ケムコといえば、『シャドウゲイト』『スパイvsスパイ』『ドラッケン』といったファミコンやスーパーファミコンのソフトで、多くの人々に記憶されているゲームメーカーだ。また、スーパーファミコン全盛時代に、ゲーム雑誌を読んでいた世代には、“イマイチなメーカー”として表彰されていた姿が記憶に残っている人もいるかもしれない(笑)【※】。
※“イマイチなメーカー”
電撃スーパーファミコン(メディアワークス。現KADOKAWA)で行われた誌上企画。イマイチなメーカーを応援するという趣旨で行われた。
「もうゲーム作ってないんじゃないの?」、昔からのゲーマーの中にはそう思っている人もいるかもしれない。
実は、ケムコは2000年代以降、その活躍の場を携帯電話(フィーチャーフォン)やスマートフォンといった、モバイルアプリ市場へと移している。近年は、同社がフィーチャーフォンやスマートフォンでリリースしてきたRPGやアドベンチャーゲームが、Wii Uやニンテンドー3DSなどのダウンロードソフトとしても配信されるようになっている。
その結果、オールドゲーマーのみならず、ダウンロードゲームを遊ぶ若いゲームファンにも“ケムコ”ブランドの認知が広がりつつある。
そして2017年1月11日には、PS Vita版『レイジングループ』のダウンロード配信が開始された。山奥の村を舞台に惨劇が展開される、長編ホラーサスペンスの『レイジングループ』は、ケムコのアドベンチャーゲームの中でも特に評価が高いタイトルだ。そのため、アドベンチャーゲームのファンが多いPS Vitaのユーザーにも、大きな反響を呼んでいる。
そこでこの記事では、ケムコの現在と『レイジングループ』開発の舞台裏について、株式会社コトブキソリューション モバイルビジネス推進部の黒木めぐみ氏と野吹修平氏のお2人に、インタビューを行った。
記事の前半では、ゲーム開発の拠点を広島に置いているケムコが、家庭用ゲーム機からモバイル市場へと移行し、ゲーム業界の変化をどのように乗り越えてきたかについて。
そして記事の後半では、amphibian(あんひびあん)のペンネームで、『レイジングループ』をはじめとするアドベンチャーゲームのディレクター/シナリオライターとして活躍している野吹氏に、創作に対する姿勢を伺った。同氏がメディアから本格的なインタビューを受けるのはこれが初とのことで、ファンならずとも興味深い話題を多数、聞くことができた。
レトロゲームファンにおなじみのメーカーから生まれた、アドベンチャーゲームのネクスト・ウェーブを、このインタビューを通じてぜひ感じ取ってほしい。
取材・文/伊藤誠之介
カメラマン/佐々木秀二
ファミコン時代のケムコとは、社員がほとんど入れ替わっているんです
――ケムコさんといえば、僕らのような昔からのゲーマーだと、ファミコンやスーパーファミコンでのタイトルが印象に残っています。でも今のゲームファンには、スマホを中心としたダウンロードソフトのメーカーというイメージが強いですよね?
黒木めぐみ氏(以下、黒木氏):
そうですね。もともとは、当社が所属していた企業グループのシステム管理をするために、1984年にコトブキシステムとして設立されました。ケムコというブランドはその当時の親会社の英語名の頭文字をとったものです。
その時にご縁があって、ファミコンのソフトを作ったり、海外のゲームを移植したりしていたのですが、ゲーム機が進化するに従って開発費が高騰するようになって、採算が合わなくなってきたんです。
2004年にケムコというブランド名を引き継いで、今のコトブキソリューションという会社になったのですが、その直前ぐらいから、フィーチャーフォンのアプリゲームに移行しました。その過程で社員もほとんど入れ替わっています。ですから今は、ファミコン時代にゲームを作っていたという社員はほとんどいなくて。社員の平均年齢も20代ぐらいで、かなり若いですね。
――では、昔のファミコンソフトに携わっていた方は、今はもういないのですか?
黒木氏:
会社の上層部には、ファミコンの『真田十勇士』【※】を実際にプログラミングしていた人間とかも残ってはいるんですけど、モバイルアプリの業務とはほぼ関わりがないですね。
――ファミコンに参入した当時のケムコさんは、かなりの勢いがあったのでは?
