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映画『8番出口』は「ゲーム」をどのような手法で「映画」にしたのか。見た目だけでなく「ゲームならではの構造」を映像化。 単なる実写化の枠を超えた、ゲーム原作映画の「新しい地平」を考える

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映画『8番出口』観てきた。映画館には子供から大人まで、幅広い観客が詰めかけ、私が観た上映回はほぼ満席だった。

まさかこんなことになるとはゲームの『8番出口』がリリースされた当初には考えもしなかった。

子供から大人まで、多様な人々が一か所に集った劇場で「あの通路」を目撃することになろうとは。

 思えば私はSwitch版の『8番出口』を自分の息子と一緒に遊んでいる。なぜ遊んだのかと言えば、息子がYouTubeの実況プレイ動画を観てこのゲームに強い興味を示したからだ。

 『スーパーマリオ』シリーズ『星のカービィ』シリーズ『マインクラフト』を一緒に遊ぶのと同じように、私たち親子は『8番出口』を一緒にプレイした。その流れで『8番出口』フォロワータイトルも何作か遊んだ。

『スーパーマリオ』や『マインクラフト』の映画が大ヒットしているの昨今だが、YouTubeなどの実況を通じて子供たちに浸透した『8番出口』の映画に子供たちが詰めかけるのも、また自然な流れなのだろう。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

 誇張抜きに大ヒットした映画『8番出口』だが、率直に言って非常に面白い作品だった。ゲームを題材にした映画として新しい地平を築いている一作と言ってしまっていいだろう。

 では、映画『8番出口』はシンプルな原作のゲームを、どのような形で物語を持つ映画に翻案したのか。本記事では、ゲームと映画という異なるメディアの違いなども踏まえつつ考えてみたい。

文/Hamatsu
編集/りつこ

※本記事には映画『8番出口』のネタバレが含まれています。未視聴の方はご注意ください。


ゲームによって感覚が「開く」

この映画を観た多くの人が指摘し、映画の制作者自身も述べているように、映画『8番出口』の大きな魅力として、他人のゲームプレイを「観る」面白さがある。

映画『8番出口』は、主人公の主観ショットの長回しから始まる。

このショットはゲームさながらの主観視点で、ゲーム『8番出口』をプレイした人ならおなじみのあの通路に迷い込み、何度もそこを歩かされる。

通路がループしていることに気づく瞬間、視点が主観から客観に切り替わってームプレイヤーたる、この映画の主人公「迷う男」の狼狽する姿が映し出される。

この瞬間の、ゲームと映画がバトンタッチするかのような手際の良さはお見事である。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

このシークエンスを経て、ゲームをプレイした人なら経験した/引っ掛かったであろう異変の数々が、ゲームをプレイしたことのない人にも端的に伝わる形で映像化される。主人公が見慣れた異変に見事に翻弄されていくさまを観るのは、シンプルに楽しい。

私はゲームというメディアは、特定のルールに沿った世界へとプレイヤーを放り込み、ある種の感覚を「開く」ものだと考えている。

実在の車が多数登場するゲームをプレイすれば、現実においても車に対する感覚が「開かれる」し、実在の都市が舞台になったゲームをプレイすれば、現実においてもその土地に対する土地勘みたいなものが「開かれる」。

海外でCM化までされた『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のあまりに有名なアマゾンレビューなどは、ゲームによって感覚が「開かれる」例の最たるものだろう。

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(画像はAmazon.co.jp: ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドより)

映画『8番出口』において、「迷う男」はあからさまに、感覚を「閉じた」状態から物語が始まる。

耳はイヤホンで塞ぎ、目はスマホに釘付け。電車内で赤ん坊が泣き出した際、母親に怒鳴り散らすサラリーマンがいれば、その存在に気づきつつも、見て見ぬふりをする。

そして、別れる筈だった恋人からの着信で「妊娠した」ということを告げられても、その置かれた状況に対して何もリアクションすることができない。

そんな「閉じた」主人公が、異変を見つけない限り無限にループする通路に放り込まれることで容赦なく、きわめて具体的に感覚を「開か」せていく。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

今まで目の前の状況に積極的にコミットせず、流されるままの「受け身」で生きてきた主人公が、主体性や能動性を突き付けられる。

翻弄されつつもそれを受け入れて立ち上がるまでが、主に言葉による説明ではなく状況と行動の描写によって描かれるのだ。

この序盤の第一幕の段階で映画『8番出口』が高い志とそれを適切に具体化する技術、手法によって作られた映画であることがわかる。

恋人を妊娠させたことによる状況の変化、自身が子供の親になることに戸惑う主人公。これを言葉だけで説明してしまえば、きわめて手垢に塗れた凡庸な主題である。

だが本作は、主人公を容赦なくゲーム的状況に放り込むことで、半ば強制的に感覚を「開か」せ、リアクションに乏しい主人公からアクションを引き出していく。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

この構造は「プレイヤーの感覚を開く」というきわめてゲーム的な仕組みの活用にほかならない。ゲームを原作とした本作ならではの手法が、ありふれた主題に新鮮さをもたらしているのだ。

