時は20世紀末期。NTTドコモがサービスを開始したiモード対応携帯電話に、既存のゲームメーカーが新たな鉱脈を求め、こぞってゲーム配信事業に参入を開始し、徐々にビジネスを拡大し始めていた。
携帯電話のブラウザ上で遊べるWebゲームや占いサイトなどのコンテンツがひしめくなか、後にモバイルゲームの主流媒体となる「ゲームアプリ」が現れた。
その携帯電話向けゲームアプリの配信事業にいちはやく特化した会社が、東京都新宿区に設立された。
株式会社ジー・モードである。
同社は2000年7月に設立され、翌年には早くもiモード対応携帯電話向けゲーム(iアプリ)の配信を開始すると、飛ぶ鳥を落とす勢いでサイトの会員数・売上を増やした。とりわけ、『テトリス』のライセンスをいち早く取得し、携帯でも『テトリス』が遊べる時代が到来したことを世に知らしめたインパクトは絶大だった。
その後、iモードのほかにもJ-SKY対応携帯電話(Javaアプリ)やEZweb(BREW)にもゲーム配信事業を展開し、対戦ゲームやパズル、RPGなど数々のサイトやアプリをヒットさせて急成長。2002年の10月には、早くもJASDAQに株式の店頭公開を実現した。
なかでもiアプリ対応の『Get!!プチアプリ』は、月額課金の有料サイトにもかかわらず、最盛期には会員数が100万人を突破。数ある大手ゲームメーカーの競合サイトを差し置いて、長らくゲーム系サイト人気ランキングで1位の座をキープした、まさに伝説のゲームサイトだ。
今日のスマホ用アプリゲームにつながる、日本の携帯電話向けゲームの歴史を語るうえでは、新たな市場を作り上げるのに大きく貢献したジー・モードの歴史を避けては通れないだろう。
そこで電ファミニコゲーマーでは、携帯電話向けゲーム黎明期の事情を知る、新旧ジー・モード関係者3名にお集まりいただき、その歴史を伺った。
ご参加いただいたのは、旧ジー・モード設立メンバーのおひとりで、現在はサウザンドゲームズ代表取締役CEOの桑原敏道氏、同じくサウザンドゲームズ取締役の上田和敏氏、現ジー・モード取締役の竹下功一氏。今日のスマホ用アプリゲームにまでつながる、携帯電話向けゲームの歴史を知り尽くした皆さんが一同に会する機会となった。
携帯電話向けゲームアプリという、それまでになかった新しいプラットフォームを当事者はどのような目で見ていたのか? あるいは、どんなところに新たな可能性を見出していたのか? ここでしか読めない、貴重かつ面白い証言が数々飛び出したロングインタビューは、いわゆるガラケー全盛期の時代を知らない方々も必読だ。
また、ジー・モードでは懐かしのガラケー時代のゲームをNintendo Switchに移植し、ダウンロード販売を行うプロジェクト、「G-MODEアーカイブス」を昨年4月から開始している。なぜ今になって、2Gや3G時代のゲームを復活させたのか、同社の本プロジェクトに込めたこだわりや熱意も併せて、たっぷりとお伝えしよう。
「日本モバイルゲーム産業史」とは、約20年にわたるモバイルゲーム業界の歴史を、当事者たちにきちんと話を聞いていって、その証言/記録を、これからの時代に向けた“共有すべき知見”としてまとめていこうというもの。がむしゃらだった時代を振り返ってもらいながら、笑いあり涙あり、そして学びあり(?)な記事を作ってければと思う次第です。
厳しいゲーム市場を打破すべく、未知のプラットフォームに挑戦する会社を設立
──本日はよろしくお願いいたします。沿革によると、ジー・モードの設立は2000年の7月となっていますが、どのような経緯でメンバーが集まって会社が作られたのでしょうか?
