アンチホラーゲームから始まった『SIREN』
――では、もう一度外山さんのゲームに話題を戻して、『SIREN』の話をお伺いさせてください。このゲームは、最初の『零』の翌々年の2003年に発売されているんですよね。
柴田氏:
確か、『零』の二作目の発売と『SIREN』が同時期で、そこで初めて外山さんと対談させていただいてるんです。
外山氏:
ああ、そんなのあったね。青山墓地を巡りながら、会話したんですよ(笑)。
柴田氏:
しかも、対談の前に『SIREN』のサンプルROMが送られてきたんですが、PS以前のゲームみたいなねちっこさがあって、ソニーっぽいオシャレさが全然ない(笑)。私は対談の予習のために発売前に1週間やりましたけど、それだけ時間があればクリアできると思っていたのに異常に難しくて「なんだこれは……」となりました。
ただ、ホラーは特殊なジャンルで、濃いファンの人が多いし、怖くすればちゃんとプレイしてくれる人も一定数いるんですね。そこに「賭けた」作品なんだと思います。
――実際、『SIREN』は、ホラーゲームが好きな人たちに「最も怖い作品」として、しばしば名前を挙げられるタイトルなのですが、どういう経緯で作られたのでしょうか。実は外山さんが『サイレントヒル』を作られてから、4年の時間が流れているじゃないですか。
外山氏:
僕はその後、コナミから当時のソニー・コンピュータエンタテインメント(以下、SCE)に移ってデザイナーの仕事をしていたんです。もちろん、ディレクターの仕事はしていません。当時の僕は、『サイレントヒル』の制作を終えて、「自分はディレクターに向いていない」と判断してしまったんです。
――ええ!? ゲーム史に残るようなゲームを26歳でディレクションしたのに……。
外山氏:
先ほど言ったように、コンセプトをまとめ上げる部分は悪くなかったのかもしれないけど、やはりチーム運営の人間関係みたいなところで苦労してしまったのが辛かったんでしょうね。ディレクター職に「逃げ」の気持ちがありました。
――それで4年の空白が……。でも、26歳の年齢でPS以降のゲーム開発のような複雑なディレクションは、そもそも難しいような。
外山氏:
やり直そうと思ったのは、その後に当時のSCEで参加したチームでの経験を経て、まぁ『サイレントヒル』の自分の仕切りもそりゃ良くはなかったけど、でもそこまで気にする必要もないレベルだったのかな……みたいに思ったという(笑)?
一同:
(笑)
外山氏:
ただし、もちろんディレクターをやりたいと言うからには、「絶対ここでウケなきゃいけない」と思いました。その意味で『SIREN』は鉄板の企画にしようという想いはあったんですね。
――それが、Jホラーの文脈に寄せることだった、と?
外山氏:
ええ。そして、再びホラーゲームを作ると決めたときに、もう「バイオ」以降のホラーゲームのお約束を徹底的に見直して、破壊してやろうと思いました。
そこで、最初に禁じ手をいくつも決めたんです。
探索して消費アイテムを拾い集めるとか、要所で巨大クリーチャーボスが登場とか、よくある展開はなし。アイテムを使えば一瞬で体力回復ってのも、よく考えるとリアリティがないのでなし(笑)。
柴田氏:
『SIREN』は2発くらい攻撃を食らったら、普通に死にますからね(笑)。
外山氏:
あと、「バイオ」以降、連綿とパズル的な謎解きが続いているじゃないですか。『サイレントヒル』でも謎の紋章をどこかにハメたりとか、書いていた自分でも「何じゃそりゃ」と思ってましたからね。僕たちは、それを「ハメもの」と呼んで、禁止したんですよ。
柴田氏:
え、でも『SIREN』の中にもそういうのあるじゃないですか(笑)。
外山氏:
まあ結局、現実に制作していく中で、この禁じ手の要素はいくつも入っちゃったんですけど(笑)。
ただ、一番気になっていたのは、ホラーゲームでよくある銃弾を拾う仕様ですよね。自分も『サイレントヒル』でやったんですけど、銃弾がこの先に何個落ちているのかわからない中で銃を使う判断をさせていくのは、ゲームとしておかしい気がしたんです。
――戦略性とかはないですよね。とにかくよくわからないので、ちまちま使うしかないという……。
外山氏:
ええ、そうなんです。なので、シーンの最初に銃弾の数をまとめました。
ただし、今の僕は銃弾を拾わせるゲームデザインも肯定的に評価しているんですけどね。
