みなさん『バンドリ! ゆめ∞みた』(以下『ゆめみた』)をご存知でしょうか?
『ゆめみた』は『BanG Dream!(バンドリ!)』プロジェクトによるバーチャルガールズバンド「夢限大みゅーたいぷ」を扱うアニメ作品。“バーチャルガールズバンド”というように、その中心的な題材は「バーチャル」──つまりVtuber的な文化です。
が、じつのところ、本作の前半はほとんど「バンドアニメ」していません。
というのもこのアニメ、ぜんぜんバンド演奏をしない。
全13話中、観客を前にしたライブ演奏はわずかに2回。はじめてメンバー全員が揃って演奏を行ったライブシーンは前半の山を越えた折り返しの7話に入ってから。練習などのシーンはちょくちょく入るものの、ぜんぜん「バンド」していない。
じゃあ13話もかけて何をしているの? というと、ひたすら人間関係でモメて、試行錯誤を繰り返しています。実在のバンドの解散理由は、大半が金銭トラブルと人間関係であるとも言われているので、ある意味でリアルではあるのですが……。
そんなわけで、まずは簡単に本作の登場人物を振り返っておくぜ。
イカれたメンバーの紹介だ!
まずはギター「宮永ののか」!
ひとことで言えば善意の怪物。あたまに“超”のつく善人であり、バンド活動に対してもメンバーの中でもっとも前向き。他人の感情の機微にも聡く、グループの危機にはまっさきに反応するが、素で狂人なので剛腕ド直球な解決策しかもってない。地雷原でのタップダンスなら任せてくれ!
キーボード「藤都子」!
学業の傍ら、バンドだけでなくイラストや漫画執筆までこなす超絶ハードワークのぶっこわれ超人。だけど根っからの陰キャ気質で、自己肯定感は海抜ゼロメートルなので叩かれると弱いぜ! なんでこんなギリギリ落ちない綱渡りみたいなスレスレの生き方してるんだヤコ先生。甘い言葉と承認に弱く、セキュリティ上の重大な欠陥があるぜ!
DJ&マニピュレーター「千石ユノ」!
他人の意見を最大限に尊重し、他人に一切期待をしない、グループ随一の“オトナ”なキャラだ。
メンバーの人間関係のトラブルを「ワケアリか?」と言いながら深くは干渉しない傍観者スタイルを貫くぜ。バンドグループにほぼ興味はないが、仕事と割り切ってクールに対応。人間関係を構築する気がゼロなので、面倒なチームメイトからのチャットはAIに丸投げだ!
途中加入したふたりめのギター「峰月律」!
自分に個性がないことに悩み、「優等生」という枠をついついこなしてしまう見えづらいタイプの苦労人。
よく言えば“人の和”を重視、悪く言えば場の空気に流され系ヒロインだ。主人公の親友ポジだけど、かつてあった炎上騒ぎの自責の念やらなにやらで自縄自縛になっており、序盤の立ち位置がほとんど“邪悪な元カレに脅迫されてる幸薄ヒロイン”だったぜ! これバンドアニメだよな!?
そして最高に燃えてるボーカルの「仲町あられ」!
本作の炎上系ヒロイン(実績あり)にして主人公ポジ。典型的な喋りすぎるオタクだ!美少女だからギリギリ許されてる(許されてはいない)が、これを自分がやったらと思うとキモくて死ぬ。過去に色々あったらしいが、ちょっと想像していた以上にヘビーだったぜ!
以上だ!
なんでこの人たち、バンドやってるんだ……?