桑原氏:
まず、設立の前段階からお話をしますと、私は設立の1年ほど前に先輩のプロデューサーから誘われて、アシスタントプロデューサーとしてESP(Entertainment Software Publishing)という会社に入ったのですが、そこの代表が宮路洋一さん【※1】でした。後にジー・モードの社長になる宮路武さん【※2】のお兄さんです。タイミング的には、ちょうどゲームアーツでドリームキャスト用『グランディアII』を作っている最中の時期だったと思います。
※1 宮路洋一
1985年に弟の宮路武氏らと株式会社ゲームアーツを設立し、パソコンや家庭用を問わず数多くの作品を企画、制作、プロデュース。メガドライブでは『ぎゅわんぶらぁ自己中心派』、メガCDでは『ルナ』シリーズや『シルフィード』、セガサターンでは『グランディア』などを制作、プロデュース。以後、2005年まで同社の代表取締役を務める。
※2 宮路武
旧ジー・モードの代表取締役社長。実兄の宮路洋一氏とともに、1985年にゲームアーツを設立。『シルフィード』『グランディア』シリーズなどを開発したことでも有名。2011年逝去。
採用面接のときに宮路さんとお話をしたのですが、もうその当時からN501iだったかN502iだったか、携帯電話をカチャカチャ、パカパカいじっていて、「これからは携帯の時代だ!」と熱く語っていたんです。私の経歴や条件面とかの話は全然しないで、宮路さんが、お一人で携帯のことばっかりしゃべっているうちに、いつの間にかESPに採用されていました(笑)。
入社してからはコンシューマーゲームのアシスタントプロデューサーとiモードの担当をすることになり、角川書店や講談社のiモードのサイト制作をお手伝いしていたのですが、あるとき宮路洋一さんから「iモードで『テトリス』を出せる権利が取れそうだ」というお話を聞いたんです。
洋一さんは、ゲームアプリが動く携帯が近々発売されるということを知っていたようです。そこで携帯に一番合う、鉄板になるゲームって何だろうと考えたら、『テトリス』だろうと。プロデューサーとしての目利きが効いたんでしょうね。
そこで、『テトリス』の権利団体といち早く交渉して、権利が確実に取れる前提で動き出したんですね。
ESPはCSKベンチャーキャピタルの大川功さんの出資を受けていた会社でしたから、まずは洋一さんが大川さんに出資のお願いしたところ、断られてしまったみたいですね。
私はそのときの現場にはいなかったのですが、その後は出資者を探すため、私も洋一さんに連れられて、大手ゲームメーカーの社長さんなどいろいろな所を回りました。洋一さんの友人・知人ルートをあたっていましたので、出資と言うよりは「一緒に事業をやりませんか」と、お誘いしたと言ったほうが適切かもしれません。
そんな中、アトラスの原野社長にお会いしに行ったときに同席してくれた高見富夫さんと宮路さんが意気投合して、「じゃあ、やりましょうか」ということになりました。高見さんは元セガなので、宮路兄弟とはメガドライブの時代から仲良くしていたんだと思います。
アトラスは「プリクラ」の次のビジネスを模索していた時期ですし、携帯電話コンテンツにも興味を持っていたので、丁度良いタイミングだったのでしょうね。アトラスと角川書店の角川歴彦さん(角川出版事業振興基金)が資金を出してくれることになり、ESPとは直接の関係がなくなったので、私はESPを辞めることになりました…。
──なるほど。設立の前には、そんな紆余曲折があったんですね。
桑原氏:
上田さんは、ジー・モードを作るという話をいつ頃聞いたんですか?
上田氏:
今のお話は初耳ですよ(笑)。
桑原氏:
上田さんはアトラス創業者のおひとりで、『女神転生』シリーズなどを開発されたことは皆さんもきっとご存知ではないかと思いますが、同じくアトラスの創設者である原野さんが、ジー・モードに上田さんを推薦してくれたんですよね?
