さる8月末から9月月初、神奈川・パシフィコ横浜にてゲーム開発者のためのカンファレンス「CEDEC 2017」が開催された。
ゲーム業界に携わる、あらゆる立場の人々がさまざまな講演(セッション)を行うこのイベントに際して、電ファミ編集部は連載「なんでゲームは面白い?」の執筆でおなじみ、hamatsu氏(@hamatsu)に興味を持ったセッションについてのレポートを依頼した。
すると、氏からはじめに届いた原稿は……なんと特定の講演に関わるものではなく、「任天堂のメディア発信」の歴史を考察するという、興味深い内容のものだった。
というのも、講演レポの前に、その歴史と意図についての考察がなければ、今回CEDECの目玉とも言える、あの任天堂の伝説的な8講演の意義が見えないからだという。さて、その内容やいかに……?(編集部)
まさに異例! 伝説となった任天堂のCEDEC8講演
先日開催されたCEDEC 2017において、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(以下、BotW)についての8つのセッションが2日間にかけて行われた。
実のところ、任天堂はあまり自社開発タイトルについての情報公開——特に国内で開発者向けのCEDEC【※1】のような場――に対して、そこまで積極的ではない。むしろGDC【※2】のような、海外での情報発信の方に力を入れているように見えたこの会社において、極めて珍しい事態だ。
※1 CEDEC
Computer Entertainment Developers Conferenceの略。ゲーム会社からなる一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会 (CESA)が主催する、日本国内最大のゲーム開発者向け技術交流会のこと。1999年に第一回が開催されて以降、毎年開催されている。
※2 GDC
Game Developers Conferenceの略。毎年数万人を動員する大規模なゲームイベント。1988年、ゲームデザイナー、ゲーム関連書籍の執筆者であるクリス・クロフォード氏が自宅のリビングルームのリビングルームにゲームデザイナーを集めて行われた会合から始まった。
もっとも、これまでCEDEC自体にも全く参加していないというわけでもない。基調講演に宮本茂氏【※1】が登壇したり、Nintendo Switchの開発責任者である小泉歓晃氏【※2】が『スーパーマリオギャラクシー』【※3】のセッションを行うなどはある程度あった。
しかし、それでも一本のタイトルに対して8つのセッションを行うという今回の事態は、異例中の異例である。
任天堂の開発体制自体に変化が起きつつあるのだろうか?
筆者は、今回の8つのセッションのうち、サウンドのセッションを除く、7つのセッションに参加させてもらった。結論から言えば、どのセッションも非常に完成度が高いものだった。それぞれに見所や発見がありながら、個別のセッション同士も関連し合いながらも、『BotW』という一つの金字塔が生まれたということがよくわかるセッションだった。
だからこそ、今回任天堂の『BotW』の開発チームは、なぜここまで積極的に開発情報を公開することにしたのかは気になる。
そこで今回の記事では、近日公開されるCEDEC講演の筆者レポートに先当たって、まずはゼルダのセッションの意義について考えてみたいと思う。
そのために、まずは任天堂における「情報発信」の歴史を振り返っていこう。
※1 宮本茂
任天堂株式会社代表取締役クリエイティブフェロー。1977年に任天堂に入社後、1981年にアーケード『ドンキーコング』を完成させ、以来、任天堂の代名詞たる「マリオ」シリーズや「ゼルダ」シリーズに始まるさまざまな作品を、つぎつぎとディレクションやプロデュースしている。
※2 小泉歓晃
任天堂企画制作本部副本部長。「ゼルダの伝説」や「マリオ」シリーズを手がける。近年では、Nintendo Switchの総合プロデューサーを務めた。
※3 スーパーマリオギャラクシー