このあたりには、本作の脚本と監督補を務めた平瀬健太郎氏の師匠にあたる、佐藤雅彦氏の影響が窺える。

「新しい手法が新しい作品を作る」という直系の考え方が、映画『8番出口』においても適用されているということなのだろう。

だが、本作の序盤を新鮮な驚きと共に大いに楽しみつつ、この映画を観る前から感じていたもう一つの不安もまた広がっていく。

この映画、まだ全然序盤なのに、ゲーム由来の楽しいネタの大半をもう使っちゃっていないかと。

もちろん、すべての異変を出しつくしたわけではないし、映画オリジナルの異変だって用意されている(実際に序盤でも登場する)。

だが、本作は、序盤の段階でこの世界のルールを説明し、それを把握した主人公が翻弄されつつも理解し、突破しようと決意するまでをあまりにも過不足なく描いてしまっている。

正直なところ「じゃあ、この映画はこの後どうするの」という期待よりも、不安のほうが上回っていた。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

そんな私が勝手に感じていた不安は、きわめてゲーム的なかたちで裏切られることになる。

拡張されるゲームルール

この映画の最初の主人公「迷う男」がひと通りの異変に遭遇し、一度は倒れ伏しながらも再び立ち上がって通路に立ち向かおうと決意した時、彼の目の前にひとりの子供が現れる。

ここでは「迷う男」のふるまいに注目したい。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

この時彼は、通路に佇む子供を目にして、迷うことなく「異変」だと判断し、即座に通路を引き返す。この時の彼の行動に迷いはない。すでに一つ一つの異変に素直にリアクションをとるタイミングは終わっている。

ゲーム世界に馴染みつつ感覚を「開く」時間は終わり、情報を適切に処理し、裁いていく攻略のターンが始まっているのである。

しかし、「異変」だと思った子供の存在は「異変」だとはカウントされない。

つまり、彼は自分と同様にこの世界に迷いこんでしまったひとりの人間なのだ。ここで映画「8番出口」はシングルプレイのゲームではなく、複数人数で同時プレイするマルチプレイのゲームに変化する。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

さらに、ふたりで通路の攻略を決意した「迷う男」が何度も同じように歩き、すれ違い続ける「おじさん」を、もはや人間ではなく「この世界の一部」として扱い始めたその時。

「少年」の回想という形で、映画の視点は「おじさん」に切り替わる。

このゲームは複数人での同時プレイが可能であること。そして、実は複数の主人公が個別にプレイしているということ。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

映画『8番出口』は序盤を終えて中盤に移行するにあたり、ゲームには存在しなかったふたつのルールを提示する。

ここで、私が第一幕の終わりに感じていた不安は解消される。

この映画は単に原作のゲーム体験を映像化したものなのではない。ゲームルールを更新/拡張し、それを通じて物語を描こうとしているのである。そしてその試みは、見事に成功している。

ゲームに「ハマって」しまうおじさん

「歩く男」こと、ゲーム『8番出口』をプレイした人ならおなじみの存在「おじさん」

まず、彼もまた通路に迷いこみ、異変を血眼になって探すプレイヤーであったことに驚かされた。しかし、それ以上に印象的なのは、彼が思った以上に、このゲームプレイにドハマりしていることである。

0番から始まって異変の有無を適切に見抜ければ1、2、3番とカウントアップしていく通路の表示。

それを確認し、出口に近づいていることを実感して全力でリアクションする「歩く男」は、明らかにこのゲームに、複数の意味でハマっている。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

彼の傍らには道中でたまたま遭遇した「少年」がいるのだが、ポイントは異変の探索と攻略を「歩く男」が単独で行っていることだ。
「歩く男」は大人の男性として「少年」を連れて歩いてはいるが「ひとりのゲームプレイヤー」としては認識してはいない。

「歩く男」にとって「少年」は、あくまで彼の道のりのお荷物でしかないのだ。彼はどこまでもシングルプレイでゲームをクリアしようとし、「少年」を同じプレイヤーとはみなしていない。

かと言って「歩く男」は「少年」をあからさまに邪険にするわけではないし、乱暴な言動や行動をするわけでもない。

むしろ常に「少年」を気遣う言動やふるまいをするくらいには大人なのだが、「歩く男」を演じる役者の絶妙な演技力もあいまって、明らかに子供を邪魔だと思っていることが透けて見える。

とにかくこの「おじさん」、なんか怖いのである。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

このあたりの「おじさん」こと「歩く男」の状況や心情については、小説版『8番出口』にはで詳述されているが、余計な説明なしにその「不穏さ」を表現してみせた映画の方が、より表現として洗練されていると言えるだろう。

 そして、目の前の状況にハマり過ぎて視野狭窄に陥った「歩く男」は、実は誰よりも異変に対する洞察を備えた「少年」の視点に気づくことができない。

最後まで「少年」をひとりのゲームプレイヤーとして尊重することはできなかった「歩く男」は、原作ゲームをプレイした人ならおなじみの仕掛けに見事に「ハマって」しまう。

「歩く男」がゲームオーバーを迎えたところで、視点は再び主人公である「迷う男」へと戻る。

シングルプレイから協力プレイへ

残念ながら「おじさん」こと「歩く男」は、ゲームクリアすることが出来なかった。

彼が失敗した最大の要因は、最後までゲームをひとりでプレイしてしまったことである。

もうひとりのプレイヤーである「少年」の視点をほんの少しでも尊重することができれば、「少年」の視点に寄り添うことができれば、彼には別の未来があったのかもしれない。

「歩く男」のプレイがバッドエンドを迎えたことで、再び視点は主人公である「迷う男」に戻り、彼は「少年」と共に8番出口を目指そうと歩きだす。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

