アストロシティミニきっかけで当時のゲーセンと『バーチャ』の話を聞いたら鈴木裕氏から「『バーチャファイター6』のお手伝いが必要なときはお声がけください」との衝撃発言が飛び出した【鈴木裕×原田勝弘×森利道鼎談】

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2000年にわずか8人の主力メンバーで作られた『GUILTY GEAR X』

──そんななか、森さんが2000年になって……

森氏:
 話が急に飛びますね(笑)。

──2000年になってなぜ、『GUILTY GEAR X』をゲームセンターに出そうと思ったのかな、というのが気になりまして。

森氏:
 もともとアークシステムワークスが、初代プレイステーション向けに最初の『GUILTY GEAR』を作ったわけじゃないですか。そのときはまだ僕はいなくて。その後にたまたま僕らが「仕事くださ〜い」ってアークに行ったら、「じゃあ『ギルティ』を出せ」と、木戸岡稔社長に言われたんです(笑)。最初は僕らだけで『GUILTY GEAR X』を作るみたいな話になったんですけど、石渡(太輔)さんが「どうしても一緒にやりたい」と言ってきて。

 それがちょうど、NAOMI基板が出た時だったので、「こういう新しい基板があるから、それを使ってやれ」という話になったんです。ちなみに『GUILTY GEAR X』って、全部で8人で作りましたからね。

──えっ!?

森氏:
 当時はアークじゃなくて、ピックパック・エアリアル【※】という外の会社だったんですけど、その会社には8人しかいなかったんですよ。もちろん外注も頼みましたよ、絵とかを描いてもらわなきゃいけないので。でも基本的に中で動いていたのは8人です。……地獄のような日々でした(笑)。

※ピックパック・エアリアル
同社の内情や『GULITY GEAR X』開発の経緯については、こちらの記事で詳しく語られている。

「会社が僕らのたまり場だった」国産格ゲータイトルを支える男たちの、青春の日々を今こそ明かそう【初対談:『GUILTY GEAR』石渡太輔×『BLAZBLUE』森利道】

原田氏:
 何年ぐらいの話ですか?

森氏:
 1998年からですね。

原田氏:
 それは地獄ですね。1998年だったら僕の周囲には、すでに70〜80人はいましたよ。

鈴木氏:
 10分の1だ(笑)。

原田氏:
 ピーク時には130人ぐらいいましたから。

森氏:
 だから『GUILTY GEAR X』で僕が何をやったのかと聞かれたら、背景を描いてUIを作ってエフェクトを描いて、絵コンテを描いてドット修正をして……そうですね、プログラム以外は全部やりましたね。同人でもここまでしないぞ、っていう量の仕事をしたので(笑)。ムチャクチャでしたね。

鈴木氏:
 『バーチャファイター』のときは15人ぐらいかな。それよりも少ないかもしれないです。だってグラフィックの機能がないですから。

原田氏:
 そうか、そうですよね、全部3Dポリゴンで表示するわけだから。セガさんはプログラマーの会社だったから、ライフバーとかもプログラマーさんが作ってたんでしょうね。あれもポリゴンなので。

鈴木氏:
 モーションを作るのに、けっこう人が必要だったんですよ。プログラマーはたいしていなかったんじゃないかな。4人ぐらいで。

原田氏:
 そうなんですね。

森氏:
 僕らはプログラマーが3人でしたね。残りはグラフィッカーで。石渡+グラフィッカーでやっていたので、仕様書なんか見たことないです。全部、勘です(笑)。

鈴木氏:
 楽しそうですね、それは(笑)。

森氏:
 楽しかったですよ、いろんな意味で(笑)。メチャクチャでしたよ、ホント。だけどがんばって、ああいうのが作れて。

鈴木氏:
 だけど新しいことをやっているのだったら、いくら仕様書を書いてもね、不確定要素が多いから、ムダになってしまう。

森氏:
 石渡も同じことを言ってました(笑)。「とりあえず、出してから考えよう」と。みんな「えーっ!」って。

鈴木氏:
 ある程度考えたらもう、やったほうが早い。

森氏:
 そうですね。

格闘ゲーム「だけ」では『BLAZBLUE』は生き残れなかった

原田氏:
 『BLAZBLUE』が出たのは何年でしたっけ?