2007年に開発された、Wii専用ゲームソフト。『スーパーマリオ64』、『スーパーマリオサンシャイン』に続く3Dアクションマリオシリーズの第3作。同作では「重力」をテーマとして取り入れている。
任天堂とメディアの歴史
任天堂とメディアの関係性を自分なりに分けると、大きく4つの時期に分けることができる。
なお、今回は任天堂のテレビCM、テレビ番組の歴史は扱わず、あくまでも雑誌メディア、取材メディアなど、活字系メディアとの関係性に主眼を置くことにする(もちろん、特に任天堂とCMの歴史、ゲーム業界とCMの歴史は話すべきことが多すぎるくらいにあるのも事実だ。そこは、また別の機会に改めて語りたい)。
I. 黎明期:80年代~90年代半ば
会社が成立し、幾多のヒットを世に送り出しながらもメディア露出にはあまり積極的ではなかった「黎明期」
II. NINTENDO64/ニンテンドー ゲームキューブ期:90年代半ば~2000年代半ば
NINTENDO64の国内販売不振により、ソフト発売時期以外での発言の機会を求められることになった「NINTENDO64/ニンテンドー ゲームキューブ期」
III. 社長が訊く/Nintendo Direct期:2000年代半ば~2010年代半ば
故・岩田聡氏が社長に就任して、数年後にその手腕を本格的に発揮し始めた「社長が訊く/Nintendo Direct期」
IV. 最新のステージ:2010年代半ば〜現在
今年のGDC、CEDECにおける開発者自らが積極的にゲームの内容についての情報発信を行うようになり、幕を開けることになった最新のステージ
この4段階で、任天堂とメディアとの歴史についてまずは考えてみよう。
I.積極的に情報発信をしない「黎明期」(80年代~90年代半ば)
そもそも任天堂は、開発者自らが情報を発信することに対して積極的な会社ではなかった。
かつて、ファミコンの『スーパーマリオブラザーズ』は空前のヒットを記録したが、生みの親である宮本茂氏をはじめとする開発者にスポットライトが当てられる機会は、決して多くはなかった。
当時と言えば、高橋名人という一社員にすぎなかったはずの人物が瞬く間に子どもたちのヒーローとなっていた時代である。
同じくファミコンで社会現象を起こすほどのヒット作となった『ドラゴンクエスト』など、当時最大部数を誇る「週刊少年ジャンプ」という雑誌メディアで、ほとんど堀井雄二氏【※】は「露出」というよりスクラムを組むようにしていた。
彼らがRPGというまだ馴染みのないゲームジャンルを、そんなふうに大ヒットタイトルとして世の中に送り出したことと比べると、任天堂の「そっけなさ」は対照的である。
そんな黎明期の任天堂に変化が起きたのは、90年代前半から半ばにかけてのことである。この時期、次第に任天堂のクリエイター代表とも言える存在となっていた宮本茂は、「ファミコン通信」などのゲーム雑誌に、頻繁にインタビューなどで露出するようになる。
ゲームという文化が成熟し始め、次第に作り手への関心が高まる時期とも呼応していたのだろう。僕がゲームの作り手として宮本茂という存在を意識し始めたのも、ちょうどその頃だ。
1993年12月31日号の「ファミコン通信」誌上の企画「ゲームデザイナーの履歴書」【※1】(というまるで電ファミの連載タイトル名のような企画)において、坂口博信氏【※2】のあとに宮本茂氏が自身のゲームデザイナーとしての履歴を語っていたりする。
※1 ゲームデザイナーの履歴書
ファミコン通信1993年12月31日号とその翌号の2号にわたって掲載された特集。特集名のとおり、クリエイターに履歴書を記入してもらい、記載された内容の詳細をインタビューによって明らかにするものとなっている。初回は坂口博信と宮本茂、2回目は遠藤雅伸と堀井雄二という錚々たる面々が個人史などを語っている。
※2 坂口博信
1962年生まれ。日本のゲームクリエイター、 シナリオライター、映画監督。ゲーム制作会社ミストウォーカーCEO。「ファイナルファンタジー」シリーズの生みの親として知られている。
