「パチプロをやっていて、ボロ負けした帰りに偶然ゲーム専門学校を見つけ、ゲームクリエイターを志した」
まるでウソのようなエピソードだが、これがどうやら真実らしい。そんな奇想天外な経歴の持ち主こそが、『ちびロボ!』シリーズや『城とドラゴン』などの作品で知られるゲームクリエイター・森山尋氏である。
そのほかにも『ドラゴンリーグ』や『ドラゴンポーカー』、任天堂とタッグを組んだ『いきものづくり クリエイトーイ』といった作品を手がけ、直近では2024年3月に『モンスタークリエイト』、続けて4月には『機兵とドラゴン』と、ほぼ同時期にふたつの新作が配信を開始。自然と「多作のゲームクリエイター」というイメージが見えてくる。
電ファミ編集部ではこの新作2作が立て続けにリリースされるタイミングで、同氏のモノづくりへの姿勢や、新作の狙いをお聞きしようとインタビューに臨んだ……のだが。
いざ森山氏の経歴をうかがってみると、そのゲームクリエイター人生のはじまりは冒頭に記した通りの衝撃的なものだった。
さらには『城とドラゴン』の成功後、ユーザーからの厳しい批判の声を受ける中で仕事を続けた結果、身体の左半身が動かなくなる謎の病気を患い、退職を余儀なくされたという、ショッキングのひと言では表しきれない経験をされたことも語られた。
しかしそうした苦境を乗り越え、いまは気心の知れたメンバーと共に小さなゲーム会社でゲームづくりにいそしみ、個人クリエイターとしても活動を続ける森山氏。その背景や、新作開発の模様を振り返る中では、森山氏自身が思わず語りながら思い出し泣きしてしまうほどの心温まるエピソードも飛び出した。
というわけで、本稿ではそんな森山氏の波乱万丈すぎるクリエイター半生を振り返るとともに、新作『モンスタークリエイト』で目指したもの、そして森山氏がゲームづくりに燃やす情熱の正体へと迫っていきたい。
聞き手/TAITAI
パチプロ時代、負けて帰る途中でゲーム専門学校に入る。異色すぎるゲームクリエイター人生のはじまり
──本日はよろしくお願いいたします。『ちびロボ!』や『城とドラゴン』をはじめとするユニークな作品を多く手がけてらした森山さんですが、今回はこれまでの経歴からお聞きしていければと考えております。さっそくですが、実際にゲームを作る道に行こうと決意されたのはいつごろのことだったのでしょうか?
森山尋氏(以下、森山氏):
実を申しますと、実はそんなにカッコよくて強い思いがあった訳ではないんです。かなり昔のことになるのですが、僕は「予備校に通う」と親に嘘をついてパチプロをやっていたんですよ(笑)。
──パチプロを!?
森山氏:
ええ(笑)。ただ、パチプロを始めてから2年ぐらいしてバブルが弾けまして。その煽りからパチンコ屋で勝てなくなってしまったんですね。
それで負けてバイクで帰る途中、信号で止まったら、たまたまそこに「バンタン電脳情報学院(現:バンタンゲームアカデミー)」という、まだでき立てのゲーム専門学校があったんですよ。
──え、パチンコで負けた帰りに信号で止まったら、たまたまそこに学校があった……それがゲームクリエイター人生のはじまり、というわけですか?