※この記事はアニメ『バンドリ! ゆめ∞みた』のネタバレを一部含みます。
※この記事は『バンドリ! ゆめ∞みた』の魅力をもっと知ってもらいたいブシロードさんと電ファミ編集部のタイアップ企画です。
『ゆめみた』はコミュ障たちの物語
メンバーを見てもらえばわかるとおり、率直に言って、ぜんぜんまとまる気がしないというか、実際にまとまっていない。こんなメンバーたちが自発的にバンドやろうぜ!と集まるわけがない。
そう、本作のバンドグループ、彼女たちが自発的に結成したものではないのだ。
本作の主人公チームである「みゅーたいぷ」というバンドグループ、実はVtuber事務所みたいなところが勝手に組んだもの。大人が商業上の理由で組んだユニットなのである。
そのため、「みゅーたいぷ」メンバーには、バンドとしての目的がない。「トップアイドルを目指す」でも「廃校の危機にある母校を救う」でも「滅亡の危機にある佐賀を救う」でもいいのだが、そういったバンドとして活動すること自体の目標を、彼女たちはまったく持っていない。
本作における「バンドをすること」は、メインシナリオではないのです。
主人公たちはそれぞれ、個人での配信や音楽・執筆活動などである程度成功しているメンバーで、「バンド」の結成は事務所的な「商業上の理由」。たしかに、現代的なバーチャルアイドル事情的な観点で見るとすればリアルな事情かもしれないけど、どうしてここをリアルにした……!?
この手のバンドアニメには、たいてい何かしらの「これを成し遂げる」という共通の目的がある。物語を駆動するエンジンのようなものだ。彼女たちには、それがない。
では本作がなんのアニメだったのかと言うと、冒頭に戻るのですが「ひたすら人間関係でモメ、試行錯誤しているアニメ」なのです。なんかイヤなとこばっかリアルなバンド事情なんだよな。
とはいえ、本作は単に現代のバーチャルバンドをひたすらリアルに、露悪的に描いた作品というわけではない。
途中紹介した通り、本作の主人公たちは全員がそれぞれに他人との関係構築力──こう言ってよければ、コミュニケーション能力に難を抱えている。
主人公たちは多すぎる言葉、あるいは少なすぎる言葉によるコミュニケーション不全によってすれ違い、その関係を危機に陥れる。そして最終的には、言葉に依らない、非言語的なコミュニケーションによってその危機を乗り越えていくことになる。
『ゆめみた』は、「コミュ障たちのコミュニケーションの物語」なのだ。
「会話」してるのにコミュニケーションになっていないコミュ障たち
本作『ゆめみた』は、さまざまな分野で活躍する少女たちが、事務所の意向でバンドユニットとして組まされるというところから物語が始まる。1話はメンバーがはじめてバーチャル空間上で顔を合わせてバンドとしての活動をスタートさせていく回なのだが、そのコミュニケーション機能不全感がすごい。
その最たる例が本作の主人公、仲町あられ。さっきも書いた通り「典型的な喋りすぎるタイプのオタク」で、なんというか身につまされるようなコミュニケーション展開が多い。
自分の好きなことが話題になった瞬間にスイッチのオン-オフが瞬時に切り替わり、高速早口でまくしたてるコミュニケーションを得意としており、会話が終わった後に「軽率に喋らない!」と決意するところまで、なんだかすごくデジャヴュを感じる。オタクならば身に覚えがあるのではないだろうか。
あらためて言うまでもなく、コミュニケーションにおいて言葉(会話)は非常に重要なものだ。けれど『ゆめみた』では、言葉は必ずしもお互いを理解するためのものとしては描かれていない。むしろときにそれは、コミュニケーションの不在をごまかすため、なにかを覆い隠すために使われることもある。
たとえば1話の最後には、あられがかつての親友だった峰月律と偶然遭遇するシーンがあった。
あられがマシンガントークで律が話をする隙を封じてそのまま去ってしまうのだが、これは相手に何かを伝えるための会話ではない。むしろ「本音」のような重たい話題が出てくることを妨げるため、あられが無理やり押し込んだ会話だ。
感情を直接的にぶつけあうような噛み合わない会話は、しばしば「会話のドッジボール」などと揶揄されるが、『ゆめみた』序盤では、誰もドッジボールすらしていない。誰もボールを投げないのだ。