90年代半ばにもなると「新・電子立国」【※1】で当時の任天堂社長、故・山内溥氏【※2】がインタビューに答えるかたちでテレビ出演して、少なくない反響を呼んだりした。次第に任天堂の内部の人材にスポットが当たり始めた時期だったと言えるだろう。
※1 新・電子立国
1995年から96年にかけて放映されたNHKスペシャルのシリーズ。全9回。第4回がノラン・ブッシュネルによるATARI創業からファミコンのヒットまでを描くビデオゲーム回となっており、任天堂山内溥社長(当時)もインタビューされている。同名の書籍もNHK出版から刊行されている。
※2 山内溥
1927〜2013年。任天堂株式会社代表取締役社長、同社取締役相談役を歴任。同社を電子ゲームで世界的な企業におしあげた。任天堂の前身となる「山内房治郎商店」は、同氏の曾祖父にあたる山内房治郎によって設立された。
そして若干時期は前後するが、1997年には横井軍平へのインタビューをまとめた名著『横井軍平ゲーム館』【※】も出版される。ゲームが歴史を重ね、文化として成熟することによって、ゲーム開発者の考え方や哲学のようなものに対する関心が高まりつつあった時期でもあった。
※横井軍平ゲーム館
横井軍平氏が存命中の1997年にアスペクトより刊行された単行本。5章立てで、1章から4章までは、時系列を追って横井氏の手がけた玩具・ビデオゲーム作品をインタビューを軸に解説。個々の製品に込められた思想や開発のエピソードを紐解く。5章は横井氏の生い立ちに始まり、クリエイターを目指す人へのアドバイス、売れる商品を作るための考えかた、これからの展望など「枯れた技術の水平思考」の真髄が味わえるものとなっている。絶版のため長らく入手困難となっていたが、のちにフィルムアート社から『横井軍平ゲーム館 RETURNS』の名で復刻、さらに現在はちくま文庫で『横井軍平ゲーム館 「世界の任天堂」を築いた発想力』の名で刊行されている。
だが、このようなゲームユーザーの関心とはまったく別の要因によって、「黎明期」は終わりを迎えることになる。
II.転機となった「NINTENDO64/ゲームキューブ期」(90年代半ば~2000年代半ば)
メディアの露出に対して閉ざされているとは言えないまでも、呼ばれれば出る程度であった任天堂の姿勢に変化が起きたのは、NINTENDO64(以下64)【※】発売以降のことだ。
なぜ64以降にメディアとの関係性が変わったのか――それは国内において、64があまり売れなかったからだ。
3D時代の到来を告げながら圧倒的な完成度を誇る傑作、『スーパーマリオ64』をローンチに用意することでスタートダッシュこそ好調だったものの、「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」などのハードの販売を左右するビッグタイトルが次々と離脱し、将来も含めた深刻なソフト不足、ハード販売不振に陥ることになる。
そんな暗い状況だからこそ、その状況を覆してくれるキラータイトル、そしてそのタイトルへの期待感を煽っているスポークスマンの存在をメディアが必要としたのだ。
特に当時の任天堂専門誌『The 64DREAM(現・Nintendo DREAM)』【※1】誌上では、糸井重里氏【※2】や当時HAL研究所の社長だった故・岩田聡氏【※3】、そして何よりも宮本茂氏のインタビューが非常に高い頻度で掲載されていた。
※1 The 64DREAM
1996年に創刊した任天堂ゲーム機専門雑誌。2001年には、ハードの世代交代に合わせて「Nintendo DREAM」(通称「ニンドリ」)に名称を変更している。毎月21日発売。
※2 糸井重里
1948年生まれのコピーライター、エッセイスト、タレント、作詞家。株式会社ほぼ日代表取締役社長。「MOTHER」シリーズの生みの親としても知られる。
※3 岩田聡
任天堂株式会社 前代表取締役社長。2002年に42歳の若さで任天堂の代表取締役社長に就任。数多くのソフトをはじめ、ニンテンドーDS、Wii、ニンテンドー3DS、Wii Uなどのハードを世に送り出し、Nintendo Switch開発さなかの2015年に急逝している。
