ビオラ、そのありえねーおもしろさについて
『ゆめみた』は「コミュ障たちの物語」だと言ったが、あれは嘘だ。
なぜなら『ゆめみた』は、「ビオラの物語」だからだ! もちろん異論は認める。でも本作は1000万%「ビオラの物語」です。
ひとことで言えばめちゃくちゃおもしれー女。
もうひとこと付けくわえるなら、ガールズバンドアニメに居てはいけなかった女です。
バンドアニメって、「倒すべき巨悪」みたいなものって出てこないと思うじゃないですか。
出てくるんだなあ。
火を使う動物って、人間だけなんだって。火を恐れなかったから、文明は発展したの。
だからなのかな? インターネットのあちこちで、毎日誰かが燃えている。
笑っちゃうよね。火種さえあれば、あとはもう見てるだけ。ここでもんだーい。火種って、燃え尽きるとどうなるでしょうか?
さーん、にーい、いーち。時間切れー!
正解は……「まわりが燃える」!
火焔の魔術師にして炎の詩人、あるいはザ・邪悪。令和の司馬懿仲達。
それがこの女、ビオラです。あまりにおもしれー女すぎる。
いわゆる「ライバルユニットのセンターポジション」的な役回りのキャラクターなのですが、ディズニーヴィランですらその凍てついた心の奥に秘められた知られざる物語……みたいな「悪にも理由があるんです」がお出しされる時代に、てっぺんから爪先までペンキで塗りつぶしたような邪悪キャラ。徹頭徹尾邪悪。トーン設定ミスったのか?ってくらい黒い。
視聴者に向けて、いまさら改めて「ビオラがどんなやべーキャラだったのか」みたいなことを語る必要はないと思うのですが、個人的に一番好きな4話のこのシーンだけ紹介させてください。
ビオラクーイズ!
さて、律は何本電車を見送るでしょ〜うか?
正解は……
優等生はそんなことしない♡

メッセージで監視していることを突きつけ、次の瞬間には生命の危機を感じるほどの距離に詰め寄る。
こんな登場の仕方が許されるの、ホラー映画の悪霊とか、そういうタイプのキャラだけだろ。間違ってもバンドアニメに出てきていい類のキャラではなさすぎる。
このビオラというキャラ、律の脅迫だけでなく、あられの過去の炎上を捏造動画でお膳立てしていたり、ヤコ先生を手玉に取って不和の種をばらまいたりとやりたい放題。これでもかと邪悪プッシュされた顔芸シーンも掃いて捨てるほどあるやべーキャラなのですが、でも筆者は本作キャラのなかでこのビオラが一番好きです。
なぜなら、彼女こそ『ゆめみた』という作品自体のアンチテーゼ的存在であり、また『ゆめみた』が提示したテーゼに救われなかったキャラクターであり──そして、もっとも救われたかったはずのキャラクターだからです。
『ゆめみた』はビオラの物語だったんだよ!
これまで語ってきたように、本作の主人公たち──あられや「夢限大みゅーたいぷ」のメンバーたちは、コミュニケーションに不全を抱えたキャラクターたちだった。
他方で、ビオラは圧倒的な「コミュ強」だ。
作中で彼女は言葉によって過去のグループのメンバーを、ファンを、マネージャーを、律やヤコ先生すらも手玉に取る。人間のどのボタンを押し、どのレバーを引けば欲しい反応が出てくるかを完璧に把握しており、その神算鬼謀はまさに怪物的だ。
そしてビオラの言葉は、まわりの人々に“意図的な”誤解を生む。はなから「正しく伝える」という気が一切ない。それは彼女が提示しているのが、「彼女が語りたい物語」ではなく、人々が「求めている物語」だからだ。
このことについて、もうすこし掘り下げて話したい。
1話冒頭のあられの学校シーンで、「我が神田白八馬アカデミーでは、生徒の意思を何よりも尊重し、“やりたいこと”が、いつも心にある人間になってほしい……」というアナウンスがある。そして、あられの目覚まし時計からは、おそらく作中の「マジカルフィジカル☆くるる」由来と思しき「夢はパワー」という発言が飛び出してくる。あられ自身も、折りに触れてその言葉を語る。
つまり「夢」という、自分のやりたいことへの自主性、主体性が輝かしいものとして描く。『ゆめみた』は「やりたいこと」「夢」を持つこと、そのためにひたむきに進むことを肯定している。
『ゆめみた』メンバーは、そちらの側にいる。
彼女たちはそれぞれに「やりたいこと」をしっかり抱えている。あられであれば「歌でおしゃべり」することだし、ユノなら音楽の仕事、ヤコ先生なら漫画の道で生きていくこと。そういう意味での「そちらの側」、つまり自分のやりたいことがあり、それに向かって自主的に突き進んでいくパワーのある人間ということだ。
しかし、誰しもが「将来の夢はなんですか?」「やりたいことはなに?」という問いに即答できるわけではない。
夢を持つことは疑うことなく素晴らしいことだが、夢を「持たなくてはならない」になった瞬間に、それは呪いに変わる。ビオラがいるのは、この呪いの側だ。
ビオラには「やりたいこと」がない。彼女は常に「人に求められていること」を実行し、「人に求められるもの」になろうとしている。言い換えれば、ビオラは「『人々に望まれたい』と望んでいる」キャラクターなのだ。
過去編で登場していた「ららららがーるず」で各メンバーにキャラ付けを強いたように、あるいは「フェアリィブゥケ」で律に対して「優等生」であることを強制させたように、彼女は仲間にも自分にも明確な役割を与えていた。「自分はどんな人間か?」ではなく、「どんな人間であることが求められているか?」を重視しているのだ。
「みんなの妹、ビオラだよ〜」というそのときの自己紹介に猛烈な違和感があるのも、それが決してビオラ自身のキャラクターではないからだろう。