というか投げる力が弱すぎてボールが相手に届いていない。もしくははなから相手に向かって投げる気がなく、明後日の方向に投球し続けている。
「みゅーたいぷ」加入前の律は、過去の炎上騒ぎの際に自分があられに手を差し伸べなかったことを悔やみつつも、それを謝る勇気を持てずに苦しんでいるし、過去に所属していたバンドが自然消滅したユノは、かつてのメンバーに「なぜ辞めたのか」を聞けずに苦しんでいる。「会話をする」ことができていないのだ。
かといって、会話をすることが必ずしも物事を良い方向に導くわけでもない。
バンドメンバーのなかで最も他人の感情の機微に聡いののかは、ことあるごとにメンバーの不調やトラブルに、自分なりの解決策である「おてあて」しに突っ込む……のだが、やりかたに一切の繊細さがないド直球陽キャムーブのせいで、最終的には押し付けがましさに我慢の限界がきたヤコ先生にマジギレされている。
言葉を交わすことは、コミュニケーションにおける最も基本的な行為だ。けれど言葉というものは、発した人間の意図を裏切る。伝えたいことは伝わらず、言葉だけが先行して空回りする。すれ違いや誤解も生まれるし、壊れるほどに愛しても三分の一も伝わらない。
ときには、切り取られた言葉の断片が悪意をもって歪められることもある。あられが過去に経験した炎上騒ぎがまさにそうだ。
「(聞いた!すっごく良いと思う!それに比べて僕は)良くないよね〜。僕的に最悪と言ってもいい」
本来は自分を卑下していた言葉が、後半部だけが恣意的に切り取られたことで、あたかも他人を攻撃するような言葉になり、大きな炎上に繋がった。
意図としてはまったく悪意がなく、また発言全体としてもなんら問題のない内容であったとしても、その一部だけを切り取って読めば、とたんにまったく意味が変わってしまう。これは、第2話で起こったののかとヤコ先生の炎上トラブルでも同じだ。
ヤコ先生の連載とバンドの両立を心配するファンに対して、「ののちゃんがお手当するから大丈夫!」と答えたことが、「(ヤコ先生が)倒れることが前提か?」などと悪意を持ってとられてしまった。
理不尽ではあるが、言葉を使ったコミュニケーションでは、こうしたことは常に起こり得る。良きにつけ悪しきにつけ、言葉というのは常に受け取った側が解釈するものだ。どの言葉の意味を切り抜き、どの言葉を重視するかは受け手が判断するもので、“言った側の意図”というのは、本質的に受け手にとっては関係がない。
シンプルに言ってしまえば「会話は難しい」ということだ。
自分と大きく違う相手と会話するとき──そして基本的にあらゆる人間同士は大きく違うものである──お互いの折り合える一点をみつけることは困難だけれど、そもそも「正しく」意図を伝えること自体が難しい。
『ゆめみた』がそういう作品なのだと理解すれば、第1話の会話劇があまりにうまくいっていなかったことも、言葉が過剰に先行してしまうあられが本作の主人公ポジションであることにも、すごく納得がいく。
何かを伝えようとするとき、人間は言葉を重ねがちだ。
けれど実際には、情報が多ければ多いほど全体図を捉えるのは難しくなるし、余計な誤解を生む可能性も増える。
話すことは、コミュニケーションの最適の手段ではない。相互理解のための手段であるはずの「言葉」は、不理解の発生源でもあるのだ。
ただ「一緒に食事をする」ということがコミュニケーションになる
『ゆめみた』はコミュ障たちの物語だ。
そしてこれは、この物語が半ばバーチャルな空間で展開されていくことにも関係している。というのも、ネット空間というのは言葉によるコミュニケーション空間だからだ。
もうすこし詳しくいうと、情報の空間であるネット内では、言葉を発さないものはそもそも存在ができない。掲示板でもSNSでも配信のコメントでも、そこに書き込まれた言葉だけが「ある」ものとして扱われる。
他方で、リアルの世界ではそうではない。フィジカルな物理的身体をもった人間は、ただそこに「いる」ことが関係性の構築に重要な役割を果たす。「会話がなくても居心地のいい関係」みたいなものに、心当たりはないだろうか。
『ゆめみた』のなかでは、そうしたリアルでしか出来ないフィジカルなコミュニケーションの手段として、何度も繰り返し描かれているシーンがある。メンバーたちの「食事」のシーンだ。
