「プレステ世代」は想像力が“箱庭的”
――ちなみに、鎌池さんはノベルゲームはどうでしたか?
鎌池氏:
ノベルゲームはプレステ時代にちょこちょこやってましたけど……ただ、レトロな方が好きだったので、『閉鎖病院』みたいな路線のゲームでしたね。
ゲームを自分で買えるようになったのが、ちょうどプレステの時期だったんです。でも、最新作やプレミアがついてるゲームは買えるお金はないので、ワゴンセールの中から安くて面白そうなものをとにかく買うんです。そのとき、大作ゲームの皆さんは、中古でもそこそこ値が張るじゃないですか。そうなると、どうしてもコアな方向に行きました。
そういう意味では、毎週「ファミ通」を買っているようなタイプのゲーム好きでもないんです。友達から情報は入ってくるけど、当時のリアルタイムの情報に関してはむしろ遅かった気がしますね。
――音楽で言えば、ヒットチャートを追いかけるファンというよりは、中古屋でCDをジャケ買いするようなマニアですよね。でも、そういう人って、他人がやらないようなゲームにぶち当たった経験が多いと思うんですよ。
三木氏:
しかも、あの頃のプレステのゲームって、ぶっちゃけスーパーファミコン時代なんて比較にならないくらい変なのばかりでしたからね。
『フィロソマ』【※1】とか、ディースリー・パブリッシャーのSIMPLE2000シリーズ【※2】とかあったじゃないですか。『THE カメラ小僧』とかありましたよね(笑)。
※1『フィロソマ』
1995年にソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)より発売された強制スクロールシューティングゲーム。
※2 SIMPLE2000シリーズ
ディースリー・パブリッシャーより主にPlaystation 2にて展開されていた廉価ソフトシリーズ。その名の通り一本2000円という低価格が特徴で、大半が最初から廉価版ソフトとして開発されている。
――あー! そういう変なゲーム体験は多そうですよね。
鎌池氏:
懐かしいですよね。でも、あれだけ色々とやっていたのに、恐ろしいことに記憶にはほとんど残ってない(笑)。
一同:
(爆笑)
――結局、心に残ったプレステ黎明期のゲームは『バイオハザード』でした……みたいな(笑)。
鎌池氏:
まあ、何かしら糧にはなってると思うんですけどね……。
ただ、少し話を戻すと、世代によってゲームの影響のあり方は変わると思うんです。例えば、私より前の作品で影響が大きいのは、たぶんTRPG、もしくは『ドラゴンクエスト』辺りのRPGなんですよ。それこそ私達が出てくる前、ファンタジーが主流だった富士見ファンタジア文庫【※】の初期とかは、その影響が強いのかもしれないな、と。
※ 富士見ファンタジア文庫
富士見書房(現在は株式会社KADOKAWA)が1988年より発行するライトノベルの文庫レーベル。
――たしかに、剣と魔法のファンタジーはわかりやすいですよね。まさに80年代の日本でTRPGをいち早く遊んでいた人たちの作品というか。
鎌池氏:
彼らの特徴は、世界全体を作ったり、その世界全体に飛び込んでいくイメージがあるんです。ところが、私たち「プレステ」世代は、なんて言うのかな……もっと想像力が「箱庭」的なんですよ。
だって、プレステのゲームがそもそもそうだったでしょう。ホラーゲームで霧に包まれた館一個が舞台とか、せいぜい街一個が舞台で、でもそこにはしっかりとルールがある……みたいな。どうも私達の世代は、イメージできる世界の限界が国や大陸よりも、街や学校、あるいは館のような場所に縮小しているように思いますね。
三木氏:
そういう意味では、当時の鎌池さんの作品の雰囲気は、なんだか新しかったんですよ。いま思うと現代トレンド寄りだったし、そこは昔のTRPG路線の作品との違いだったのかもしれないですね。
鎌池氏:
そのイメージの変遷は、ハードの発展が大きいと思うんです。最初の頃はハードのスペックが弱くて解像度が低かったから、逆に大胆に『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』のようにドットで世界全体を表現できていた。でも、やがてハードのスペックが上がっていくにつれて解像度も上がり、ディテールが求められるようになり、ディスクの容量が足りなくなると、想像力が街一個分だとかに縮小化されていったんだと思います。
――よくサブカルチャーの議論で、90年代の後半~00年代にかけて、オタク文化では世界全体を扱うような物語にリアリティが失われて人々は身近な物語に没入していくようになった、みたいな話が語られるじゃないですか。でも、そこに「ゲームの影響」という視点を導入すると、単にハードウェアの表現力が上がるにつれてリアリズムに接近していった、ポリゴン以降のゲーム史が素朴に反映されているだけじゃないか、とも言えそうですね。
鎌池氏:
ええ。ただ、その意味では今や逆に高解像度でオープンワールドゲームができるスペックになって、もう一回、想像力の境界は広がりつつあるんじゃないですかね。
やはりプレステ1の末期やプレステ2の頃って、世界のすべてが表現できないスペックの中で、小さな舞台を精密に作り上げていく傾向があったと思うんですよ。で、物語の最後の方になると、妙に家族の話とか主人公の話だとかの、小さな場所に展開が凝縮されていく。でも、そのままオチは上手くつけられなくて、精神世界の話でした、で済ませていくみたいなね(笑)。
三木氏:
あの当時のプレステの実験作って、そんな感じですよね。
――あの時期のゲームが妙に内省的になったり、やたらトラウマに物語を回収していく展開も、当時のハードのスペックにおける最適解だっただけなのでは……ということですよね。そして、その想像力がラノベの現在のトップランナーたちに流れ込んでいる、と。
鎌池氏:
そういう側面もあるのかな、と。あと、「格ゲー」世代のものは、先にキャラクターを固めているから、現実でもファンタジーでも、どこに舞台を移しても作れるんですよ。
それに対して、例えば私より少し後の作品では「MMO」世代が想定できると思うんですが、彼らは少し違う印象を感じます。彼らはファンタジー世界の「舞台」が基本にあるんですね。MMO的なキャラを戦国時代にタイムスリップさせるとかではなく、あの舞台そのものを持ってこないとキャラクターの真価を説明しにくいような事情があるんじゃないかと思います。
Web小説はソーシャルゲーム世代?
