ソフトの全国流通、行政も巻き込んだ業界団体の設立。パソコン業界の黎明期を根底から支えたソフトバンク・孫正義氏は「とにかく、決断と実行の塊のような人」
──『川中島の合戦』の頃、1万本ものソフトを手作業で通信販売するにあたって大変な苦労があったというお話がありました。それ以降のソフトの販売についてはどのようにその苦労を乗り越えたのでしょうか。
襟川氏:
1981年というのは、ちょうどジョーシンさんとか、ラオックスさんとか、全国の量販店さんがパソコンの販売に力を入れ出した時期なんです。そうしたなかで、綺羅星のように現れたのが孫正義さんですね。
ソフトを全国に流通してくださるということで、孫さんの始めたソフトバンクには非常にお世話になりました。また、それによって拡販も大きく広がりました。たしか、「Oh!PC」という名前の雑誌も作っていたと思います。

──孫正義さんの会社であるソフトバンクの社名は、「ソフトを取り扱うから」ということで名づけられたんですよね。今ではそのあたりの事情を知らない方も多いかと思いますので、よければ襟川さんの視点から見えた、当時の孫正義さんのお話も聞かせていただけないでしょうか。
襟川氏:
わかりました。孫さんがソフトバンクをはじめるきっかけになったのは、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校に通っていた時代に作った自動翻訳機だったと思います。その翻訳機がシャープさんに1億円で売れたので、そのお金を元手に「THE SOFT BANK」という雑誌を始めたんですね。
ゲームソフト、ビジネスソフト、システムソフトなど様々なソフトをずらっと並べて、「パソコンを持っている方、パソコンに興味のある方。世の中にはこういうソフトがあるので使ってみてください」みたいな雑誌です。
1982年に日本パソコンソフトウェア協会という組織を立ち上げたのも孫さんです。先ほども挙げたさまざまなソフトに教育ソフトも加えて、作っている会社みんなに呼びかけて、協会を作っていったんです。ある意味では、孫さんがパソコンの業界を作ったと言ってもいいかも知れません。
孫さんは自社だけのビジネスを考えるんじゃなく、業界全体あるいは産業に関係するさまざまな企業、時には金融機関や官庁といったところまで全部を引っ張り込みながら、一大ムーブメントを作ろうとするんです。それをただ単に夢見ているだけじゃなく、実現するというのが凄いですよね。
孫さんは決断力と実行力が非常に優れていて、「これをすればもっと伸びるのに」と思ったらすぐにやってしまうんです。当時、アメリカでCOMDEXというパソコンやソフトウェアに関する大きな展示会があったんですが、孫さんはこれも1995年に買収しています。雑誌会社とか、アメリカのハードディスクの会社も買っていたんじゃないかな。とにかく、決断と実行の塊のような人ですよ。そこは今も変わらないですね。
──そんな孫さんと襟川さんは、非常に古くから仲の良い間柄だと伺っています。どういったご縁で仲良くなられたんでしょうか。
襟川氏:
なんででしょうね。お互い、ワインが好きだからとかですかね。わからないですけど(笑)。
襟川氏:
私は単に面白いゲームを作ることしか考えてなかったんですが、孫さんは本当に昔から業界全体を発展させるための協会活動であったり、ソフトの流通・販売網の構築であったり。
孫さんはパソコンのビジネスの成長性を家電量販店の方々にプレゼンされたりもしていて、その呼びかけに答える形でどんどんと参入する会社が増えて、売り場も出来ていったんです。パソコンの黎明期を根底から盛り上げていって、業界全体を作っていったのが孫さんだと思いますね。
孫さんが作ったパソコンソフトウェア協会のなかにはゲーム会社もたくさん入っていましたので、そういうところとの意見交換もできました。
また、当時のコーエーも含めてどこの会社もそれほど資金が潤沢というわけではないなかで、協会が通産省(通商産業省の略。現在の経済産業省)と交渉をして「プログラム準備金制度」というのを立ち上げてくれたこともありました。
この制度はソフトなどを販売して得たお金の一部を積み立て、将来のソフトウェア開発に活用するというものです。孫さんは業界全体を活性化させるために国も巻き込みながら、様々な取り組みをしていましたし、我々ゲームソフト会社やビジネスソフト会社はずいぶんと恩恵を受けました。
──1980年代というともう40年ほど昔になりますが、パソコン業界はそんな時代から国と連携した動きをされていたんですね。
襟川氏:
そうですね。通産省の若い官僚の方々は我々の事情もすごく理解されていて、すぐ動いてくれました。その後、パソコンソフトウェア協会にいたゲーム会社がみんな抜けて、CESA(コンピュータエンターテインメント協会)ができたんです。
パソコンのゲーム会社は好きから始まった「アマチュア」。業務用ゲーム会社はビジネスから始まった「大人」。CESAにおける交流で感じた、同業他社の“異なる源流”
──CESAとしてひとつの業界団体を作ることになったゲーム会社ですが、パソコンゲーム、アーケードゲーム、コンシューマーゲームと、何を源流とするかによっていくつかパターンがあるように思います。パソコンゲームを源流に持つ襟川さんとして、ほかのゲーム会社にはどのような印象を持っていましたか?