もちろんそれは、ただキャラクターがひとり椅子に座って何か食べている……ということではない。誰かが、ほかの誰かと食事をとっているシーンが、ものすごく多いのだ。そして大体の場合において、そうしたシーンはものごとの(大抵は人間関係の)改善に向かうきっかけのシーンだったりする。
たとえばそれがまっさきに現れるのは、第2話であられがののかと初めてリアルで顔を合わせたシーン。学校の屋上らしき場所で、ふたりでお弁当を食べる場面だ。
このシーンで、ののかはあられに頭突きをし(!?)、異様に強めに握手をし、そしてののかの手を自分の胸にあてて、「ののちゃんの気持ち、伝わったかな……?」と語りかける。
いっしょに食事をすることも含めて、これらはすべてバーチャルな空間ではできない、フィジカルな関わり合いだ。
そしてこのシーン、よく聞くとふたりの会話は絶妙に噛み合っていない。あられはあられで自意識過剰だし、ののかはののかで話を合わせる気がまったくなく、会話自体は完全に誤解を孕んだまま進む。
だが、結果的にはこの食事の場面をきっかけに、「みゅーたいぷ」メンバーの関係が良い方向に向かって動き出すことになる。意思の疎通はまったくとれていないはずなのに、なんとなくうまくいってしまっている。
会話の内容ではなく、ただ「一緒に食事をする」こと自体が、関係性を転換させるきっかけになっている。
こうした「食事」のシーンでもっとも大きいのは、10話で海岸で焚き火を囲みながら「みゅーたいぷ」メンバーがマシュマロを焼く、『ゆめみた』作中屈指の名場面だろう。
ここに至るまでに、ののかが陽キャムーブでヤコ先生をマジギレさせたり、ヤコ先生はヤコ先生でとある人物によって半洗脳状態であったり、ユノは過去のトラウマから「バンド辞める」と言い出したり……などなど、9話サブタイトル「かいさん」そのまま、「みゅーたいぷ」は解散の危機にあった。起きそうな悪いことはとりあえずぜんぶ起こしとけと言わんばかりの大盤振る舞いだ。
けれど、そうした諸々の問題は、全員が火の周りでともに時間を過ごし、お互いの感情を正面からぶつけ合ったことですべてが綺麗に解消……されるわけもなく、なんと問題は一切解決していない。
さらりと一度見ただけだと、「なんかイイ感じになったね」という印象を受けると思うのですが、これすごくないですか?
ののかは無神経ムーブについてこれっぽっちも反省していないし、ヤコ先生の洗脳は解けてないし、ユノのトラウマも別に解消されていない。裏ではとある人物も相変わらず暗躍している。
なにひとつ問題は解決していないのである。
大事なことなので、念のためもう一度言わせてください。
問題はなにひとつ解決していないのである。
「このバンドで天下取ろうぜ!」みたいな目標が全員で共有されるとか、「あいつめっちゃ悪いやつだからみんなでぶっ飛ばそうな」とか、何かしらはっきり「これ」といえる問題解決の糸口が得られたわけでもない。一緒に食事をすることは、相互の理解を深めることには一切繋がっていないのだ。
にも関わらず、「ただ全員一緒に食事をした」だけのこのシーンから、明らかにすべてのものごとが良い方向に展開していく。
「食事」というのはあまりにごく日常的な風景なので、気にしなければ見落としてしまいそうなのだが、『ゆめみた』にはこうしたシーンが何度も登場するし、よく見てみると興味深いシーンも多い。
たとえば、「みゅーたいぷ」崩壊直前の8話では、メンバー4人で食事をしていても、関係のおかしくなりつつあるヤコ先生だけが一口も何も食べないままその場を去ってしまうところが描かれる。このあと脱退騒動を起こすユノは、そもそもこの場にいない。
「食事」をすることで人間関係が固まっていく……というような、ある種「昭和の飲みニケーション」みたいな展開には、一歩引いて考えてみるとかなり奇妙なシーンでもある。
けれど不思議なことに、こうしたシーンにはものすごくリアリティも感じられる。食事と人間関係が結びついているということには、納得感があるのだ。
※面倒なはなしをするので、ここは飛ばして読んでも大丈夫です
ちょっと無理をしてここに説明をつけようとするなら、問題を問題として棚上げにしたまま、お互いがそのまま存在することをただ許容することになる、というのが食事というシーンの本質なのだと言えるかも知れない。