上田氏:
はい、そうです。
桑原氏:
余談ですが、私はESPを辞めることを家族から猛反対されました。ESPには転職したばかりですし、すごく良い会社だったので…。で、ESPを辞めたら辞めたで、今度は新しい会社がなかなかできないから「まだ会社ができないのかよ!」って、かなり焦りました…。
ESPはもう直接関係がなくなっていたのですが、その後ゲームアーツと、兼松コンピューターシステムも出資をして下さることになりまして、会社ができてから2000年10月に「携帯ゲームアプリ配信に特化した会社として、これから本格的に事業を始動します」というプレスリリースを出しました。
宮路武さんや高見さんといったゲームメーカーで実績をもったプロフェッショナルが組んで、株主はアトラス、ゲームアーツ、角川出版事業振興基金。そして、携帯電話販売を手がけている兼松コンピューターシステムですよといったお知らせですね。
設立当時の状況:まったく無名の状態から事業をスタート
──宮路兄弟のおふたりをはじめ、2000年の段階で携帯電話向けのゲームアプリ配信に特化した会社を作ろうと、関係者の皆さんがいち早く動いていたとは改めて驚きですね。
桑原氏:
当時はセガがドリームキャストを発売してからしばらく経ったころですね。プレイステーション2もローンチはしたけれど、初代のプレステと互換性があって、しかもDVDが楽しめる。プレステ2の販売台数がそれなりにあった割には、ゲームソフトがあまり売れていなかったタイミングでした。
その頃のESPの状況は、大川さんのおかげもあってセガのハード、つまりセガサターンやドリームキャストを中心に『グランディア』や『ルナ』などを出していました。ですが、市場がいよいよプレステ側に傾きつつあるということで各タイトルをプレステに移植しました。
これはESPに限った話ではなく、業界全体で「コンシューマーゲームはちょっと厳しいな。プレステ2本体は今後も売れるとは思うけど……」とみんな認識していたのではないでしょうか。
たしか、プレステ2のローンチタイトルで、発売初年度にミリオンを達成したソフトは、おそらく1本もなかったと思います。しかも、初代プレステソフトの受発注もかなり苦しい状況になっていて、ESPも力を入れていたドリームキャスト用のタイトルは、もっと厳しくなっていたんです。
そんななか、新しいプラットフォームに賭けてみようという熱や期待感みたいなものを、アトラスやゲームアーツをはじめゲーム業界全体が持っていた。今振り返ると、そんな時代ではなかったかと思いますね。
──実際にはその後、プレイステーション2はかなりの広がりを見せましたが、リリース当時はまだ先行きが不安な空気だったんですね。
桑原氏:
そうですね。私自身も、コンシューマーゲーム市場はすごく厳しいなと実感していました。しかも、プレステ2初期の頃は、ライブラリが未整備だったり、情報が足りなかったこともあり、特に版権もののキャラクターをオリジナルにちゃんと似せて作るのが大変でした。
ESPの例でいうと『はじめの一歩』のパブリッシングをしていましたが、開発会社さんもキャラクターの絵を似せることに、とても苦労していました。プレステ2なら、スペック的にできるはずなのに、なかなかできない…。似せるためには、描くノウハウやお金がメチャクチャ掛かるなあとか、ライブラリを自前で作らないとダメだとか、DVDで容量も大きくなるし、もう大変だなあと。
そんな状況下で、携帯電話がプラットフォームとして現れた。それも初代プレステどころか、ゲームボーイをチープにしたようなプラットフォームが出るぞという話を聞いたので、「これは面白そうだなあ」という印象を持ちました。
──既存のプラットフォームに比べて性能が格段に落ちるということに対して、作り手としてガッカリするようなことはなかったんでしょうか?
桑原氏:
大手出版社の携帯サイトのお手伝いをしていて、iモードのユーザー数がどんどん伸びているのがわかっていましたからね。
そうは言っても、ジー・モードは後発の会社でしたから、最初の頃はキャリア(携帯電話会社)の皆さんからまったく相手にされませんでした。むしろ、印象が悪かったのか、マイナスからのスタートだったような気がしますね。
当時はNTTドコモが毎月1回、どんな新しいコンテンツを採用し、配信するのかを決める全国会議をやっていましたので、そこに提出する前に窓口であるコンテンツ担当に私もプレゼンをしていたんです。アポイントメントもなかなか取れないですし、敷居が高くて必死でした。
この間、当時の業務日報を読み返していたら、「プレゼンがうまくいかなかった」とか書いてありました(笑)。
上田氏:
私が合流する前の苦労話ですね……。初耳です(笑)。メンバーとの初の顔合わせは、新宿御苑の事務所開きの初出勤の日でしたね。早く行き過ぎて、お掃除のおばさんに鍵を開けてもらって一番乗りでした。
桑原氏:
当時のジー・モードのスタンスは、ほかのメーカーさんとはかなり違っていました。アーケードやコンシューマーという巨大な市場で、ビジネスモデルを持ったゲームメーカーが「是非、参入してください」とキャリア側から言われるのとは違って、我々は「携帯電話向けにだけやりましょう」と言って実績ゼロで始めたわけですし。
──ジー・モードの設立当時、すでに携帯電話向けにゲーム配信ビジネスを始めていたところはあったんでしょうか?