ゲームを作るときって、ホラーゲームに限らず、未知のものへの不安感や安心感の要素を入れるのは大事なんです。残りの弾数が具体的に判明していて、そこで考えを巡らす方が「ゲーム的」であるとは言い切れない。
ま、そういう意味では、全部が全部深く考察した結果じゃないんですよ。単に、当時の僕は「ホラーゲームのお約束を切り崩したい」という想いが先走っていたのでしょう。ただ、『SIREN』はリアリズムを導入したかったので、「最初に何発と決めておく」という手法は良い感じにマッチしたと思います。
――『SIREN』の魅力として、そういうリアリズムもありましたね。
外山氏:
創作を楽しんでいるときに、嘘だと百も承知なのに、まるでそこで語られていることが真実であるように錯覚する瞬間があるでしょう。子供の頃、僕たちは小説内の事柄に感化されたりしたじゃないですか。小松左京さん【※】の『日本沈没』なんて、トンデモな理論なのに迫真性があるわけです。その魔力のようなフィクションの面白さをゲームに取り入れたかったんです。
だから、作家が手癖のように出してくる、ホラーゲームのお約束にもとづく直接的な演出や、ホラーゲームらしい構造はかなり意図的に排除しています。
※小松左京
1931年生まれ。星新一・筒井康隆と共に「御三家」と呼ばれる日本を代表するSF作家。大ベストセラーとなった『日本沈没』は、当時の先端の科学の知識を駆使して「地殻変動により、日本列島は最悪の場合2年以内に海面下に沈没する」という設定が描かれた。
――とはいえ……「『SIREN』がホラーゲームらしさを破壊した」と言われて、納得する人はあまりいないような気もするのですが(笑)。
柴田氏:
いやいや、『SIREN』はホラーゲームを作っている人間からすると、むしろ「やってはいけないこと」ばかりで出来上がっていますよ。そのことがあまり多くの人に伝わっていない気がします。
だって、そもそもホラーって、敵の位置が分からないように作るんですよ。未知の恐怖に耐えながら待つプレイヤーに「ここに敵をこんな風に配置させてビビらせよう」みたいに設計していくのが基本なのであって敵の居場所が分かったら普通は台無しです。ところが、このゲームは「視界ジャック」というシステムを大きな売りにしていますよね。
しかも、「次に何が起きるのか」も、シーンの冒頭でミッションの目的に「日記の発見」なんて書いて、明かしてしまう。なぜこんなシステムにしたのか、どんなことを考えて作ったんだろう、と思うわけですよ。でも、和風ホラーゲームで最初に名前が挙がるようなタイトルになっているわけです。禁じ手だらけなのに。
――なるほど。ただ、そうなるとホラーゲームの基本を禁じ手にして、かつホラーゲームの基本を守っていないゲームが、これほどの恐怖を覚えさせる理由は何なのでしょう?
柴田氏:
例えば、「視界ジャック」について言えば、代わりに敵の「主観視点」という怖さが導入されているのが大きいんですね。しかも、あれは敵の視界は分かるけれども、ちゃんとマップを知らないと場所は特定できないんです。
そんな中で、見えるのは今たくさん敵が蠢いているマップの中の1点だけですから、その点以外の想像をせざるを得ないんですね。すると、今はこうやって見えているけど、他ではものすごいことが起きているんじゃないか……あっちの方はどうなっているんだろうか……と想像力が膨らんでしまう。
ミッションを提示しながら断片的にストーリーが進む仕掛けも、そうですよね。物語が点と点のように繋がっていくので、その間での出来事に、やはり想像力が膨らんでいくんです。
――なるほど。一見してあり得ない演出に見えても、「恐怖を想像させる」という点で、むしろホラーの本質に沿っている。
柴田氏:
ええ。しかも、まさに制作者が恐怖を与えるタイミングを具体的に設計しなくても、受け手が自由に動き回りながら、どんどん想像して勝手に怖くなっていく仕掛けなんですね。
外山氏:
実際、最初に学校のステージを作ったのですが、もうめちゃくちゃ怖くて面白かったんです。自分がトイレに隠れているときに、主観だけが覗き込んできて「あれ、いない」と立ち去っていく瞬間の安堵感とかは、もう実に素晴らしいんですよ。
「視界ジャック」の大変さ
外山氏:
まあ、ただ「視界ジャック」を思いついたきっかけは、ホラー作品じゃなくて『Team Fortress Classic』【※】ですね。当時、チーム内でそれが流行っていて、スナイパーが自分を狙っているのだけが分かる中で駆け引きをしたら、ゲームとして面白いんじゃないかと思ったんです。
