任天堂のクリエイター支援施策で動き出した『巨人のドシン』。報告会で目撃した山内溥と岩田聡の邂逅【飯田和敏連載:最終回】

イラスト/納口龍司

『巨人のドシン』は「創造」と「破壊」、そして『大魔神』への憧れを自分の中で整理した作品

 「作る」と「遊ぶ」が渾然となったゲーム。これが『巨人のドシン』の最初の構想だ。

 周囲の人たちには具体的なイメージが湧くように、『ポピュラス』の地形編集のダイナミズムを『スーパーマリオ64』のように直感的に行うことができるものを作りたい、と説明していた。

(画像は巨人のドシン|ドシンの生活を見てみよう1より)

 同時に、「砂場遊び」も念頭にあった。砂場で人は山や城などのオブジェクトを作る。
 そしてその後、作ったものを豪快に破壊することがある。
 自分の体験を振り返ってみると、破壊のカタルシスを最大限のものにするために、より凝ったものを作るという倒錯があった。

 「作る」と「遊ぶ」をひとつにするのと同様に、「創造」と「破壊」という背反するようにも思える要素を等しく価値づけするゲームにしようと思った。

 また『大魔神』(1966年、大映)という特撮時代劇がある。幼い頃から大好きで何度も観てきた。穏やかな武人像がある事件を契機に鬼の形相の魔神と化し、悪い領主を懲らしめるというストーリーだ。

(画像は大魔神 | 角川映画 より)

 『巨人のドシン』のドシンがボタンひとつで破壊の神に変身するのは、この映画の影響が大きい。
 影響というか『大魔神』への憧れがストレートに現れた。

(画像は巨人のドシン|ドシンの生活を見てみよう2より)

 ぼくが作ってきた作品は独創的と称されることも多い。しかし、この連載で言及してきたように様々な元ネタが存在していてそれを自覚しているので、独創とは言えない。

イラスト/納口龍司

 自分の中に無秩序に存在している記憶や体験を、ゲームを作る過程で整理していくという感覚だ。

マリーガルマネジメントに合流することで、プロジェクトは一気に動き出した

 『巨人のドシン』のアイデアがある程度まとまってきたのとほぼ同時期に、リクルートメディアファクトリー任天堂マリーガルマネジメント(以下マリーガル)という会社を設立した。マリーガルは、ゲーム制作の諸課題(資金調達や権利管理、各種交渉事など)をゲームクリエイターの立場で支援する会社だ。

 人の繋がりがあり、ぼくはマリーガルと合流することになった。こうして机上の空論だった『巨人のドシン』は「NINTENDO64」をターゲットにしたプロジェクトとして正式にスタートすることになった。
 山積みだった課題がサクッと解決し、一気に道が拓けた。

(画像は巨人のドシン|ドシンの生活を見てみよう1より)

 任天堂にはラインナップの拡充という狙いがあったのだろう。リクルート、メディアファクトリーもゲームに関する新しいビジネスを興す時期だった。色々な立場の人々の思惑が合致したことで、この流れが生まれた。そこに参加できたことは幸運だった。
 宮本茂さんはマリーガルの支援を受けることになったゲームクリエイターに「君らも好きにしろ」的な『シン・ゴジラ』の名セリフをだいぶ先取りして言っている。これには痺れた。

 『巨人のドシン』の開発そのものは、マリーガルのサポートによって極めてスムーズに進んだ。

 ゲームのコンセプトはほぼ固まっていたので、かつて「64コントローラー」に見たヴィジョンを実現していくことを淡々と進めていった。3人ではじめたメンバーも10名程度に増えた。

NINTENDO64のコントローラーと本体
(画像はWikipediaより)

 作品の規模に対して人数は多くなかったが、その分、開発期間を長く持てた。

 「巨人の視点で日々を過ごしてみたい」という思いがあったので、開発スタート時にはビルの高層階にオフィスを作ったが、賃料が開発費を圧迫していくことに気づきマンションに移転した。複数の部屋をまたいで借り、PCをLANケーブルで繋いだ。

 ひと仕事片付くと、みんなで『Age of Empires』(1997年発売されたRTS。2018年2月に20周年を記念した4Kリメイクバージョンがリリースされている)をプレイして、ヤバイほど盛り上がった。

『Age of Empires: Definitive Edition』ゲーム画面
(画像はMicrosoft Storeより)

 『巨人のドシン』が「砂場遊び」の要素とともに、島の人々の文明レベルを上げていくゲームに着地したのは、このゲームの影響もあったかもしれない。

 ときにプレイヤーを突き放してしまうようなぼくのゲームクリエイターとしての資質も、テストプレイを繰り返し行うことにより、よい方向に向かっていった。チュートリアルをきちんと行う意図で、島の守護神がナレーションをするというスタイルにした。

 これもやはり当時、みんなでハマっていたゲーム『実況ワールドサッカー3』(1997年、KONAMIよりNINTENDO64向けに発売されたサッカーゲーム)からの影響だ。

