“ガチャなし”に挑戦した『城とドラゴン』での苦難。ついには無理が祟り、左半身が全部動かなくなる事態に
──その『ドラゴンポーカー』の次に出た『城とドラゴン』は大きなヒットとなりましたが、そこからしばらくしてアソビズムを辞められているんですよね。差し支えなければ、『城とドラゴン』の始まりと、そこからどんな経緯があり、退職に繋がったのかをお聞きできますでしょうか。
森山氏:
『ドラゴンポーカー』は売上も含め、想像を絶する盛り上がり方をしました。メンテナンスを繰り返して、それがいつしか「ドラゴンメンテ」と呼ばれるようになったり、深夜3時頃まで遊ばれているユーザーが多かったことから、1日に遊べる回数は減らして報酬を増やす施策を打ったら「元に戻せ!」と怒られたりとか、色々ありました(笑)。
ただ、それが何年か続いた後で僕の友達に「『ドラゴンポーカー』って知ってる?」と聞いてみても、誰も知らないんですね。一応、毎日30万ユーザーぐらい遊んでて、それなりの成果だと感じていたんですが、「30万人ぐらいでは、みんなが知ってる作品とは言えないんだな」と思いまして。
多分、他のクリエイターの皆さんも同じだと思うのですが、「自分が居た証明」みたいなものを残したい思いから作品を作っていると思うんです。それを考えると、「知られていない」って辛いじゃないですか。まずは知ってもらえなきゃいけませんから。
それで売上ではなく、「多くの人に遊んでもらえるゲームを作りたい」という思いから始まったのが『城とドラゴン』でした。
──たしか『城とドラゴン』は“ガチャがない”ことを大きくアピールしたゲームであったように記憶しています。
森山氏:
そうですね。「ガチャなし」「レアリティなし」と決めました。当時、コンプリートガチャの禁止といった大きな変動があった中で、ガチャとは違った可能性がソーシャルゲームにはあることを証明したいと思っていたんです。
それまでのスマートフォンのゲームで当たり前になっていたことをすべて捨て、ユーザーが多く、色んなゲームが遊べるようにする。ただしそこには性的なものは一切存在しない。言ってしまえば、任天堂さんのゲームに近い……「万人向けのゲーム」という感じですね。
デザイン、遊びの部分ともに小学1~2年生ぐらいでも抵抗なく遊べるゲームを目指したんです。ゲームとしてはマルチラインのタワーディフェンス対戦ですけど、基本的にキャラクターをポンポン出していくだけで簡単に遊べてしまうような。
ただ、ゲーム中に使うキャラクターを固定させたくないことから、「ランダムデッキ」というものを考えました。当時、デッキを作って遊ぶゲームがメジャーだった時代にデッキを作れないゲームを作ろうというものですね。ランダムにすることで、自分でも想像がつかないようなバトル、麻雀のように「来た牌でどう対処するかで上手さが決まるもの」が生み出せる気がしたんです。
──砦の配置が毎回変わるのに加えて、出せるキャラクターも常に違うので、本当に出たとこ勝負みたいな展開になりますよね。
森山氏:
それから「新たまご販売」というキャラクターの販売形態ですね。ガチャを止め、キャラクターを1個3000円で売る形にしました。「そんな形で『城とドラゴン』はやる」と言って始めたら、『ドラゴンポーカー』の影響もあって期待されていたユーザーさんは多く、とんでもない人数の方々が入ってきたんです。
当時はテレビCMも打つなど、宣伝にもそれなりのお金はかけたんですが、ユーザーさんの集まり方は想定を上回る勢いでした。けど、その時にはまだ対人戦にあたる「リーグ」が開発中で、作物の収穫をするだけのゲームになっていたんですね(笑)。
──それだと早い段階でユーザー離れが起きてしまうのでは……と思ったのですが、実際はそうではなかったと。
森山氏:
ユーザーさんは今後「リーグ」が始まるのを知っているので、辞めていくようなことはなかったんです。卵を販売してもちゃんと買ってくれましたし、「リーグが始まったらこのゲームは絶対面白くなる」って言い続けてくれたんですね。あれは本当にありがたかったです。
ただ、いざリーグが始まってみると……ランダムデッキなんで、卵でキャラクターを買えば買うほど、プレイヤーは弱くなっていく仕組みなんですよ。レベルの低いキャラクターが選ばれる頻度が上がっちゃいますので。それもあって、「課金すればするほど弱くなる初のソーシャルゲームだ!」って言われました(笑)。
一同:
(笑)。
森山氏:
「森山さん!課金すると弱くなるんですけど、どういうことですか!?」って、重課金されている著名な方から電話がかかってくることもありまして。「そういうゲームなんだよね……」って、返していました(笑)。
──結果的に『城とドラゴン』はスタート間もなく大きな成功を収めたんですね。
森山氏:
数ヶ月で毎日50万ユーザーが遊んでいて、その後にはユニークユーザー数が月間100万近くまで行きました。さすがに『パズル&ドラゴンズ』などの大ヒットタイトルには全然及びませんでしたが、自分としては友達が知っていて、自分の知り合いの子どもも遊んでいるようなものを作れたという大きな手応えがありました。
──ただ、途中で『城とドラゴン』もガチャを始められましたよね。
森山氏:
3年半ほどガチャなしで頑張ってみたんですが……ガチャなしでソーシャルゲームを続けていくことって、すごく難しいんですよ。『城とドラゴン』が出た後にも、いくつかの会社さんがガチャなしのゲームを作って追従してくれたんですけど、ことごとく1年経たない内にサービスを終えてしまって。