たとえば日本の思想家・千葉雅也は2024年に発行された『センスの哲学』の「おわりに」の中で、次のように書いている。
ところで、食べる喜び、そのナンセンスな強度には、倫理的な意味があると思っています。なにか困難な状況があるとしても、食卓においてはそれを宙づりにする。ビジネスでも政治でも、あるいは学問の世界でも、食事を共にすることは、解釈を異にする者たちの間に緩衝地帯を作り出すことです。食事はその一部ですが、広く言って「社交」という実践にはそういう意義があります。
千葉雅也『センスの哲学』p.250
ナンセンスな強度という言葉には少し説明が必要かもしれないが、要は意味に還元されない「なんだか曖昧にいい感じ」のことだと思ってもらえれば良い。誰かと一緒に食事をすることは、さまざまな問題を脇において、相手を受け入れるということなのだ。
ともに食事をとることの共同体における意味については、実は古くから研究の対象にもなっていたのだが、特にコロナ禍以降で改めて注目されるようになっている。
もうひとつだけ引用させてもらうと、英国の社会学者ノリーナ・ハーツは、コーネル大学のケビン・ニフィン助教による研究成果を例に、ともに食事することは人間を結びつけることになると言う。
消防士の仕事ぶりと食事の関係を調べる研究チームも、同じような結論に達している。コーネル大学のケビン・ニフィン助教のチームは、約1年半かけて、米国の主要都市の13の消防署を調べた。それによると、隊員が一緒に食事のメニューを考え、料理をし、一緒に食べる消防署は、そうでない消防署よりも、消防活動の結果が2倍以上優れていた。
消防活動の結果が優れているということは、より多くの人命が救われるということだ。数分で人の生死が決まるような場面では、優れたチームワークが大きな違いをもたらす。一緒に食事をすることは、友情や、お互いを気にかける心、そしてチームワークを育てる「社会的接着剤」の役割を果たすと、二フィンは考えている。
ノリーナ・ハーツ『The lonely century なぜ私たちは「孤独」なのか』P.165
慣れない引用なんかしたせいで無駄に堅そうな話に見せてしまったかもしれないが、要するにこれ、拳と拳で殴り合った男同士に友情が芽生えたりする、古式ゆかしいヤンキー漫画理論に近いものかもしれない。
赤い夕陽をバックに流れるインストゥルメンタルな音楽に、ほとばしる血と汗と熱いパトス。弾ける筋肉、頬の痛みと砂の味、そしてなぜか芽生える友情。
ロジックで考えようとすれば意味不明としか言えないのだけれど、「とにかくそういうもの」という納得感もある。(あるよね……?)
バーチャルでの繋がりとリアルでの繋がり、その帰結点としての「ライブ」
改めて言うと、『ゆめみた』は、コミュニケーションに難を抱えた「コミュ障たちの物語」だ。
とにかく言葉が湧き出してきてしまうあられは、言葉が多すぎるせいで仲間たちとの関係を築けていなかった。だからこそ、そうした会話やテキストによらない、非言語的なコミュニケーションである「一緒に食事をすること」が非常に重要だったのだ。
そしてこの焚き火のシーンでは、『ゆめみた』におけるもうひとつの重要な「非言語的なコミュニケーション」も描かれている。それが、「歌を歌うこと」だ。
煌々と燃える焚き火を見つめながら、あられたちはマシュマロを焼き、そして歌を作り、「みゅーたいぷ」全員で歌う。
仲町あられは、しばしば「歌でおしゃべりしたい」と言う。
文字通りに受け取ろうとすれば、「歌詞でメッセージを伝えたい♡」みたいな小学校のわら半紙みたいなペラッペラの解釈もできなくはないけれど、ここまで読んでくれば明らかにそうではないことが分かるのではないかと思う。
「歌」を歌うこと、あるいは歌を聴くことは、仲間たちと一緒に食事をすることと同じように、言語を介さないコミュニケーション体験だからだ。
バンドアニメらしく、ライブというのを例にとって考えると分かりやすい。ライブとはただ「音楽を聞く」ということではなく、ライブという世界に参加することだ。同じ場所まで足を運び、同じ時間を共有し、同じ音を身体で浴びる。