――大変に興味深いのですが、鎌池さんの下の世代にもそういうゲームの影響は感じますか?
鎌池氏:
感じますね。例えば、ここ最近の「Web小説」【※】というのは、「ソシャゲ」世代なんだろうなと私は分析しているんですよ。
面白いのは、彼らもやはりファンタジー世界が中心にあるんです。
ただ、彼らの興味深いところは、リアルに全部を作り込まなくても、雰囲気さえあればいいじゃないかという発想があることですね。作品ではその世界の一部しか表現されていなくても、その外側に世界は広がっているに決まってるし、頭の中では世界全体を救うことも出来る。この発想は、とても「ソシャゲ」的だと思うんです。
※「Web小説」
主にインターネット上に公開することを目的として書かれた小説のこと。1980年代半ばに草創期のパソコン通信で発祥し、1990年代後半以降からは小説投稿サイトの充実に伴って作品の発表が活発になっていった。近年ではウェブサイト「小説家になろう」などでのインディーズ作品の発表が盛んに行われている。
――まさに、鎌池さんの手がけられた「ミリオンアーサー」シリーズ【※】なんて、そういう世界観でしたよね。
※「ミリオンアーサー」シリーズ
スクウェア・エニックスより展開されているメディアミックス作品。鎌池氏がシナリオや世界観、キャラクター設定を担当している。
鎌池氏:
ただ、「Web小説」は簡略化された意匠を見て、西部劇や時代劇のようにゲーム世界の「基本」を脳内にしっかり広げられる人でないと没入しにくいのが一つのハードルかもしれません。それに比べて「MMO」世代の方は、その基本も含めてしっかりと説明していくので、広く読まれていくときに強いんです。
もちろん、書籍化してしまえば、「ファンタジーの背景を最初の見開きカラーで一枚お願いします」とお願いしてしまうやり方もあるわけですけどね。
ただ、成立している限りにおいては、定番の設定を使うこと自体はありだと思います。どこまでが共通認識として通じるか、の線引きはちょっと難しそうですけど。でも、それこそアイテムボックスのような一つの要素を「なんで繋がってるんだろう」みたいに疑問を抱いて、徹底的に掘り下げることで新しいオリジナルを生み出すことは可能だと思うんです。
――ちなみに、鎌池さんとしては、この「Web小説」の人たちが物語に求めている欲望って、どういう部分にあると思われますか。実は結構そのわかりにくさに、多くの人が戸惑っている印象もあるんです。
鎌池氏:
いや、舞台もカタルシスも、むしろ「原点回帰」に向かっている印象があって、明快じゃないですか?
結局「最強主人公」って、とことん異形で呑み込めない設定ではない訳ですよ。誰も知らない秘密に真っ先に気づくのは往年の名探偵に通じる魅力がありますし……剣1本で無双するのは“暴れん坊将軍”で、見た目は弱くても実は最強というのは“遠山の金さん”だと思えば、時代劇の「共通認識のしっかりした、スカッとする面白さ」と相通ずるとも言えるわけですよ。それが江戸時代であれファンタジー世界であれ。その意味では、言ってしまえば素朴に「一世紀以上前から続くヒーロー像が推理や時代劇とは違う角度から飛び出してきた」伝統の復活なわけで、むしろそこに引っかかってる人が多い気がします。
――なるほど。
鎌池氏:
ただ、面白くなるまでにどれだけの時間を食うか、という問題への取り組みが過熱気味なのかな、と。
例えば、香港映画なんかで昔、「主人公が負けてしまって猛修行をして、ライバルにもう一回挑む」みたいな展開がよくあったでしょう。その修行に物語の半分以上をかけるのは、もう現代ではさすがに厳しい。面白くなるまでの構図は変わらないけど、そこにかける時間はどんどん短くなりだしていますね。
――でも当時は、「負けた構図があるからこそカタルシスが高い」というロジックが成立していたはずなんですよ。そこは普遍的なもののような気もするのですが……。
鎌池氏:
いや、だから「Web小説系」の描く“最強主人公”には、過去設定に「負けフラグ」があったりするものもあるんじゃないかなと。目の前にいる主人公は、実は何年も前にものすごい勢いで負けていて、そこから這い上がって強くなっているのだ、みたいなね。あるいは異世界に行く前と後で落差があったり。負けたからこその格好よさは、今でもしっかり描いているんです。でも、それは後出しで十分だというわけです。
――いわば、気分が落ち込んでいくような、三木さんの言うところの「下向きトレンド」【※】の流れは設定のレベルに織り込んでしまい、物語そのものはひたすらアゲアゲで進行していけばよい、と。そう聞くと、「Web小説」のプロットは、エンターテイメントの正統進化の延長線上に現れた、一つの洗練された解答という気もしてきますね。
※ 下向きのトレンド
三木氏の著作で使われていた概念で、具体例として「非人道的で性格も最悪なキャラクターに一切罰が与えられない」「永遠不幸の連続で最後までそれが覆されない」などが挙げられる。このように作り手側が意外性や驚きばかりを重視するあまりに、悪い意味で展開を王道からずらしすぎてしまうことを氏は著作で戒めている。