(画像はHistory | BLAZBLUE 10周年記念サイトより)

森氏:
 2008年ですね。

原田氏:
 2008年ぐらいには、格闘ゲームのジャンルがすっかり出来上がっていたんですよ。雨降って地が固まっちゃってる状態で。だから、そこに新規タイトルを出しても勝てないんですよ。逆に老舗タイトルの中でも淘汰が起きていて、消えちゃったタイトルもたくさんあって。そうやってレジェンドタイトルのいくつかが生き残って、新規タイトルもいくつかは出るんだけど、すごい勢いで消えていく。

 そういう時代だったので、これは非常に失礼なんだけど、『BLAZBLUE』が出たときも「速攻で消えるんだろうな」と思ったんですよ。それは『BLAZBLUE』がどうこうではなくて、他のいろんなタイトルがそうだったので。だから『BLAZBLUE』が出てきたときは、中身もよく見ずに「これも瞬間最大風速でワッと売れて、2ヵ月ぐらいですぐ消えるんだろうな」と思っていたんです。ところが『BLAZBLUE』は生き残ったので、僕らにとって衝撃的で。その答えをいまだに見つけていないんですけど。

森氏:
 (笑)。

原田氏:
 こんな時代に『BLAZBLUE』というIPをよく生んだなと。しかも『GUILTY GEAR』があってですよ。僕らも『ソウルエッジ』『ソウルキャリバー』のシリーズと『鉄拳』のふたつをやっていて、セガさんも『バーチャ』以外に、『ファイティングバイパーズ』『ラストブロンクス』など、いくつかの格闘ゲームを持っていたわけですから、ひとつの会社が同じジャンルで複数のタイトルを持つというのは、なかなか大変なことだってわかるんです。しかも片方は2D、もう片方は3Dとかなら理解できるのですが、両方とも同じ2D格闘じゃないですか。それはチャレンジャーだし、よくやったなと思いますね。難度の高いことをよくやってのけたと思います。

 しかも、裕さんの作るゲームもそうですけど、僕らの場合は技術の進歩で一般の人も注目するし、『鉄拳』なんかはプレイステーションの進化に合わせてゲームの技術も進化するという、テクノロジーのバックボーンがあったんですよ。そういうのが何周かしていったん出来上がってしまっていて、なおかつ格闘ゲームという仕上がったジャンルの中で、新しいIPを打ち立てたというのは、僕らからすれば「虎の穴の中でさらに針の穴を通してきた奴がいる」みたいな感じに見えたので(笑)。そこは本当にすごく評価しているんです。

森氏:
 ありがとうございます。

原田氏:
 『BLAZBLUE』がIPとして上手く成り立ったのは、いったいなぜなんですか?

森氏:
 格闘ゲームはあくまでコンテンツのひとつとして、格闘ゲーム「だけ」として売らなかったことが、僕の中ではひとつの正解かなと思っているんです。

 僕の記憶では『BLAZBLUE』と同時期のアーケードで、格闘ゲームが8タイトルぐらい出たんです。その中に『ストリートファイターIV』もあって。『ストIV』を見たときにはさすがに「ヤバっ!」と思いましたけど。

 ちょうどあのころはいろんなものが変わり始めていた、運のいい時期だと僕は思うんですよ。ゲームだけで売っても売れないだろうなと思っていたのですが、たまたま何回か海外に行かせてもらったときに「ただ売るだけじゃなくて、コミュニティを作らないといけない」と感じて。それじゃあどうしようかと思ったいたときに、ニコニコ動画が流行り始めた。当時、20代の人たちに「ニコニコ動画を見たことがありますか?」と聞いたら、90数パーセントが「見たことがある」と答えたデータがあって。

 それと、当時はmixiが流行っていて、mixiの中にコミュニティがいっぱい作られていたじゃないですか。mixiのコミュニティの量で、何かが流行っているかどうかを判断することができたぐらいで、そういうふうにインターネットのコミュニティが一気にバーッと広がり始めた時期だったんですよ。だから逆に、いまみたいなTwitterの時代だったらヤベーなという気はしてますけど。

 そういうものを利用して、ただのゲームじゃなくて、キャラクターとかシナリオとかをそれぞれコンテンツとして、いろんなものをひっくるめてどうやって遊んでもらえるかなと。僕はいまでも、ゲームはあくまでも「遊び」だと思っているので、それに対してどういう遊ばせ方のアプローチをしようかなと考えて作ったのが、『BLAZBLUE』なんです。

 格闘ゲームの部分に関しては、ぶっちゃけ『GUILTY GEAR』であれだけ作ってるので、それなりに面白いものを作れるという自信はあったので。

原田氏:
 『BLAZBLUE』は最初、ゲームセンターですよね?