そして、現在発売されているソフト以上に、今後発売されるであろう期待のタイトル、『ゼルダの伝説 時のオカリナ(以下、時のオカリナ)』や『MOTHER3』【※1】、そして当時の任天堂の情報を熱心に追いかけていた者には忘れられないタイトル『キャベツ』【※2】がどうなるかについて語られていた。ちなみに『キャベツ』は結局一つの画面写真として公開されずお蔵入りになった。
※1 MOTHER3
2006年に任天堂より発売されたゲームボーイアドバンス用RPG。糸井重里による同シリーズ3作目だが、前作の発売は1994年。もともとニンテンドウニンテンドウ64用ソフトとして企画され、2000年に発売中止が決定。2003年になって新たに開発が始まったという経緯がある。過去2作が主人公の冒険譚であるのに対し、本作は章立てで主人公が切り替わる群像劇となっている。
※2 キャベツ
64DD用ソフトとして開発されていたとされるゲームの仮称。結局お蔵入りとなってしまい、その全容が明らかになることはなかった。
その中でもユーザーから最も熱い期待を集め、というか最後の希望を大げさでなく託されていたタイトルが『時のオカリナ』だった。このソフトはゲームの歴史に残る高い評価を獲得したソフトだが、おそらくゲームの歴史に残るほどに、発売前に開発者自身によって「語られた」タイトルだったのではないかと思う。
そんな『時のオカリナ』発売前、そして発売後の語りがまとめられた書籍として、現在、株式会社 ほぼ日の役員になっている永田泰大氏【※1】によるインタビュー集『ゲームの話をしよう』【※2】を紹介したい。
※1 永田泰大
1968年生まれ。元・週刊ファミ通の編集者。2003年よりフリーライターとして活動を経て、現在は株式会社ほぼ日の取締役を務める。
この書籍は『時のオカリナ』発売1年前と発売1か月後の宮本茂インタビューが収められており、他のインタビューとも合わせて90年代後半のゲームシーンの空気を伝える貴重なドキュメントとなっている。
そして、『ゲームの話をしよう』の巻末には糸井重里氏へのインタビューが、そして『ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ』発売直後のインタビューとして桜井政博氏【※2】と共に当時のHAL研究所の社長・岩田聡氏も登場している。
お気づきだろうか? この本には、任天堂のメディアとの付き合い方を振り返る上で欠かせないキーマン、永田泰大氏、宮本茂氏、糸井重里氏、岩田聡氏の4人が揃っているのだ。
※桜井政博
1970年生まれの日本のゲームクリエイター。有限会社ソラ代表。「星のカービィ」シリーズ、「大乱闘スマッシュブラザーズ」シリーズ、『新・光神話 パルテナの鏡』などに代表される、数多くの作品を手がけてきた。
『MOTHER3』発売中止“発表”に見る、任天堂の転機
そして『時のオカリナ』の発売に合わせて、「ほぼ日刊イトイ新聞」誌上において「樹の上の秘密基地。」【※】という主に任天堂から発売されるソフトの開発者インタビューコーナーが始まる。
このコーナーは、任天堂開発者の貴重なコメントが訊ける稀有な場所だったが、その中でも白眉と言えるのは『MOTHER3』開発中止に関しての、岩田聡氏、糸井重里氏、宮本茂氏の3人による鼎談の回だろう。
まったく情報公開されずじまいだった『キャベツ』はさておき、『時のオカリナ』がユーザーの上がりに上がった期待に応え沈滞していたNINTENDO64というハードを復活させた成功作だとしたら、数々の画面写真が公開され、64DD【※】という追加ハードと共に期待感を煽る発言をされまくってその期待に応えることは叶わず発売中止(後にGBA版が発売)になった『MOTHER3』は、この時期を代表する大きな失敗作と言えるだろう。
しかし、ここで重要なのは『MOTHER3』の発売中止に関する告知とそれにまつわる反省の弁が、「開発者自ら」発せられたということだ。
そう、この鼎談は『MOTHER3』のプロデューサーでもある岩田聡氏の発案によるものである。当時は全くそんなことに気づきもしなかったが、今になって振り返れば、これは現在の任天堂の姿勢にそのまま結びつく姿勢だということがよくわかる。