そして、早々に転機は訪れる。

「おじさん」こと「歩く男」が最後まで見落とし、視野に入らなかった「少年」が注視するドアノブの「異変」に、主人公の「迷う男」は気づく。

つまり、彼は自分とは異なる視点をもった「他者」の重要性に気づくことができたということだ。

『ゼルダの伝説』ならダンジョン攻略必須アイテムである「ブーメラン」とか「弓矢」を獲得したときに鳴る音楽がなっていいくらいの重要な転機である。チャルメラ~♪

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

すでに述べたように、ゲームというメディアはある種の感覚を「開く」ものである。

だがある程度ゲームに習熟した段階で「開く」時間は終わって、プレイに没頭する時間が始まる。

「少年」という新しいゲームルールに遭遇したにも関わらず、「おじさん」は感覚を「開く」のではなく自身のプレイスタイル、自分の完結した世界に没頭し続けた結果、抗い難い魅力を放つ巧妙な罠に引っ掛かってしまった。

私もゲームの『8番出口』で同じものに遭遇し、異変だとわかっていたのに、自分から引っ掛かりにいってしまった。

いっぽうで「迷う男」は「少年」という新しいゲームルールに遭遇することで、新しい視点を獲得し、感覚を「開き」、異変を発見することができた。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

結果的には大きな明暗を分けることになった「歩く男」と「迷う男」だが、両者の違いは本当に紙一重の差でしかないように思う。

少なくともこの映画においては「どちらかが明確に優れていて、もう片方があからさまに劣っている」といった描き方はしていない。

主人公の「迷う男」がおじさんこと「歩く男」と同様の結末を迎えた可能性も、決して低くはなかっただろう。

「少年」に対するふたりの大人の男性の振る舞いについて、映画的、物語的な読み解きはいくらでも可能だ。この映画の主題そのものが、「少年」との関係性にあるのは間違いない。

だが私は、あくまでも「追加されたゲームルールに対応出来たか否か」で明暗が別れたという、きわめてゲーム的な形で結果に差をつけた点を私は評価したい。

新しいゲームルールに対応するとは、自身の視野や世界観を拡張することに他ならないからだ。

つまり「迷う男」は「少年」との出会いを通してひとつ成長し、それゆえに目の前の困難を突破できたのである。

ゲームという形式、ゲームという自身の感覚を「開く」という感覚拡張システムを最大限活用することで、この映画は「成人男性の成長」を描くことに成功している。

感じて、判断して、行動する

映画の最後に、数々の「異変」に遭遇し、それを乗り越えた果てに、「迷う男」はついに8番出口にたどり着く。

だが8番出口は、地上への階段を上るゲーム版の出口とは異なり、より深い地下へと向かう階段を下った先に存在していた。そこで「迷う男」は再び電車に乗り、物語は映画の冒頭へと繋がっていく。

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(画像は『8番出口』予告【8月29日(金)公開】YouTubeより)

無限にループから脱出した先で、またループが始まる。こうやって書いてる情報だけでは‟バッドエンド感”が凄いが、映画から受ける印象は真逆だ。

なぜなら「迷う男」にはループを彷徨い尽くすことで味わった体験、経験がその身に刻まれており、その過程を我々観客も目撃しているからだ。
 
多くのゲームは、判断と行動の連続で成り立っている。何かを感じとり、それを適切に判断し、コントローラーの入力操作という行動をする。その連なりによってゲームプレイは出来上がっている。

ゲーム『8番出口』は、きわめてシンプルな世界観と操作系でありながら、この「感じて、判断して、行動する」というゲームプレイの根幹のみ、本質のみで成り立っている、すごいゲームである。

その幹が強く太いからこそ、多くのフォロワーを輩出し、一種のジャンルを形成するまでに至ったのだろう。

映画『8番出口』もまた、最後に何かを「感じて」「判断して」「行動する」ことで終わる。

このゲームを原作とした終わり方としては、これ以上ない終わり方だと思う。


「感じて、判断して、行動する」ゲームプレイとは、どこまで行ってもその連続であり、ループである。

つまり、この映画の達成とは、ビデオゲームというメディアの根本的な性質そのものを、映画という異なるメディアへ接続することに成功していることだ。

まったく予想しなかったところから、すごい映画が登場したものだと思う。

ライター
某ゲーム会社勤務のゲーム開発者。ブログ、「枯れた知識の水平思考」「色々水平思考」の執筆者。 ゲームというメディアにしかなしえない「面白さ」について日々考えてます。
Twitter:@hamatsu
編集者
ゲームアートやインディーゲームの関心を経て、ライター/編集をしています。

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