森氏:
 はい。ちょうどType X2【※】が出た時で。最初はNAOMIで作ろうと思ったんですけど、ちょうどType X2が出るということで、「じゃあ16:9で」って。「えっ、HD!?」って聞き直したんですけど(笑)。あれは社長の英断だったと思います。すでに半分ぐらい作っちゃっていたものを、Type Xに変えるって言ってきて。背景も全部3Dにしましょうって。最初、テスト背景の3Dは自分で作りましたからね。

※Type X2
タイトーが開発した汎用アーケード基板「Type X」のシリーズで、2007年に発表された。タイトー以外にも多くのゲームメーカーが参入して、この基板上で動作するアーケードゲームをリリースしている。

原田氏:
 稼働し始めたときは、どういう客層がついたんですか?

森氏:
 20代の上のほうでしたね。『ギルティ』をやっていた人たちが興味本位で来たという感じですね、最初は。

原田氏:
 そうなんだ。

森氏:
 ただ、やり方が卑怯なんですよ(笑)。最初に認知度を取るために、杉田(智和)くんとか有名声優さんをバンバン使って。まず知ってもらわないと話にならないと思ったんです。

原田氏:
 でも声優好きの方ってイコール、ゲームセンターに来る人というほど単純ではないじゃないですか。逆に言うと、『BLAZBLUE』を置いたら声優好きの人たちがゲームセンターに来るようになったんですか?

森氏:
 僕はそう思っています。女性客が増えたと思うので。

原田氏:
 そうだ、増えましたね。

森氏:
 これも卑怯なんですよ。『ギルティ』も女性のプレイヤーが多いんですけど、女の子が集まるゲームって、人が集まるんです。

原田氏:
 なるほど。そういえば『バーチャ』も多かったなぁ。リオンファンの女の子がすごく多かった。

鈴木氏:
 (笑)。

森氏:
 『バーチャ』に関しては、絶対にテレビの影響ですよ。だって、あれだけ新宿ジャッキーさんやブンブン丸くんがテレビに出てたわけですから。

──『浅草橋ヤング洋品店』【※】にも出ていましたね。

※浅草橋ヤング洋品店
1992年から1996年までテレビ東京系列放送されたバラエティ番組。

原田氏:
 『鉄拳』は当時『男塾』みたいでしたね。男性率が99.8パーセント、みたいな(笑)。

──『鉄拳』はいまでこそ女性プレイヤーも多いですが。

森氏:
 僕は『鉄拳3』から『鉄拳タッグトーナメント』のあたりまで、メチャクチャやってたんです。新宿のプレイシティキャロットにずっと行っていたんですけど、土日でケンカがなかった日はなかったですよ(笑)。

原田氏:
 わかります(笑)。

──新宿東口のキャロットと、かつて原田さんもいた新宿西口のプレイマックスは、ストロングスタイルでしたからね。

原田氏:
 僕は『ゲーメスト』とかのインタビューでプレイヤーに顔が割れていたんですけど、そのころに僕がキャロットで『鉄拳3』をやっていたら、対戦相手に「おめぇ、つまんねーんだよ!」ってバーン!って筐体を蹴られて。筐体脇から覗いて相手と目が合ったら「あっ、原田さんでしたか、こんにちは!」って(笑)。そういうのはよくありました。

森氏:
 キャロットに通い始めて、2ヵ月ぐらいで慣れましたね。端のほうでボッコンボッコンやってても、気にせずにゲームをやってましたから。たまに灰皿とか飛んできましたけど(笑)。

──昔のゲーセンあるあるですね。

原田氏:
 「女性のお客さんが増えた」という話でしたけど、ターゲットにしたお客さんが実際に来ているかどうかを自分の目で確認できるのが、ゲームセンターのいいところですよね。いまの家庭用ゲーム機はオンラインにつながっているので、いろんな調べ方があるんですけど、正直なところはわかりゃしないですよ。年齢登録だって嘘かもしれないし。ストリーミング配信が増えてきたので、ストリーマーとかを見てなんとなく傾向がつかめるっていうのがありますけど。

 それに対してゲームセンターは、自分で足を運んで見に行けば、「ほら、言ったとおりの客層が来ているだろ」とか、「えっ、こんな若い人たちが来てるの!?」とか、そういうのが垣間見えるので。しかも遊び方の反応までわかるわけですよ。それは大きかったですね。いまはネットという壁と、家という壁でプレイヤーさんの姿が見えないですけど、ゲームセンターが全盛期のころはそれが一番の収穫だったので。僕らが仮説としてプロファイリングしたお客さんが、そのまま来ているかどうか。それこそロケテのときに、プレイヤーさんに直接反応を聞いたりすることまでやっていましたから。

若い人たちをゲーセンに呼び込むために、ニコニコ動画を活用

──『BLAZBLUE』に話を戻しますが。有名声優さんを使うことで、家庭用ゲーム機で人気になるのはわかるんですけど、ゲームセンターにまでわざわざ足を運ばせるという動機に対して、何か仕掛けがあったんですか?