彼女は単に、世間から“幼い女の子”に対して求められる分かりやすいキャラクターを演出しているに過ぎない。本編での暗躍を見た後では、いくらなんでも妹キャラには無理がありすぎるだろうと思うが。
ビオラは「求められていること」をやらない相手を憎む。ファンからの写真撮影を断ったリーダーの歌美を(おそらく手を回して)グループから脱退させたり、求められる役割を拒否して「自分のやりたいこと」を頑強に主張して憚らないあられを故意に炎上させたりする。
彼女が会話によるコミュニケーションを得意とし、また「炎上ネタ」を得意とするのも、「人々が求めている物語」が分かるからだとも言えるだろう。
「みゅーたいぷ」のメンバーは、「いまなにをすべきか」「どうやってするべきか」を悩むことはあっても、自分たちが「なにをやりたいのか」という点については迷いがない。自身の創作物で人を楽しませたい、歌を歌いたい──「やりたいこと」「夢」をポジティブに肯定する彼女たちは、言ってみれば「クリエイター」「アーティスト」だ。
対して、自身が望むことではなく、観客に「求められること」をするビオラは、「プロデューサー」であり「編集者」のようなタイプだと言えないだろうか。
もちろん、全ての「プロデューサー」や「編集者」が自身の意思を持たないと主張したいわけではない。けれど、すくなくともビオラにとって重要なのは「求められること」であり、だからこそ彼女は「ありのままの自分」を出すのではなく、「求められる自分」を作ることを目指す。
「求められているから」ではなく、「やりたいから」歌うことで強い輝きを放つ仲町あられに強い執着を示すのも、そのためだ。
自身で欲望を持たず、他者の欲望に感応してその望むままのものを提供する。これだけみるとほとんど妖怪変化の類だが、悲しいのが、そんな彼女自身はおそらく「夢を持ちたい」と考えていたふしがあることだ。
あたし、輝きになりたかった。みんなを笑顔にして、落ち込んでいる人も、元気が出ちゃうような──。キラキラ、チカチカ──。輝こうと努力すればするほど、偽物になった。偽物の優しさ、偽物の歌、偽物の笑顔、偽物の輝き──。本物以外は、全部偽物。
それでもっ!みんなの喜ぶ顔が、声が、あたしをビオラにする!だからっ、偽物は偽物のやり方で輝くしかないの!
……「花火みたいに、この一瞬で終わらせない」。このセリフは、本当に好きだったな。
わたしだって、みんなとおしゃべりしたかった。
あられのことを回想しながら、「本物」へのあこがれを吐露しながら、いっぽうで彼女は彼女自身であることを裏切れない。自分が「偽物」であることを──ただ「やりたいから」という理由で何かを追いかけられる存在ではないことは認めつつ、それでも偽物として「誰かに求められること」こそが、ビオラにとって最も重要なことなのだ。
この独白の直後、ビオラはたまたま行き交ったファンから一緒に写真を撮ってほしいと声をかけられ、それに笑顔で「もちろん!」と応える。
最後まで、ビオラはビオラ自身であること──「求められる自分」であることを裏切ることができない。
ビオラというキャラは、物語上における「倒すべき巨悪」であったのと同じように、アニメ『ゆめみた』におけるアンチテーゼの体現者でもあった。彼女の最終盤のあまりにあっさりした退場っぷりには、拍子抜けした視聴者も多かったのではないだろうか。彼女のグループ「フェアリィブゥケ」も、ほとんどなんの抵抗もないまま、ビオラ自身の手によって解散に追い込まれる。
本作において、非言語的なコミュニケーション手段として「一緒に食事をする」ことが非常に重要に描かれていることはここまでに紹介してきたとおりだが、その意味で、最後に彼女がグループの解散を告げる際、遅れて運ばれてきたパフェをひとりでついばむシーンは非常に印象的だ。
最後のリアルライブ直前には、まさにそのシーンと対比されるように「夢限大みゅーたいぷ」メンバーが、そろってケーキを食べるシーンがある。あわせて見てみると、ふたつのグループの違い──というより、「夢限大みゅーたいぷ」とビオラとの違いが浮き彫りになる。
物語の最後、ビオラは「ゆめみた」のライブを外から見ている。さきほど挙げたシーンで「わたしだって、みんなとおしゃべりしたかった」と語っていたビオラが望んでいた“おしゃべり”というのは、本当はこのような形だったのではないかとも思える。
言葉を使うのが下手なのに、同じ場所と時間を共有することで本物の関係を作った「夢限大みゅーたいぷ」と、言葉でどんな人とも巧みにコミュニケーションが取れたのに、最後まで仲間を持てなかったビオラ。
それぞれがただ「やりたいこと」をやっていただけなのに、多くの人に求められるバンドグループになった「夢限大みゅーたいぷ」と、ただ「求められる」ためにグループを作っていたのに、最後にはそれを自らの手で手放したビオラ。
『ゆめみた』という作品が持っているふたつのテーマと言うべきものは、つまるところビオラという対極の存在によって成り立っている。だからこそ本作は「ビオラの物語」でもあるのだ。
ビオラというキャラクターが、『ゆめみた』という作品、仲町あられと「夢限大みゅーたいぷ」にとって相反する存在だったように、最後まで自分を変えられなかったビオラにとってもまた「夢限大みゅーたいぷ」は否定すべき存在だった。
筆者はどうしてもそんなビオラが嫌いになれない。
自分がどうやっても持てなかったものを持っているあられたちへの絶望的なまでに深い羨望も、ビオラの中に見えるように思うからだ。













