iモード初期の開発事情
──当時の携帯電話用ゲームのプログラムにはJavaを使っていたかと思いますが、Javaを使ってゲームが作れるプログラマーは、iアプリが始まった当時、業界内には十分にいたのでしょうか? 人材のリソース不足で、開発に支障が生じることもあったのでしょうか?
桑原氏:
最初の頃はJavaを使える人がまだ少なかったのでたしかに大変でした。ジー・モードにはゲームアーツから来た宮路武さんのほか、セガ・アトラス系の高見さんが来ていたので、その人脈を生かして人材を集めましたが、業務委託でお願いすることが多かったように思います。
特に対戦ゲームサイトの立ち上げがありましたので、ネットワーク技術者の方を探すのは大変でしたね。サーバー関係はCSKネットワークシステムズと業務提携して、全面的に協力して頂きました。
Javaが使える正社員の技術者を雇うにあたっては、当然ですがどんどん面接をしながら採用していきました。そのときに採用したうちの1人が、後に『フライハイトクラウディア』シリーズを作った早貸(久敏)さんでしたね。彼はJavaの使いこなしというか、容量圧縮に対する熱意が凄かったです。
iアプリの最初の頃は、容量を10キロバイト以下に納めるのが大変でした。ゲームのプログラムを10キロバイト以下にするだけでなく、ほかにもプログラムを動かすためのヒープ領域をあまり使わないようにする必要があったんです。この辺りの技術開発には、社内でもかなり注力していたように記憶しています。
ジー・モードのサイトは、当初はみんな月額課金でした。他社には月額課金だけれども1回ゲームをダウンロードしたら落とし切りで遊べるサイトもありましたが、ジー・モードは月額課金を長期的に継続してもらうビジネスモデルを目指していたので、ゲームアプリには認証のプログラムも入っていました。翌月になったら、起動時に契約が継続されているかをサーバーに問い合わせる訳です。
1キロバイトほどではありましたが、認証プログラムを入れる分、ゲームで実現できることが減ってしまうため、入れるかどうか、社内でも激しい議論がありました。最終的に「ミニゲームも含めて、認証プログラムは絶対に入れろ」という方針を経営陣が決めたので導入しました。継続率が非常に高いサイトになったので、結果的には良かったですね。
──2000年代の前半は、NTTドコモのほかにもEZwebのKDDIと、J-SKYのJ-PHONEの大手3キャリアが存在していましたよね? KDDIやJ-PHONEとも契約をするにあたって、何かご苦労されたことはありましたか?
桑原氏:
KDDIやJ-PHONEとの契約は、NTTドコモと比べると、多少は楽だったかなという感じでしょうか。従量課金でのサービスだったので、提出したドキュメントも少なかったはずです。たしか、最初は上田さんがKDDIの担当でしたよね?
上田氏:
最初に私とプログラマーの岡部さんと2人でKDDIに行ったんですが、3つの会社が合併して間もない時期だったので、初見なんかバタバタしている感じに見えて「これはちょっとダメかもなあ……」って2人で言っていた記憶はありますけど、契約自体は割とスムーズにできました。
桑原氏:
やっぱり、iモードで『テトリス』を先に出すことができていたので、それがすごく評価されたんじゃないでしょうか。それから、ジー・モードならではの特色としては、3キャリアとちゃんとお付き合いをしようとずっと考えていました。
なかには特定のキャリアだけにベッタリするようなところもありましたが、私はコンシューマーゲームをやっていた経験から、プラットフォームの景気には波があることは十分にわかっていましたので、会社の方針として3キャリアともきちんとやっていこうと、宮路武さんともお話していましたね。経営が安定したのは、3キャリアともしっかりお付き合いをしていたのが大きかったと思います。
ジー・モードでは、各キャリアに担当プロデューサーがいたことも特徴のひとつでした。ドコモの担当が私で、KDDIは『ゆるゆる劇場』や『マジカルファンタジスタ』などを作った河上(京子)さん、J-PHONEは『ケータイ少女』などを作った長木(一記)さんが担当でした。
『ゆるゆる劇場』© 青木俊直/©G-MODE Corporation
『マジカルファンタジスタ』© G-MODE Corporation
『ケータイ少女』© G-MODE Corporation