この時期からしばらくして後に、任天堂は自社開発タイトルや自社開発ハードの情報を率先して公開するようになる。任天堂という会社自体が、発言や考え方を発信するメディアとして変化を始めたのだ。
ちなみに「ニンテンドークラシックミニ ファミコン」や「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」の発売記念インタビュー記事を担当しているのは、かつて「The 64DREAM」の編集長だった左尾昭典氏だったりする。この時期に起きた変化や、新しく生まれた関係性が現在まで継続しているということを示す事例と言えるだろう。
III.率先して情報発信する「社長が訊く/Nintendo Direct期」(2000年代半ば~2010年代半ば)
2000年代半ば以降、任天堂は自らの情報発信を積極的に行うようになる。その代表は、なんといっても岩田社長自らが社員にインタビューを行いゲームの見所を探るインタビュー企画「社長が訊く」シリーズ【※】だろう。
さらに任天堂が「直接」情報発信を行うもう一つの大きな仕組みが、2011年に初めて開始された。現在に至るまで定期的に発信される「Nintendo Direct」【※】である。
※Nintendo Direct
2011年に開始された任天堂の広報番組。ゲームファンへ情報を直接発信する試みとして、文字通りダイレクトに任天堂のハードやソフトに関する情報を発信している。
この時期の特徴はなんといっても、任天堂自らが率先して情報発信を始めたということに尽きる。1980年代の“そっけなさ”ぶりを考えれば隔世の感がある。
なぜここまで任天堂は前のめりに情報発信を行うようになったのか。
プロモーションであるとか社内スタッフのモチベーションの増加であるとか、理由は幾つかあると思うが、なんだかんだで岩田社長の社内マネジメントの一環という理由が一番大きいのではないかと僕は考えている。
岩田氏:
最初に全員に話をきいてみて「面談してはじめてわかったこと」がものすごく多かったんです。「人は逆さにして振らないとこんなにもモノをいえないのか」とあらためて思いました。
(中略)
わたしは「人は全員ちがう。そしてどんどん変わる」と前から思っていました。もちろん変わらない人もたくさんいます。でも、人が変わっていくんだということを理解しないリーダーの下では、わたしははたらきたくないと思ったんです。
自分が変わったらそれをちゃんとわかってくれるボスの下ではたらきたい……自分がどんな会社ではたらきたいかというと「ボスがちゃんと自分のことをわかってくれる会社」や「ボスが自分の幸せをちゃんと考えてくれる会社」であってほしいと思ったんですね。それが面談をはじめた動機です。
(ほぼ日刊イトイ新聞 – 社長に学べ!より引用。一部改行を詰めています)
これは、岩田聡氏がHAL研究所【※】の社長に就任した後に、社員全員に対して面談を行った時のことを振り返っての言葉である。
※HAL研究所
1980年設立の株式会社ハル研究所を指す。コンピューターゲームソフトウェアやその周辺機器、ゲーム制作システムの開発を行う。
当時は80~90人程度の数の面談数だったそうだが、任天堂の社長になってしまっては、もはや全員に面談などまず不可能だろう。そこでプロモーションの一環という触れ込みで社長自らが聞き役に回ってしまえば、一挙両得という算段があってのことではないだろうか。
だが、動機はどうあれ重要なのは、任天堂の開発スタッフ自らの言葉を任天堂自体が発信することで、その機会がなければ世に出なかったであろう貴重な証言が、世に明らかにされたことだ。
数々の名インタビューを残した「社長が訊く」シリーズだが、中でも最後の頃に公開された『スプラトゥーン』の回は突出している。
2014年のE3【※】で鮮烈なデビューを果たした本作が、開発当初のお世辞にもさほど面白そうに思えないプロト状態から次第にブラッシュアップを重ねて、現在の姿に至った経緯を「本当に無料で公開していいの?」というレベルで公開してしまったのだ。この回はあらゆる意味で貴重だし、素晴らしい。