桑原氏:
特化しているという意味では、ドワンゴが近いイメージでしょうか。その時点で、もうドワンゴでは釣りのゲームが出ていたと思います。iアプリの時もオンラインRPGの『サムライロマネスク』を早々に告知して先行していた印象です。
上田氏:
そうだね、『釣りバカ気分』【※】だね。Javaが入る前は、目立ったゲームが少なかったよね。
※『釣りバカ気分』
ドワンゴのiモード対応携帯電話向けゲームサイト、『ドワンゴかもね』の配信タイトル第1弾にあたる、釣りのWebゲーム。1999年11月1日に配信を開始した。
桑原氏:
ほかにもサイバードとかがありましたが、ゲームがメインではなかったですし、ゲームアプリ専業で派手にやっていたのは、ジー・モード以外にはなかったですね。あと個人的には、アトラスがあまり携帯電話コンテンツに注力していなかったのが、ある意味ラッキーだったなあと思います。
もしその当時、アトラスが本格的にiモードに参入していたら、そもそもジー・モードを作るという話自体が出なかったかもしれません。そんな経緯もあったので、新しい会社でいろいろなことができたんでしょうね。
上田氏:
私としては、新しいハードに挑戦できることがうれしかったです。ハードの進歩が新たなゲームを生んでいく、そんな時代を過ごしてきた最後のハードになりました。携帯電話になってハードがチープになったという話がありましたが、私はゲームシステムが得意な企画屋なので、企画で勝負できる携帯電話のゲームは最高の土俵でした。
私は当時、ニコリのペンシルパズルの本を毎日持ち歩いていまして、会社に通う電車の中とかで、シャープペンで遊んでいたのですが、「これが携帯で遊べたらいいなあ」って思うようになっていきました。それから「人と人の対戦ゲーム面白いよ」とずっと言い続けていて、後に対戦ゲームやペンシルパズルのサイトのサービスを実現することができました、本当に楽しかったですよ。
──ジー・モード設立当時のメンバーは何人ぐらいいたんでしょうか?
上田氏:
10人ぐらいですね。最初の頃は、企画担当は私ひとりだったよね。
桑原氏:
ええ。企画が上田さんで、私がプロデューサーという役回りをしつつ、Webサイトの制作と更新もやっていました。
上田氏:
自分は会社ができたちょっと後から合流したのですが、最初は「企画担当者ゼロでやる気なのかな」と思って驚いたね(笑)。
桑原氏:
自分たちにとっては、当時のゲーム業界が厳しい状況だったのが逆にラッキーなところもあったんです。ゲームスタジオ【※】の遠藤(雅伸)さんに連絡をとったところ、すぐに全面協力をしてくれたんです。丁度、次のビジネスを探していたというか、苦しかった時期だったというか…。
「今度、新しく出てきたJava対応携帯電話でゲームが動くぞ。新しい会社でゲームが作れて、しかも『テトリス』が動くぞ」ということで俄然やる気になり、初期のタイトルを一緒に作って下さったんです。
今思うと、遠藤さんや上田さん、それから宮路武さんもいらっしゃいましたから、まさにゲーム業界のアベンジャーズ状態でしたよね(笑)。
※ゲームスタジオ
遠藤雅伸氏が設立したゲーム開発会社。『イシターの復活』や『ファミリーサーキット』シリーズを開発。携帯電話用ゲームにも早期から参入しており、ジー・モードでも『三国志年代記』など一部の作品に関わっている。
──Javaのお話が出てきましたが、当時はまだJavaが出始めの頃でしたよね? ゲームを作るための開発機材は、どのように調達していたのでしょうか?
桑原氏:
自分たちは後発だったこともあって、資料や開発用のエミュレーターももらえず、そもそも携帯電話のスペックさえ知らされていなかったです。
実際の画面サイズもわからないまま、120× 120ぐらいのサイズで表示できるものと想定してレイアウトを作ったりしたのですが、「120×120よりも小さい携帯もあるらしい」とか「白黒の機種があるかもしれない」なんて言っていたりもしましたね…。
上田氏:
そうそう。ギリギリまでサイズがわからなかった(笑)。
桑原氏:
カラー画面の携帯でも、いったい全部で何色使えるのかも、画面サイズやプログラム容量などの仕様が統一されるのかも全然わからない。ただ、ブラウザが各社で共通ではなかったので、おそらく仕様が統一されることはないだろう、Javaを使って作ることになるだろうということは、予想できていました。
上田氏:
操作デバイスがどうなっているのかもよくわからなかったので、まあ大変でした。たとえば、S503iという携帯ひとつを取っても「あのボタン(ジョグダイヤル
)はどういうふうに使うのかな?」って。でも、そういう状況だったからこそ、自分たちが活躍できたのかなって思います。
デバッグするのも面倒でしたが、各社の携帯をちゃんとそろえて、デバッグをきちんできるメーカーが勝ち残っていったわけですよね。
──設立当時は、宮路武さん以外にもゲームアーツの出身者がいたのでしょうか?