原田氏:
 最初はゲームセンターにしか置いてなかったからじゃないですか。

森氏:
 うーん、ニコニコ動画を上手く使えたんじゃないかというのはありますね。当時のニコ動にゲーセンで『BLAZBLUE』を遊んだプレイ動画が上がっていたんですけど、それをわざと放置したんですよ。そういった動画で、とにかく興味を持ってもらおうと思って。あとは僕らで「ぶるらじ」という公式WEBラジオ番組をニコ動でやったりして、とにかく若い子たちに知ってもらおう、ゲームセンターに行ってもらおうということをやっていましたね。

原田氏:
 秋葉原のゲームセンターに行くとよくわかるんですけど、ゲーセンのコミュニケーションノートがあるじゃないですか。『BLAZBLUE』のファンはとにかくイラストを描くんですよ。それも時間をかけて丁寧に描いてあるんですね。一方で『鉄拳』だとイラストが総じて少ない。「(『鉄拳』プレイヤーの)○○、調子乗んなよ!」とかは書いてあるけど(笑)。だからやっぱり、そういうイラストを描くような人たちが来ていたんでしょうね。

森氏:
 ゲームセンターに行きづらい女の子や若い子がいるじゃないですか。でも僕らとしては、2008年当時のゲームセンターって、そこまで危ないところだとは思っていなかったんです。

──さっきの『鉄拳3』のころも、1997年ぐらいですからね。

森氏:
 それに、2008年当時は禁煙ブームになっていて、タバコも少なくなっていたんです。

原田氏:
 あぁ、そうだ。禁煙フロアとかができていましたね。

森氏:
 そうなんです。ゲームセンターに行きやすい環境になっていたんですけど、先入感で「ゲームセンターって行きづらい」というイメージがあったので、それを払拭するためにニコ動とかを使っていろいろやっていましたね。

 当時はゲームセンターに人が少なくなっていた時期だったので、オペレーターの人たちも試行錯誤をしてくれて。ゲームセンターのいろんな人たちと知り合いになって、「格ゲー勉強会」「レディース大会」「段位戦」みたいなことをやったりもしました。そしてその大会の様子をニコ生とかで配信する。それを見た人たちが興味を持ってゲームセンターに来てくれる。人が集まっていると「面白そうだ」って見に来てくれるじゃないですか。そういう流れを上手く作れたんじゃないかというのが、『BLAZBLUE』が生き残れた理由だと思っています。

 『BLAZBLUE』を「これは格闘ゲームツールです」というだけで出していたら、まったく売れなかったんじゃないかと思っているんですよ。原田さんがおっしゃったとおり、出て1〜2ヵ月ですたれて終わっちゃうものだったんじゃないかなと、僕は真面目に思っていて。いろんな展開をしたからこそ、生き残れたわけで。だから純粋に「ゲーム」かと言われたら、難しいんですよね。

原田氏:
 いままでゲームセンターに来ていたお客さんと明らかに違うお客さんをつかんでいたので、その戦略は間違っていなかったですよね。『鉄拳』『ストII』『バーチャ』とは交わらないお客さんが来ていたイメージはあります。だから「このタイトルは不思議だな」と思っていたんです。

 発想が違うなと思ったのは、有名声優さんを使うというところですね。ゲームセンターって音がうるさいから、音の奪い合いみたいなところがあって、そんな繊細な音の使い方をしていなかったから。2008年頃だと筐体の性能が良くなって、ゲームセンターの環境も良くなって、音もちゃんと楽しめる時代になっていたからこその発想なのかなと。

 僕らのときは、どのゲームのコイン投入音がいちばん大きいか、みたいなことで勝負していたので(笑)。ゲーセンの店内にずっと『ストリートファイターII』のデモ画面でゾウが「パオーン!」と鳴く声が響いていて(笑)、あのせいでどのゲームをやっていても、ずっとゾウの鳴き声が耳につくんですよ(笑)。