キャリアごとに専業の担当を用意して、それぞれに合ったゲームなどを企画できるようにしたことで、いろいろなことが提案・実現できる体制が作れていたと思います。広報面でも「このゲームは、しばらくの間、他のキャリアに移植をしませんから、ぜひプッシュして下さいね」といった話がしやすかったですね。
そのような話の代表例が『フライハイトクラウディア』なのですが。あれを作ったときは、早貸さんにかなり苦労をさせてしまいましたね。本作のローンチ対応機種はNTTドコモの505iシリーズだったのですが、900iシリーズには『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』が出てくるのはもうわかっていました。
そのため、それに対抗できるものを自分たちも持っておきたかったという思いがあって、「505iだったら、何を作ってもいいよ」という前提で早貸さんに開発のお願いをしていました。
『フライハイトクラウディア』は、プレイステーションが発売された後に出た、スーパーファミコン末期の大作みたいなポジションにあたるゲームにしたかったんですよ。900iシリーズの携帯を買えない若いユーザーが、505iでも満足して遊べるRPGを作ろうと。
ただ、かなりの容量を詰め込まなくてはいけなかったので、900iシリーズ対応の『mystia(ミスティア)』に比べると、開発の難易度が高くなったり、グラフィックのクオリティが若干ですが落ちてしまいました。早貸さんには、そこで無理をさせちゃったなと、今となってはすごく思いますね。その苦労をした分、505iと900iの両対応で動く大作RPGとして、多くのユーザーさんに遊んでいただけました。
『フライハイトクラウディア』© G-MODE Corporation
──沿革によれば、2001年の1月から始めたiモード対応の『テトリス』と『オセロ』が、ジー・モード初のゲーム配信サービスでした。おそらく、最初に売上が発生したのはその翌月頃かと思われますが、いつ頃からこのビジネスはうまくいきそうだという手応えが出てきたのでしょうか?
桑原氏:
売上が出始めたばかりの頃はもちろん赤字でした。503iシリーズで最初に出た、P503iだけの頃はそれほど売上がなかったのですが、N503iが出た直後から一気に増えて、手応えを感じました。2期目からは黒字になりましたね。
──設立2年目でもう黒字転換したんですか!?
桑原氏:
それはやはり、『テトリス』『オセロ』の存在が大きかったですね。
上田氏:
いつだったか、テレビ番組で宇多田ヒカルさんが「『テトリス』が好き!」と言ったら、サーバーがダウンしたことが一度あったよね。あ、遊んでいたのは携帯じゃなくてニンテンドーDS版だったかな?
桑原氏:
『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』で、宇多田ヒカルさんや安室奈美恵さんがコンシューマー版の『テトリス』で対戦したんですよ。直接関係がないのにサーバーが落ちましたからね。テレビを見ながら、iモードのポータルで『テトリス』を検索した人が、ものすごく多かったんだと思います。無料のサイトでもサーバーが落ちることなんて滅多にないのに、課金サイトがダウンしたので本当にびっくりしました。
ドコモ向けのサイト名には『テトリス』の名前は使っていませんでしたが、ほかのキャリアでは検索されやすいように、意図的にサイト名に『テトリス』の名前を入れてありました。アクセスはしやすかったと思います。
──そうでしたね。EZweb用に配信したサイトは『テトリス&100円ゲーム』という名前でしたから、『テトリス』が遊べてなおかつ安く利用できるという、これ以上ない見事なネーミングになっていましたよね。ところで、携帯電話向けの『テトリス』はどなたが開発を担当したのでしょうか?

桑原氏:
初期のものは私が企画しています。プログラマーは、岡部さんだったかなあ……。最初は総がかりで作っていた感じです。『テトリス』は、まず初めにミニタイプと対戦型と、2つのプログラムを作るところから始めました。テストプレイをする環境は、最初の頃はまだなかったですね。
──ミニタイプというのは、当時よく見掛けた『たまごっち』と同程度のサイズで、液晶画面でゲームが遊べたおもちゃと同じようなイメージですか?