上田氏:
えーと、ゲームアーツから来た初期のメンバーで、プログラマーは宮路さんと、岡部博明さんで、デザイナーは池谷昌彦さん。
桑原氏:
それからゲームアーツ関係ですと、元ゲームアーツの大味(健一郎)さん率いるスクリプトアーツにも大変お世話になりました。初期ラインナップは内部制作以外ですと、スクリプトアーツとゲームスタジオのものが多いですね。
あと、人員関係の話を続けると、ちょっと経ってから窪田(俊幸)さん【※】も入って来て…。こちらはゲームアーツではなく、上田さんの人脈ですが。
※窪田俊幸
上田氏とともに、旧テクモ時代には『ソロモンの鍵』を、アトラスでは『パズルボーイ』シリーズを開発した人物。
上田氏:
窪田さんは、ユニバーサルで『Mr.Do』を作った時からの長い付き合いで、最初のころはずっと私の先生でした。2進法から教えていただきました。桑原さんから「今度、ドコモの全国会議があるから、(親指と人差し指を大きく広げながら)これくらいの企画書を書いてください」って言われたんですよ。で、「これは大変だ……」と思い、窪田さんに何度目かのヘルプをしに来ていただきました。
桑原氏:
あの時代は、「分厚い書類こそが正義だ」ということで、ゲーム仕様や画面遷移図など、詳細に、何から何まで書く必要がありました。で、すごく分厚い書類を作ったら、今度は「全国会議に参加する全員に配るので、参加者分のコピーを用意して提出してください」と依頼されたので、もう会社のコピー機だけではとても間に合わないんですよ。
上田氏:
あのときは、ひとりでまる2日間掛けて社内用もあわせて50人分のコピーを取りましたよ。最初は会社でコピーしていたら、途中でレーザープリンターが悲鳴を上げてダメになっちゃったんです。で、「あそこのキンコーズでやれば?」って言われて、キンコーズ通いです。その日は徹夜でコピーを取ってましたね。桑原さんと2人で、企画書を両手にいっぱい抱えて、タクシーに乗り込んで「いざドコモ」です(笑)。
桑原氏:
ジー・モードは後発でしたから、他社よりもたくさん書かなきゃいけないような空気みたいなものがありました。「これだけちゃんとしたものを作りますから、どうか承認して下さいね」というアピールのために、どうしても分厚くせざるを得なかったということで、あのときは上田さんに泣いていただきました……。
上田氏:
あの企画書はすごかったねえ。いったい何タイトル分の企画を書き込んだことか……。たしか、『ペンシルパズルだよ。』【※1】とか『ゲームで遊ぼ!』【※2】、『対戦ぐるじゃむ』【※3】の3つのサイトと、ほかにも全部合わせると10種類ぐらいのコンテンツ企画が書いてあったと思います。
※1 『ペンシルパズルだよ。』
2001年3月から、iモード対応携帯電話向けに配信を開始した、『数独』『お絵描きロジック』などが楽しめるサイト。月額300円(税抜)の月額課金制だった
※2 『ゲームで遊ぼ!』
2001年1月からiモード対応携帯電話向けにオープンしたゲームポータルサイト。
※3 『対戦ぐるじゃむ』
2001年1月からiモード対応携帯電話向けに配信を開始した、月額300円(税抜)の月額課金制サイト。会員登録をすると、『テトリス』をはじめ『麻雀』『オセロ』『花札』『大富豪』など、サイト内に用意されたゲームを自由に遊ぶことができた。(※パケット通信料はユーザーの自己負担)
桑原氏:
サイト公開後に追加する予定のタイトルも書きましたし、それから「今後はこういうサーバーを用意します」みたいな計画も含め、全部まとめて書いて提出しましたね。
上田氏:
とはいえ、当時のゲームは本当に容量が小さかったですから、個々のゲーム内容を書くこと自体は、それほどたいへんではなかった気がします。小さな画面と小さなメモリをどう工夫するかが大変でした。
──iアプリが始まった頃の503iシリーズですと、アプリのプログラム容量は本体内に最大10キロバイト、データ保存領域のスクラッチパッドも同じく10キロバイトまででしたから、今考えると本当に小さかったですよね。
上田氏:
そうですね。たとえば競馬ゲームですが、503iでは、容量が足りないから牧場とレースのアプリをそれぞれ分けて配信したりとか、まあいろいろな苦労がありました(笑)。
そうそう、今ではハートやライフを消費して遊ぶスマホアプリがたくさんありますけど、それを最初に始めたのが、もしかしたら『ケイバモノガタリ』かもしれませんね。このゲームでは1時間に1ポイントたまるライフを使って、馬の調教やレースができるようにしたんですよね。レースや繁殖等々色々な部分を本物に近づけたくてパラメータの数がものすごく多くなってしまって、バランスを取るのが超大変で、すごく楽しかったです。
桑原氏:
当時の会社の雰囲気のお話を続けましょうか。私がジー・モード設立直後に書いたメモが、まだ手元にあったので今日お持ちしました。このメモは、まだiアプリが出始めたばかりの頃に、これから流行するコンテンツの予想をまとめたポートフォリオなんですよ。
──これはスゴイですね! 当時ならではのお考えを知ることができる、貴重な資料になるのではないでしょうか。
桑原氏:
本当にざっくりとしたものではありますが、これからはこの図でいう「頭脳的」と「手軽さ」が携帯ゲームアプリの中心市場になるだろうと、503iの時点で読んでいました。
テーブルゲームやパズル、ボードゲームみたいなものが主流になって、当落線上に位置するのがシミュレーションゲームやRPGになるだろう。ただし、携帯のスペックが後々向上した場合は、「マニア向け」に寄るだろうという読みがあったのですが、実際の市場もだいたい思っていたとおりにシフトしましたね。
このポートフォリオを元にして、どのようなゲームを作るのか? どのようなゲームのライセンスを取るのかを検討していきました。例えば「思考型」の『倉庫番』は、権利交渉させて頂きましたが、話がまとまらなかったので自社オリジナルの『ラビットラビリンス』をつくったり。「面クリア型」に関しては、実現したのは『平安京エイリアン』です。最終的にはペンシルパズルが、その部分を大きく占めましたが。
総合ゲームサイトを目指していたので、なるべく広い面を抑えたいと考えていました。とにかく「ゲーム画面が小さくても、面白さが変わらないゲームってなんだろう?」という熱い議論をして。
でも、今の目で見ると、私の趣味が丸出しだし、恥ずかしいです(苦笑)。この時点では、エンタメ性が強いものということでスポーツものと、あとは『シムシティ』みたいなシミュレーションゲームが、もしかしたら流行するのではないかと、個人的にはそんな気がしていました。
当初は占いアプリも考えたのですが、もう専業のサイトがありましたし、後から出してもどうだろうと思ってプライオリティは低くしていました。
とにかく、まずはゲームを作って配信しましょうと。ヒットさせたらコンシューマーゲームにライセンスも出しましょうとか、もうホントに生意気なことを言ってましたね。まあそれぐらいの熱さを持ったうえで、当時は仕事をしていたということです。そう言えば当時、宮路さんも自分で『麻雀』を作っていましたしね。
上田氏:
はい。『麻雀』を宮路さんと作りました。携帯の画面が狭いんで苦労しましたね。見やすいように牌を大きくしたいので、2段式に並べて表示させました。操作性が心配で苦労したのを覚えています。宮路さんとはリアルの麻雀でも熱い勝負をしていました。
桑原氏:
でも、コンテンツラインナップは最初から成功したわけではないんですよ。私のなかではもっと昔のゲームセンター的なサイトが流行するのかなと思っていました。というのも、ポーカーやブラックジャックのような、マニュアルを読まなくても楽しめるアーケードゲームに近いものが合っているのかなと思ったからなんですね。「ブラックジャック」「ワイルドポーカー」「ホールドスピン」(スロットマシンゲーム)を初期の追加コンテンツとして配信したのも、そういった理由からです。
ところが、実際の市場はもっとライトな方向に振れたので、途中から若干ですが軌道修正をしました。途中でカジュアル寄りに修正はしたけれども、その一方でコアなものやライセンスものに関しても、集客面では必要な部分がありましたので、引き続きそういう意図で出すようにはしていました。