襟川氏:
そうですね。コナミさん、カプコンさん、ナムコさんにセガさんなど業務用のゲームを作っていた会社さんは「タイプが違うな」という感じはしていました。パソコンのソフト会社って、業務用のゲーム会社と比べるとマニアっぽいと言うか、私のようにゲーム好き、パソコン好きが高じて「結果的にゲーム会社になっちゃった」という感じがあるんです。
一方で業務用ゲームの会社は、場所取りの発想が根本にあるように思います。駅前の一等地にゲームセンターを置くとか、最初の発想がもうビジネスなんですよね。
パソコンのゲームソフト会社って、発想がアマチュアなんですよ。面白いゲームが作りたい、作ったゲームをお客さんに喜んでいただきたい。それがぐるぐる回って、新規ゲームを作っていく。
業務用ゲームをお作りになっている会社というのはロケーションを用意して、自社が作ったゲーム基板を載せたゲーム機を設置して、1回50円とか100円をいただくというビジネスですから、ゲーム内容としても継続的に遊んでもらえるようなものを得意とされていました。数十時間遊んでエンディングが来て終わり、というパソコンゲームと違って、業務用ゲームには終わりがない。なるべく長く、何回も何回も遊んでいただいた方がいいという、ビジネスの発想なんですね。
アーケードの会社の社長の方々と、CESAのなかでお話をさせていただいてあらためて「大人の業界だな」と感じました。また、早くからインベーダーゲームを通じて著作権の訴訟などを経験しておられたので、権利関係にもすごく厳しいですよね。パソコンのゲーム作っている会社は、商標登録もしていないようなことがあり、すごく甘いなと感じました。
私はそういうところで磨かれたと言いますか、勉強になりましたね。著作権をはじめとしたIPの権利関係については、業務用ゲームをお作りになっている方は1970年代後半から主戦場にされていたので、熟練のビジネスマンだなと思いました。

「ファミコンのソフトは売れるし、プレイ出来たらお客さんにも喜ばれる」。ファミコンのCPUに興味もあった襟川氏は、『信長の野望』のファミコン移植という難事に挑んだ
──パソコンゲーム会社のなかでも、コーエーはコンシューマーへ参入するのが非常に早かったと思いますが、コンシューマーへ参入しようとした経緯やきっかけはなんだったんでしょうか?