桑原氏:
そうです。まさに、その液晶ゲーム版『テトリス』を携帯で再現したようなイメージで作りました。当初は月額300円のサイトには通信対戦ができる本格的な『Groovin’ TETRIS』があって、100円のサイトにもその知名度を利用しつつ、ミニタイプの『ミニテトリス』が遊べるようにしようと思ったからなんです。
その後、「100円の『テトリス』もパワーアップしたほうがいいのでは?」という意見がでましたので、ゲームスタジオと一緒に『ミニテトリス2』として、作り直しました。初期の頃は、テトリスのレギュレーションも、それほど厳しくはなかったように思います。端末のスペックも限られていたので作れるものも限られていましたしね。
『テトリス2002』を出す辺りから、「こういうふうに作って下さい」という厳密なルールができましたが、それ以前は割と自由に任せてもらえていました。担当に関して補足しておくと『テトリス2002』頃から河上(京子)さんにお任せしたものが多くなっています。
『テトリス2002』ゲーム画面
TetrisⓇ&©1985~2021 Tetris Holding. Tetris logos, Tetris theme song and Tetriminos are trademarks of Tetris Holding. The Tetris trade dress is owned by Tetris Holding. Licensed to The Tetris Company. Tetris Game Design by Alexey Pajitnov. All Rights Reserved.
その後、『テトリス』はアメリカをはじめ全世界へのライセンスを出すようになったのですが、携帯用のライセンスを出したのは日本が最初だったから、我々でも取れたんだろうなと後々になって思いました。
もしアメリカのほうが、日本よりも先に携帯であそぶ『テトリス』が人気になっていたら、ライセンシーが「自分たちで作って出します」と言ったりして、ライセンスがもらえるどころの話ではなくなっていた可能性が高かったでしょうね。
当時は日本の携帯、モバイルインターネットが、ガラパゴス状態とはいえ最先端の時代でしたので、ジー・モードにとっては良かったということですね。
──既存の大手ゲームメーカー、たとえばセガやナムコ、コナミなども、当然ながら携帯電話向けゲームサイトのビジネスを早くから始めていました。後発だったというお話が先程から何度も出ていますが、ジー・モードではこれらのメーカーが運営するサイトをどう位置付けていたのでしょうか?
桑原氏:
もちろん全メーカーは、すべてライバルです。ただ、ゲームメーカーさん同士の仲がすごく良かったんですよ。当時はCP(コンテンツプロバイダー)と呼んでいたと思いますが、ほぼすべてのゲームメーカーのCP担当者が参加した飲み会を何度もやったりしていました。まだ初期の時代は、携帯のほうにすごく注力している所がなかったですし、「これから頑張っていこうね」という若い人たちが集まっていたように思いますね。
上田氏:
今、『スペースインベーダー』の時代がフラッシュバックしましたよ。アーケードゲームの初期の時代は、一般社会にゲームが全然認められていなくて、携帯のほうも初期の時代はそれに近かったのかなあって何だか思っちゃいましたね。
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桑原氏:
そんなこともあったので、「あのメーカーを倒すぞ」みたいなことは考えていなかったですね。いつだったか、「ドワンゴの川上(量生)社長が金髪にしたら、会社としても目立つようになったのでけしからん。だから、お前らも金髪にしろ」って命令が下りまして、私と早貸さん、広報スタッフも金髪にしたことがありましたね(笑)。
他のメーカーとの比較の話に戻りますが、営業力に関しては、後発だったこともあり、ほかよりも弱いなとは思っていました。総合力では、たとえばバンダイみたいに待受画面とか、あるいは着メロとかをやっていた所と比べると、売上はずっと少なかったですし。
──携帯電話のキャリア側が、ゲームサイトは売れる、人気が集まるコンテンツサービスだという認識をはっきり持つようになったのは、いつ頃からだったんでしょうか?
桑原氏:
ゲームアプリの配信を始めた直後ぐらいのタイミングで、すでにそう思われていた気がします。パケット料金収入にたいする貢献も、ゲームは大きかったのではないでしょうか。
上田氏:
会社ができてから、2年ちょいでJASDAQに上場することができましたしね。当時、JASDAQでは、一番早かったのがYahoo! JAPANで、ジー・モードは2番目でした。
N503iが出た辺り(※端末は2001年発売)から、「これはすごいことになってるな」という感触がすごくありました。それまでは本当にショボショボでしたが、N503iが出てからすぐに売上が跳ね上がって、それからはずっと右肩上がりで下がったことが全然なかったですから。
桑原氏:
そうでしたね。後から出たボーダフォンの携帯アプリもけっこう出来が良かったですし。従量課金がメインでしたが、売上も良かったですよね。
苦戦を強いられた海外市場への展開
──2003年11月から、iモードでは世界初となる日本・フランス・スペイン間での相互対戦ゲームサービスを開始したそうですね。ジー・モードでは、いつ頃から海外での配信を意識するようになったのでしょうか?