当時、一番の集客はキャリアのポータルサイトで紹介されることでしたが、やはり知名度があるライセンスものや、やり込み要素のあるゲームは推してくれましたからね。
ヒット作品を連発し、短期間でゲーム配信の最大手に成長
──ジー・モードは先駆者だったイメージがずっとあったのですが、実はiモードの市場では後発だったというお話は本当に驚きですね。
上田氏:
でも、中にいた人間はずっと先駆者っぽい感覚で仕事をしていましたけどね(笑)。最初の頃は、まだ携帯で通信対戦ゲームは存在しませんでしたし。
桑原氏:
そうですね。要は、ゲームアプリが世に出たときの見え方としては先駆者ではあったけれども、作っている間は後発だったということです。だからこそ、当時の私は生意気だったというか、虚勢を張る必要があったんですよね。
そもそも、ジー・モードという社名も生意気なように思いませんか? 何だかiモードに対抗しているみたいですし……。
上田氏:
うん。勘違いしちゃうよね(笑)
桑原氏:
社名を考えたのは宮路洋一さんだったかなあ。当時、「今度、携帯にゲームのボタンが付くようになるんだよ! だから、絶対『G(ジー)』にしよう!」って言っていましたし、それから「携帯にボタンを付けさせるんだ!」っていう話も業界内にありましたので、ジー・モードの社名はここからきているんです。
でも、いざ世に出たら「A(エー)」の頭文字を取ったデザインになっていたんですよね……。
一同:
(爆笑)
桑原氏:
503iシリーズのローンチプロモーションにはハドソンの『スターソルジャー』が使われましたが、ジー・モードは後発だったからか『テトリス』は扱ってくれなかったんです。P503iに『テトリス』がバンドルで入っていたので、そのせいかも知れませんが…。我々もアプリのバンドルに関してはまったく頭に入っていなくて、携帯の実機が手元に届いてから「P503iに『テトリス』が入ってる!」とびっくりしたことがありました。
竹下氏:
実は、私は当時ハドソンにいたのですが、iアプリ版の『スターソルジャー』のことはよく覚えています。当時開発をしていたチームに同期の子もいて。それで開発中のものを見せてもらったりしてて。「すごい!こんな小さい画面でスターソルジャーが動いてる!」と。
桑原氏:
『スターソルジャー』は良くできていましたよね。本当にすごかったと思います。『スターソルジャー』の源流になった『スターフォース』を作ったのが、上田さんなので、上田さんのライバルは上田さんというのが、これまた面白かったです。
上田氏:
その『スターフォース』は、遠藤さんの作った『ゼビウス』を見て作ったゲームって……。素敵ですね!
竹下氏:
そのおかげで、広末涼子さんのテレビCMにも採用されましたしね。で、当時はハドソンもゲームサイトのランキングで上位にいたとは思いますが、ジー・モードのサイトはずっと1位だった記憶があります。
ハドソンはその下の2位とかで、ジー・モードは越えられない、すごく高い壁のような存在なんだなと思いながら見ていました。
桑原氏:
ハドソンのお話が出たところで、当時のライセンスの獲得競争についてもお話をしますと、ライセンスを取りに行くとジー・モードのほかにハドソンと、それからさっきもお話したドワンゴの3社が、どこに行ってもカブっていた印象がありますね。
上田氏:
対戦ゲームサイトに『オセロ』はぜひ欲しいタイトルだったので、当時の「ツクダオリジナル」にライセンスをもらいに行きました。飛び込みに近い形でお話しさせてもらい、その場ですんなり決まった記憶があります。その後『リバーシ』という名で、他のメーカーは出していましたが、『オセロ』の知名度は非常に強かったですね。
「対戦ぐるじゃむ」のロンチタイトルで、ピーク時(2002年9月)には、対COMでは月間40万対戦、対人では月間135万対戦を超えていました。
桑原氏:
『オセロ』が取れたのは、大きかったです。やっぱりユーザーさんは、リバーシじゃなくって『オセロ』という名前で探しますので。ニコリのパズルのライセンスは、すんなり取れたんでしたっけ?