野吹氏:
ごくわずかに話を聞く限りでは、羽振りは相当良かったみたいですね。ゲームというものが出来始めた時代だったので、とにかく売れたっていう感じで。ただ、さきほど黒木がお話ししたように、私たちの世代とはほぼ断絶しているんですけど。
フィーチャーフォンのビジネスは、今の我々のトップにいる黒川という者が、2001年から始めたものでして。そこから新しいケムコが始まったという感じです。
広島でのゲーム開発は、他社との交流がないぶん、独立独歩でやっていけます
――ケムコさんがフィーチャーフォンやスマホでリリースされているゲームアプリは、RPGが中心ですよね。これはゲームアプリとしては、かなり珍しいのでは?
野吹氏:
フィーチャーフォンに移行してから、何度か試行錯誤があったらしいんですけど、RPGを出し始めてから収益が上がったので、それをメインにしたと聞いています。
黒木氏:
RPGをメインにしたことについて、黒川がよく言うのは、「RPGはノウハウが大事だ」と。そのために開発が大変すぎて、他社さんはぜんぜんやらなかったみたいなんです。競合がいないところで勝負をするというやり方ですね。
野吹氏:
あと、「フィールド型の見下ろし画面で、仲間を連れて歩いている場面に、ノスタルジーや愛着を持っているプレイヤーは必ずいる」と。その人たちに訴えかけていくということを、黒川はよく言っていますね。RPGに関しては、スマホが中心となった今でも、そのスタンスをずっと続けています。
黒木氏:
実際のところ当社のスマホタイトルを遊んでいただいているユーザーの方も、30代後半から40代の男性が中心になっています。子どもの頃にファミコンで遊んでいた世代で、ドット絵や2Dの戦闘スタイルに懐かしさを覚えてくださるような方に向けて、RPGを作り続けてきたんですね。
――クレジットを見ると、RPGの開発は外の開発会社さんといっしょに制作されていることが多いようですが?
黒木氏:
先ほどもお話ししたように、RPGはノウハウを持っている会社さんじゃないと作れないんです。フィーチャーフォン時代から、そういった開発会社さんと長くおつきあいをさせていただいています。そして社内から1本に1人、ディレクターが必ずついて、共同作業で作っています。
――ケムコさんの内部では、ゲーム開発のセクションにはどれぐらいの人数が?
野吹氏:
RPGのチームとしては4人ですけど、ディレクターとしてはさらに3〜4人いて、全部で6〜7人といったところですね。
黒木氏:
あとはグラフィッカーと、内作ゲームのプログラマーと、それからデバッグを社内で全部やっているのでそのチームと、広報的なところと。それら全部を合わせて、社員自体はウチの部署だと20人ぐらいですかね。それに加えて、デバッグのアルバイトが常時10数人といったところです。
――社員のみなさんは基本的に、地元である広島の出身なのでしょうか?
野吹氏:
他のゲーム会社でのキャリアのある人間もいますけど、地元からの生え抜きの人間のほうが多いですね。
――広島というと過去に、『ぷよぷよ』で有名なコンパイルさんが存在していましたが、そちらを辞めた方が移ってきたりといったことは?
黒木氏:
ぜんぜんないですね。今の広島には他にゲームメーカーがないので、ウチがもし倒産してしまうと、地元在住の社員の行くところがなくなってしまうんですよ。それもあって、堅実なビジネスに終始するというのが、当社の考え方にはあるんです。
――広島は中国地方の中心都市とはいえ、東京や大阪に比べるといろいろな面で、ゲームを開発する上での条件が異なると思います。広島でゲームを開発するメリットは、どのようなものがありますか?
黒木氏:
土地代も人件費も東京より低いという点ですね。会社が広島大学の近くにあるので、学生のデバッガーさんや、留学生の翻訳チェッカーさんが集まりやすいんです。デバッガーから社員になった人間もいますし。
野吹氏:
我々2人も広島大学の卒業生ですから。あとは他社との交流がないぶん、雑音も聞こえてこないというのはありますね。
黒木氏:
「ソーシャル系やらないの?」とか、そういうことは一切言われないですから(笑)。
野吹氏:
自分たちで独立独歩やっていくには、そんなに悪くない環境じゃないかと思います。
黒木氏:
田んぼを持っている社員も、けっこういますしね。「今日は稲刈りがあるんで、会社を休みます」とか(笑)。