まさか、こんな作品が突如MAGES.から発売されるとは、正直驚いた。
神秘的で官能的。
プラトニックとエロスの狭間。
『岩倉アリア』は湿度のある上質な物語を描ききっていた。
今回、紹介するゲームは、MAGES.よりNintendo Switch用に発売されるリアルファンタジー・サスペンスアドベンチャーゲーム『岩倉アリア』である。
本作が発表された後、公式Xで行われていたQ&Aを見ると、本作はいわゆる「百合」が大きなテーマのひとつ【※】であることが明かされている。
※ジャンル的には『サスペンス』に分類し、宣伝展開を行っている
◤#アリア回答◢
— 岩倉アリア (@IWAKURA_ARIA) March 27, 2024
Q.百合ゲーですか?
"その中で女性同士の間に生まれる絆、(恋愛を含む)感情は、当作品の大きなテーマのひとつです。"
♦全回答は画像をタップ#岩倉アリア pic.twitter.com/lewnGlUahm
そういった宣伝的な展開も理解しつつ、本稿では「百合」を軸として、紹介を進めていきたい(レビューだしいいよね)。
「百合」「GL(ガールズラブ)」とは一般的に女性同士の恋愛という意味だが、本作における百合は今日我々が思い浮かべる「キャッキャウフフ」的な、少女同士のラブコメ的イメージとは少々趣が異なる。
そこで描かれるのは百合というよりもむしろ、1960年代に生きる一人の少女から見た、生々しい「女性」への眼差しそのものなのである。
本作のシナリオを書かれたのは午後ねむるさんというシナリオライターの方だが、私はこのシナリオライターが女性であることをほとんど確信している(違ったらごめんなさい……)。
でなければ、本作の主人公である「北川壱子」とヒロインの「岩倉アリア」の関係性の変化、主従関係が肉体的なエロスへと転化していくまでの葛藤をあそこまで精緻に描くことはできない。
後ほど詳しく述べるが、本作の重要なテーマは「身体と傷」である。
これはある種、本作の特異的な面である。
精神的な結びつきを想像する「百合」のなかで、『岩倉アリア』の百合は一遍して「身体的なもの」を主軸にしている。
しかし逆説的に、そこにこそ本作のシナリオが持つ「女性性」「女性同士の恋愛の本質」が浮かび上がってくるのである。面白い作品だと思う。
その面白さを語る前に、まずは本作のシナリオをざっと紹介しよう。
文/植田亮平
※記事内で致命的なネタバレは避けていますが、かなり本編の内容に触れています。ネタバレ一切なしでプレイしたいという方は、これ以上読み進めないことを推奨します。
1966年の少女からみた世界
本作の舞台は1966年の日本。
主人公である「北川壱子(CV.鈴代紗弓さん)」は、ひょんなことから旧華族の富豪「岩倉周(CV.森川智之さん)」に絵の才能を買われ、彼の所有する屋敷で女中として働くこととなる。
そこで出会った「岩倉アリア(CV.中村千絵さん)」との出会いが、彼女の人生を一変させる。
アリアとの交流を通じて、次第に彼女を想うようになっていく壱子。しかしそれと同時に、壱子は岩倉家の裏側に潜むおぞましい秘密に接近してゆくこととなる……。
1966年といえば、戦後の高度経済成長の真っ只中。希望と混沌が溢れていた時代である。
しかし本作では、バブル期の雑然とした東京の様子も、学生たちによる60年代の安保闘争も、東京オリンピックの余波も描かれない。言及すらされない。
66年ということからビートルズ来日について触れるシーンがあるが、それとてあくまで物語の年代を示す表層的な記号であって、さほど重要な意味は持っていない。なぜここまで社会という中景が希薄なのか。
それは本作の主人公である「北川壱子」が、年端も行かぬ16歳の少女であるということと無関係ではない。
壱子は主人公であり、物語の語り手でもある。
物語はほとんど壱子の主観という構造をとっている。舞台となる1966年の夏は、あくまで彼女の目から見た世界なのだ。
加えて、壱子は施設で育った親なき子である。社会からある種切り離された彼女の目に、社会の大きな動きが映らないのも無理はない。