そうした体験を演奏者と観客たちとが共有できるのがライブという空間なのであり、これは学ランの男たちが拳と拳で語り合うのと同じような、きわめてフィジカルなコミュニケーション手段だ。こうした非言語的なコミュニケーション手段としての「歌」は、13話のリアルライブへと繋がってゆく。
冒頭でも書いた通り、『ゆめみた』にはバンド演奏のシーンが作中わずかに2回しかない。1度目はネット上での“配信”ライブであり、それは本作が“バーチャルな”ガールズバンドをテーマにしていることを考えるときわめて自然なことだ。
けれどこれまで書いてきた通り、本作はバンドの物語ではなく、コミュニケーションの──「コミュ障たちのコミュニケーション」の物語だ。だからこそ、その締めとなるライブシーンは、バーチャルではなくフィジカルな存在でなくてはならなかったのだと、筆者は思っている。
その意味で、本作はバーチャル空間を題材にしつつ、バーチャル空間の限界を示しているとも言える。
バーチャルライブそれ自体を否定する意図はないが、それでもバーチャルライブとリアルライブでは、決定的な差があるのも事実だろう。
けれど忘れてはならないのが、本作ではバーチャル空間の可能性を描いてもいるということだ。
そもそもの話、バーチャルという空間がなければ、「みゅーたいぷ」──ここからはアニメラストの呼称にあわせて、正式に「夢限大みゅーたいぷ」と呼ぶべきかもしれない──というバンドグループは存在すらしなかったはずだ。
たとえば「夢限大みゅーたいぷ」加入以前、ののかは当時まだ顔も名前も知らなかった「同い年のユノちゃん」の作った音楽を聴いたことで、もやもやした「なんだか変な感じ」から救われていた。
あられは「マジカルフィジカル☆くるる」のファンアートを書いていたヤコ先生を昔から知っていて、それはあられだけでなく、バンドメンバーとして知り合った後のヤコ先生の活力にもなった。
あられと別々の中学校に進学し、関係に距離が空いてしまっていた律は、ネットでたまたまあられの「歌ってみた」を見たことで、再びあられとの関係を深めることができたし、彼女自身が新しい世界に飛び込むことにも繋がった。
ネットという空間は、誰かが誰かと繋がる場所だ。バーチャルであるがゆえにフィジカルな物理的身体が存在できないネット空間は、そこに向かって発信する情報さえあれば誰かと繋がることができる。
顔も、名前も見えない相手と繋がることは、ときに誤解されたり、歪曲されたりすることにも繋がり、「炎上」のようなトラブルとも、切っても切り離せない。けれどそこは、それでも可能性の空間なのだ。
『ゆめみた』のバンドは、メンバーが自主的に組んだものではなく事務所の意向で決められたものだというのは最初にも書いたが、そうしたことが起こったのも、彼女たちがネットという空間でそれぞれの個性を活かした活動をしていたからだ。
ネット、あるいはバーチャルという世界は万能ではなく、リアルでしかとれないコミュニケーションというのはたしかに存在する。けれど、そこに至るまでのすべてのバーチャルな繋がりが、本作ラストのリアルライブへ続いている道でもあったのだ。
『ゆめみた』公式サイトの表現を借りてくると、「夢(バーチャル)と現実(リアル)を飛び越える運命共同体(バンド)」。夢と現実どちらかだけではなく、夢と現実どちらでもあるということが、『ゆめみた』においてはとても重要なことだったのかもしれない。
そんなわけで、いい感じに話にまとまった気がするし、『ゆめみた』について語るべきところは、だいたい語れた気がする。そんなわけで、本稿はこのあたりで終わりにしようと思います。
『バンドリ! ゆめ∞みた』をみたひとには、作品の感想をまとめるきっかけになってもらえれば。また見てないぜ!という人にはぜひ今後の視聴のきっかけになってもらえれば(だいたいどの配信サイトでも観られるよ!)。
コミュニケーションに苦しむ現代日本のみなさん、ぜひ本作をお楽しみください。
……
……
……なんて言うとでも思いましたか???
こんなところで終われるわけないよなあ!?まだ全ッ然語り尽くせてないよなあ!?
なんたってここまで“あの女”の話を一切してないもんなァ!!
そんなわけで、「ビオラ」の話をします。いやさせてください。自分、まだやれます。
本作でいちばんおもしれー女の話、もう少しだけさせてください。

























