが、新海誠を除いて二匹目のドジョウを掴み取れたクリエイターはほかにいるだろうか。結局のところ、アニメファン以外にも伝播するような記録的傑作はいまだ登場してはいない、というのが私の持論だ。むしろそれらは一部のファンダムだけを対象にした「お決まり」の表現をすることに特化しはじめていて、ガラパゴス的に停滞したジャンルになりつつある、と考えている。噛み砕いて言えば、若者ばっか出てくるわりにはなんか保守的な話ばっかりだな、ってことだ。
本作『アリスとテレスのまぼろし工場』も、予告編を見ればいかにも日本アニメ的な要素の詰め込まれた、ドメスティックな作風であることは明らかだ。
よって、それが自分の肌に合うものなのかやや不安に思いつつ鑑賞に臨んだ。結果として秀逸な映像表現や音楽の演出によって大いに心を動かされたし、本作に込められた重層的なメッセージには鑑賞後に考える余地と動機を与えられたと思う。
今作にアニメ的な映像美やジュブナイルなシナリオを求めている層にとっては大満足の出来であるだろうし、岡田麿里の本領ともいっていい、十代の悩みや恋愛模様を切り取った生生しさのある台詞回しや心情描写もふんだんに盛り込まれている。
いっぽう本作は、休日に2000円払って「よくあるアニメ映画」なんて見に行く気にすらならない、という層にも訴えかけるものがあるといって間違いない。
なにより、本作は「挑戦的」な作品であると強く思う。
本作の描写からは、岡田は本邦アニメ映画界の停滞に意識的であることが伺える。岡田は作品を通じて、アニメ作家として『君の名は。』以降のいわば「2匹目のドジョウ」争奪戦から降りることを宣言しているように思う。
今現在アニメーションを使ってなにをどう表現するか、なにを描くべきなのか、その点において非常に自覚的であり、それをアニメ映画の形で表現してのけたのだ。
今後も無数に制作されては断続的に公開され続けるであろうジュブナイルもののアニメ映画は『アリスとテレスのまぼろし工場』以前と以後で分けられる可能性も決して否定できない。本作はゲームチェンジャーとなり得るほどのポテンシャルを秘めていると私は考える。
中年のノスタルジーが若者を殺す
本作の舞台は日本のどこかにある、製鉄所の運用だけでもっているチンケな田舎・見伏町だ。この町の住人のほとんどがその製鉄所に就職し、そこで一生を終えることになる。
14歳の主人公・正宗はそんな町に嫌気が差してならない。この町を出て、イラストレーターの仕事を手に入れることを目標としながら、絵の練習を独学で続けている。
さらに、ただでさえあまりにつまらないその町で、彼はさらなる悲劇を経験する。
突如轟音とともに大爆発が起こる。それは製鉄所の爆発事故によるものであり、そのせいで町の時間が止まったという。町の外に出るためのトンネルや海路も塞がれてしまい、住人たちは町の外に出られなくなった。
時間が止まった、というのは隠喩ではなく、ある日突然本当に物理的な意味で時間が動かなくなったのである。いわゆる「ループもの」的な、同じ時間をひたすら繰り返す閉鎖された田舎町が本作の舞台となる。人がこれ以上老いたり成長したりすることはなく、天気が変わることもない。ラジオやテレビは同じ番組をずっと繰り返す。
こんな町にいたまま老いて死ぬことをなにより恐れている正宗にとって、それはあまりに耐え難い。行政や製鉄所の職員などの町の運営を担う権力者たちは、「いつか時間が戻ったときに矛盾が生じないように」と住人たちにいっさいの変化を禁じる。仕事や趣味、将来の夢や好きなものなど、外面・内面を問わず変化が生じないように自己管理・相互監視をすることを強いる。
今となってはそんなことする必要もないのに子どもたちは毎日学校へ行き、大人たちは仕事に向かう。正宗はそんな生活に飽き飽きし、仲間たちと危険な遊びに興じて退屈をしのいでいる。
この時間停止の明確な理由や根拠、仕組みなどは説明されない。解釈の余地は多くあるだろうが、メタ的な意味ではこの「時間の止まった田舎町」の舞台設定は日本アニメ映画界そのものの暗喩であるとみなせないだろうか。
舞台の寂れてシャッターの降りた商店街や、年季の入った中学校の校舎の細やかな描写にはノスタルジーを想起させられるし、夕焼けの反射する海面や、緻密に描きこまれた退廃的でミステリアスな製鉄所、そこから湧き上がる大量の煙の動きなどには思わず目を奪われる。
それらは美しく、過不足はない。なにかを失うことはないけれど、新しくなにか生まれることもない。完全に停滞した世界だ。
誰もが変化を恐れ、禁止されてすらいる……。要するに、革新性よりも視覚的な美しさや綺麗さといった妥当な安定性を求められるアニメの制作現場、ひいては製作委員会方式のメタファーのように見える。
つまり、毎度同じようなコンセプトで、映像的エモーションとティーンエイジャーの心象の機微ばっかり描き続けている近年のスタジオへの皮肉として選ばれた舞台装置が、「時間の止まった」「田舎町」なのだ。
いっぽう、主人公である14歳の正宗たちを岡田自身の意思の投影であると考えると、彼らが変化を求めて町のシステムや大人たちの決めたルールに反旗を翻し、時間を取り戻そうとするのは当然であるといえる。
