名作アドベンチャーゲームの構造
MC:
アドベンチャーゲームは、アニメや映画と比べて、何がおもしろいのか? すべてを手がけていらっしゃるイシイさんに、ぜひ聞きたいなと思っていた質問です。ゲームならではのおもしろい部分ってどこなんでしょう?
イシイ氏:
先ほどシミュレーションゲームの話で脱線しましたが、アドベンチャーゲームというのは、本質的には映画やアニメができないことができるもの、という特徴があるんですね。というのも、小説も映画もアニメも、これらは作り手とお客さんとの会話でしかないんです。これはわかりますね? 書いた人の世界をお客さんが見る、受け取るということしかできない。ですがここにプログラムというものが介在するのがゲーム、アドベンチャーゲームです。プログラムが介在することによって、プレイヤーの行動や視点を、作家側が知ることができるんですね。つまり「何がしたい? どうしたい? どういう気持になるか?」ということを知ることができる。
これをわかりやすく言うと、「2回目になれば、読んだ本があなたのことを覚えている」ということになります。ここを意識して物語を書くと作り方が変わってきます。そしてこれが、アドベンチャーゲームがたどり着いたとよく言われるループの概念なんですね。
MC:
「介入できるところが違うのかな?」というようなコメントが来ています。
イシイ氏:
それはアドベンチャーゲームと、非アドベンチャーゲームの違いを指しているのかな? 基本的にいま僕が話しているものは、アドベンチャーゲームに限らずRPGなどもそうだったという話です。
ホワイトボードがあるので描いていきましょう。フローチャートで示しながら話をすると、もともとサウンドノベル以前にもゲームには物語があって、いまでもほとんどのゲームでそれは変わりません。これが、本来のゲームの構造ですよね。
イシイ氏:
つまり間違えたら死にます。『マリオブラザーズ』も『龍が如く』もそうです。もちろんエンディング手前で分岐が起きていくつか物語が生まれることもありますが、基本的には「死ぬか生きるか」の概念のみで物語は作られていました。
イシイ氏:
これがサウンドノベル登場後にどう変わるかというと、スタートから、基本的にはこのようなツリーに分かれていきます。
イシイ氏:
『弟切草』はこの型ですが、マルチストーリーという概念になったわけですね。これはマルチエンディングじゃなく、マルチストーリーですね。これは重要です。物語が複数ある。つまり、たとえばヒロインが殺人者だったり、悪魔だったりすることもあれば、本当に可哀想な恋人だったりすることもあると。
MC:
どれが正解という話ではないと。
イシイ氏:
ええ、物語の意味が変わりますからね。同一の設定によって、いろいろな物語が見られるということ自体が、じつはサウンドノベルが発明したことのひとつです。もちろんこういう構造の物語は、なかったわけでないんですが、それをしっかりとゲーム化したのがサウンドノベルなんですよ。この構造が生まれたときに何が起きたか。
先ほどの縦一本道でGood、Badに分岐するシステムは、何度プレイしても物語に矛盾が起きないんですよ。死んだか生きているかだけですから。死んだか生きているか、正解か不正解だけです。ところが『弟切草』型の物語だと、Aという物語、Bという物語、Cという物語は矛盾するんですね。
MC:
ヒロインの設定が変わったりしていますからね。
イシイ氏:
そう。つまり、これを整合すること自体が、言い換えれば「整合性を保たないといけないんじゃないか?」という考えが、作家側にもプレイヤー側にもじつは発生します。これが負荷であり、ループ構造を考えるときのいちばん最初になります。タイムトラベルではない、「並列世界を同一の平面上で見てみよう」という考え方です。どうですか? こういう話。いいのかな……。
MC:
このノリでいきましょう。着いてこられる人だけ着いてきてください。
ループ構造の使い方こそ、ノベルゲーム制作の腕の見せどころ
イシイ氏:
こういうことを意識してノベルの話を書こうとすると、ただの映画っぽい話をノベルにしようとしてもあまり意味がないと気づくので……。
MC:
コメントでは、Keyブランドや『ひぐらしのなく頃に』のような、“THE一本道”みたいなものは、ゲームとしてはどうなんですか? というような質問が届いています。
イシイ氏:
もちろん、いましている話を通ったうえで、なぜ『ひぐらし』のようなことが起こったのか? という話に突入する予定です。
MC:
そうですね。『ひぐらし』はちょっと違うんですよね。
イシイ氏:
『弟切草』のループの後に、これを意識的にやったのが『かまいたちの夜』のフローチャート型なんです。フローチャート型というのは、ゲームとしてはじつはクラシックなものです。ただ『弟切草』型のループ概念と、フローチャート型がいっしょになった瞬間に何が起きたかというと、これもまた発明なんですが、すべてバッドエンドという形が生まれたんですよ。コメントで尋ねられている『シュタインズ・ゲート』は、最初に書いた縦一本のタイプですね。『ひぐらし』といっしょです。