しかし、本作の舞台が1966年であるということには意味がある。それは彼女の目を通して映る、よりドメスティックな「60年代を生きる少女の視座」である。
彼女の周りに登場する男性たちは、しばしば彼女の性生活へ執拗な言及を憚らない。
壱子とアリアの同性愛的な関係が「発覚」した際にも、まず彼女たちへ向けられた言葉は性に関する問題、すなわち「女同士では子が産めない」ということへの言及であった。
作中、こういった男性からの性への言及に対して壱子は露骨に嫌悪の感情を抱く。
それは物語序盤に語られる彼女の虐待と前職場での性被害に関するトラウマによっていくらか誇張的な色を帯びているが、されども彼女や彼女の周りにいる女性へ初老の男たちが向ける好色の目は、物語全体に「嫌な感じ」としてべっとりと染みついている。
もちろん、このような見方は許されるものではない。特に現在では、因習的であり女性の権利の侵害であると断罪されるものである。
しかし、ここでの壱子の目線は単に現代の価値観の投影ではないのである。
それを語るうえで重要なのが、物語の主要キャラクターである「宮内スイ(CV.本多真梨子さん)」の存在だ。
スイは岩倉邸での食事全般を仕切る地元洋食屋の娘である。
壱子と違い住み込みで働いているわけではないので、ある意味物語の外にいる人物として彼女は描かれている。
ではスイはどのような人物かと言うと、66年当時の女性のある種モデルケース的な役割を演じている。
親族からの結婚を急く圧力にうんざりしながらも、同級生との恋愛や結婚をほのめかす。
もし壱子が単純に現代的価値観の代弁者であるならば、スイは壱子にとって旧来の父権主義的価値観の犠牲者に映るはずだ。
しかし、(ルートによって展開は多少異なるものの)壱子はそういったことについて作中であまり関心を示さない。
それどころか、友であるスイの恋を純粋に祝福している。
好色の目に不快感を抱きつつも、それはフェミニズム的な義憤ではない。この二面性に、私は66年を生きる一人の少女の”ものの見方”を察知する。
その写実的な描き方は日本の巨匠、小津安二郎の映画に出てくる少女たちの描き方とほとんど同質のものである。
見比べてみると、小津作品と『岩倉アリア』の描く戦後の少女像は、その写実性まで含めてかなり似ている。
両者が異なるのはその視線の出所である。
小津が「浮薄な男たち」の目線に立つとすれば、『岩倉アリア』はそれを苦虫を嚙み潰したような目で睨む少女として描く。
例えるならば『秋日和』の間宮(佐分利信)とアヤ子(司葉子)の目線の違いと言うべきだろうか。
分かりづらい例えになって申し訳ない。結局何が言いたいのかというと、『岩倉アリア』における壱子は、語り部でありながら私たちの共感すべき対象ではないということだ。
あくまでも壱子は常に「等身大」なままで描かれている。
彼女の内面に現れる正義やアリアへの想いは必ずしもプレイヤーと一致しない。
正直に書いてしまうと、私は彼女のエゴに感情移入ができなかった。
彼女の正義の行動はときに現在の社会正義とは違った方向へ暴走してゆく。
しかし、これを良しとし描き切った筆致のうちにこそ、私は心打たれる。
『岩倉アリア』は北川壱子が持つ時代故の非力さ、そしてその非力に簡単に埋没してしまう幼稚性を、ほとんど残酷なまでに映し出す。
私はこれほどまで1966年に生きる16歳の少女の内面に肉薄したゲーム作品を知らない。
身体と傷
この「壱子という等身大の目線」は、アリアとの関係性を描く中にも如実に表れている。
中でも特に特徴的なのは、壱子がアリアへ向ける「肉欲的な愛」の葛藤である。
岩倉アリアは壱子を雇った岩倉周の娘だ。壱子とアリアの関係は「女中」と「令嬢」であり、この主従関係が次第にアブノーマルな恋愛関係に繋がっていくという展開は、まあ分かる。「お嬢様……だめです……!」というアレだ。
しかし本作がフォーカスしたのはそういった「身分による葛藤」ではなく、壱子の内面における「アリアの身体」への葛藤なのである。
作中序盤で、壱子はアリアが処女ではないことを悟り衝撃を受ける。