森氏:
 ゲームで有名声優さんを使おうと思ったのは、SNKさんの影響ですよ。檜山(修之)さんの「ハリケーンアッパー!」とか、ゲームセンターですごく響くじゃないですか。

原田氏:
 あぁ、そうかもしれないですね。SNKさんはもともと、家庭用とゲームセンターの行き来をいちばん最初に狙ってやられていた方たちだったので。

森氏:
 あとは有名な声優さんを使ったほうが家庭用で売りやすいというのもありましたし。ただ、僕はゲームセンターの文化を潰したくなかったので、とにかく回るように、回るようにと。

原田氏:
 ゲームセンターがいちばんクリーンになった時代ですもんね。

『VF3』のジャッキーの革ジャンに、名前のスペルミスが!?

森氏:
 さっきも話しましたけど、「いちばんやってたゲームは何だ?」と聞かれたら、僕は「『鉄拳3』と『鉄拳タッグトーナメント』」って答えているんです。特に『鉄拳3』なんて、筐体を買ったほうが安いくらい、お金を使いましたから。

原田氏:
 男性率99.8パーセントのゲームをやってたんですね(笑)。

森氏:
 あの当時は朝10時にゲーセンに行って、その場で会ったぜんぜん知らない人と一緒に、10連コンボを調べるということをずーーっとやってましたから(笑)。新宿のキャロットの2階に、革ジャンを着たお兄ちゃんがぶわーっと集まっていて。

原田氏:
 そう! あのころのゲーセンに来る常連客は、みんななぜか革ジャンを着てるんだよね。「ヤバそうな奴らがいるなぁ」と思いながら一応、腕を組んで見ていると「原田さん、うぃっす」ってみんな挨拶してくれるんだけど、内心では「いやそれ怖いよ」と思いながら(笑)。

──『バーチャ』のジャッキー登場以降、黒いライダースジャケットを着る人が増えた気がします。

原田氏:
 そういう影響があったのかなぁ。

森氏:
 『バーチャ』をやってる人はカッコイイんですけど、『鉄拳』をやってる人はみんな、革ジャンのどっかに穴が開いてるんですよ。

原田氏:
 自分で戦ったほうが早いだろう、っていう感じの人たちばっかりいましたよね。なんでゲームを介して戦ってるのか、みたいな。

森氏:
 でも僕は、あの空気は好きでしたよ。

原田氏:
 本当に興味深かったですね。似たようなジャンルのゲームなのに、これだけ客層というか、客筋が違うというのは。そういうのは空気でわかるじゃないですか。本当に会いに行ったときの情報量ってスゴイんで。

 あとは、地方のゲーセンから東京のゲーセンまで道場破りみたいに来るというのが、本当にあった時代だったので。そのときのピリピリ感ね。明らかにふだん見たことのない客が何人も並んでいて、しかも上手いぞ、っていう。『バーチャ』や『鉄拳』とかだと、そういう緊張感がありましたね。ああいうのって、いまでは絶対に見られないですから。いまはネットでコメントしてくる際に多少、言葉遣いが違うというぐらいしか、わかんないじゃないですか。

──『バーチャファイター』は百人組み手のイベントを地方のいろんなゲームセンターで開催していましたよね。あれは上手いなぁと思ったんです。人も集まるし、インカムも稼げるし。「あの鉄人と対戦できる!」って、地方のファンの人も喜ぶし。

原田氏:
 みんな100円を握って、やられるために並んでいるっていう(笑)。だいたいゲームに「組み手」なんて名前を持ち込んだのは、『バーチャファイター』が初めてですから。

森氏:
 『バーチャ』はコスプレもしやすかったんですよね。ジャッキーのコスチュームが革ジャン、ジーパン、ブーツですから。

原田氏:
 『バーチャファイター3』のいちばん初めに出たバージョンって、ジャッキーの革ジャンの背中に書いてあった「Jacky」って名前の刺繍のスペルが、「Jackey」になってたんですよ。

鈴木氏:
 記憶にないですね(笑)。

原田氏:
 しかもジャッキーの勝ちポーズのときに、「イエーイ!」って背中にカメラが寄るんですよ(笑)。その後、バージョンを変えるときに直ってましたけど。でも当時のゲーム業界ってそんなもんでしたよね。90年代当時は『鉄拳』の英語版のローカライズも僕がやっていたぐらいなので。僕もいろんなスペルミスをやらかしてます。

鈴木氏:
 気をつけないといけないですね(笑)。

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