かつて『ゆめにっき』というフリーゲームがあったのを覚えているだろうか。
2000年代に最盛期を迎えたいわゆる「ツクール系」を代表するゲームの一つであり、何の説明も与えないゲーム性、フロイト的な寓意に満ちた世界観、それを巡るユーザー間の解釈などは大きな反響を呼んだ。
ホラーアドベンチャーゲームとしても、そしてインディーゲームとしても、後の作品に大きな影響を残した名作と言えるだろう。
閑話休題。
先日『ドリームチャンネルゼロ』というアドベンチャーゲームを試遊する機会を頂いた。パブリッシャーは『メグとばけもの』や『ねずみバスターズ!』などで知られるOdencat、開発を務めるのは日本のインディーデベロッパーFuming(ふーみん)氏である。
作品を他の作品で例えるのはあまり良くないとは思いつつ、このゲームは先ほど説明した『ゆめにっき』とどこか似ている。
もちろんそれは、ゲームシステムやストーリー、作中に登場するモチーフが単に似ているというだけの話ではない。「ゲーム体験そのもの」が『ゆめにっき』と同型のものであるように見えるのだ。
私は本作をプレイしたとき、率直に言って「本作がどんなゲームであるか」が分からなかった(おそらくまだ分かっていない)。わからなかったのに、何故か心を鷲掴みにされたのだ。
そしてまさに、「わからなさ」こそが本作に『ゆめにっき』っぽさを感じる理由である。
ただし少なくとも、両作に感じる共通点は、ゲーム内の要素を列挙するだけでは説明できない。
むしろ「寝る前にふとゲーム画面を思い出す」とか、「作者には何か言いたいことがあるように感じる」とか、プレイヤーが感じる反応にこそに類似性が窺える。
故に、抽象的な紹介になってしまうが、その点をまずはお許しいただきたい。
それではとりあえず、本作の持つ「シュールさ」から話を始めてみようと思う。
ギャグかホラーか……不条理なゲームプレイが生み出すシュールさ
まず前置きしておきたいことだが、本作は非常に陽気なアドベンチャーゲームである。
ホラーゲームらしい展開はほとんどなく、むしろ全体的な”ノリ”はおちゃらけたギャグと可愛らしいキャラクターたちで彩られている。
しかし、そのあり方はいわゆる一点突破的な「バカゲー」や何かのパロディとは根本的に異なる。本作でのギャグは基本的にシュルレアリスム的である。
あるいは、不条理と言い換えても良いかもしれない。とにかく、本作のキャラクターやストーリーにはあまり脈絡がないのだ。
プレイヤーはある日突然ゲームの世界に迷い込み、突然よく分からないものたち(人面パイナップルとか包丁を持った象とか)と遭遇することになる。
それはギャグだけでなく、ゲームプレイにおいても同様である。
本作の基本的なゲームプレイは、突然目の前に現れた敵たちを独自の武術でボコボコにしていくことが中心となっている(この時点でかなり異質である)
そして、本作の戦闘はゲーム的な戦闘というより、むしろ荒唐無稽なギャグの応酬である。
「よく分からん敵とよく分からんバトルが始まる」という『ボーボボ』ライクな展開が、このゲーム全体を通してずっと続く(と思われる)。
しかし、本作はフランツ・カフカの小説や『ゆめにっき』といった「一見脈絡の無い表現をする作品」と同様に、作中の世界やゲームプレイの裏に大きなテーマ性を抱えている。道中登場する様々なキャラクターや背景が「あるものの比喩」なのである。
では「あるもの」の正体は何かというと、それは私にも分からない。
無論、ストーリー的なプロットは存在するし、何の目的もなくゲームが進行するわけでもない。しかし本作は、このゲームが何を描くのかを、プレイヤーになかなか明かしてくれない。
作品の裏にあるメッセージがキャラクターや作中の出来事として現れるが、その正体は決して直接的にはプレイヤーに示されない。
あくまでも筆者の私見ではあるものの、この「隠し方」にこそ、本作のインディーズ精神を垣間見ることができる。
そして、インディーゲームでよく言われる「作家性」とは、本作から窺えるような「巧みな隠し方」こそが生み出していると思う。
Fuming氏は「隠し方」を熟知している作家であり、筆者の考えを踏まえると、非常に作家性の強い、優れたクリエイターであると強く感じた。
「よくわからない」のに作品の世界へ引き込まれる理由とは。「余白のある語り口」が持つ力
本作が描くのは「あるものの比喩」だが、「あるもの」の正体は分からない。
これに対して「それってハッタリじゃないの?」と訝しむ方もいらっしゃるだろう。しかし、ここでは「あるもの」の正体はさほど重要な問題ではない。