桑原氏:
海外で配信したり、外国のプロバイダーと提携して海外のゲームを日本に展開するという構想はずっと持っていました。国内でナンバーワンになりましたし、海外でもぜひやりたいなと思って早いタイミングで動いてはいたのですが、海外ではあまりうまくいかずに勝つことができませんでした。
──うまくいかなかったのは、日本に比べて携帯電話があまり普及していなかったのが原因でしょうか?
桑原氏:
それもありますが、勝てなかった理由はほかにもいろいろあって、ゲームそのものを作れなかったケースもけっこうありました。
まず海外で配信する場合はノキアの携帯に対応させる、つまりSymbian (シンビアン)OS対応のゲームを作らなくてはいけないんですね。そうすると英語のドキュメントや海外のOSの使い方とか、自分たちが持っていない知見が新たに必要になるわけです。しかも、海外の携帯は日本と通信方式が違ったり、ローミングがなかったりしたので、日本からだとすごく参入障壁が高かったんですね。
ドコモが、「iモードを海外にも展開しましょう」となったときにもチャレンジはしたのですが、iモード自体が海外でそれほど普及せず、しかも海外とのローミングができなかったので、ジー・モードとしてはかなりつらかったなという印象でした。
上田氏:
海外の数字も毎日こちらに上がってきていたけど、どこの地域でも苦労していたよね。
竹下氏:
そういえば当時のハドソンも、海外展開をして現地でいろいろなキャリアと仕事をするためにハドソンUSAという会社をつくっていた記憶がありますね。
──ジー・モードのほうから、海外のメーカーやキャリアにライセンスを出したこともあったのでしょうか?
桑原氏:
ライセンスも出していましたよ。データイーストの権利をいくつかジー・モードが持っていましたので、たとえば『バーガータイム』とかは海外でも人気があって、たくさんロイヤリティが入ってきましたね。
『バーガータイム』©G-MODE Corporation / DATA EAST and DATA EAST logo(s) are trademarks in United States and other countries or registered trademarks in European Union and Japan of G-MODE Corporation.
竹下氏:
そうそう。たしか、当時はハドソンでも『バーガータイム』のライセンスをジー・モードさんから受けて海外向けに配信していましたよ。で、たまにですけど今でも海外から数字が上がってくることがあるんです。
──iモードの初期の時代、つまり2Gの時代は、自前でゲームやサイトを開発して海外に展開するのは、かなり難しいビジネスだったんですね。今となっては、実際に経験した皆さんからの証言はすごく貴重だと改めて思います。
桑原氏:
当時は私がドコモの海外向けの担当もやっていたのですが、あの時代は海外だとゲームロフトの勢いがもうすごくて。オフィスを見に行ったらたくさんの人数を割いて、本格的にサービスを展開していたのですごいなあと驚きましたね。
とてもカジュアルな雰囲気のオフィスで、すごくいい環境だなあって思ったのを今でもよく覚えています。昔のジー・モードのオフィスは、ちょっとおカタイ作りだったので(笑)。
先々を見越して、海外展開もしっかりやらなくてはと思ってはいたけれども、なかなかうまくいかなかったというのが現実でした。とくにカジュアルゲームを出そうとなると、地域によって文化が当然違いますから、それぞれの場所に合ったものを出さないと売れないわけです。
たとえば、欧州向けゲーム開発の打ち合わせをしていたときに、「O2でiモードが始まるからイギリスとアイルランドで、クリケットのゲームを作って出せばいいのでは?」という案が出たのですが、いざ現地に行って聞いてみたら、実はアイルランドの人たちはクリケットをあまりやらないことがわかったんです。イギリスでは大人気なのに、アイルランドではクリケットの人気がないだなんて、そんなことは自分たち日本人には、なかなかわからないですよね(笑)。端末もイギリスとアイルランドでは同じO2のiモードでも別のものでした。
そんな状況下で、海外ではゲームロフトみたいなモバイルゲーム専業の会社がどんどん増えていましたから、まあ難しいなと。携帯にゲームをバンドルで出していただいて販売するビジネスもあったのですが、エンドユーザーまで直接届くようになるまでの準備がなかなか難しかったんです。それに加えて、海外のキャリアは、課金サイトの手数料が日本に比べてすごく高いという問題もありました。なかには手数料が50パーセントを超える所もありました。日本のキャリアは10%前後が標準だったので驚きました。
2G~3G携帯電話への移行期の状況
──やがて日本国内では、ドコモのFOMAや、KDDIのcdmaOneなどの新たな規格や通信方式の携帯電話がどんどん出てくるようになりました。新しい端末やサービスに対応したゲームを開発するにあたり、何かご苦労などはありましたか?