イシイ氏:
こういうふうにツリー状の物語になる。でも物語を進めていくと、バッドエンドにしかたどり着かない。皆殺ししか起きない。これは本当によく見る形ですよね。バッドエンドしかないんです。『ひぐらし』もそうですし、『まどか☆マギカ』もそうです。そしてこの話のどこに出口があるかというと、入り口にあるんです。
MC:
「生まれる前から、何かを防がないと」みたいな感じのアレですね。
イシイ氏:
そう、これでGoodエンドですね。トゥルーエンドという概念は難しい。トゥルーエンドなのかグランドエンディングなのか、いろいろな言い方があるのですが、とにかく入り口に出口があるんです。そこでは人の死なない、幸せなエンドを迎えます。他のエンドは皆殺しの最悪なもの。この形を作ったのは、『かまいたちの夜』ですね。ところが『かまいたちの夜』って、フラグが管理されていないので、じつはGoodエンドに最初から入れるんですよ。
MC:
え? フラグが管理されていないという状態が、わからないのですが。
イシイ氏:
ほとんどのゲームは、最初からGoodエンドにたどり着くことはできません。
MC:
そこへの選択肢がそもそも出ないからですね。
イシイ氏:
そうです。つまり死んでから初めてフラグが立ってGoodエンドが開かれるんですね。ですが、『かまいたちの夜』は最初から入れるんです。つまりゲームに慣れている人には、最初から何も起きないんです。極論で言えば、『かまいたちの夜』と言いながら、殺人も何も起きなかったみたいな感じになるんですね。このようにシステムでフラグを管理していないのに、みんな選択を誤って死体の山を作るわけですよ。つまり「悪いのはあなただ」、「あなたが間違えたから、この悲劇は作られている」とゲームシステムに翻弄されるのが『かまいたちの夜』のスゴいところなんです。
このフラグ管理は『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』でも、なされています。ただし『YU-NO』のGoodエンドへの入り口はフラグで管理されていて、この一点が『かまいたちの夜』との違いなんですね。
MC:
『かまいたち』では、Badエンドを選んだのが自分のせいになってしまうんですね。
イシイ氏:
そうなんですよ。そのリスクをゲームバランスでコントロールしているというのが『かまいたち』の神懸っている部分なんです。『YU-NO』にしても『かまいたちの夜』にしても、プレイヤーが体験したバッドエンドや悲劇を、どこか手前で回避できるキーがあって、そこを見つけて回避するという、一種のタイムトラベルに近い構造の物語なんですが、『かまいたち』ではゲームでそこをメタに表現しているんですね。
MC:
ぼくは、この悲劇をなくすために『かまいたちの夜』を何度も何度もプレイしていたんですね。
イシイ氏:
その何度ものプレイを『YU-NO』はタイムトラベルと言いましたし、『シュタインズ・ゲート』でもわかりやすかったからかタイムトラベルと表現しています。そしてこの構造が次はギャルゲーに利用されるわけです。続いて分岐の話をします。
意味のない分岐に意味を持たせたらマルチシナリオシステムができた
イシイ氏:
分岐というのは、一方がGoodで、他方がBadだったら意味がありますよね? つまり、Goodなら生き、Badなら死にます。これは意味がある分岐です。一方、チュンソフトの社内用語ですが、“提灯分岐”という、選択しても本筋に戻ってくる、どっちへ行ってもいっしょの分岐って、あまり意味がないですよね。ゲームに賑やかしとして入っているものです。でも、これがじつは『街』のマルチシナリオシステムにすごく活きてくるんです。これは『かまいたちの夜』や『弟切草』では、あまり意味がない。
MC:
料理が出てきたときに「どれを食べる?」みたいなものがありましたが。
イシイ:
そうそう。「こういうセリフ言ったよね」みたいな。右の分岐図は生と死が重要であって、それぐらいでないと選択肢にあまり意味がないんですよ。
このときに「いやいや、意味はあるでしょ」と作られたのが、『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』のビアンカとフローラ、あとデボラも、というような選択肢なんですよね。つまり可愛い女の子たちがいて、「幼馴染と令嬢のどちらを選ぶの?」という選択は、男にとって生か死かぐらいの感じなんだと。つまり、このサウンドノベルの生と死の分岐構造にキャラクターの選択を入れ込んだのがギャルゲーですね。これで意味のある分岐になったわけです。
MC:
でも『ドラクエV』ほど意味のある選択って、ほとんどありませんよね。だいたい枝葉に行って終わってしまわないですか?