むしろ、その裏に何かがある「気がする」方が大事なのである。
確かに本作のアートスタイルや作風が、インディーらしさ自体を求め、それっぽさを目指している可能性も否定はできない。
だが、表現しようとしたものの正体がない、作者以外は未だ感じられないことは少しも本作の魅力や面白さを殺いだりはしない。ここではむしろ、本作の比喩表現に富んだ「余白の多い語り口」自体に注目したい。
私たちはゲームが持つ「余白の多い語り口」に何かを見出さずにはいられない。
含みのある語りは、そこで示される情報以上の意味をユーザーにもたらす。「寝る前にふとゲーム画面を思い出す」とか「作者には何か言いたいことがあるように感じる」という形で。
そうして私たちが考察や解釈を行って初めて、作品が持つメッセージが浮かび上ってくるのだ。
また、私たちは作品にメッセージがあるから考察や解釈を行うのではない。むしろ、ゲームをプレイしたユーザーが、そのゲームの「余白の多い語り口」を気に入って解釈し、初めてメッセージが立ち現れる。
つまり、本作のような抽象度の高い作品においては「語り口」こそが、作品に命を吹き込む。
今回の試遊では僅かな時間しかプレイできなかったが、それでも筆者は本作の不条理で、余白のある語り口に引き込まれた。
プレイヤーを誘惑し、作品の世界からプレイヤーを掴んで離さない「語り口」そのものの力強さは、間違いなく本作の大きな魅力であるはずだ。
音楽のクオリティは格別!「ゲーム音楽らしくない」のに作品にマッチする楽曲。効果音の丁寧なこだわり
これまでに本作の不条理さ、語り口の魅力について語ってきたが、本作の音楽にもぜひ注目していただきたい。
本作のコンポーザーを務めるのは、ミネアポリスを拠点とする音楽プロデューサー兼DJのXavier LeBlanc氏だ。
本作の音楽は聴いた限りではあまりゲーム然としていない。ゲームのBGMというよりもそれ単体で聴ける「曲」のイメージが強い。
しかし、本作の音楽はゲームにしっかりとマッチしている。
その理由は、Xavier LeBlanc氏の作風とビデオゲームの相性のみならず、Fuming氏のゲームに音楽を乗せる巧さも挙げられるだろう。
というのも、Xavier LeBlanc氏はFuming氏にスカウトをされるかたちで、本作のコンポーザーを担当したという経緯があるからだ。Fuming氏が直接オファーしたという事情からも伺える通り、「どのように音楽をゲームに乗せるか」を明確にディレクションしているのだろう。
たとえばカットシーンに目を向けると、再生された音楽がシーンの演出にあわせて気持ち良く止まる演出が確認できた。
また、効果音に関しても、敵を殴り倒すときの音などはややチープで、意図的に大きな音量に設定されている。特にこの仕様は、本作の陽気な雰囲気に拍車をかけている。実際に耳にすれば「センスのいい馬鹿馬鹿しさ」はこういう音作りで生まれるのかと感心させられるだろう。
このように、本作における丁寧な音のコントロールも、作品の陽気でスタイリッシュなムードにおいて一役買っているように思えた。
本稿では主に、本作の「良く分からない」ことの魅力について述べてきた。
部分的には、ずいぶん回りくどい話のように聞こえたかもしれない。しかし、本作の魅力を端的に述べるなら、非常に簡単な言葉でも伝えられると思う。
私は端的に、作家の個性が溢れるゲームを「ビビっとくる」ゲームと呼んでいる。
『ドリームチャンネルゼロ』は私的にはものすごーく「ビビっとくる」ゲームだった。
『ゆめにっき』とか『Undertale』ぐらいビビっとくるゲームだった。
いずれの作品も、高い独自性を有した作品であり、作中に隠された真実を全て理解せずとも、大いに作品の世界へ引き込まれる。
余談だが、本作ではある箇所でドビュッシーの名曲『月の光』が流れる。
これは「ゲームの世界に入り込んでしまう」という設定から察するに、似た設定を持つラブデリックの『moon』からの直接的なリファレンスと見ることもできる。
『moon』もまた、私がビビっとくるタイプのインディー精神を持ったゲームである。なるほど、『ゆめにっき』や『Undertale』、そして『ドリームチャンネルゼロ』などに見られる強烈な個人クリエイターたちの作家性は、ある確かな文脈の上に乗っているのかもしれない。
抽象的な物言いとなってしまい大変恐縮だが、私の言っていることが「なんとなく」分かる人には、ぜひとも本作のリリースを心待ちにしてほしいと思う。
『ドリームチャンネルゼロ』は2024年冬にリリース予定。対応プラットフォームはSteam(PC, Mac, Linux)となる。