上田氏:
新しい携帯が出てきて、大変になったという思い出はたしかにありますね。QVGA(320×240ドット)のモニターが最初に出たときは、画面サイズが一気に4倍になったので、その時点で100種類ぐらいあったゲームの画面サイズを、「みんな4倍にしなきゃ!」ということになり、もうてんやわんやで大変でした。
桑原氏:
QVGAの前にも、504iシリーズとかでモニターのサイズがひと回り大きくなった時期(N504iが162×216ドット)があったので、そのタイミングでゲーム画面をちょっとだけ大きくしたこともありましたね。
上田氏:
ハードが進化したことによって、それまでに出していたものを全部作り変えなきゃいけないという、大きな変更をした時期が2回ぐらいあって、まあバタバタしてましたね。
桑原氏:
当時の『Get!!プチアプリ』では、新作ゲームを毎月2本出すように厳命していましたから、全部作り変えるのは本当に大変だったなあと思います。
──後発だったというお話を何度もされていますが、そうしますと自分たちのサービスや社名を知ってもらうためのプロモーション、あるいはブランディング活動がかなり大変だったのでではないでしょうか?
桑原氏:
出資者に兼松コンピュータシステムがいたおかげで、最初の頃は代理店を通じてパンフレットをたくさん配ることができていました。これがかなり大きかったと思いますね。
新しい携帯を買った人が、お店で一緒に渡されるパンフレットを見たときにゲームが掲載されていたら、「ちょっとダウンロードして遊んでみようかな?」という気になってくれますので。
──当時のキャリアは、毎月のようにWebやアプリで遊べるサービスをまとめたパンフレットを発行して、ショップの店頭に置いてありましたよね。
桑原氏:
そうですね。そのようなキャリアが作成するパンフレットに、いかにしてコンテンツを紹介してもらうのか? というのも大きなミッションでした。もっとも、昔はiモード自体が凄まじいパワーを持っていましたので、そこからの流入が一番大きかったですね。それから当時は、iモードの専門雑誌でも宣伝ができていました。
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──懐かしいですね。たしかに、当時は『iモードで遊ぼう!』や『iモードスタイル』などの雑誌やムック本がいろいろ出ていた時代でした。
桑原氏:
その後、iモードのトップ画面に表示されるバナー広告が販売されるようになったのですが、そこから宣伝の仕方がけっこう変わったな、という印象があります。
そもそも、当時はiメニューをたどっていって、「ゲーム」の各カテゴリーにアクセスしたときに表示されるサイトは人気の高い順に表示される仕組みでした。だから、各キャリア、カテゴリーで上位にいましょう、1位を取りましょうということでいろいろやっていました。1位でいることが、最強の集客だった訳です。
上田氏:
「ミニゲーム」「パズル」等、各カテゴリーが表示されている1ページ目に表示されるサイトは、1~4位までが表示されていました。コンテンツの数によっても3位までだったりと表示数が変わるとか、そういうルールがありましたよね。
桑原氏:
で、カテゴリー単位で見たときに、私がこれは勝てないなと思ったのが、ナムコの『太鼓の達人』でした。配信されると最初に聞いたときは、「ウワッ、『太鼓の達人』がついにきたか……」って思った記憶がありますね。
上田氏:
そうそう。アクションのカテゴリーで、ずっと1位でしたね。