森山氏:
そうなんです(笑)。今は知らないんですけど、当時の「バンタン電脳情報学院」は恵比寿にありまして【※】。僕はもともと映画が好きだったので、映画作りをやりたかった思いがあったんですね。その時、よく考えてみたら、ゲームも映画と同じような総合芸術と言いますか、音楽にグラフィックなど、色んなものを使うところは似ていると気付いたんです。
それで、すぐに学校の中に入ってみましたら、受付の人から「入試の模試をやっていますけど、受けます?受ければ入試が免除されますよ」と言われまして、軽い気持ちで「はい!」と返しました。まあ、甘い言葉に乗っかってしまったんですね(笑)。
※「バンタン電脳情報学院(現:バンタンゲームアカデミー)」は1991年、世界初(「バンタングループ」会社沿革ページより)のゲームクリエイター育成校として恵比寿に開設された。2024年現在、東京校は目黒区に構えている。
──偶然の巡りあわせとは言え、ものすごい流れで入学されたんですね……。
森山氏:
それで、模試を受けた後に「何科にします?」と言われまして。それで「ゲームを作るならプログラムを勉強しないといかんだろう」と思い、プログラム科に入りました。企画科などもあったんですが、やっぱりプログラムが分からないとゲームがどういう風に作られるのか分からない。まずは基礎を理解しないとマズいなと思いまして。
まあ、親には相当反対されたんですけど……。どうにか許してもらい、数学の参考書を全部買い直し、イチから勉強し直したんです。僕自身、数学は大の苦手だったんですけどね。
──でも、ゲームがどう作られているかの基礎を理解するため、苦手な数学が必須となっても突き進んだ姿勢は素晴らしいと思います。
森山氏:
とはいえ、きっかけは本当に「たまたま、そこにバンタンがあったから」という感じでした。それでプログラムの道を進んだこともあってか、心配された就職も思いのほか面接の印象がよく、受けた会社からバンバン内定をいただくような状態でした。
ただ、いざ入社してみたら自分には合わなくてすぐ辞めてしまったり、入社してすぐに会社が倒産するみたいなことが続きまして。「あー、いかにもゲーム業界っぽいなー」って思う日々でした(笑)。
それで最初に落ち着いた会社がクライマックスさん【※】ですね。『ドラゴンクエストIII』、『ドラゴンクエストIV』でメインプログラマーを務められた内藤寛さんが代表の会社です。この会社はそれなりに長く、恐らくですが4年ぐらい在籍していたように思います。
※クライマックス:1990年に設立されたゲーム開発会社。代表作は『シャイニング&ザ・ダクネス』『ランドストーカー 〜皇帝の財宝〜』『ランナバウト』シリーズなど。設立当初は初代『みんなのGOLF』『マリオゴルフ』シリーズなどで知られる、現・株式会社キャメロット代表取締役社長の高橋宏之氏が代表を務めていた。2024年現在は解散。
──ということは、家庭用ゲーム機向けのタイトルを作られていたんですね。
森山氏:
そうですね。僕が入社した頃はPlayStation、セガサターンが出て間もない激変の時代でした。だから3Dのゲームに関しては、昔からのベテランプログラマーよりも若いプログラマーの方がプログラムを組めてしまったりと、訳の分からなさと面白さが入り混じる時期でもあったんです。
──キャリアのはじまりはプログラマーだったわけですね。そこから現在のディレクターやゲームデザイナーになっていくきっかけは何だったのでしょうか。
森山氏:
元々、映画監督になりたい思いからディレクターを目指していたんです。それでプログラマーの頃から企画書を書いては、何回も会社に提出したりしていたんですが……。「お前はプログラマーで、プランナーじゃないからダメだよ」みたいなことをずっと言われてしまいまして。
その後も諦めず、「俺の方が企画できるぞ!」って思いながら企画書を書き続けたんですけど、結局のところ、その会社では「プログラマーからディレクターになるのはムリ」みたいに言われてしまい、転職するんです。
──転職を決意された後はどちらに?
森山氏:
当時、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)で『レガイア伝説』【※】を作ったチームが独立したプロキオンという会社に入りました。
面接の時に「僕、プログラムしかやっていないんですけど、ディレクター希望なんでプランナーをやらせてください」と言ったら、「いいですよ」って言われたんですね。それでプランナーとして入社しました。まあ、結果的にはスクリプトをいっぱい書いたりと、プログラマーとほとんど変わらない仕事をしていたんですけど(笑)。
※『レガイア伝説』:1998年10月29日にソニー・コンピュータエンタテインメント(現:ソニー・インタラクティブエンタテインメント)から発売されたPlayStation向けタイトル。人間と獣を狂わせ、世界を混沌に陥れた霧を晴らすため、3人の少年少女たちが冒険に出るRPG。「タクティカル・アーツ・システム(略称:TAS)」なる、プレイヤーが自由な攻撃方法を編み出せる戦闘システムが特徴。
──プロキオンにはどれぐらい在籍されたんですか?
森山氏:
2年ぐらいですかね。2001年のアメリカ同時多発テロ(9.11)が起きた後ぐらいに辞めちゃいました。今は全然違うんですけど……あの事件の報道を目にして、戦うゲームを作れない気持ちになってしまったんですね。それで半年ぐらい放浪したんです。
──そこからスキップに?