上田氏:
「ニコリ」さんのときも、飛び込みって感じでした。とにかく「二コリ」さんの問題を使いたいと考えていました。一番メインのパズルは、『数独』(1~9までの数字を1つずつ3✖3のマスに入れていくので『数・独り』)という妙な名前のパズルです。
「ニコリ」さんの問題の作り方は素晴らしかったです。ユーザーから問題を作ってもらい、社内で相当な時間をかけて評価する。バリエーションに富んだ良問ができるわけだと納得したものです。
契約料に関しても「会員数さえわかれば、いいから」と、最初は、会員数掛ける1円で契約しました(笑)。
桑原氏:
あのときは、上田さんがパズルを熱心にやり込んでいたので、ニコリさんにすごく気に入っていただけて。それもあって、ライセンスを快諾していただけたんでしょうね。
上田氏:
実は、訪問してから分かったのですが、二コリさんは、某大手と携帯のコンテンツをやっていたことがわかりました(笑)。ライセンスが取れたのは、その時に持って行った真っ黒に解き終わった十冊程の二コリさんの本の効果でした。パズル愛を熱く語っているうちに、二コリの社長さんに気に入られていましたね(笑)。
『お絵描きロジック』の製作者も紹介していただきました。帰りには、この本の問題を使ってくださいと100問入った『数独』の本を渡されました。
──お話を伺っていますと、先ほど桑原さんが作られていたポートフォリオの予想はかなり的中していたと言えそうですね。
桑原氏:
通信対戦ゲームやペンシルパズルなど、上田さんが携帯でやりたかったことをいろいろ考えていたのが大きかったと思います。私と宮路武さんだけで企画をやっていたら、複数のサイトを作れなかったかもしれませんね。
上田氏:
たしかに、全然違ってたかもしれないよね。『対戦ぐるじゃむ』とか、通信対戦ゲームのサイトを最初に作るときは、もうとにかく大変でした。
最初に出したゲームは4人で対戦できる『大富豪』だったのですが、ローンチした最初のゲームは、なんと1ゲームに1時間も掛かったんですよ。「やったー無事終わったー!!」って大喜び! でも、これは長過ぎるということで、すぐに2人用に変更しました(笑)。たしか、1か月弱の突貫工事で2人用を作りました。
最初の頃に作った対戦ゲームのほとんどは2人用でしたね。『花札こいこい』とかは元々2人用のゲームですが、『大富豪』『麻雀』『ポーカー』等、本来は2人用ではないゲームもたくさんあったのですが、新しいシステムをいろいろと用意して作った、自分でも本当に大好きなサイトでした。
後になってからは8人同時に、8面指しができる将棋アプリ『対戦将棋倶楽部』も作りました。505iシリーズのiアプリDXでメール連動機能が携帯に追加されたので、相手が指したらメールで通知が届いて、その手を見て今度は自分が指すようにして遊ぶんですよ。
──当時から、リアルタイムで通信対戦ができたんですか?
上田氏:
そうです。大変なのがパケット通信料で、1プレイごとに10~15円ぐらいのパケット代が掛かっちゃうんです。いや、もっと、かかったかもしれない……。
当時はサーバーから携帯に相手側の処理が終わったことを送る(プッシュ機能)ことができなかったんです。ですので、携帯からサーバーに通信して確認しに行くんです、「相手は指し終わりましたか」って。このたびにパケット通信料がかかるので、相手が指したかどうかをチェックするタイミングはどうするのかなど、すごく悩みながら作りました。
自分で作った『ポーカー』などのゲームを、私個人の携帯でデバッグしながら遊んでいたら、3か月連続で8万円ぐらいパケット代を使った時期もありましたね。それでも、毎日かなりの数の対戦ゲームが動いていましたので、ドコモからはかなり感謝されたみたいです(笑)。約3年で、2億プレイ達成で盛り上がったことを覚えています。
──当時はゲームに夢中になるあまり、パケット代が毎月数万円に跳ね上がったりして、「パケ死」という言葉が一時期話題になりましたよね。それでも、当時はたくさんの会員が『対戦ぐるじゃむ』などのサイトで、携帯でゲームを日々遊んでいたわけですから、本当にすごい時代だったと思います。
上田氏:
『対戦ぐるじゃむ』は月額300円でしたが20万人の会員がいましたし、『テトリス』が遊べたiモードの『Get!!プチアプリ』では100万人を超えましたからね。会員数が100万人を超えたゲームアプリのサイトはジー・モードが第1号で、ずっとゲームではナンバーワンのサイトでした。
桑原氏:
それから、最初の頃はiモードのサイトにはちょっと工夫をして、どのゲームでも全部ポータルサイトの『ゲームで遊ぼ!』に飛ぶように誘導してあったんですよ。このポータルサイトを表示されるようにしたおかげで、あちこちのサイトにユーザーさんを誘導できたんです。後から指摘されて、修正しましたけどね(苦笑)。
ミニゲームだけでなく、スポーツゲーム専門サイト『Get!!Sports』、RPG専門サイト『R.P.G-mode』を立ち上げて、幅広く展開していましたが、この導線は強力でした。