イシイ氏:
そうそう。枝葉の話になったときに、「けっきょく誰を選ぶの?」 つまり、「ビアンカを選んだけれど、フローラもいいじゃん」みたいな話は出てきます。「どっちも選びたいよ」となったときに、ギャルゲーで、なんだかんだと編み出されたのがトゥルーエンドです。
MC:
(笑)。
イシイ氏:
「何やねん」みたいな話ですが(笑)。つまり『かまいたち』で“誰も殺さないエンディング”だったものが、ギャルゲーでは、「みんなええやん」というエンドや、バタフライエフェクト的なものですが「誰も選ばない」というエンドなどになったと。そして「ビアンカを選んだとき、イチからフローラを選んでやり直すのも面倒だ。だから縦に繋がっていればいいんじゃないの? ビアンカを選んだけど、ビアンカを選ばなかったら次はフローラ、フローラを選ばなかったら誰々」というようにこれらを縦に並べたのが、『シュタインズ・ゲート』なんですよね。
イシイ氏:
そしてこれらを「ゲームじゃなくてもいいよね?」という感じで並べたのが『ひぐらし』。『ひぐらし』も、どちらかというと『かまいたち』型で、個々のエピソードで死んで、また生き返ってという縦型です。
MC:
どれにしてもループものなんですね。
イシイ氏:
ループの概念を使っています。「ではループの概念を使わずに、もっとおもしろいことができないか?」と考えられたのが『街』のシステムですね。
今度はマルチシナリオシステムについて。これは『EVE burst error』や『バイオハザード』のマルチシナリオと『街』がよく比べられますが、『街』は発明上まったく違うものだというのを言っておかないと、みんな間違えて言うので。
イシイ氏:
Aの下の分岐ですが、これがBadエンドだったら、ここは他人分岐と言うんです。先ほどまでは、プレイヤーが分岐先を自分で選べていたのですが、このAという人は、最初は勝手にBadエンドに行ってしまうわけですよ。しかも、その下の繋がっていないルートが正しいと。
でも、Bのプレイを進めて現れた提灯分岐で、1番のフラグを動かすと、Aの繋がっていなかった部分がクリアになって、下に行くことができるようになる。つまり自分で分岐するわけじゃなくて、他人で分岐するんです。これがマルチシナリオ、マルチサイトのシステムですね。わかります?
MC:
Aが事件を解決したいんだけど、おばちゃんに捕まって延々と話を聞いていたらバッドエンドになったが、Bのほうでおばちゃんを倒すと、Aの方ではそれがありませんでした、みたいな話ですね。
イシイ氏:
「鍵を開ける」と言うのがわかりやすいですね。Aは鍵が閉まっていて扉が開けられなかったけど、Bが鍵を開けたら、Aの鍵が開いた。こういうのがマルチサイトなんです。
このマルチサイトは、ふたりのキャラクターであれば、Aが進まないのはBのせいと決まるんですが、C、D、Eと人が増えていくと、「どこが鍵なの?」という話になってきます。しかも鍵の時間軸も微妙にずれていたりするんですよね。あるフラグを触るために、ほかの人の過去のフラグを触らなきゃいけないということが起き、それが複雑なので、じつは『街』や『428』は、1時間単位で切ったんです。
イシイ氏:
本当は鍵なんていつ開けてもいいわけですよ。いま10時間前のものを開けて通じてもいい。ですがあまりの複雑さが生じるので、1時間単位で切って、その中でのやりとりに限ってコントロールしているんです。
これをすることによって、とても複雑な物語のシステムが生まれます。他人に影響を与える物語というのは、映画で書こうにも複雑で、その複雑さを本当に実感できるのがマルチサイトの書き方なんですね。これにループ概念を入れたのが『タイムトラベラーズ』です。
こういう考え方が一度頭に入ると、映画では書けない仕組みの物語も意識して書けるようになるので、皆さんもぜひこういうのをなんとなく頭に入れて、物語を書いていただけたらいいなと思います。
MC:
コメントだと、「『SIREN』とかそうだね?」と書かれていますね。
イシイ氏:
『SIREN』もそうですね。『街』から影響を受けているというのを、ディレクターの外山(圭一郎)さんとの対談で聞いたことがあります。