森山氏:
はい。ちょうど、その放浪している頃に『moon』【※】を作った西健一さん【※】に出会ったんです。それで西さんに企画書を持っていきましたら、「お前と考えていることがすごく似ているから、ウチ(スキップ)に来てみなよ」と言われたんです。
そこで最初にしたのは、スキップが任天堂と一緒に制作していた『ギフトピア』【※】の後半部分を作る仕事でした。入社前に「すぐにもできそうだよ」って言われていたんですけど……いざ入社して実態を見てみたら、全然できていませんでしたね(笑)。
※『moon』:1997年10月16日にアスキーから発売されたPlayStation用ゲームソフト。失われた月の光を取り戻すため、勇者が殺したアニマルの魂を救済しながら、世界中の「ラブ」を集めていく「アンチRPG」。2024年現在、Nintendo SwitchとPC(Steam)の移植版が発売中。
※西健一(にし けんいち):日本テレネット時代に『サイコドリーム』『天使の詩』、スクウェア(現:スクウェア・エニックス)時代に『クロノ・トリガー』『スーパーマリオRPG』、ラブデリック時代に『moon』『L.O.L. 〜LACK OF LOVE〜』を手がけたゲームクリエイター。スキップ時代には『ギフトピア』『ちびロボ!』『キャプテン★レインボー』などを手がけた。2024年現在、有限会社Route24代表。
※『ギフトピア』:2003年4月25日に任天堂から発売されたニンテンドーゲームキューブ向けタイトル。神様の島「ナナシ島」で開催された「大人式」に寝坊で欠席し、大人になれなくなってしまった少年「ポックル」が再大人式開催のため、費用集めに奮闘するRPG。RPG定番の戦闘要素のない作りが特徴で、公式には「オルタナティブRPG」というジャンル名が付けられている。
──スキップで西さんと一緒に仕事をされた時の感想と言うか、印象的だったことはありますか?
森山氏:
西さんは業界では会ったことのないタイプの不思議な人でしたので、かなりの刺激を受けましたし、勉強させてもらいました。今でも師匠だと思っています。
あと、任天堂さんと仕事したことも大きな刺激になりました。『マリオ』や『ゼルダ』で知られる宮本茂さんと一緒に仕事をされていた田邊賢輔さん【※】という方が、スキップのプロデューサーを担当されていまして。その方が宮本イズムを継承されていたので、ゲーム作りにおいてはかなりの影響を受けました。
そこで自分の中に宮本イズムと言いますか、任天堂のゲーム作りに対する考え方が叩き込まれていったように思います。
※田邊賢輔(たなべ けんすけ):任天堂で主に外注作品を専門的に担当しているプロデューサー。過去にはデザイナー、シナリオライターとして『スーパーマリオブラザーズ3』『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』『ゼルダの伝説 夢をみる島』などに携わった。プロデューサーとしての代表作は『メトロイドプライム』シリーズ、『ペーパーマリオ』シリーズ、『ドンキーコング』シリーズなど。
ガラケーは“みんなが24時間持ち歩いているゲーム機”。モバイルゲームに可能性を感じてアソビズムへ
──スキップの後、アソビズムへと移られていますが、それはどのような経緯からだったんでしょうか。スキップでは『ちびロボ!』以降も続編などを手がけられていましたが……。
森山氏:
何年か仕事をしていくにつれ、家庭用ゲーム機にさほど魅力を感じなくなった時期があったんです。それでモバイルを中心にやっていたアソビズムへ転職しました。もともとアソビズムの社長さんとは面識があり、「いつか、うちに入ったら何かやってみたいね」と前から話していたという流れもありましたね。
あと、ちょうど僕が転職するころはGREEやモバゲーも台頭してきていた、ソーシャルゲームの黎明期だったんです。
──それまで長らく家庭用ゲーム機向けのゲームを作られていた中、モバイルのゲームを作る方向へと行くというのは、森山さんの中で何か将来性みたいなものを感じられていたのでしょうか?
森山氏:
『MAFIA WARS』【※】……でしたかね?ああいった、ひたすら稼いで強くしていくだけのゲームに対して当時、業界の人間たちは「あれはゲームじゃない!」って否定的な声を沢山あげていたんです。
でもその一方で、僕はあの作風をポジティブに受け止めていたと言いますか、衝撃だったんです。
※『MAFIA WARS』:日本では2009年にサービスが開始された基本無料のソーシャルゲーム。マフィアになり、仕事をこなして金を稼ぎ、武器や仲間を増やしながら組織として発展させながら、終わりのない戦いを繰り広げていく。iPhone、PC(Windows、Mac)向けにも展開された。2024年現在はサービス終了。
──その衝撃というのは?