※E3
Electronic Entertainment Expo.の略称。毎年5月中旬から6月中旬ころ数日間アメリカで開催される、世界最大のコンピューターゲーム関連の見本市。
そしてもう一つの任天堂の情報発信の柱である「Nintendo Direct」だが、こちらが始まった理由は「社長が訊く」に比べると若干複雑だ。
「Nintendo Direct」は、任天堂が「直接」情報発信することを非常に強く打ち出しているが、なぜここまで「直接」にこだわるのかと言えば、そうじゃない情報にいい加減なものが多いからだ。
一部メディアの飛ばし記事やゲーム系まとめサイトの興隆による扇情的な見出し、煽り記事の横行などに対応するかたちで開始したという自衛的な側面が強い。
元々はメディアに対して“そっけなかった”任天堂だが、自ら率先して情報を発信するようになったことで、皮肉なことに他メディアから浮いた存在になりつつあったのがこの時期でもある。個人的にも、任天堂の濃いめの情報が欲しいのならば、任天堂から直接受け取ればいいのだから、他メディア経由で任天堂の情報を受け取る必要はほぼない……と考えるようになっていた。
だが、この時期もまた岩田社長の急逝というショッキングな出来事によって、終焉を迎えることになる。
とはいえ、「社長が訊く」こそ終了したものの、Nintendo Directは継続して行われ、Nintendo Switchのプレゼンテーションでも、多数の開発スタッフが自ら自分の作った製品についてのプレゼンを行い続けていた。
岩田聡氏や宮本茂氏といった会社や開発のトップよりも、広いスタッフが情報発信を行えるようになったのがこの時期の成果なのかもしれない。
IV.新しい時代の到来を告げる「2017年のゼルダの伝説」
かくして――情報発信に決して積極的ではなかった任天堂は、すでに遠い過去のものとなった。
いや、今日において任天堂ほど自ら新しいソフトやハードの情報、成り立ち、見どころなどをここまで積極的に発信する企業はないと言っても過言ではないだろう。
そして、化学エンジン【※】の概念を提唱し反響を呼んだGDCと8本ものセッションを行い、その全てが大盛況。大反響を呼んだCEDECの講演をもって、任天堂は自社製品に関する情報を発信する企業として新しいステージ、自分なりの区分けだと第4期に進んだと見ていいだろう。
※化学エンジン
『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のテクニカルディレクターを務めた堂田卓宏氏らが開発したゲームエンジン。炎、電気、風などの要素とオブジェクトの相互作用を計算する。
なぜなら、今回のゼルダに関する複数の講演は、明確に開発者に対して向けられていたからだ。これまでの情報発信はあくまでもユーザーに向けての情報発信だったが(「社長が訊く」の情報などはかなりコアユーザー向けの情報ではあるが)、今回はその点が明確に違う。
そこで、話は冒頭の問いに再び返っていく――なぜ任天堂は、「門外不出」の内容にしてもおかしくなさそうな貴重なノウハウが詰まった開発事例を、惜しげもなく公開したのだろうか。
というわけで、CEDECの講演に辿り着くまでに大分かかったが、近日公開予定の記事では、任天堂がCEDECで公開したゼルダ開発のノウハウ、そしてなぜ任天堂はこのタイミングで開発者向けの情報発信を始めたのかについて考えてみたい。
任天堂自らゼルダ新作の開発秘話を明かした、伝説の8講演――三角形の法則、確認義務なきデバッグ…名作を生んだ数々の驚異的手法「オープン化」で彼らが問いかけたものを考察
※本稿の後編『任天堂自らゼルダ新作の開発秘話を明かした、伝説の8講演――三角形の法則、確認義務なきデバッグ…名作を生んだ数々の驚異的手法「オープン化」で彼らが問いかけたものを考察』が公開となりました。(2017年10月16日 追記)
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