それをホラーに持ち込んだら、何か悪意を持った存在が迫っているけれども、その実態は見えないという恐怖を演出できるんじゃないかと思ったんです。僕はインディアンポーカーに怖さを感じるんですが、まさにそういう理屈の恐怖であると思えば、ホラーと相性は悪くなさそうだ、と。
ただ、僕の企画にありがちなんですけど、思いつきはシンプルに、なんだけど作るのが大変っていう。
※『Team Fortress Classic』
1999年にリリースされたValve社のオンラインFPS。元々ロングランタイトルだった同作をライトユーザー向けにアレンジした続編『Team Fortress 2』は、約10年が経った今なおアップデートがなされており、Steam上で最もプレイされているゲームの一つであり続けている。
――現在手がけられている「GRAVITY DAZE」シリーズでも同じような話を聞きますが(笑)、どういうところが大変だったんですか。
外山氏:
ゲームって、基本的にはカメラから見えていないところでは、動きを止めるんです。
でも、「視界ジャック」はいつ覗いても、行動していないといけない。だから、全ての時間でどういう動きをしているか、全て決まっていて動き続けていないといけないんですよ。だから、ドアを開けてくぐるときに、暗転させてピュっと場所を動かすのも出来ないんです。
柴田氏:
「視界ジャック」は、一人の敵の視点になっている最中はずっと映像が繋がってないといけないですもんね。
外山氏:
プログラマたちが頭を抱えていて……(笑)。「ドアノブに手をかけて、開けたり閉めたりするんですか!?」「うん」みたいな。しかも、敵キャラの視界が見える映像を作成してもらったのですが、そのままでは固定カメラみたいで、生きている人の主観に見えないんですよ。で、「どうすれば生きている人に見えるんだろう」と、またみんなで頭をヒネる(笑)。
――『SIREN』の最初の方のシーンで、見張り台から銃撃してくる敵キャラが、銃を持つ腕をうねうね上下させていたのが印象的だったんですが、あれはそのためだったんですね。確かに、腕がうねうねしてないと、監視カメラの映像みたいですね。
毛玉を解きほぐすようなゲームを作りたかった
柴田氏:
あと、「視界ジャック」は、以前にメディアアーティストの八谷和彦さん【※1】の「視聴覚交換マシン」【※2】がヒントになったと言ってましたよね。
※1 八谷和彦
1966年生まれ。東京芸術大学美術学部准教授。日本を代表するメディアアーティストであると同時に、アート外での人気も高い。So-netと開発したメールソフト「ポストペット」の開発者として有名。最近では、『風の谷のナウシカ』のメーヴェの実機を作る「OpenSkyプロジェクト」なども話題を呼んでいる。
※2 視聴覚交換マシン
1993年に発表された、メディアアーティストの八谷和彦による作品。その名の通り、お互いの視覚と聴覚が入れ替わる装置。アイデンティティの境界を曖昧にすることを目的として制作された。1993年にマルチメディアグランプリ展示映像部門奨励賞、1996年には世界的なメディアアートの祭典である「アルス・エレクトロニカ」にてインタラクティヴアート部門入賞。
外山氏:
そうそう。
実は、ここまでの話はストーリーのコンセプトを考えた後のことで、『SIREN』のギミックは後づけなんですよ。だから、最後の方になって佐藤と話したときに、「八谷さんのインスタレーションが面白かったよね」なんてことを話したのも、「視界ジャック」を入れた判断の根拠になっています。
――ストーリーが先にあったんですね。具体的には、どういう作り方になったんですか。
外山氏:
なんか、ぐちゃぐちゃになった毛糸玉みたいなストーリーをドンと渡されて、最初は途方に暮れてしまうんだけど、だんだん「あ、ここ解きほぐせるぞ」と繋がりが見えてきて、最後に「ピーン」と糸が張って気持ちいい――そんなゲームを作りたかったんです。
だから、もう主人公がたくさんいて、時系列も破壊して……という構造ですよね。いやあ、フラストレーションの溜まってた時期に考えたやつだから、割と尖ってますよね。
――先ほどから聞いていると、勝ちにいこうとしていた割に、とてつもない尖り方なのが凄いですよね……(笑)。ちなみに、構想期間はどのくらいかけられたのですか?
外山氏:
当時は、時間はたっぷりありましたから、「誰がどこで何を行動して」というタイムテーブルのエクセルを数年間いじってたかなあ。
――数年間……!