それをきっかけに、壱子はアリアへ向ける自身の感情が純粋に大切に思う愛なのか、それとも倒錯した情欲なのかという問題に悩む。
アリアの肉体についた「傷」を見てしまったばっかりに、彼女のアリアへの気持ちは、本来志向していなかった「身体への欲望」と不可分なものになっていくのである。
この「身体と傷」を巡る壱子の内面の移ろいが本作の主題でもあり、作品全体を通して「身体と傷」はそのまま壱子とアリアを繋ぐものとして描かれる。
本作の百合はそもそもの始まりからしてこのような大きなテーマを持ったものなのだ。
先ほども書いたように、壱子は性に対してある種のトラウマを持っており、このトラウマから来る壱子の身体への潔癖さは、当然自身が思いを寄せるアリアの身体へまで及ぶ。
しかし一方で、ゲームで語られる彼女のモノローグは非常に官能的な響きを持っている。
壱子がアリアについて言及するとき、壱子はアリアの「身体」について語らずにはいられない。
そこには常にエロティシズムなものが伏流しているのである。この発言と独白の矛盾、モノローグ内の二重人格的な矛盾は、16歳の少女である壱子の目線だからこそ成立するものだと言えよう。
思春期真っ只中の壱子がこのようなプラトニックとエロスの狭間で揺れ動くのは、先ほど述べた「等身大」さをより強固なものとしている。
このアンビバレントな感情は後に明かされるアリアの「秘密」にも関係してくるのだが、流石にこれ以上はネタバレになるのでここでは語れない。
ただ一つ言えるのは、本作で描かれる壱子の葛藤/アリアとの神秘的でさえある恋愛関係は、今日私たちがフィクションに思い描く同性愛のイメージとは大きく質感が異なるということだ。
本作にあるのは、よりジメジメとした匂い立つ「何か」である。
このある種の「非開放性・密室性」は、ほとんどが岩倉邸の中で展開される本作の構造と奇妙にもシンクロしている。
私はそこに、『岩倉アリア』のシナリオが持つ「女性性」を感じ取らずにはいられない。
シナリオライターの書く文章がジメジメしているという話ではない。
そこで映し出される嫌なリアルさは、私が百合作品に触れるとき意図的に見逃してきたリアルさなのだ。
文章全体に溢れ出る生温い体温が、壱子とアリアの関係をより重厚で奥深いものにしているのである。
岩倉アリアと『初恋』
ここまで書いていて気が付いたが、壱子がアリアへ抱く感情は、その展開も含め、ロシアの文豪ツルゲーネフの書いた『初恋』とどこか重なる部分がある。
それは物語のプロットが『初恋』と似ていることや壱子の年齢とウラジミールの年齢が一緒であることも理由だが、それ以上に、岩倉アリアというキャラクターの持つ魔性的な魅力に寄るところが大きい。
岩倉アリアは『初恋』のジナイーダと物語の役割的にはほとんど同質である。
始めのうち、コケティッシュな振る舞いを見せるアリアは岩倉邸を訪れる客人達と同じように、壱子にも甘い挑発を繰り返しもてあそぶ。
これはジナイーダが館を訪れる「崇拝者」たちとウラジミールへ行った意地悪と同じ形態である。
この「弄ぶお嬢様とそれに翻弄される主人公」という構図が私としてはグッとくるのだが、その後『初恋』が思わぬ展開を見せるように、『岩倉アリア』もプレイヤーの予想だにしなかった方向へ進んでいく……。
ちなみに、本作は全体としてミステリー作品のような雰囲気をまとっているが、ミステリーではない。
前述した通り、本作のジャンルは「リアルファンタジー・サスペンス」である。
ファンタジーを冠しているということで当然超自然的な要素、あるいは伝奇要素を持っているが、この点では『初恋』と異なる。
私の感想では、本作は「かなり百合要素の強い伝奇ノベル」という感覚だ。
ここまで小難しい顔をして「かっこつけ」している私だが、本作は文体も優しく誰でも読みやすい非常にプレイヤーフレンドリーな作品である。
ストーリーについて語るのはここまでとするが、誰にでもおススメできる。
重い展開の百合が好きなプレイヤーには特におススメできるストーリーだ。
ゲーム部分は超が付くほどスタンダード
ここからは軽くゲーム部分について紹介したい。