森山氏:
「WINかLOSEかの結果だけで成立する単純なゲームがユーザーにウケている」、そのこと自体にすごく興味を持ったんです。それにガラケーって、すさまじいほど売れているゲーム機とも見て取れるじゃないですか。しかもユーザーが24時間持っているんですよ。「そんなゲーム機、今までなかっただろう!?」と僕は捉えたんです。
「ガチャで集金する新しいゲームビジネス」として捉えるつもりは一切なくて、「ガラケーというプラットフォームでもゲームが作れることを伝えたい」という思いの方が強かったんですね。
──ただ、当時のソシャゲ業界……特にGREE、DeNAあたりはIT業界寄りの考えを持つ方々が多かった印象があり、森山さんの考え方とはまったく違いそうな気もするのですが……。
森山氏:
はい。だから最初に作った時は「こんなの絶対に売れない!」「こう直しなさい!」ってすごく言われました。ただ、僕はそれを全部無視したんですね。というのも、僕の中では「あ、このモバイルゲームは世界を変えるかもな」って自信があったんですよ。まあ、思っていたほどは世界を変えなかったんですが(笑)。
ただ、予算が約300万円で、メンバー3人ぐらいで作ったゲームが、ユーザーさんの口コミでバーッと広がっていくというのは今までに無かった現象で驚きました。
──その時に作られたゲームというのは……?
森山氏:
24時間持ってる携帯電話という特性を活かして『定刻開戦』という、1日の特定の時間に集まり、みんなでリアルタイムでギルドバトルをするゲームです。最初にそのアイディアを考えた時、これがガラケーで遊べるとみんなが知ったらエラいことになるんじゃないのかと、内心ドキドキしていたんです。
周りはみんな「つまんない」って言っていたんですけど、僕は「これは何万人が遊ぶと一気に動くから!」と伝えていた結果、口コミでバーッと広がって行きまして。
その後、半年以内に他の会社にそのシステムがどんどんパクられていきました(笑)。最初はムカッとしたんですけど、パクられ続けるとそれはもうジャンルだなと思うようになり、逆に良かったなとなりましたね。
──手がけた作品が大きくヒットして、他社にもどんどんマネされるほどのブームを起こしたとなると、周りの態度も一変したのでは?
森山氏:
ええ、手のひら返しです(笑)。電話しても無視し続けたGREEの担当から毎日電話がかかってくるようにはなりましたね。当時、みんなが同じ物しか作っていない所に僕が異質なものを放り込んだので、マネしようって話になったんじゃないでしょうか。
半年後にテレビを見たら、まったく同じバトルシステムとUIで、僕のゲームじゃないものがCMで流れていた……なんてこともありましたね(笑)。
──なんと言いますか……すごい時代です(笑)。
森山氏:
本当にやりたい放題と言いますか、ブルーオーシャンそのものでした。それでスマートフォンが登場すると、さらにできることが増えたんですね。特にプッシュ通知なんて、僕からしたらヨダレが出るような機能でしたよ(笑)。
これを使えば、「誰かが遊ぶとプッシュ通知が来て友達が入ってくる」システムの面白いゲームができるだろうなと思って作ったのが『ドラゴンポーカー』です。
──『ドラゴンポーカー』はポーカーの要素を持ったRPGでしたが、なぜポーカーを題材にされたのでしょうか?
森山氏:
協力プレイをするのに当たって、単純なコマンドRPGにしただけでは面白味がない感じがしたんですね。それで、僕自身もカジノとかが好きだったので……。ポーカーの役をユーザーのみんなが1枚ずつカードを出し合って作ると楽しいし、これは今までにない面白さが出るんじゃないのかと感じ、ポーカーの要素を持ったRPGになりました。
『ドラゴンポーカー』は本当にやったもの勝ちだと思って早くやりたかったんです。ガラケーのころはまだ、リアルタイムの通信はほとんどできていない時代だったので、更新ボタンで無理矢理リアルタイムのように見せる作り方をしていたんですね。
でもスマホになって、リアルタイム通信によるマルチプレイが現実的になりました。それを誰よりも早くやりたくて……。実際、その後のスマホゲームの世界では一気に協力プレイのブームが来た感じでしたね。