外山氏:
ゲーム構造に登場人物の行動の整合性を収める作業は、ほとんど一人でちくちくやってましたね。その上に、行動の動機付けや設定などを佐藤と協力しながら盛っていって。
もう、同じステージでも「スタートとゴールを違うところにして、この時間をかけてこのキャラが移動するから、ここで出会って、朝と夜が立て続けにならないようにして……」みたいにめちゃくちゃ時間をかけて構築しています。
いやもう、自分で言うのもアレですが、当時は本当に丁寧でしたよ。『SIREN2』以降は、やっぱりそんなに時間がかけられなかったですから。あんな作品、もう二度と作らせてもらえないでしょうね。
柴田氏:
TRPGでゲームマスターとプレイヤーを一人でやっているみたいですね。
外山氏:
だんだん、エクセルの上で羽生蛇村が出来上がってきて、自分の中でキャラが動いていくんです。アセットの開発と並行していた時期もありますけど、だいぶ先行して作っていました。実製作そのものはそんなにかかっていなくて、3年くらいで開発できたんですけどね。
――とはいえ、この尖ったコンセプトのゲームが商業で成立すると思った根拠は聞きたいですね。当時としても、相当にリスキーだったと思うのですが。
外山氏:
いやあ、単に「勘違い」の産物ですよね。
この世界にこの一本のゲームしか娯楽を与えられなかった人間がいたとして、彼を本当に満足させられる作品にしなければいけない……という、だいぶおかしなテンションで作ってましたから(笑)。
一同:
(爆笑)
外山氏:
当時の僕は『ゾーク』【※】みたいな理不尽な洋ゲーが好きだったんです。1ヵ月くらい詰まって放っておいたときに、フッと解けるような感じのを繰り返して、一本を何ヶ月もかけて解くような……。ところが、『サイレントヒル』のGood+エンディングとかもあっという間に解かれちゃったので、もっともっと過剰にしなければいけないな、と(笑)。
※『ゾーク』
1980年にリリースされた、最初期のテキストアドベンチャー形式のコンピューターゲーム。
――とはいえ、そういうスタイルのゲーマーって、当時はまだたくさんいたんでしょうか……。
柴田氏:
『SIREN』発売当時はそういうゲーマーは減っていたと思いますよ。だって、毎週ちゃんとお金がかかったクリアしやすいゲームが出ていた時だったと思います。一度エンディングを見ると、「よし次のゲームを買おう」みたいな。
外山氏:
まあ、『SIREN』のストーリーや世界観が持っている、絶望的な世界観にある“かすかな救い”みたいなエンディングにマッチしていたとは思うんです。あと、もう一つ言うと、当時勃興していたインターネットの口コミは、めちゃくちゃ意識していたんですよ。
柴田氏:
対談で「平成の『ドルアーガの塔』【※】だ」って言ってましたもんね。まあ、難しすぎてそれどころじゃないよ、と思いましたけどね(笑)。
※『ドルアーガの塔』
1984年にナムコより発表されたアーケードゲーム。開発者の遠藤雅伸氏が『ゼビウス』に続いて、手がけた作品。この時期に盛り上がっていたゲームセンター内の情報交換を前提にデザインされており、難易度が非常に高い仕様になっている。
――確かに『SIREN』はネットのHP文化で盛り上がっていた印象があります。
外山氏:
ただ、そういう狙いが本当に完成したのは、「ゲーム実況」が出てきたときでしたね。ゲーム実況者というキュレーター的な存在を一枚挟んだときに、多くの人には咀嚼しきれなかった面白さが伝わった気がします。
やっぱり、発売当初は「難しすぎて解けないから返品したい」というクレームも来たんですよ。
――『SIREN』は、CMも中止になったから、大変だったんじゃないでしょうか……。
外山氏:
いや、あれはむしろスポーツ新聞とかに出て、話題になりました(笑)。セールスが伸び悩んでいたのが、翌日急に品切れになる勢いで、問い合わせが殺到したそうです。
柴田氏:
むしろ、いい宣伝になった(笑)。
ただ、消費スパンが長いゲームだなって思いますね。なにせ絡まった毛糸玉を解いた後に、世界観を考察する楽しみもある。私は、サンプルROMをもらって掲示板でも情報共有できない状態で遊んだので大変でしたが、ネットで情報共有しながらプレイするともっと面白かったでしょうね。
外山氏:
まあ、結果的には時間が経ってみると、「カルト」なゲームにはなりましたね。
柴田氏:
まあ、今はゲーム実況の文化もあるので自分で補足を入れてクリアするのが面白いんだ」というのは、逆に面白さが伝えやすいですけどね。