といっても、本作に何かゲーム的に目新しいとされる要素はほとんどない。シンプルで分かりやすい。超スタンダードなADVの様式を採用している。
基本は会話を読みながら、選択肢を選んでいく。
選んだ選択によってその後の物語が変化し、間違った選択をすればバッドエンド、良い選択を選んでいけばそのままトゥルーエンドといった具合である。
物語の選択が後々に蓄積されていく『デトロイト・ビカム・ヒューマン』のようなタイプではなく、直前の選択がすぐ後のエンディングに反映されていくというシステムなので、やり直しは全く苦痛ではない。
選択肢による大幅な分岐もないのでエンディングリスト埋めも非常に楽。この点は好き嫌いが分かれる部分だが、このシステムがとりわけ嫌いという人はそういないだろう。
そして肝心のエンディングだが、基本的にエンディングの内容は全て1999年、作中の時代から33年後の壱子を描くというものになっている。
本編の選択を33年後の壱子が回想し、自分が選んだ選択によって壱子の人生がどんな結末を迎えたのかを教えてくれる。
エンディングで壱子が迎える結末は非常に多彩だ。救いようのないバッドエンドから「これでよかったのかも」的なビター(?)エンド、あまりにも悲惨すぎて逆に笑ってしまうものなどなど様々である。
また、ほとんどのエンディングがシリアスなものとなっているのも特徴だ。サスペンスなんだから当然だが。
コミカルなバッドエンド大好きおじさんの自分としては少し残念だが、ただこれは裏を返せば「シナリオが突飛で意味不明な飛躍をしない」ということでもあるので、作中のダークで美しい雰囲気にずっと浸りたい人にはむしろ嬉しい仕様だろう。
エンディング以外にも、各部屋をうろつきながら重要な物語のキーを集めていく「簡易版探索パート」があったり、絵を得意とする壱子が時折写生帖(スケッチブック)に描くデッサンを眺め、プレイヤーが自由に推理する「プチ考察パート」があったりと、どれも非常にミニマルながらプレイヤーに「謎解き」的楽しみを与えようとする工夫も存在する。
他にも、重要なシーンで挿入される一枚絵のカットや特定チャプター、エンディングの見返しやBGMの再生など、テキストアドベンチャーゲームに求められる項目はほとんど全て取り揃えている。
カットシーンやBGMを単体で見られる機能があるということは、絵や音楽が美しいということでもある。
そう、『岩倉アリア』のビジュアルと音楽は実に美しい。
ADVゲーム的なイラストというよりは水彩絵画的な質感を備えた全体のビジュアルは、さながら推理小説・サスペンス小説の表紙を眺めているかのようである。
「キャラ萌え」要素は薄いかもしれないが、それを補って余りある迫力のイラストレーションが用意されている。
言い忘れていたが、『岩倉アリア』本編は壱子の視点で語られるシナリオの都合上、物語の全体像が把握しづらいという問題がある。
しかしそれを補完するためのサイドストーリーも用意されている。ゲーム本編で特定の条件を満たせば解放されるサイドストーリーでは、別の人間から見た本作の物語が描かれる。
その他、いくつかの要素を満たすと開放される追加カットなどやり込み要素もバッチリ。さらに全編フルボイスとなっており、ボリュームに関しては言うことなしの出来となっている。
おわりに
本作『岩倉アリア』のシナリオは様々な楽しみ方ができる。
徐々に関係性が深まっていく壱子とアリアの濃厚な百合描写を楽しむもよし。本作の目玉の一つである「岩倉家の真相」を家モノサスペンスとして、あるいはホラーとしてを楽しむもよし(ジャンプスケアはないが)。新作の骨太アドベンチャーとして、選択肢とその結果をワクワクしながら楽しむもよし。
しかし私的には、やはり北川壱子というキャラクターによって語られる物語の「質感」を味わってほしいと感じた。
彼女のモノローグテキストに滲む瑞々しさや若さ、1966年の空気感や百合という枠組みを超えた生々しさ、忌避と欲望の中にある身体性。
そしてアリアへのひたすらに純粋な恋慕──。
彼女を演じる鈴代紗弓さんの名演にも注目である。
『岩倉アリア』は2024年6月27日に発売予定だ。