その理由も分からなくはないんですね。僕たちは色々な施策を考えながら、ガチャなしで3年半やってきましたから。何も施策を考えずにやると、ガチャなしで成り立たせるのは難しいだろうな思っていました。
ただ、3年半続けて、僕らもさすがに厳しくなって……。『城とドラゴン』を存続させるか、サービスを終えるかの中で「ガチャを入れます」と宣言して存続を決断したんです。
──何かしら、反発があったことが想像されますが、実際はどうだったのでしょうか。
森山氏:
存続の声明はアソビズム側から出したんですけど、ユーザーさんからは「森山からの声明がない!」ってすごく怒られました。
それで半年ほど遅れて、僕が自分のTwitter(現X)で声明を出したところ……怒りの矛先が僕個人に直接来るようになりました。個人攻撃や誹謗中傷は当たり前でしたし、殺人予告とかも頻繁にありました。その中で『城とドラゴン』では7年ぐらい頑張ったんです。
とはいえ、その後に『ガンビット』【※】という3Dのゲームを作るんですが、そこから徐々に自分自身の精神がおかしくなっていきまして。
当時は僕が事実上の社長と言いますか、全権限と全責任を持っている人間になっていたんですね。なので、全社員の面倒を見なきゃいけなくて、クリエイターとしてゲームも作り、さらには誹謗中傷まで受けているといった状況で、全体のバランスが崩壊していたんです。そもそも、『ガンビット』はNintendo Switchで出すつもりで作っていたんですよ。
──でも実際の『ガンビット』はスマートフォンでのリリースとなってしまったと。
森山氏:
ちょうどそのころ、十年来の仲間が結婚したり、マンションを買ったりしているんですね。そうなると、彼らを食わせていかないといけないんです。「だったら、今までの実績を踏まえれば、スマホで出さないとダメじゃん」となり、最終的に『ガンビット』はNintendo Switchでは出さず、スマホで出すことになりました。
あの『ガンビット』の判断は今でも後悔しています……。そして『ガンビット』を出す一週間前には、自分の左半身が全部動かなくなったんです。
──えっ……。
森山氏:
それくらい、エネルギーも無くなり、精神的にも限界でした。一応、リモートでみんなに指示したり、無理して会社に行ったりはしたんですけど、もう立っているだけで冷や汗が出たり、自宅に帰ってお風呂に入るだけで激痛が走ったりして……。
病院にも沢山行ったんですけど、検査しても分からなくて、「精神的なものじゃないか」「自律神経でしょ」としか言われない。それで休むんですけど、「あ、もうこれは続けられないな」と思ってしまって、そのまま退職することになったんです。
長年の仲間たちと再始動。1枚のアートから「ゲームを作りたい」思いが蘇る
──そこからPICOTYを立ち上げることになったのには、どんな経緯があったんでしょう?
森山氏:
僕が身体を壊すのと関係なく、長年組んできたデザイナーが「辞めたい」と言っていたんですね。
そのデザイナーは、絵を描きたかったんですよ。ただ、役職がチーフになってからはスタッフの面倒を見ることが仕事の中心になって、自分で絵を描くことができなくなっちゃったんです。それが当人としては本意でなかったんでしょうね。
でも、「森山さんが将来、小さな会社をやることになったら参加したいです」と言ってくれたんです。それで僕が身体を壊してアソビズムを辞め、少し気力が戻ってきたころに電話したら、すぐに次のゲームに関するアイディアを込めた絵を描いてくれました。
その絵を見たら、ふつふつともう一回、ゲームを作りたい思いが蘇ってきたんですね。まあ、実は今でも身体には退職当時の後遺症が少し残っているんですが、それでもやりたい気持ちが強くなりまして、その後、ずっと長いこと一緒にやってきたプログラマー2人も合流して再始動となりました。
ちょうど、それと共にコロナ禍も始まってしまったんですが……。
──そこから後に会社化されたんですか?
森山氏:
いや、実は「いつかひとりで好きなことができれば」と思って会社を別に持っていたんです。僕自身、生活レベルをあまり変えたくない思いがあり、アソビズム時代に自分の給料のほとんどをそちらに割いていたので、蓄えはありまして。それでゲームが作れると思いました。
なので、例のデザイナーの絵を見て気力が蘇り、平均50歳で合計238歳の高齢メンバー4人が小さな会社に集った……という具合ですね(笑)。
そんな年齢の集まりでしたから、コロナ禍では誰かが罹患したらヤバい、ひとりでも欠けたら終わるみたいな状況で現在まで4年間やってきました。そして去年の6月にオフィスを借りてみんなが集まり、現在、少人数でゲームを作っている感じです。
──そのPICTOYの仲間たちは、アソビズム時代などで一緒にやってきた方々なんでしょうか。
森山氏:
アソビズム時代の人間とスキップ時代の人間、それからプロキオンの時に知り合ったメンバーが居ますね。
気心知れた仲で、みんなスムーズに話が通じるので、1週間に2~3時間話すぐらいで問題ない感じでした。最初だけは長くやりましたけど、大体分かってくると、あとはみんなアドリブを効かせて面白くしていってくれるんです。それで僕がたまに修正しながらディレクションしていく感じですね。