時間の止まった世界、「まぼろし」ことアニメーションの世界はすでに、安心してノスタルジーを享受したい大人たちのためのものであり、当の十代の若者たちのほうを向いてはいない。なんでも描けるアニメーションを使っておいて語られるのは結局いつもジェンダー二言論的な恋愛とか、伝統に基づく家父長制的な家族感を無批判に標榜する「ハートウォーミング」とかだ。アニメは万能でエネルギッシュな表現技法なのに、肝心のそれで描かれるものが陳腐で保守的な、「年寄り臭い」ものでもいいのか、と岡田は自己言及的に思考していたのではないだろうか。
その点においても、本作はまぎれもない「青春映画」だった。大人が作ったつまらない世界に歯向かおうとするティーンエイジャーの背中を押すことを目的としているように見えた。
本作は、大人たちがどうにか守ろうとする居心地のいいノスタルジーの世界に、十代の子どもたちがどうにかヒビを入れようとする物語なのだ。
岡田麿里 vs. ザ・ワールド
事故後の時間の止まった町を事実上支配しているのは、もとは製鉄所の工員であった佐上という男だ。彼は製鉄所に関わりのある神社の社家であり、スピリチュアルに傾倒している。「この状況は神が我々に与えた罰」とし、住人たちに変化を禁じる。
彼は保守的なアニメファンのカリカチュアだろうか。「まぼろし」にすぎない綺麗でなにも失われることのない世界に固執し、変化をなによりも恐れ、敵視する。
結局のところいつの時代でも、尖っていて革新的な作品は万人向けのウェルメイドなものより売れないし、受け入れられるのには時間がかかる。
『あの花』や『心が叫びたがっているんだ。』など、作家性を確立させつつもどちらかといえば万人に開かれた作風をとっていた岡田のファンの多くは今作にも「いつもの岡田麿里テイスト」を求めているはずだ。変化を渇望する主人公たちに立ち塞がる、悪役として設定された佐上の人物造形からは、旧来のファンの期待には答えつつも、今回はその「いつもの」を逸脱せんとする意思が感じられる。
中盤、「時間が止まった」というのは佐上によるブラフであり、実際のところこの世界は「工場の爆発のせいでできた作り物の世界」であるということが明かされる。はじめから嘘の「まぼろし」の世界であったため時間が動かないのであって、それが元に戻ったりはしない。実在の存在ではない正宗たちが外の世界に出て行くこともできない。
この「まぼろし」世界にはひとりだけ現実世界から迷い込んできた子どもがいて、佐上はそれを「神の子」として奉り、製鉄所の跡地に幽閉することによって世界を保持している。
正宗らが彼女と邂逅し、世界の真相に近づいていくというのが本作のメインプロットだ。 正宗たちは自分が「まぼろし」の一部にすぎないと自覚しつつも、彼女を元いた現実世界に返すために佐上ら世界の均衡を保とうとする大人たちと対峙することになる。
最終的に奇跡が起こって時間が巻き戻ったり、「まぼろし」世界の住人がその束縛から解放されたりはしない。怒涛の映像的・音楽的演出によりエモーションの臨界点に到達するほどのクライマックスを超えても、主人公たちの人生はさほど変化しない。
それには「革新的な作品を作ったとて、この国では大多数に受け入れられることはない」という一種の諦観にも近い意思が見え隠れする。
あるいは、すごく綺麗なんだけど、この世界は結局のところ作り物なんだよね、と、それこそアニメを見終わったときに思う切なさにも近いだろう。
それでも誰かの心には残り続けるわけで、だからこそ売り上げや評価がどうであってもアニメを作り続ける。そういった岡田の意思の表明にも見えた。
アニメーションには無限の可能性があり、万能性、類いまれな自由さを持つ表現方法である。完璧なハッピーエンドではないが清々しいエンディングは、そういった希望を表明するものだ。
「まぼろし」の外へ
怒涛のクライマックスのあと、エンドロールで流れるのは中島みゆきの新曲「心音」だ。中島がアニメ映画の主題歌を務めるのは本作がはじめてのことであり、そのことも話題になった。
この、いわゆるアニメ的なイメージの薄いアーティストの起用も意図的なものではないだろうか。中島はどちらかといえばファンタジー的な幻想よりも「現実」よりの歌手だ。アニメ的空想世界と現実への橋渡しを行い、より広い世界に視点を向けるという意味において、この選曲は秀逸だと思う。
『アリスとテレスのまぼろし工場』は、脚本家・監督としてアニメの世界に長い間存在しつづけた岡田麿里の内面の吐露であり、これからさらに躍進していこうとする意思の表明ではないだろうか。そのためには日本アニメ映画のガラパゴス的世界は打ち破らなくてはいけないし、そういったものを作り続けているのではダメだ。アニメはどんなものでも表現できるのだから。
これらはあくまで飛躍的な解釈にすぎないが、少なくとも私は鑑賞前と後ではアニメ映画というジャンルへの見方が少なからず変わったし、岡田麿里をはじめとしたクリエイター陣、あるいはこれから誕生する新人の作品への期待値も高まった。きっとこれから新たに生み出される作品は、誰も見たことのない新しいものを見せてくれるだろう。
アニメはなんでも表現できるし、なにを描いてもいい……。との高らかな宣言を、岡田麿里はもってやってのけたのである。