襟川氏:
まずは、1983年に『信長の野望』を出したのと同じころにファミリーコンピューター(ファミコン)が発売されて、それが日本だけでなく世界で人気になったという経緯があります。1タイトル100万本とか200万本とか、パソコンのゲームソフトからは考えられない販売本数が記録されて、世界中でどんどんヒットタイトルが生まれていきました。
そんな状況でしたので「ファミコンで『信長の野望』がプレイ出来たらお客さんにも喜ばれるし、ユーザー層も広がるし、当社の発展にもつながるな」と考え、ぜひ『信長の野望』をファミコン上で動かすようにしたいと思っていろいろ努力をしました。
したんですが、残念ながらファミコン用の普通のカセットでは全然容量が足りなかったんです。そこで任天堂さんの協力を得て、もうひとつ大きいカセットを上に足して、二重にメモリを使えるバンク切り替えという特殊な装置を任天堂さんに作っていただいて、ようやく『信長の野望』のファミコン版が動くようになったんです。それが1988年だから、5年掛かったんですね。
本当はファミコンが出てすぐ『信長の野望』のファミコン版を出そうと思ったんですが、そこまでの技術力はありませんでした。
──襟川さんはほかの媒体へ参入するのが非常に早いですよね。ファミコンへの参入だけでなく、ソーシャルゲームの展開も早かったと記憶しています。

襟川氏:
そうですね。新しい技術って面白いですから。当時、パソコンの世界ではインテルやザイログ系のCPUが主流だったんですが、ファミコンは6502CPUという、異なるCPUを使っていて、それに興味があったんです。
そこに『信長の野望』をどう移植すればいいのかというのを真剣に考えて検討したんですが、残念ながらずいぶん時間が掛かってしまいました。
──『信長の野望』のファミコン版移植というのは、マーケット的な興味と技術的な興味のふたつがあったということなんでしょうか。
襟川氏:
はい。DOSの勉強をした時から、「いかにマシンの最大パフォーマンスを出すかというのがプログラマーの腕前だ」というのが頭のなかに根付いていましたので、いろいろな制約や条件があるなかでも最大限できることを見出して、それをゲームに活かしていくという発想でしたね。楽な状況で楽に移植するなんてあり得ない、困難な状況でいかにパフォーマンスを高めて実現していくかというのがプログラマー根性というか、技術者根性というか。ゲーム屋というか。それをやるのが仕事だと思いますし、チャレンジは楽しかったですね。
それに、やっぱりパソコンって高いじゃないですか。当時、PC-8001でも16万8000円とかしていた横で、ファミコンなら1台1万数千円とか2万円とか、誰でも買えるようなゲーム機でしたので。たくさんの方に『信長の野望』をプレイしていただきたかったんです。
──当時、PC系のソフトハウスはあまりファミコンに参入せず、結果的に日本のパソコンゲーム市場がとても小さくなっていくことになりました。今ではゲームから撤退してしまった会社も多いですよね。
襟川氏:
業務用の会社はやっぱりビジネスマンですから、変化するのも早いですよね。ゲームを作ることの基本をビジネスとして捉えてチャレンジされている印象です。私は技術者ですし、ゲームクリエイターというか、そこでチャレンジをしていきたい人間なんです。
なんとかファミコン上で『信長の野望』が走るように、中身をいろいろと工夫して、圧縮しながら走りやすいようにしたい。そういうアプローチなんです。業務用ゲームを作られている方はビジネスとして、何が何でもチャレンジして実現する。結果的に同じでも、私はクリエイターとしてなんとかパソコンのゲームをファミコンで走らせたかったんですね。
結構大変でしたが、やること自体は楽しいんですよね。「ここまでは動くようになった」とか「これがメモリを食いすぎちゃっているからなんとか圧縮しよう」とか、そういうことをやっていくのが楽しくて、最終的にちゃんと動くところまで至った時、新作を作るのと同じぐらいの楽しさがありました。
でも、『信長の野望』の移植は任天堂の山内(溥)さんの協力が無ければできなかったでしょうね。私も何度もお礼に伺いましたよ。なにせ、『信長の野望』のためにファミコンのカセットの仕様が変わったんです。
任天堂さんも、『信長の野望』のようなシミュレーションゲームがファミコン上で走ることを望んでいらしたから、そういう技術的な対応をしてくださったんだと思いますね。
──ファミコン版の『信長の野望』が出たことで、ファミコンの客層にも変化はあったんでしょうか。
襟川氏:
多分、あったと思いますよ。たとえばパソコン版の『三國志』は定価が1万5800円なんです。これをファミコンでそのままの価格で売ろうとしたら、任天堂さんから「価格を考えなおして欲しい」と言われたんです。ファミコンのユーザーには合わないんじゃないかと。
価格に関しては山内社長と何度も論争を重ねて、最終的には少し値段を下げつつ折り合って、販売をスタートしました。結果として、『三國志』もたくさん売れました。
わりと任天堂さんはファミリーコンピューターをおもちゃの延長として考えておられたんですが、大人の方もプレイするということがだんだん分かってきて、それ以降は「コーエーの好きなように値段設定していいよ」と言ってくださいましたね。