『実況ワールドサッカー3』パッケージ
(画像はAmazonより)

 で、それだけでは真面目過ぎるので、ゲームプレイを受けて感想を述べる人格も欲しいと思った。

 この姿なきキャラクターは、ゲーム世界と現実世界のどちらにも存在しないという奇妙なもので、人選は悩ましかった。

 これを飯野賢治さんと雑談の中で話していたら、「女優の緒川たまきさんがいいんじゃない? 」と言い出し、その場で繋いでくれた。当時、緒川さんはNHKの番組『日曜美術館』の司会をしていたので、長らく美術とゲームの関係を考えていたぼくにとって絶妙なキャスティングとなった。

それは、山内社長が会議室を退席しようとするタイミングで起こった

 任天堂はNINTENDO64の発売当初から、「64DD」の存在を広報していた。NINTENDO64は、64DDが合体することで、ゲームハードウェアとして完成するとも言われていた。

NINTENDO64と接続された64DD(画面下)
Image by Evan-Amos. Licensed under the terms of cc-by-sa-3.0.)

 『巨人のドシン』は遊びとともに変化していくマップデータを記録し続けることが基本中の基本であり、64DDの構想や機能に触発され作ってきたという経緯があった。

 ところが、ゲーム開発が終盤になっても64DDが発売される気配は一向にない。
 自分たちではままならない情勢に思いあぐねることは避けていたが、「どうなっちゃうんだろう???」という気持ちはもちろんあった。

ここで、ひとつのエピソードを紹介する。ぼくも当事者のひとりとして参加していたクローズドな場所での出来事だ。いまとなっては客観的な検証は難しいため、あくまでもぼくの主観であることを了解してほしい

 ある日、64DDの方向性に関する報告会が行われることになった。その会にはなんと当時の任天堂の社長、山内溥さんが出席されるとのことだった。
 場所は皇居近くにあるホテルのコンパクトな会議室。参加者は7、8名。いずれも64DDに対して思い入れを持ち、何らかの活動をしてきた関係者だ。

 やがて山内溥さんが現れた。
 会合が始まると独壇場だった。まずは関係者への謝辞と労いが実直な言葉で語られた。肝心の64DDのリリースについては、時期を見極めているということで、明言はされなかった。
 ただ、関係者のこれまでの労力に対して「決して悪いようにはしません」と約束してくれた。これはいかようにも解釈できるふわっとした言い方だが、ぼくは納得できた。

 そもそもが、64DDの構想のひとつである「大容量の書き込みができる」に共感したところからはじまっている。そして、当時のぼくは持っていた全てのアイデアを投入して、一本のゲームを作ることができた。そのプロセスこそがゲーム作家として得難い経験であり、そこから先のことでジタバタしても仕方がない。

 ぼくは山内溥さんの言葉をそのまま信じて、『巨人のドシン』を仕上げることにした。

(画像は巨人のドシン|ドシンの生活を見てみよう1より)

 会合が終わりに向かい、山内溥さんが退出しようとするタイミングで、独壇場が崩れた。「NINTENDO64とそれ以降の家庭用ゲーム機のヴィジョンを示して欲しい」という趣旨の発言があったのだ。さらに発言者は、「ヴィジョンがないと任天堂も家庭用ゲームの文化全般も衰退してしまいます」と重ねた。

 ぼくは家庭用ゲーム産業の礎を作った伝説的人物に物申すなんて思いもしなかったので、発言者の胆力に驚いた。決して無礼な言い方ではなかったが、返り討ち覚悟で食ってかかるような勢いがあった。山内溥さんも一瞬困惑したように見えた。

 岩田聡さんだった。

岩田聡氏
(Photo By Getty Images)

 数年後、山内溥さんは任天堂の社長を引退し、岩田聡さんが就任する。この大胆な交代劇に世間は驚愕していたが、ぼくは「ありでしょ!」と膝を打った。
 その発端となった現場にいたのかもしれないからだ。

ゲーム業界青春期を謳歌したクリエイターの精神性は、いまも生きている

 この連載で、ぼくの初期の3作品『アクアノートの休日』『太陽のしっぽ』『巨人のドシン』をどのように実現してきたのかを解説してきた。

 作品の成り立ちを中心にしたが、ゲーム作家の視点でプレイステーションが登場する前後の活気に満ちた日本のゲーム業界の様子も紹介できたと思う。おもしろいものを作り、世の中を楽しくしたいという一念に、人生を捧げる人たちが無数にいた。

 それはビデオゲームが成熟に至る青春期であり、その精神性は現在もインディーゲームシーンに継承されている。

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著者
飯田和敏
1968年生まれ。多摩美術大学卒。卒業後アートディンクに就職、『アクアノートの休日』『太陽のしっぽ』を手がける。その後、独立して有限会社パーラム(現・有限会社バロウズ)を設立、『巨人のドシン』を制作。現在は立命館大学映像学部教授を務める。
Twitter:@iidakazutoshi
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